「珈琲だ」
「ああ、済まない」
その特徴的な銃声から『ルドルフの電動鋸』と同盟軍から忌み嫌われる
12月18日の深夜、帝国地上軍第九野戦軍第九一一歩兵師団所属のある分隊の兵士達は、夜の山岳地帯で即席の塹壕に身を潜めて周囲を警戒しながら休息を取っていた。
同盟軍呼称四六七高地、帝国軍の呼称をホーホライン要塞陣地は、周辺の視界の見晴らしが良く、観測拠点としての有望性、特にその地理的位置は第九野戦軍の後退において決して無視できない価値を持つ。故に、12月8日には装甲擲弾兵第三軍と猟兵部隊による後方の攪乱と補給線の断絶を仕掛け、それに呼応した正面部隊の反撃によってホーホライン要塞陣地を孤立せしめた。その後、孤立した同盟軍に対して帝国軍は五倍を超える戦力による間断なき波状攻撃を行っているのだが……。
「ちっ、何て砲声だよっ……!」
火山でも爆発したかような轟音が闇夜に響き渡り、塹壕の前方警戒壕で機関銃を構えた兵士は苦虫を噛んだような声で舌打ちする。
帝国軍の誤算はこの要塞陣地に立て籠もる同盟軍の精強さであった。第六五八装甲旅団の有する重戦車フェルディナンドは自走砲並みの口径を持つ電磁砲を保持している。要塞砲替わりとなった約八〇両のフェルディナンドはその火力で帝国軍歩兵部隊を中隊単位で耕し、丘陵の影に隠れる装甲車両をその丘陵ごとぶち抜いて吹き飛ばし、肉薄してくる敵兵は巨体でひき殺し、近距離からの砲撃の衝撃で消し炭にする。
あんな化物なぞ相手に出来るか、そんな風に恐ろしいが機動力が決定的に劣るフェルディナンドとの交戦を避けて要塞内部に入れば待ち構えるのは戦斧を構えた第五〇一連隊戦闘団……
結果として、帝国軍は激しい砲爆撃を加えつつ少しずつ包囲網を狭めているのだが……この分では陥落までまだまだ時間は必要であろう。
「ああ……寒ぃ……たく、ここ最近酷い雨だなぁ……」
凍える手で金属製のマグカップに注がれた珈琲を口をつける機関銃手。淹れたての珈琲の苦みに砂糖のほのかな甘みが身体を癒す。後方の塹壕では分隊の残りの同僚が今頃珈琲と温めたレーションでストーブに当たりながらランチと洒落込んでいる事だろう。交代制とは言え空腹と寒さが辛い、さっさと変わって欲しいものだ。
「本当だな、全く……叛徒共も土竜宜しくよくもまぁ地面に潜ってねば……」
そこまで言って珈琲を差し入れしてきた同僚が言葉を止める。
「?おい、どうし……」
その沈黙を不自然に感じた機関銃手は同僚の方向を見やる。そこには口元を締められ首元に鉈を突き出された同僚が目を見開き悶えていた。機関銃手は驚愕した味方に敵襲を知らせようとする。しかし……。
「あがっ!?」
次の瞬間、口を腕で塞がれて首元を鉈で切り捨てられる。機関銃手は何が起きたのかも分からぬままに絶命した。
「ちょろ過ぎですぅ、これじゃあ流石に歯応え無さ過ぎですぅ……」
にやり、と口元を歪め嘯くように呟くのは夜間用迷彩服に暗視装置を装備したネーナハルト・フォン・ライトナー准尉である。そんな緊張感のない妹の態度に溜息を吐いた後、同じく警戒していた帝国兵の死体を捨てたテオドール・フォン・ライトナー中尉は、血のこびりついた鉈を構え直し手信号で味方に警戒部隊の無力化を伝える。
それに答えて十名ばかりの人影が岩肌に隠すように設けられた要塞の出入り口から現れる。
一団の先頭に立つワルター・フォン・シェーンコップ少佐はライトナー家の兄妹の所業を確認すると関心したように小さく口笛を吹く。
「相変わらず可愛い顔してやる事がえげつないものだな?」
童顔で線の細い小柄な体格な事もあり保護欲を刺激する兄妹ではあるが、いざ前線に立つと闇夜から、あるいは死角から襲い掛かり躊躇なく一撃で喉元や頸動脈、脊髄に致命傷を与えて始末する。時には見せしめに返り血も気にせず笑顔で死体を解体して、首を晒したり手足を木々の上から吊し上げたりもしてくれた。客観的に見てクレイジーだ。
「これ位家の者なら誰にでも出来るのですぅ……」
口を尖らせて少し不満そうに妹は言い返す。この兄妹は体格に恵まれなかった事もあって、同じ一族は当然として伯爵家に仕える他所の家を含めたとしても正直強い方ではない。
一族の当主には毎回ニ対一で秒殺されるのは仕方ないにしろ、中堅のヨルグ大叔父や従兄であり若手のビョルンにすら一撃腹パンで負けてしまう。それ所か引退前のオルベック家の老骨にも笑っていなされるし、デメジエールの長女相手でさえ一方的に嬲られる有様だ。そもそも目の前の新参の食客帝国騎士相手でさえ基本的に劣勢に立たされるのだ(それ所かそう遠くない内に勝てなくなる筈だ)、褒められても嫌味に聞こえるだけである。
「別に嫌味ではないんだが……まぁいいか、まずは仕事ですな」
シェーンコップは部下を連れて体を屈めて塹壕に足音も立てずに近づく。そして塹壕の中で座って温かい食事をしていた帝国地上軍の分隊を確認する。
「行くぞ……!」
次の瞬間、シェーンコップを先頭にして立ち上がった兵士達は全員懐から消音装置付きの火薬式サブマシンガンを取り出した。塹壕内で食事をしていた帝国兵達は、シェーンコップ達の存在に気付いて手にするトレー皿を捨てて急いで腰のハンドブラスターや傍のブラスターライフルに手を伸ばそうとする。だが、その前に全ては決した。次の瞬間銃声もなくばら撒かれる鉛弾の嵐に分隊は物の数秒で蜂の巣にされ全滅する。
殺戮劇が終わると、シェーンコップ少佐達はその死骸の積み重なる塹壕に入って生存者がいないかを確認していく。途中塹壕内に設けられた無線機から定時報告を求める通信が入るが、シェーンコップの部下の一人が帝国公用語でそれに答えた。無線機越しでは声質は分かりにくいし、限りなくネイティブな帝国公用語で返されれば受け取る方は然程違和感は感じなかっただろう。
幾らかの武器や物資を拝借するとシェーンコップ達は移動する。籠城戦とはいえ守るだけが戦いではない。隠し通路からこのように敵の警戒網や後方に浸透して嫌がらせのようにチクチクと打撃を与えるのもまた防衛戦の一環であった。
「行くよ」
「はいですぅ、お兄様」
シェーンコップ達の後ろからライトナー従士家の兄妹も続く。消音装置付き火薬式拳銃を手に、暗視装置の解析映像越しに周囲を警戒していく。
「……ネーナ」
「はいぃ、何か隠れましたぁ」
こちらに気付いたのだろうか、少し離れた岩の影に誰かが隠れたのを確認する二人。すぐさまシェーンコップ少佐達に事を告げて警戒しつつその岩影に向かう。
「ごほッ……ごほっ……!」
物陰から隠れた人物の様子を伺う兄。どうやら隠れた人物は咳込みながら座り込んでいる様子だった。手負い?敵か味方か……兎も角は制圧してから考えるべきか………。
兄妹はアイコンタクトで行動指針について合意する。そして次の瞬間岩陰からその者を包囲するように躍り出てハンドブラスターの銃口を向ける……!
「……!?」
だがライトナー兄妹が闇夜の中で視認したのは負傷した友軍兵士でなければこちらを偵察する帝国兵でも無かった。いや、帝国軍人ではあったがそれは余りにもこの場では場違いで奇妙だった。
軍服は前線での陸戦を行うには余りにも不似合いな出で立ちであった。帝国地上軍の後方勤務士官用の略装……略装と言ってもあくまでも式典用の正装に対しての略装である。到底この前線での戦闘において非効率な服装である事に疑問の余地はない。
「これは驚きましたぁ……」
そう兄妹の妹が呟いたのはその胸元の兵科章と首元の階級章を見ての事だ。経理科を表す双頭の鷲にサーベルを背後で交差させた金塗りの兵科章、そして首元の階級章が表すのは……。
「主計准将!?」
思わず驚愕の声を上げる兄。当然の事である。主計准将の階級は簡単に手に入るものではない。
建国期に比べて確かに軍部も貴族社会も腐敗しているとは言え、それにも限度がある。予備役や私兵軍の将官等の儀礼的なものなら兎も角、正規軍のそれが賄賂やコネで手に入れられると思うのは同盟人の偏見だ(そんな軍隊相手に一世紀半も戦っている同盟軍は無能であると言っているに等しい事に気付かないのだろうか?)。
まして、経理科を安住で遊んでばかりな後方勤務と断定するのはその者の無知を晒すに等しい。軍隊における経理は無論デスクの上での事務が中心ではあるが、そのための会計知識は一年二年で理解出来るものではない。その上経理の仕事は給金計算だけでなく、補給物資や兵器の調達・購入、あるいは出征や遠征の地代や人件費の予想計算と算出、業者や領主との交渉が含まれる。時として不正や横流しが無いか屈強な兵士達に睨まれながらの抜き打ち現場視察があるし、それ所か物資の現地調達や現状確認のために現場……即ち前線に顔を出す事も珍しくない。咄嗟の時の機転も求められる。同盟軍でも帝国軍でも、経理科の軍人は普通に高学歴者ばかりで占められている。
帝国軍では学歴だけでなく業者や領主、指揮官への顔の広さと話術の才能が殊更重視される。そのため平民出身者から『前線逃れ』と侮蔑気味に言われる事もあるが、その将官ポストに就くのは門閥貴族階級、特に血縁関係が広い者や政財界や宮廷、軍部の社交界で顔の広い者、人を魅了する交渉術に長けた者等が配属される。
そんな主計准将がこんな最前線に一人で顔を出していれば驚くのは当然だ。しかも銃撃で受けたのだろうか、真っ赤に染めた腹部を抑え、こちらにハンドブラスターを構える整った顔立ちの好青年というべき人物を前に兄妹はこの場をどうするべきか互いに僅かに顔を見合い戸惑う。
「……卿らはっ……げほっ……同盟軍……か?」
そんな二人を他所に、当の主計准将は傷の痛みからか額に大粒の汗を出し苦悶に口元を歪ませつつも、威厳のある視線を向けながら流暢な同盟公用語で問う。
その質問に今度こそ兄妹は互いの顔を見やる。当然だ、その主計准将は『反乱軍』ではなく『同盟軍』かと問うたのだから。
「……違うのか?」
困惑する兄妹の態度に若干弱音の混じった不安げな態度で再度尋ねる主計准将。そこにようやく後方からシェーンコップ少佐達が姿を現す。
「どうした?これは……」
シェーンコップ少佐もまた、その手負いのままハンドブラスターを構える准将を見て一瞬困惑の表情を浮かべ、双子の猟兵に事を尋ねる。そして事の次第を聞き終えると、暫し逡巡した後に一歩進み出て官姓名を答える。
『自由惑星同盟軍宇宙軍陸戦隊、第五〇一独立連隊戦闘団所属ワルター・フォン・シェーンコップ少佐であります、僭越ながら准将閣下殿のお名前をお聞かせ願いたい』
宮廷帝国語による優雅で礼節を弁えた敬礼と共にシェーンコップ少佐は問う。その質問に警戒したようにシェーンコップ少佐とその部下、そして周囲を観察し‥…数刻の後にハンドブラスターの銃口を下げて口を開いた。
「私は帝国地上軍所属、第九地上軍司令部経理部副部長カール・マチアス・フォン・フォルゲン主計准将だ……自由惑星同盟への亡命を願いたい……それと……これを…………」
一瞬迷った後、そう言って血塗れの震える手で持って、帝国国内スパイ組織『フヴェズルング』のメンバー、コードネーム『シャルルマーニュ』は目の前の薔薇の騎士達に光ディスクを差し出した………。
「んっ……はぁ………」
簡易的なシェルターであるが故に流石に浴場なぞないために、汚れた衣類を脱いだテレジア・フォン・ノルドグレーンは立ったままその砂や泥の被った頭から熱いシャワーを浴びた。
「はあぁ………」
汗や垢、砂埃が熱湯で洗い流される感覚を感じ、彼女は特に意識したわけではないがどこか艶めかしい吐息を漏らす。それだけリラックス出来ている証拠だ。
余り自身の未熟さを言い触らしたくはないが、やはり数日に渡る逃亡劇は二四歳の『お嬢様』でしかない彼女に精神的にも体力的にもかなりの負担をかけていたのだ。
従士家にだって当然格がある。同じ門閥貴族の臣下でも、現場で戦う者から屋敷で家事をする者やデスクで事務をする者だっているし、平民と変わらぬ生活をする者から門閥貴族に匹敵する生活をする者まで千差万別だ。
ティルピッツ伯爵家に最初期から仕えていたノルドグレーン従士家は当然、帝国の数多くある従士家の中でも上等な部類に入るし、その本家ともなればその毛並みは門閥貴族階級から見ても悪くない生活をしていた。同盟に亡命する前には、伯爵領で幾つかの郡長を拝命しつつ領内の財務や治安を担っていた。一族から帝国政府に出仕した者には地方の警察署長や州警察長官、財務省の部長や軍務省の経理局次官、一度は社会秩序維持局局長を務めた者すらいる。
亡命後は当然弱体化したとはいえ、それでも本家分家合わせて十二家百数十人、仕える奉公人や農奴は末端や一時雇いを含めれば一〇〇〇人はいるだろう。従士家である以上主家とは絶対的な上下関係はあるし、常に主家の嫡男に付き従って雑用をしているとは言え、その実テレジアも十分『令嬢』と呼ぶに相応しい位には実家では至れり尽せりという立場だった。
「……力不足…でしょうか……?」
頭から湯を浴びたまま正面の壁かけの鏡を見つめるノルドグレーン中尉。そこに映るのは見るからに憔悴した表情を浮かべる女性の姿だ。
成程、肉付きは悪くないだろう、自分でも世間一般的に見れば魅力的なスタイルである事も理解している。鮮やかな長いブロンドの髪も、紅玉のように輝く大きな瞳も、あるいは白魚のような細く白い手や豊満で張りのある胸元、括れた曲線を描く腰に引き締まった臀部、ふくよかな太腿……全て世間一般的な価値観で見れば女性の美貌に付加価値を与える要素だ。だが軍人としての付加価値を与えるかと言えば必ずしもそうではないし、ましてこの場の危機において役立つかを思えば考えるまでもない。
そうでなくても戦闘技能も、経験も不足している事を彼女は自覚していた。鍛錬で顔立ちの良く似た遠縁の同僚に勝てた事なぞ一度もありやしない。当然覚悟も、主人からの期待や信頼も遥かに劣る事であろう。
「何故私なんかがこの立場に……」
ぽつりと小さく、弱弱しく従士は呟く。
その言葉は決して今の苦難を嫌がってのものではない。今や自分が唯一傍で主人を護衛出来る立場であり、すべき立場なのだ。責任を持って、一命に賭けてその義務を果たさないといけない事は理解出来るし、それを拒否する事はあり得ない。既に一族から主人を逃がすために捨て駒になった者もいるのだ。尚更課せられたその責任は重い。
だが同時に自身の未熟さも理解していた。技能も体力も、覚悟も主人からの信頼も足りない。自身には余りに過分な役目……正直に言って彼女はその負担に苦しんでいた。
「せめてゴトフリート少佐や御姉様なら……」
そうでなくても自分よりも役立つ従士なら沢山いた筈なのに、よりによって自分がこんな重要な役目を受け持つなんて……!!
「……!」
胸を締め付けられるような感覚に中尉は呻き、身体を曲げて苦しむ。恐らくはストレスと緊張感から来るものであろう。
「分かってはいます……分かってはいます……」
過呼吸気味のそれをゆっくりと整えていき精神を落ち着かせる。自分の役目は理解している。だがそれを果たせる自信が浮かばない。必要ならば何だってする、この命だって捧げよう、だがそれでも……それでも足りないのだ。
「何故……私が………」
消え入りそうな声で彼女は再度呟く。そう何故自分なのか、何故力不足の自分なのか、不適格な自分なのか、足手まといの自分なのか………何故主人に信用されない自分なのか?
「っ………!」
その脳裏に浮かぶ不安と怯えを振り払うようにしてノルドグレーンは再び頭から熱湯を被る。
無心に熱い湯と冷水を幾度か交互に浴びた彼女は、その染みのない白く瑞々しい生気に満ちた皮膚を一段と引き締めた。軍服はシェルター内の洗濯機で洗濯するとして、物資として貯蔵されていたシャツとズボンを拝借する。まだ濡れた髪を纏めて最低限の身だしなみを整えた上で、彼女は後ろ髪を引かれる思いでシャワー室から退出した。本当ならもう少しシャワー室で一人でいたかったが、いつまでも主人を待たせる訳にもいかない。
シャワーで火照る身体に頬は赤らむ。瑞々しく艶を戻したブロンドの髪に赤く光る瞳は女性的な魅力に溢れている。だが……その表情は相変わらず捨てられた子犬のように情けなく、沈んだように暗いままだ。
このような表情は到底見せられない、鏡に向き合い半ば無理矢理笑みを浮かべ、ノルドグレーン中尉はシェルターのリビングに当たる部屋に続く通路を歩く。
このエル・ファシルの名士らしいロムスキー家の別荘シェルターはどうやら地下三階建てのようだった。物資貯蔵の倉庫となっている地下一階に生活空間としてリビングや寝室、シャワー室、トイレがある地下二階、空気清浄機や発電機、濾過機のある機械室となっている地下三階のという設計だ。宇宙暦八世紀のそれとしては平均よりも少々大がかりなものではあるが、帝国貴族の基準としては小さいと言わざるを得ない。
無論、ロムスキー家が数多く保有するシェルターの中でも小さい部類ではあるのだろうが……いかに辺境とは言え、流石に一惑星の名士が持つシェルターがこんな小さいものだけだとしたら、それは恥ずべきことなのだから。
「若様、只今シャワーを終わらせました」
リビングに着くとノルドグレーン中尉は敬礼して自身の主人に報告を行う。
「んっ……ああ、報告御苦労。これを食べたら私もシャワーをさせてもらおうか」
そう語るのは、ソファーに座り電子レンジで温めたのだろう鶏肉と玉葱、パスタ等の具材がたっぷりと含まれたミネストローネスープを味わっていた彼女の主人の姿だった。汚れた上着を脱いでいるために上に着ているのは薄手のシャツ一枚だ。それも汗で濡れているためか、均整の取れた筋肉質な身体が透けて見える。
良く鍛えられている、ちらりと僅かに見惚れるようにその姿を見てノルドグレーン中尉は思った。
開祖ルドルフ大帝の指針以来、健全かつ頑健な肉体を保持する事は大貴族から平民まで全臣民に推奨されている政策である。帝政初期の貴族達が文字通り古代地球時代のスパルタ人の如き鍛え抜かれた肉体を保持していたのは、当時の記録映像から見ても明らかだ(しかもボディービルダーのように薬物類を使う事なく、運動と食事のみでである!)。
とは言え、流石に現在となっては、腐敗したオーディンの貴族は当然として、亡命政府宮廷でも武門貴族は兎も角文官として勤務する貴人は多忙もあってかつてのように肉体を徹底的に鍛えぬいている者は少ない。例外はゴールドシュタイン公爵やブローネ侯爵位のものであろう。
武門貴族の中でも自身の主人はほかの貴人に比べて良く鍛錬している方である事をノルドグレーン中尉は知っていた。『肉体は勉学よりかは努力を裏切らない』ためらしい。どこか悲壮な様子で日々鍛えている主人の姿は少し不思議ではあったが、少なくともその成果は客観的に見ても見事なものと言えよう。装甲擲弾兵の精鋭相手ならば兎も角、雑兵相手ならばその身体能力だけで対応出来る程の質実剛健な肉体であろう。
「中尉もそこの物を好きに選んで食べてくれたらいい。それにしても………」
テーブルの上の保存食品を指差して語る主人の口調が途中で歯切れが悪くなる。
「?どうか致しましたか?」
「いや……少し薄くないか、それ?」
「?いえ……」
「いや……あー、そうだな。分かった。好きにしてくれて構わない。……では次にシャワーを貰おうか?」
何か言いたげにした主人はすぐにそれを取り消すと、自身から視線を逸らしてそう会話を終わらせて、スープを飲み切ると立ち上がってシャワー室に向かった。
「……どうぞごゆるりと」
リビングをそそくさと去る主人に対して、彼女は表面上は恭しくそう口にした。
「……ああ」
彼女の主人は一旦足を止めると、短くそう返答して再びシャワー室へと向かった。
「……警戒、という程のものではないのでしょうが………」
主人がシャワー室に入ってから、ノルドグレーン中尉は小さく自虐的に呟く。
彼女も捻くれてはいない。恐らくはこちらの疲労を心配しての事であろう。
………しかし、主人が自身を少し腫れ物に触れるように扱っている事に、先程までの葛藤もあり何とも言えない気持ちになるのもまた確かであった。唯でさえ足手纏いの自覚はあるのに、あのような遠慮した態度では五年前に顔合わせした時の苦い記憶を思い出す。主人は気にはしていないのであろうが、このブロンドの従士はあの時のひと悶着を今でも強く記憶していた。
「仕方ない事ではありますが………」
水の滴る髪を撫でながらぽつりと一人ごちる。上司と部下、主人と臣下として考えた場合、自分がもう一人の付き人と違い、信用はされていてもまだ最大限の信頼は勝ち得ていない事は理解していた。無論、仕えていた年月が違うのだからある意味当然と言えば当然の事ではあるし、出会いがあれでは信頼して欲しいという方が無茶というものだ。
理解はしている。だが…………。
「いっそ、もっと別の関係ならばこのような事気にしなくても良いのでしょうが……」
主人との関係がよくある妾としてのものであれば、このような事気にかける必要性は皆無なのだ。戦場と違い信頼関係が致命傷になりはしないし、責任の重さも全く違う。何よりも顔の良く似た付き人と自身とで能力を比較し劣等感を感じる必要もないのだから。
そもそも本来ならば付き人は同性が基本であるし、ノルドグレーン中尉自身も主家が武門貴族であり亡命軍が慢性的に人的資源不足であるが故に予備役軍人として最低限の教育こそ受けてはいるが、今の立場になる前は自身が正規軍人になるとは考えてなかった。主人の母……即ち奥方に次の付き人に指名された時も、弾除けや補佐としての役目もあるが、それ以上に前任者の代役として『勤め』をする事になると考えていた程だ。
実際彼女は自分の美貌にもスタイルにも自信を持っているし、主人も決して自分に興味が無いわけでは無いこともその視線から把握している。故にそちらを求められても十分に期待には答えられると自負はしていた。………現実にはやる仕事と言えば軍務ばかりであるが。
無論それが嫌な訳ではないし、大恩ある主人のためならば望まれた職務を果たすのは当然ではある。あるのだが………。
「……卑しい」
ふと、そこで我に返ると共に、自身の下賤な考えに侮蔑を込めて小さく罵倒の言葉を吐く。武門貴族にとっても、従士としても、血と汗を持って軍役の奉仕を誓う事は、唯肉の身体で持って快楽に奉仕するよりも遥かに名誉であり誇り高いであろうことは間違いない。それを今自分は何を考えていた?要求されたなら兎も角、その方が楽だからなぞ……随分と下品で低俗で、しかも安易な考えではないか?
「………冷えましたね」
いつしかシャワーで温まっていた筈の身体が冷たくなっている事に気付いた。
兎も角も体力の回復と身体を温めるために食事が必要なのは間違い無かった。テーブルの上に置かれた保存食からアルレスハイム星系の食品会社が販売している鶏腿肉のフリカッセを見つけ、同じく冷凍の玉葱パイと共に温める。調理を終えるとエリューセラ産のインスタントコーヒーと共にテーブルに座ると、彼女は豊穣神に祈りを捧げてからナプキンを膝元に敷き、育ちの良さが伺える上品な手振りで食事を始めた。
温かい食事の筈なのに、何故か彼女には味気なく、温かみも感じられない食事に思えた………。
私がシャワーを浴びて上がった後再度軽食を摂り、多少今後の方針について義務的な会話をしてから、ノルドグレーン中尉と共にそれぞれ寝袋を用意して就寝の準備に入った。
(……気まずいな)
疲れているのもあるのだろうが、互いに黙り切り黙々と作業に入っているためにどこかぎこちなく重苦しい雰囲気が漂う。
(しかも少し目のやり場がなぁ……)
ちらり、と忠実な従士の方に視線をやる。薄手のシャツの中尉の胸元は正直反射的に視線が向かうし、うっすらと下の白い下着の輪郭が分かる。
……いや、官舎での生活で下着姿なんていくらでも見ているから今更ではあるが(これはこれで問題だ)、あの場ではほかにもベアトがいたし、それこそ官舎の外に出れば官舎街を巡回する警備兵がいた。ある意味で監視役や世間の目があった訳で、その意味で自制が利きやすい面があった。その意味で二人きり、しかも軍務で生命の危機があるとなると………。
「……何かこんな状況前にもあったな」
「……?どうか致しましたか?」
「ん?いや……何でもない」
私は誤魔化すように話を切る。発情期の兎でもあるまいに……ベアトと遭難した時もそうだが、こういう時、私も大概本能任せの動物のような単純な思考をしている事を思い知らされる。原作の『新無憂宮』の馬鹿貴族を笑えないな(そもそも下手したらあいつらも私より遥かにやべー奴らだったりするのだが)。
「……中尉、警戒もあるから睡眠は交代で行うぞ。……疲れているだろうから先に眠ってくれて構わない。その間私が起きておこう。どうせまだ眠気が来ないからな」
私は恐らく私よりもかなり消耗しているであろう中尉を労わる目的からそう提案する。
私自身、ここ数日抗生物質と風邪薬を飲んで誤魔化しているが、やはり病み上がりの身体には三日三晩碌に睡眠せずに逃亡するのは辛い所であるのも事実だ。それでもカプチェランカや宇宙漂流していた時に比べれば、一応物資が豊富で安心出来る場所があるだけ今の状況はかなりマシな状況である。それにそもそも性別や鍛錬の差もあり私の方が余裕がある。中尉は身内も生死不明なのだ、ある意味私よりも遥かに辛い筈だ、休ませてやりたい。
………まぁ、そういうのは建前だがね。
実際の所、私としても精神的に参っているから一人になりたい意図の方が大きい。ベアトの安否についてはこの逃亡中何度も嫌な予感が脳裏に過っていた。私よりも優秀なのだから無事であろうとは思うが、それでも不安にはなるものだ。
唯でさえ私のミスで彼女の親族も含めて多くの部下を切り捨てる事になったのだ。私の御守りで中尉も疲労困憊、そこに私もうじうじとした姿を中尉に見せて不要な不安を与えたくは無かった。
「ですが……いえ、分かりました。……仰せの通りに致します」
一瞬反論しようとしたが、すぐにしおらしく中尉は私の命令に従う。彼女も自身の限界は理解しているようであった。こちらとしては無駄に説得する労力を割かずに済むのはありがたい。これがベアトならば説得するのにまた時間がかかっただろう。
……故に私は中尉の憂いを含んだ笑みを気付かない振りをしていた。
「……そうか、済まないな。……ああ中尉、やはりその薄着はこの季節だと冷える。倉庫から上着を見つけたからこれでも着た方が良い」
私自身の自制心のためにも、とは言わずに見つけ出した上着を差し出す。立とうとする中尉を止めて私自身背後から上着を被せるように近づく。気付いたのはその時だ。リビングの奥の階段、シェルターの出入り口に繋がる地下一階倉庫室に繋がる階段の中から一瞬反射するような光を見たのは。
次の瞬間こちらへと向かう光条を避けるように私はノルドグレーン中尉を押し倒して床にへばりつけるように伏せた。同時に右肩から焼けるような痛みが走ったのを私は自覚した……。
「避けたかっ……!」
暗視装置を頭部に嵌め、電子スコープを備えたブラスターライフルを構えたウォルフガング・ミッターマイヤーは、若干の驚きとそれ以上の興奮を持って目の前で起きた事実を受け入れた。
罠や待ち伏せに身構えて静かにシェルター内部に侵入に成功した庭師の息子は、そこで想定していた抵抗を受ける事はなく拍子抜けしていた。先行していた部隊が幾つか全滅した事から、少なくとも獲物の護衛は相応に手練れが控えている事を想定していたのだが、余りにあっさりと侵入出来たせいで疑念を抱いていた。
そして吸音素材で靴底を作られた軍靴で音もなく地下二階に続く階段を下りた時に彼が発見したのは二つの人影であった。すぐにその片方が目的の獲物だと分かった。そしてもう片方は護衛……いや、親友の口にしていた戦場連れ込みの愛人であろう、生粋の軍人にしてはか細く、曲線の目立つ輪郭であった。
蜂蜜色の髪を持つ小男は獲物が愛人の上着を脱がせている……実際には逆であったが……所に銃口を向けていた。お楽しみの所を悪いが、獲物の都合なぞ庭師の倅が考慮するべき事ではない。普通に考えれば明らかに油断しているであろう瞬間に獲物の抵抗力を奪うのは当然であった。無論、出来るだけ生かして捕獲したいので致命傷は避けるつもりであった。だが……。
「これは俺の方が甘くみていたかなっ……!?」
ミッターマイヤーは最初の銃撃とその回避の動きで全てを悟り、親友に向けて内心で叫ぶ。
(成程、狩猟だ。狩猟ではあるが……ロイエンタールよ、これは少なくとも狐狩りでなければ鹿狩りでもないぞ?これは………!!)
すかさず第二射を発砲したミッターマイヤー。だがその銃声は虚空に消えるのみであった。何故ならば射撃の数秒前に狩りの獲物はもう一人を抱きしめたまま床を転がるように射線の死角にまで移動したからだ。そして……!
「………!」
ミッターマイヤーはまるで野生動物のような第六感で殺気を感じ取り、その場を飛び跳ねるように後退する。同時に放たれた光条は、先程まで彼が狙撃していた地点を通り抜けた。相手の姿は見えない。先程の二回の射撃から凡その居場所に目星をつけて、物陰から記憶だけを頼りにハンドブラスターの銃口を向けて来た、といった所か。
(反応が早い、思いのほか手慣れているな……!)
即ちそれが意味する事実は………。
「ロイエンタールめ、いい加減な事を言ってくれたな?狩りは狩りでもこれは狼狩りだっ……!」
暗視装置の位置を調整し直しながら、予想外に手応えのある獲物に『疾風ウォルフ』は凄惨な、そして想定外の事態に関わらず屈託の無い笑みを浮かべた。それは良く肥えた豚を追い詰めようとしている猛狼を彷彿させていた。