ある貢ぎ物から見る世界
「お前は我らヴィレンシュタイン家再興のための『貢ぎ物』なのだ、その事を忘れるでないぞ?」
物心がついてすぐに祖父からかけられた言葉に、しかし当時の彼女にはその意味を理解する事が出来なかった。母が気難しそうな祖父に何か口にするのが分かった。祖父は不機嫌そうにそれに怒鳴りつけるのも分かった。短い、しかし剣呑な会話に幼い彼女は唯震えあがって身を蹲せる。
気が付けば嵐は止んでいた。祖父は不機嫌そうに部屋を出る。その様子を怯えながら伺っていたがどこか疲れた表情を浮かべる母はしかし慈愛の笑みを浮かべて駆けよれば漸く彼女はほっとした様子で立ち上がり母の下に抱き着く。母はそんな彼女を抱っこする。それに応えるように彼女も母に抱き着く力を強めてその温もりに身をゆだねる。
安心感からか緊張がほぐれたためか、次第に彼女はうとうとと微睡に襲われる。
「あら、眠くなってしまいましたか?」
母が目を細めて小さい欠伸をする彼女に品のある声で尋ねる。
「うん………」
彼女は歳相応に愛らしい仕草で母の質問に答える。そうしている間にもう一度子猫のように口を開いて欠伸をする。祖父に見られれば叱られていたかも知れないがこの場には彼女と母しかいない。だからこそ安心して欠伸をする事が出来た。
「仕方ありませんね、お昼寝でも致しましょうか」
少しだけ困った表情で母は提案する。彼女は心底眠そうに再度「うん」と返答する。その返答の仕方もまた祖父の叱責の対象たり得るのだが母は注意せずに娘を天蓋付きのふかふかのベッドに連れて横にさせる。そして羽毛の布団を被せて去ろうとして……しかし彼女にドレスの裾を掴まれる。
「あらあら、どうしたのかしら?寂しいの?」
美貌で知られる母が小鳥の囀るような声で娘に尋ねる。
「うん……いっしょがいい………」
寂しがり屋な彼女のいじらしいお願いに仕方ない、とばかりに母は添い寝をしながらそのドレスの裾を掴む手を握りしめる。手を通して伝わる母の温もりに娘は眠そうな表情で微笑む。
「しょうがない娘ね……」
そう言う母の表情は言葉とは裏腹に娘への愛情に溢れていた。甘えん坊で寂しがり屋で、幼い娘をしかし母は心から愛してたのだ。
「じゃあお眠するまで子守歌でも歌いましょうか?」
そう言って母はそのオペラ歌手のような美声で優しく子守歌(眠りの精)を歌い始める。耳心地の良い、穏やかな歌声に彼女は次第に夢の国に誘われる。瞼を閉じ、意識が次第に微睡む。
そして完全に眠りに落ちる直前の事である。ふわふわとした夢見心地の中で彼女は確かに聞いたのが、沈痛で、もの悲し気な母のその言葉を。
「御免なさい、貴方をこんな…………」
「………朝、ね」
意識が覚醒した彼女はゆっくりとその重い瞼を開く。視界に映るのはベッドの天蓋である。
「お嬢様、起床のお時間で御座います」
目が覚めると共にどこからか声が響いた。まだ暗い室内ではあるが良く見ればすぐベッドのすぐ傍らに幾つかの人影があるのが分かった。
しかし彼女はその事に驚きはない。いつもの事であるためだ。
自室に入室していた女中達が部屋のカーテンと窓を開ける。秋口の乾いた、甘く、そしてどこかもの悲しさを感じさせる冷たい空気が部屋へと舞い込んだ。
「こちら洗顔でございます」
「これより髪をお解き致します」
「今からお着替えさせていただきます」
女中達が洗面台やら櫛やら着替えのドレスを差し出して客人の朝の支度の世話をする。彼女はそれに文句を言う事もなく人形のようにされるがままとなる。下手に動くよりその方が使用人達もやり易く、良く仕上がる事を彼女は経験から知っていた。
顔を洗われ、肌触りの良いタオルで拭かれる。歯磨きをさせられた後は鼈甲の櫛で寝癖を整えられる。寝巻きを脱がされると腰にコルセットを装着させられ落ち着いたドレスをその上から着せられる。
全ての支度が終わるのにおおよそ三十分余りの時間を要した。それと同時である。窓の外からラッパ手がラッパを鳴らしながら街を練り歩く。大帝陛下は臣民の健康のために起床時間と睡眠時間を指定した。どれだけ不健全な生活をしていようと、どれだけ眠たくとも、このラッパの音と共に臣民達は目覚め朝支度をしなければならないのである。
「お嬢様、支度が整いました」
最後に柑橘系の香水が軽く吹き掛けられた後、女中達を取り仕切る初老の女性が恭しくそう報告する。代々クレーフェ侯爵家に仕えてきた家柄の出の家政婦長の知らせに彼女は型通りに答え、ベッドから立ち上がる。
最後の確認に立て鏡の前で自身の身嗜みを確認する。皴のないドレス、無理のない程度に括れた腰、服から見える肌は瑞々しく染みはない。若く幼さの残る顔立ちはしかし自他共に認める程度には整っており、さらりとした金髪は癖毛も枝毛もないように思えた。
最後に自身の金髪を見つめて僅かに影のある表情を浮かべ、しかしすぐに普段通り気丈な表情に戻して彼女は踵を返す。
宇宙暦788年11月、クレーフェ侯爵の屋敷で朝支度を終えたグラティア・フォン・ケッテラー伯爵令嬢は使用人達を引き連れて部屋を後にした。
ハイネセン南大陸での騒動は当時亡命政府に衝撃を与えるものであった。同胞……しかも大貴族が二人も巻き込まれればさもありなんである。
特にハイネセンに住まう亡命帝国人を庇護する役目を持つクレーフェ侯爵は慌てて情報収集と同盟政府への抗議を行った。同時に水面下で此度の騒動の沈静化に協力もした。この時期に同盟原住民と亡命者社会の決定的な対立は避けなければならないのだから。
保護されたグラティア嬢は直ちに護衛付きでクレーフェ侯爵の屋敷に避難する事になった。民間のホテルカプリコーン・サウスハイネセンなぞより侯爵の屋敷の方が遥かに安全なのだから当然だろう。屋敷周辺には多数の警備員が動員され殆んど戒厳令が敷かれているに等しい状態が続いた。ハイネセン在住のほかの貴族達も殆んどが彼の手配した屋敷や近場の帝国人街に待避し、「アッシュビー暴動」のような事態に備える。
尤もそれは杞憂だったようで、事件自体は若干抗議運動やトラブルがありつつも特に問題なく沈静化し、貴族やほかの亡命者達も漸く日常生活に戻ろうとしていた。
そんな中、ケッテラー伯爵令嬢ことグラティアはそのままこのクレーフェ侯爵邸にて生活を続けていた。一つには秋口に入りハイネセンポリスも生活しやすくなった事があり、もう一点としては彼の婚約者がこのハイネセンポリス勤務となった事が挙げられる。
宇宙暦788年10月1日を以てグラティアの婚約者であるヴォルター・フォン・ティルピッツ宇宙軍少佐は宇宙軍中佐へと昇進した。これは同盟軍士官学校最上位成績卒業者達と同格であり、士官学校784年度卒業生の中では16人目の昇進であった。
昇進の表向きの理由は捕虜収容所の騒動鎮圧に伴う市民保護の功績、裏の理由は此度の騒動における亡命政府への配慮と言われている。尤も、亡命政府も認識していない真の昇進理由があるのだが、当然ながらグラティアはその事を知らない。
兎にも角にも昇進したティルピッツ中佐は、しかし想定外の昇進でもあるために行くべき部署がなく、現在キプリング街の国防事務総局法務部付と言う職務にあった。次の任地が決まるまでの仮の配属先である。
そういう訳で、彼女もまたそれに付き添う形でハイネセンポリスのクレーフェ侯爵邸の客人として生活していた。
「ぶひっ……やぁ、グラティア嬢。お早う、昨日は少し寒かったが良く眠れたかね?」
豪奢な調度品で彩られた居間に入るとテーブルの上の手紙の数々を処理するふくよか……というよりも明らかに肥満……な中年男性が問いかける。この家の主人たるクレーフェ侯爵である。
「はい、問題ありませんわ。お気遣い頂き恐縮です」
グラティアは汗臭そうな侯爵に対して嫌な顔一つせずに丁寧に礼を述べる。そうでなくともこの侯爵は門閥貴族として十分に尊敬に値する紳士であった。
投資と政略に長けた侯爵はゴールドシュタイン公爵と並びハイネセンにおける亡命政府の代理人である。同盟議会への献金や談合により同盟政界に亡命政府の意志を伝え、下々の臣民達のための扶助会を作り上げ、また貴族資産の運用や企業の買収や経営により莫大な利潤を稼いでいる。
まずハイネセンにおいて一、二を争う権勢を持つ亡命貴族であろう。少なくとも零落しつつあるケッテラー伯爵家よりも遥かに亡命政府に重要視されている。そんな侯爵を無下にするなぞあり得ない。
「ぶひっ……いやいや、気にしなくても良いのだよっ!妻も世話になっているようだしね」
クレーフェ侯爵は機嫌の良さそうな笑みを浮かべてグラティアの返事に受け答える。
グラティアは同じ屋敷に住むためにクレーフェ侯爵夫人の茶会や話し相手を良くしており、侯爵夫人もまたこの伯爵令嬢を良く良く可愛がっていた。
友人の息子の婚約者と言う事もあるだろうが、それ以上に少女であるために随分と寵愛されているようであった。侯爵夫人にも子供はいるが二人共男子であり、しかも既に一人立ちしている。そこに幼さの残る娘が来れば可愛がるのもある種当然であった。侯爵としても妻の新たな友人が出来て喜んでいるようであった。
小柄なクレーフェ侯爵夫人が居間に自身より背の高い使用人達を連れてきた所で雑談は終わり、三名は使用人達に導かれる形で朝の散歩のために屋敷の駐車場のリムジンに乗り込む事になった。本来ならば馬車の方が風流なのだが、ハイネセンポリスと言う大都市圏内で馬車を走らせるのは流石に問題があるらしく、妥協しての物だ。
ハイネセンポリス第21区、別名シェーネブルク区のエーデルバウム公園は高級住宅街にある広大な公園であり、実質的にハイネセンポリスに住まう貴族達の朝の顔合わせの場でもある。公園の木々は紅葉で赤く染まり、秋の到来を告げる。
グラティアはクレーフェ侯爵夫妻に連れ添う形で顔を合わせる貴族達に挨拶をしていった。顔合わせする貴族達の多くはまずクレーフェ侯爵ににこやかに挨拶し、次いで夫人の美貌と若さを褒め称える。そして多くの場合グラティアの方を見て僅かに奇異の表情を浮かべて、クレーフェ侯爵の非難がましい視線に気付き恭しく挨拶をするのだ。
グラティアはその不躾な視線に対して慣れてはいたので、複雑な心境を一切出さずに優美な所作と流暢な宮廷帝国語で挨拶に答える。
……この程度の視線ならば構わない。少なくともかなりマシな部類だ。蔑みや軽蔑、敵意の視線に比べれば取るに足らない。
(そうです、この程度ならば……)
このような視線を受ける理由は理解している。彼女の血筋、特に母方のそれが原因だ。
父方は没落しつつあるとはいえ無駄に歴史は長いケッテラー伯爵家であり、亡命政府の成立直後から所属する十分に敬意を受けるに相応しい家柄である。
問題は母方の家だ。ヴィレンシュタイン子爵家は一時期公爵にまで昇爵した家柄だが、元を辿れば二百年の歴史もない新参者である。後宮に入れた娘が偶然皇帝の寵愛を受け、皇后、そして母后となったために異様な厚遇を受けただけの事だ。
ヴィレンシュタインの娘を母とするウィルヘルム二世は亡命帝ことマンフレート二世の暗殺後、反同盟派貴族達によって擁立された反同盟急先鋒にして厳格帝の異名を持つウィルヘルム一世の息子に当たる。
先代のウィルヘルム一世はヘルムート一世の子であり、母方の生家であるカルステン公爵家にて時の当主直々に帝王教育を受け、軍人としては実戦を経験し、統治者としても軍人としても一定以上の才覚を見せた。
同時に保守的なカルステン公爵家の家風を色濃く受け継ぎ、極めて狭量であったのも事実だ。そのためにウィルヘルム一世は皇帝に擁立された後同盟に融和的であった貴族達も多く捕らえて投獄や処刑を繰り返した。ウィルヘルム一世、そしてその子と孫に当たるウィルヘルム二世、コルネリアス二世の治世数十年は特に同盟と帝国の戦争が激化した時代でもある。
ヴィレンシュタイン子爵家はウィルヘルム一世により没収された親同盟・亡命政府の貴族の資産と領地を支配し、ウィルヘルム二世時代には多くの貴族が戦争の負担を背負わされる中母后の生家である事を利用して私腹を肥やした。結果、次の不運帝ことコルネリアス二世により排除された訳であるが、これだけでも亡命貴族の中では余り喜ばれない経歴であろう。
一層不興を買う経歴はそのヴィレンシュタイン子爵家の妾腹の血筋である点だ。「ヴィレンシュタイン公爵の反乱」の際に直系の一族は殆んどが死に絶え、運良く落ち延びた当主の妾である帝国騎士の娘、その子供が現在のヴィレンシュタイン子爵でありグラティアの祖父に当たる。
子爵と取り繕っても母方が下級貴族、しかも歴史は浅い成り上がり者であり、少なくない亡命貴族にとってはある種一族の仇ですらある。故にケッテラー伯爵家の娘であるにも関わらずどこか一段低く見られている嫌いがあった。
逆に言えば、だからこそこのような場であからさまな不満を見せる事は許されず、実家で厳しく教えられた通りにグラティアは優雅に微笑む。
そうしている間にも新たな貴族が彼女達の下に来訪する。グラティアはすぐに教えられた通りの優美な、しかし冷たい表情を浮かべる。
だが、その相手を確認すると流石に少し表情が強ばった。
「これはこれは本日も良い日和でございますな、侯爵殿」
「ぶひっ……いやはや、こちらこそ朝からお早うございます伯爵殿」
杖を持った偉丈夫な初老貴族にクレーフェ侯爵は形式的な笑みを浮かべる。自由惑星同盟軍宇宙軍中将第一方面軍司令官グッデンハイム伯爵は同じように軽薄な笑みで応える。同時に不快そうにグラティアの方を見つめる。
「これはヴィレンシュタインのグラティア嬢、御機嫌麗しゅう御座います」
「……グッデンハイム伯爵も御壮健でなりよりで御座いますわ」
慇懃無礼な挨拶をする伯爵に僅かに震える声で、しかし礼節を守ってグラティアは答える。グラティアはこの伯爵が自身を嫌っている事を良く理解していた。
グッデンハイム伯爵家は帝政成立期より続く名家だ。ルドルフ大帝より武門貴族として子爵位を授与され、権門四七家に名を連ねる事こそ無かったが、公正帝ジギスムント一世の時代の大反乱鎮圧の功績で昇爵したため大貴族としての歴史は四七家に続く。その後も「シリウスの反乱」鎮圧や流血帝に対するエーリッヒ二世止血帝の反乱に際して辺境平定に協力するなどの功績があり、亡命後はバルトバッフェル・ティルピッツ・ケッテラーの三家に続く軍部に重きを成す家となった。
今代のグッデンハイム伯爵は同盟士官学校を九位の席次で卒業し、シャンプール星系警備隊司令官、第六艦隊副司令官、同司令官を歴任。第三次イゼルローン要塞遠征の副司令官として要塞外壁への陸戦隊降下を成功させ、今はハイネセンを中心とした同盟の中枢宙域の警備を管轄する第一方面軍司令官の要職にある。
そんなグッデンハイム伯爵家からしてみれば、落ち目の上に下等な血の混じったケッテラー伯爵家の代わりに亡命政府軍武門三家入りを望むのは寧ろ当然だ。実際ティルピッツ家との婚姻に対してハーゼングレーバー、クーデンホーフ等と同じく自家の子女を候補者に立てていた。伯爵家からすれば容姿も血統も一族の中でも選び抜いた候補を擁立したにも関わらず混じり者に敗れたのだ、五〇近く歳の離れた少女に悪意と敵意を持つのもある意味当然でもあった。
「この前は大変でしたな。品もなく軍規も緩んだ賊軍の捕囚となるとは。随分と手荒に扱われたのではないですかな?いやはや、思ったよりお元気そうで何よりです」
「っ……!」
それは婉曲的にとは言え侮辱に他ならなかった。とは言えここで声を荒げる訳に行かなければ、その度胸もグラティアには無かった。元より臆病な、よく言えば大人しい彼女にそんな事なぞ出来ない。故に唯沈黙するのみであった。
「……グッデンハイム伯、どうですかな?ぶひっ、近年はネプティス方面の航路の海賊共の襲撃が増加しておりましてな。パラトプールの星間交易商工組合の船団襲撃は覚えているでしょう?あれにも幾らか噛んでましてな。おかげで損をしてしまった。しかも自前の商船も保険料が高くなっておりましてな。そちらから第五方面軍に一つ注意を喚起して頂けませんかな?」
場の空気を読んでクレーフェ侯爵はビジネスの話をして伯爵の気を逸らす事にした。
「それは困った話ですな。侯爵の事業は我らの貴重な資金源、……私からも一つ注意と警備強化を具申しましょう。とは言え艦隊増強策と毎年の出征で地方の警備が手薄になっておりますからなぁ……」
クレーフェ侯爵の直訴に伯爵も食いつく。実際ここ十年程で国境を除く航路警備能力は徐々にではあるが低下傾向にある。778年から788年の十年間は長期的に見て同盟軍の劣勢で推移してきた。781年には第三次イゼルローン要塞攻略に失敗し、その後784年まで国境宙域を削り取られた。それを取り戻して785年には威力偵察に近い四度目の要塞攻撃を仕掛けたがこれも敗北に終わる。以後ダゴン星系の防衛線を突破した帝国軍はエル・ファシルを始めとした有人惑星を半世紀ぶりに占領しヴォーバン・ラインまで同盟軍を押し込んだ。現在の同盟軍はこの防衛線にて帝国軍と一進一退の激闘を続けている。
この間同盟軍は激化する前線に対応するため国境の駐留軍の編制や第一二艦隊の設立等正面戦力拡充に努めたが、その分銃後の航路警備が手薄になっている傾向にあった。そして必然の結果として、それが宇宙海賊の活動の活発化に繋がった。同盟警察の航路保安艦隊や星間交易商工組合の自警団、民間の民間軍事会社がその穴を埋めるために動員されているが、残念ながら帝国の援助を受けている宇宙海賊の前には質量共に不足気味であった。
グッデンハイム伯爵が侯爵との会話に意識を取られている間に侯爵夫人はグラティアと共にその場を避難する。
「……グラティアさん、あのような言葉気になされる必要はありませんよ?唯のやっかみ程度すまし顔で流してしまえば良いのです」
僅かに陰鬱な表情を浮かべるグラティアの表情に気付いた侯爵夫人がそう声をかける。
「……いえ、大丈夫でございますわ。私なぞのために……御迷惑をお掛け致します」
気丈に笑みを浮かべるグラティア。いつまでも侯爵夫人に甘える訳には行かない事も彼女は理解していた。
グラティアは夫人と共に先に地上車に戻り、汗を使用人達に拭いてもらいながらクレーフェ侯爵が帰ると一旦自宅の屋敷へと戻る。そこで朝食を食べた後、夫妻は仕事に移り、グラティアの方は貴族子女の通う宮殿のような女学院に屋敷の地上車で通う事になる。
同盟の一般的な有名進学校レベルの教育内容に更に貴族子女向けのマナー教育や美術や裁縫、歌唱等の指導を行う女学院においても彼女は決して跳びぬけた存在ではない。地元であり基盤であるケッテラー伯爵領からハイネセンポリスに移った彼女は、寧ろ出自もあり決して友人が多い訳でもなく、どちらかと言えば文学を嗜む深窓の令嬢に近い扱いを受けていた。
(というよりも………)
グラティアは学校が終わり下校を始める子女達を見やる。
「ねぇねぇ、帰りに歌劇場行きません?」
「ええぇ……私はゴールドフィールズのハロッズ・ストリートでショッピングしたいですわぁ」
「そうそう、ノイエ・ユーハイムで新作が出るそうですよ?ねぇねぇ、イルゼなら特等席の予約出来ますわよね?今から奉公人を走らせられません?」
「ねぇねぇ、聞いてください!この前ようやくお父様がハイネセン記念スタジアムのコンサートチケットの特等席を手に入れてくれましたの!」
付き人達を侍らせながら学生服でそんな事を口にする貴族子女達であるがもしグラティアの地元でこんな会話をしていれば見た者は卒倒していただろう。
(やりにくい………)
元々活発的でない上に保守的な地元で厳しく躾けられた彼女にとってはハイネセンに代々住まう貴族子女の立ち居振る舞いは見ているだけでも戸惑いを覚えるものである。
ハイネセンの自由な空気が日常故か、特に若い貴族子女は(新無憂宮やヴォルムスに比べてであるが)その身分(とは言え平民と貴族の間は限りなく断絶しているが)の差を余り意識せず、しかも寄り道や同盟市民の使うショッピングモール等に遊びに行くなどリベラルな者も多く、それが彼女の常識と齟齬をきたしていた。少なくとも先程の子女達のような砕けた口調の会話は彼女の地元では異様だ(それでも生粋の同盟市民から見れば毎日車送迎や使用人が傍に付くのが当たり前な時点で五十歩百歩であるが)。
そしてその中でも特に彼女の常識から逸脱するのが………。
「ティアちゃん、怖い顔しているぞ~?」
「ひゃひっ!?」
急に頬に伝わった冷気に思わずグラティアは情けない悲鳴を上げた。慌てて席から立ち上がって声の主の方を振り向く。そこにいたのは自身よりも三、四歳は年上であろうか?錆鉄色の髪をセミロングにした翠晶色の綺麗な瞳をした学生服の少女がアイスティーの缶を手にいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「あ、余り揶揄うのは御止し下さいませ、シルヴィア義姉様……!」
グラティアは僅かに上ずった口調で義理の姉を非難する。とは言えそう強くは言えない。好意的ではあるのだろうがグラティアの立場では下手に相手の不興を買いたくなかった。
シルヴィア・フォン・ヴァイマール伯爵令嬢はこの年十八歳、ティルピッツ伯爵家分家より独立したヴァイマール伯爵家の長女でありグラティアの婚約者の従姉妹に当たる。より正確に言えば婚約者の父の妹が現ヴァイマール伯爵の妻であった。ティルピッツ伯爵家の地盤であるシュレージエン州の南部八郡を実質的に統治している家の娘で所謂お嬢様だ。そうであるのだが………。
「ええ~、だってだってそんな仏頂面なんかするんだもん!ほらほらもっとニッコリ笑いなって、折角可愛い顔が台無しじゃん!ほら、ニッコリした顔写メでとって上げるからさぁ従兄に送って上げなよ!」
亡命しているとは言え大貴族のお嬢様らしくない言葉遣いで言いまくるヴァイマール伯爵家の令嬢に何ともいえない表情を作るグラティア。
決して品が無い訳ではない。血統は十分名門だ。顔立ちは美形率の高い貴族達の中でも水準以上、公式の場であればきちんとした立ち居振る舞いが出来るし、その成績は来年のハイネセン記念大学美術科入学試験にも合格出来るであろうこの義従姉妹は、しかしヴォルムス生まれでありながら生粋のハイネセン生まれの貴族子女よりも更に同盟人らしい思考回路を有しているらしく、度々女学院や使用人達を困らせる問題児でもあった。変装してディスコやカラオケ店に入り浸り、買い食いも行う。コンサートや映画館では平然と普通席に座って見せ、不健全娯楽(電子ゲームや大衆漫画等)も当然のように嗜む。かなり変わり種で有名な令嬢であった。
「もうっ!余りグラティアさんを困らせるものではありませんよシルヴィア!」
押せ押せとばかりに迫ってくるシルヴィアに注意するのは彼女よりも落ち着きのある女学生だ。ユトレヒト子爵家令嬢であるディアナは非難する視線をシルヴィアに向ける。栗色のポニーテールにシルヴィアと同じ翠晶色の瞳は二人の血縁上の繋がりを表していた。実際二人は従姉妹同士だ。ユトレヒト子爵家もティルピッツから枝分かれした一族である。
「え~、いいじゃん!別にぃ、きっと従兄も喜ぶよぉ?」
「貴方でもあるまいし、反応に困るだけでしょうに」
呆れ気味にディアナはシルヴィアの意見を一刀両断する。同い年のこの親戚の友人として彼女も随分と迷惑しているようであった。
「まぁいいや。ねぇティアちゃん、これから私遊びに行くんだけど一緒に行かない?」
「え、えっと……」
半ば予想していたとはいえその義従姉妹の提案にグラティアは困惑する。厳しく躾けられた彼女にとってその提案を即座に快諾する事は出来なかった。
「別に宜しくてよ?問題児のシルヴィアにいちいち付き合う仕事は私がやりますので」
グラティアの心情を慮って子爵令嬢はそう進言する。
「い、いえ……折角お誘い頂いたのです。こちらこそ宜しくお願い致しますわ」
とは言え、グラティアにとってはその誘いを断る事は難しかった。ヴァイマール伯爵家の長女の不興を買いたくない。正式に結婚すればそれこそ数えきれないほど顔を合わせるのだ、そんな相手の印象を悪くしたくはなかった。
実際の所、たとえ断った所でシルヴィアがこの年下の令嬢を嫌う事は無いのだが、グラティアはそんな相手の心情を読み切る事は出来なかった。唯でさえ血筋のせいで忌避される事が多いのだ、自ら弱みを見せる訳には行かなかった‥‥…。
シルヴィアはグラティアと付き添いのユトレヒト子爵令嬢、そして自身と友人の付き人を引き連れてハイネセンポリスの大衆繁華街のチェルシービレッジ区のメインストリートを練り歩く。
グラティアは勿論、シルヴィアとディアナそして付き人(護衛)の従士も代々美姫や美男子の遺伝子を取り込んでいるためにその美貌は様々な人々が歩き回る繁華街のスクランブル交差点でもそれなりに目立つ物だ。
「へぇー、可愛いなぁあの娘達」
「あの学生服知らないなぁ、どこのお嬢様校だ?」
「ナンパしにいくか?」
「止めとけよ、お前の顔じゃ断られるだけだぜ?」
ちらほらとそんな事を語るのは恐らくハイネセンポリスのハイスクール帰りの学生達だろうか?シルヴィアは遠くからそんな事を口にする男子達に揶揄うように笑みを浮かべて手を振る。中には彼女連れの男にまで愛想を振り、惚けた男子が相手の女子に頬を抓られた。ディアナはそんなトラブルを自ら作る従姉妹をジト目で睨み、付き人達はそんな事は気にせず周囲を警戒する。
「きしし!ティアちゃんも可愛いからねぇ、ほらあの子達とか見惚れてるよ?」
「いえ、私は……」
耳元でそう囁くシルヴィアに、しかしグラティアは気恥ずかしさ以外の感情は思い浮かばない。唯の有象無象の市民に見世物のように見られる行為にある種の気恥ずかしさすら覚えるのだ。正確には貴族がある種の見世物であるのは当然であるのだが、これが領民であればそこに畏敬の念が伴うものである。唯の一般人のように見られる事は領民に見られるのとはまた趣が異なる感覚なのだ。
「……よくこんな視線を受けても気になさいませんね?」
「あー、別に慣れればどうってことないけど?いちいち視線なんて気にしてたらやってられないし。寧ろ相手で遊んでやるって位に余裕を持てば良いのよ」
あはは、笑うヴァイマール伯爵家の長女。その豪胆さはある意味武門貴族の娘らしいのかも知れない。
「………」
グラティアはそんなシルヴィアの性格と余裕に自身の婚約者を思い出す。あの自然な程高慢で気位の高い青年に………。
「……ティアちゃん?」
「……い、いえ何もありません」
陰鬱な表情を浮かべたグラティアにシルヴィアは心配そうな表情を見せるがグラティアはすぐに問題無い事を伝える。
(そうです……問題は……ないはず……)
グラティアは自身の婚約が告げられた時点で覚悟を決めていた。自身の存在が宮廷抗争の手札として利用される事を。十近く年の離れた顔も合わせた事のない相手との婚約、それも自身の意志が一切反映されずに決められたとしても文句は無かった。それが自身の役割であると理解していた。それが落ち目のケッテラー伯爵家と再興を目指すヴィレンシュタイン子爵家、そして臣下や領民のための彼女の義務であるのだから。
相手の噂は度々耳に聞こえて来ていた。相手の自身の実家への印象も、その荒い気性も、その癖のありそうな性格も、付き人の従士をかなり贔屓して気に入っている事も伝え聞いていた。当時の幼い彼女の婚約者に対して受けた印象は「怖い人」である。
だからと言って当然嫌だ、という訳にもいかない。兎にも角にもその場合やるべき事は二つである。つまり、相手の好みに合わせる事と従順に振る舞う、という事だ。
そのため彼女は風の便りで伝え聞く相手の価値観から想定される「好まれる振る舞い」を身に付けるように努力してきた。少なくとも十分満足出来る程度にはそんな振る舞いが出来ていると自負している。だが………。
(だけど…………)
相手に好まれるように従順に振る舞うように努力してきたつもりだが何度会っても婚約者はこちらに一歩線を引くような、警戒するような態度を崩そうとはしなかった。押しの強い豪胆な性格と考えていたのだが……。
しかも職場訪問で騒動に巻き込まれた際にはあからさまに不機嫌そうに接せられた。巻き込まれた事を面倒に思われたのか、それともあの時の混乱していた姿を馬鹿にされたのか………後で謝罪と感謝の言葉を伝えた際には以前のように儀礼の範疇に止まる対応しかされなかった。
どちらにしろ、グラティアにとって婚約者は自身に心を開く事がなく、数少ない本心を吐露しても不快な感情しか向けられなかった。以前、目の前の義従姉妹達にそんな彼女の心境を一部とは言え伝えると気にする事ではないと励まされたが、それを鵜呑みに出来る程グラティアは楽天的ではなかった。
(気にいられるように、か………)
まさに「貢ぎ物」だと彼女は思った………。
最初に向かったのは映画館だった。幾つか上映していた映画の中ですぐに見る事が出来る物をシルヴィアは適当に購入したのだが、それは大失敗だった。
「あー、道理で余ってた筈だわ」
上映が始まったと共に苦笑いを浮かべる義従姉妹。子爵令嬢も始まって主人公とヒロイン達の名前を確認した後は重苦しい雰囲気となる。何も知らないで見にきたほかの観客(特にカップル等)のみがそれを楽しみに見ていた。とは言え映画の後半になると次第に彼らの顔も強ばるが。
苦悩帝レオンハルト一世は、決して無能でなければ愚か者でもなかった。前皇帝である哲人帝フリードリヒ一世からの信認もあり、少なくとも学者や専門家としては優秀な皇族だった。そうでなければ当初反対していた帝国宰相ノイエ・シュタウフェン公が渋々とではあっても皇太子擁立に賛同することはなかっただろう。問題はレオンハルト一世の他者への関心が薄く、理性を信じすぎた点だ。
流血帝アウグスト二世の時代皇族の大多数が、それこそ老い先短い老人から女子供に至るまで相当数が殺戮された。止血帝の反乱が成功した時点で残った皇族はそれこそ末席と言って良い者達が殆んどであった。
止血帝エーリッヒ二世の後を息子フリードリヒ一世が継いだ。哲人帝の異名は彼が帝国大学にて複数の学位を取得し、政務の傍らに帝国科学アカデミーや帝国地理博物学協会、帝立哲学協会等の複数多方面の学術機関に偽名で論文を提出し高い評価を得ていたためだ。
この時点でアウグスト二世の崩御から四十年も経っていない。止血帝は強精帝程に好色でもなくそもそも帝国の建て直しで再建帝のように過労死する程無理はしなかったものの相応に多忙であり、後宮に向かう機会は決して多くはなかった。息子の哲人帝フリードリヒ一世に至っては知識欲こそ強く博識であったが、そちらの方面は非常に淡白だった。
そのために皇太子にはほかの皇族から養子を迎える事になり、幾人か見繕われた候補者からフリードリヒ一世が選んだのがドラウプニル中央ギムナジウムを首席入学したレオンハルトであった。地方の男爵家の生まれであり、皇統としては比較的遠縁ではあったが、学力重視の嫌いのあったフリードリヒ一世は少々無理をしてでも彼を皇太子に指名した。
帝国宰相ノイエ・シュタウフェン公はこの決定に不満を持ったが、最終的には優秀な統治者であり権威もある哲人帝の判断を受け入れるしかない。そして一族の繁栄のために公爵は保険をかける事にした。……それが失敗であった。
ノイエ・シュタウフェンの五つ子姉妹は世間知らずの面はあったが仲の良さと美貌で知られていたし、求婚相手は幾らでもいただろう。実際に公爵は一人を皇后につけて、残りは有力なほかの貴族に嫁がせて一族の一層の繁栄を志向していた。
まさか可愛がり甘やかしていた姉妹が全員恋に落ちる事も、即位後のレオンハルト一世が前皇帝のように政務ばかりで皇后を選ばなかった事も、まして皇帝を利用するためにや姉妹に横恋慕するほかの貴族がある事無い事を吹聴して悪意に疎い姉妹が憎悪のままに互いに蹴り落とし合う事態も、公爵は想定していなかったであろう。
挙げ句に陰謀と陰湿な嫌がらせがエスカレートして無関係だったレオンハルト一世が巻き込まれて事故死する事になった。事故死の余波でノイエ・シュタウフェン公は隠居させられ、二ダース程の貴族が自裁を命じられた。
止めは苦悩帝の従兄弟に当たり皇帝の第二候補だった後のフリードリヒ二世が急遽辺境の総督から呼び戻され、前皇帝の国葬の手配をした時だ。国葬の本番中に前皇帝の遺体が行方不明になっている事が発覚した。ノイエ・シュタウフェン公爵の五つ子姉妹が「五等分」にして持ち逃げしてしまったのだ。
後宮で閉じ籠っていた者はマシな部類で、皇帝の「一部」を持って実家に逃亡した者、腐敗した「一部」を抱きながら辺境に逃げた者、皇帝の「一部」を食べてしまった者までいた。分割された遺体全てを回収し、カール大公や流血帝の娘の吸血姉妹、後にはダゴン星域会戦に大敗したヘルベルト大公を収容した事でも知られるオーディン郊外の精神病院に意味不明な事を言い続ける姉妹全員を閉じ込めるまでに凡そ三か月の期間を要した。
俗に「カスパー帝失踪事件」、「西苑連続髪切り魔事件」等に並ぶダゴン星域会戦以前の「新無憂宮一〇大醜聞」の一つ、「ノイエ・シュタウフェン公爵家姉妹の五等分事件」である。
「あはは……」
シルヴィアは次第に沈黙する観客達を見て御愁傷様、と内心で語りかける。CMやパンフレットでは(恐らく敢えてであろう)完全に恋愛映画にしか見えない宣伝であったし、前半は普通に恋愛映画な内容だった。中盤位から皇帝以外の登場人物のハイライトが消え始め、見るに耐えない骨肉の争いが始まると観客は震え上がる。
「あー、ごめんねぇ?退出しよっか?」
シルヴィアは義理の従姉妹を慮り提案してみる。一応ホラー映画としても十分に楽しめるがかなり人を選ぶ内容だ。
「いえ、問題は御座いませんわ。ですが………」
一旦、義従姉の方向を向き、すぐな映画をぼんやりと鑑賞する事に戻るグラティアは呟くように口を開く。
「……昔、この話を伝え聞いた時疑問に思った事があったのです。どうして公爵は娘達に選ばせようとしたのでしょうか?」
貴族同士の婚姻なぞ親同士で決めてしまっても問題無いのだ。まして権門四七家の中でも五指に入るノイエ・シュタウフェン公爵家ともなれば政略結婚も当然である。態態姉妹に自由に恋愛させなくとも当主が一人選んで皇后に据えて残りを有力諸侯にさっさと送り込んでも良かった。帝国宰相ともなればその程度簡単な筈だ。
「そりゃあ………娘を溺愛してたからじゃないの?」
「一族の繁栄よりも、ですか?」
貴族は外に厳しく身内に甘い者は少なくないが、それもあくまでも一族全体に関わらない範囲での話だ。当然、最終的には一族存続のために必要あらば当主が自裁する事も、婚姻が勝手に決められる事も許容しなければならない。少なくともグラティアは個人よりも一族全体の公益の方が遥かに重要であると躾られていた。
娘達も娘達だ。皇后になるために相争う事自体は理解出来る。だがその皇帝の死後にその死体を持ち出すなぞ愚かとしか思えない。実家に迷惑がかかるだけではないか?
「自分達の存在理由を忘れているのではないでしょうか……?」
貴族の娘の存在理由なぞ究極的には一族の繁栄と安寧のための道具でしかないであろうに。公爵家の娘が、これでは市井の平民のようではないか?
「哀れなものだ…わ………?」
ここまで思考してグラティアは自身の内心の思考に怒気と苛立たしさが含まれている事に気付いた。同時に同情と羨望の念が含まれている事に少しだけ困惑する。同情?一体何に同情していた?羨望に至っては理由も分からない。羨ましがる必要なぞ一切ないであろうに。
「………やっぱりお腹減ったし、でよっか?」
「えっ……?あ…………」
グラティアを横目で見ていたシルヴィアはそう提案すると、半ば強制的に彼女を引き連れ席を立つ。それを確認したディアナと護衛の従士達も後へと続く。
映画館の近くにあるレストランはヴァイマール伯爵家の令嬢がよく利用する店であった。貴族から見て決して高級という訳ではないが、一般的な同盟市民で言えばちょっとした贅沢、といった所の店であろう。シルヴィアはもっと安い店も使うが、グラティアにとってはこのレベルより落としたら食べられないであろう事は理解していたので配慮した形だ。
「好きな物頼んでいいよー?私の奢りだからね」
そういって自分の分のメニューを好きに注文していくシルヴィア。
「は、はぁ……」
とは言え実際に好きな物を頼む、という訳には行かないのがグラティアの立場である。ホストの注文に対応する形で料理を注文しなければならない。
先に子爵令嬢が付き人を通じて注文をさせた後、グラティアはそれよりも控え目なメニューを注文する。
注文を終えた後、にやりとシルヴィアはグラティアに切り出す。
「ねぇねぇ、それで?ぶっちゃけウチの従兄ってタイプ的にどうなのよ?ストライクな訳?それとも大外れなの?」
「シルヴィア……!」
冗談風にシルヴィアが尋ねディアナは咎めるように親友の名を口にする。
「良いじゃん別に。親父達がどういう基準で選んだか分からないけどさぁ、男は兎も角淑女からすれば好みじゃない奴と結婚しろとか糞じゃん?」
「お嬢様……」
「分かってるって、ヴァルハラに向かう準備している爺さん連中の前では言わないわよ」
注意する自身の付き人に飄々とした表情でそう補足するシルヴィア。付き人からしてみれば本家やら長老達を貶す主人の言葉は諫言の対象であるが、当の主人からしてみればそんな輩は老害のボケ老人でしかない。
「今時血筋がどうの、政略がどうのって言うのがなんかねぇ。こちとら政治の道具じゃないっての。この前ファンのアイドルユニットのポスター捨てられたし。マジうぜぇ」
明らかに不満ありげな態度を醸し出すシルヴィア。付き人が「どうしてこんな風に育ってしまったのでしょうか」とぼやく。
「まぁ、そういう訳でね。確かに今更婚約破棄は簡単じゃないけど、私としては自己主張の少ない可愛い義従妹の本音を聞きたいわけよ!ズバリ!あの従兄に何か不満は無いかってね、オッケイ?」
もし不満点があるなら私が相手を叱責して矯正してやるから、と続ける。
「はぁ、といいましても………」
シルヴィアの言いたい事は大体理解したが、だからと言ってグラティアにとっては素直に不満点を口にする事は出来ない。そもそも彼女には相手に注文をつける、と言う発想がなかなか思い浮かばない。
「えー、有るでしょう?顔が良くないとかぁ、足が短いとかぁ、服装がダサいとか」
「どれも当てはまらないのですが……」
何代にも渡り端正で体格に恵まれた血を迎え入れ、食事内容と身体鍛練も重ねる門閥貴族の容姿が悪いわけなぞなく、足も短い訳がない。服装に至ってはそもそもプロのコーディネーターに頼めば良いので自身で選ぶ機会が滅多にない。
「うむっ!それもそうか……いや、待ちなさい。じゃあ性格面はどう?週刊誌にも夫婦の離婚原因の第一位は価値観の相違とあったし」
尚も食い下がるように質問するシルヴィア。
「性格の不満、といいましても……私としては旦那様がご不快に覚えるものがあれば直しますが、その逆となりますと……」
「昔か!」
グラティアのその答えに突っ込みを入れるシルヴィア。大昔ならいざ知らず、少なくとも亡命政府においては基本的に帝国に比べて男尊女卑の傾向は薄い。
正確に言えば零ではないにしろ、流入してきた同盟の価値観と伝統的な価値観の妥協、更には人口不足、人員不足もあって後方勤務主体とは言え女性軍人の従軍も拡充されている亡命政府ではグラティアの答えは随分と保守的な物であった。
「ケッテラーはかなり保守的と聞いていたけど思った以上ですわね。……そうですわね、言い方を変えましょう。これまでの交流を振り返った上で、御自身で何か改善点は御座いますか?」
ディアナ嬢が優雅な口調で尋ねる。丁度この時に注文の料理がやって来た。とは言えすぐに口にする事はない。先に毒味役の付き人が何口か口にしてから手を付けるからだ。付き人達が神妙な顔で料理を嗅ぎ、口に含んで違和感や刺激がないかを確認していく傍らで話は続く。
「……そうですね、例えば最近ですと旦那様にお救い頂きながらすぐに謝意を伝える事が出来なかった事でしょうか?」
それはこの前巻き込まれた事件についてだ。人質になった後、事件の急展にグラティアは対応出来ず、救出に来たのであろう自身の婚約者と碌な会話も出来ずに打ち震えていた。
「旦那様のお話については良く良くお耳に伝わっております。極めて優秀かつ武門貴族の鑑のようなお方とお聞きしておりますし、実際お助け頂いた際もその印象を強く受けました」
そんな中、武門貴族の妻があの程度の事で怯えていたのを見られた事が失態だとグラティアは語る。
「実際、お助け頂いた時にお声をおかけしようとしたのですが無下に扱われてしまい……恐らく私の振る舞いに失望なされたのではないかと……」
「あー、それは気にしなくていいと思うけどなぁ……」
シルヴィアは少々面倒臭そうに否定する。
宮廷や同盟軍部の大方の見方として、ティルピッツ伯爵家の嫡男は所謂厳しいまでに貴族主義的で気難しく、好戦的な軍人扱いされている。それは実際の軍歴と発言と行動による物だ。
とは言え、それはあまり親交を持たない第三者の物である。実際に血縁関係にあり、幼少期に遊び相手をし、その後も式典やら祝宴の度に顔を合わせる事もあるシルヴィアからすれば六割程風評被害と言うものだ。
無論、それを伝えても中々信用はされないであろう。なので少々言い換えをしなければなるまい。
「あの従兄は結構あれでも甘い所あるからね、一度失敗した程度で失望するような性格じゃないわよ?しかもティアちゃんは軍人でもないし。そこまで高望みなんかしてないわよ」
そう語り、ようやく許可の降りたローストビーフを突き刺して口にする。
「そうですわ。従兄様の付き人の従士も何度か失態をしているそうですけど、それだけですぐ捨てるような事はございませんし。従士でもそうなのです、ましてやグラティアさんを一度で厭う事なんてある訳ありませんわ」
貴族的価値観でそう補足してからディアナ嬢はアイリッシュシチューを音を立てずに口に流し込む。
「そう、ですか……」
二人の励ましに、しかしグラティアの返事は弱々しい。彼女の脳裏に浮かぶのはあの事件の場面だ。
(結局、碌に見てももらえなかった……)
状況が状況とは言え、彼女は自身の婚約者が碌に自分を見ようとせず、視線をあからさまに逸らしていた事を知っている。一方、同時に婚約者が自身の付き人に向ける視線は相当動揺していたのも知っている。
(私は付き人……従士以下、と言う事なのでしょうか?)
やはり婚約者自身は自分を疎んじているのであろうか?やはり血統が……それとも性格?それとも容姿が……?それでは困る。このままでは自身の存在理由を果たせない。そうなれば………。
「私の価値は………」
「………」
食事を装いグラティアの陰鬱な表情を観察するシルヴィアはこれは駄目だ、と内心で考える。
(重症だなぁ……実家に随分言い含められている、と言った所かしら?全く……あんな事があった後なんだからちゃんとケア位しなさいよ?)
シルヴィアは幼い頃の記憶の中で馬扱いで遊んでいた従兄に悪態をつく。昔は付き人候補達を返品しまくって家臣達に結構迷惑をかけたらしい事は両親から聞いていたが……昔に比べればマシとは言えどうやらまだまだ淑女の扱いがなっていないらしい。
尤も、これは公平な評価とは言えないだろう。実際この時期の彼女の従兄は亡命政府にも碌に伝えられない任務の後処理に忙殺されており、正直自身の婚約者の事に然程意識を向ける暇が無かったのだ。いや、シルヴィアは仮にそれを知っていても目の前に従兄がいれば飛び膝蹴りをしていたかも知れないが。
「………うーん、少し花を摘んで来るわ」
どちらにしろ、可愛い義従姉妹のためにシルヴィアは手助けする事を決める。
自分の付き人についてこいと命令してシルヴィアは一旦席を立つ。そしてレストランのトイレの外で付き人に誰も中に入れないように命令した後入室して携帯端末を取り出す。電話をかけるナンバーは決まっていた。出てこないならば出るまでかけるつもりだった。
「あ、次いでにお小遣いせびっちゃお」
八度目の発信で相手が出る直前、シルヴィアはそんな事を思いついた。そして意地悪な笑みを浮かべ彼女は電話の相手に叱責と要求を突きつけるのだった……。
食事をした後、シルヴィアに連れ回される形でショッピングモールやケーキ屋を回る事になったグラティアは、日が沈む頃にようやく迎えの地上車で屋敷に戻る事が出来た。帰りが少し遅い事で侯爵夫妻に心配されたが、ヴァイマール伯爵家の長女に連れ回された事を伝えれば納得と同時に件の娘への呆れが夫妻から漏れる。
「あの娘は…もう少しグラティアさんを見習って欲しいものですわ」
ご両親が御嘆きになりますわ、と夫人は語りグラティアに浴場に向かう事を勧める。グラティアは自室に一旦戻ってから向かう事を伝える。
「そうですか。ああ、そうでした、貴方に御手紙が来ておりますよ?」
機嫌の良さそうに夫人はそう伝え、それだけでグラティアはその意味を理解する。普段より小走りでグラティアが自室に戻ると部屋の前で控えていた執事が恭しく一通の手紙を差し出す。
「これは……一人にさせて下さい」
それを受け取りその差出人を確認して彼女は慌てて執事に去るように命じた。
執事は頭を下げてから退出し、扉を閉める。それを確認した後にグラティアは恐る恐ると言った面持ちで手紙の封筒を開き中身を確認する。
怯えた表情で高級紙に綴られた達筆な宮廷帝国語を読み進めるグラティアはしかし、次第にその表情は安堵に和らぐ。
手紙は彼女の危惧した内容ではなく、寧ろ事件に巻き込まれた彼女を労うものであった。軍務が忙しく暫く手紙を出せなかった事を謝罪すると共に無事であることを喜ぶというものだ。実際に彼方が安堵しているかは兎も角、少なくとも彼女が恐れる程に相手は自身に失望していない事は分かった。
「良かった………」
胸が楽になる気持ちと共にグラティアは呟いた。決して可能性が高い訳ではなかったが婚約者が母にでも頼んで婚約を……解消するのでは、と言う恐怖があった。小まめに送られてきた手紙が一月近く途切れていたのもあって不安に駆られていたがどうやら杞憂であったらしい。
「本当に良かった………」
嫌われずに済んだ、その事が嬉しかった。
「………?」
彼女はふと自身の思考に疑念を持つ。いや、確かに喜ぶべき事だ。もし嫌われてしまえば最悪婚約解消となり母や弟に迷惑をかけるし、祖父の叱責を受ける所であった。だがそれはあくまでも嫌われた「結果」である。
だが………今私は「嫌われる」事それ自体を恐れてなかったか?
「………いえ、有り得ませんよ」
その疑念を即座にグラティアは否定する。
「貴族の婚姻に私情なぞ挟む必要なぞありません」
自身は「貢ぎ物」の「道具」に過ぎない事を彼女は良く良く理解している。どうせ相手も……少なくとも相手の実家はそう見ているであろう。世嗣ぎを残し、ケッテラー伯爵家に影響力を行使するための「道具」に過ぎないと。それ以上もそれ以下の価値も有りやしない。
「そうです、どうせ私は『貢ぎ物』、丁寧に飼育され、管理され、不備があれば修正して、出荷の日には綺麗に包装され、贈られる」
ちらりと視線を傍の鏡に移す。流れるような金髪……その中に僅かに別の色に輝く一糸を見つけて彼女はそれを黄金の束から抜き取る。
「所詮、『貢ぎ物』に贈呈者を選ぶ資格も、意志もありやしないのですから」
麻色に近い……母のそれと同じ色彩の髪を見つめてグラティアは呟いた……。
ヴァイマールの令嬢は艦艇をこれくしょんする作品の最上型三番艦、ユトレヒトの方は同四番艦なイメージ
最後のはつまりあれです。付き人が両方金髪だから………。
次からはかなり銀英伝っぽくなると思います