帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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ノイエのPVが出ました、愛国の言葉を口にするフレーゲル男爵の顔がそこそこイケメンです

ノイエ版リップシュタット戦役……きっと由諸正しく誇り高い門閥貴族達が小賢しい金髪の小僧を散々に打ち負かすんだろうなぁ……(遠い目)


第百三十六話 恋愛シミュレーションは現実では役に立たない

 地球がそうであったように、惑星ハイネセンもまた地軸のズレと公転の影響から四季が存在する。少なくとも住み心地の良い人口密集地域では大なり小なりそれが存在した。

 

「明日か明後日にでも梅雨に差し掛かるそうです。そうなれば暫くは庭先を歩く事は出来ません。今の内に楽しむ事に致しましょう」

 

 ハイネセン北大陸……より厳密に言えばその内陸部ではもうじき春が終わろうとしている。梅雨が始まりそれが終われば夏となるだろう。

 

 幸い人口一〇億余りかつ発電は大半が核融合炉や水素、あるいは太陽光や地熱、風力等の自然エネルギーで賄われ、工業にしても西暦時代とは比較にならない程にエネルギー変換効率が高く、また最先端の建材からなる建物は熱を溜め込まず、都市計画も緻密を極めているので転生前のような温暖化とはこの時代の人間は無縁だ。

 

 都市部ですらそうなのでドが付く程の田舎の避暑地であるこの領地は山から流れてくる風もあり気候は悪くない。交通の便が悪い内陸部であるが黄金狂時代のような好景気であれば都市開発計画の対象になっていた可能性もある位には住み心地は良かった。

 

「……随分と手入れがされておりますね。彼方は……花園でしょうか?素晴らしい造形ですわ」

 

 一歩下がりグラティア嬢は私に続く。日傘を差してゆっくりと、優雅に歩みを進め庭先を鑑賞していた。

 

 貴族の邸宅の庭園はそれ自体が一つの芸術作品だ。噴水とカスケードがあり、庭師により色彩と輪郭の調和を整えられた花壇と芝生、トピアリーに並木の連なりが広がる。大理石の動物や神々を象った彫刻が厳かに佇み、各所に設けられた四阿はそれぞれが庭園を美しい角度から鑑賞出来るように計算されていた。本邸に比べれば遥かに小さいが庭先の先々に小屋も幾つか建築されている。

 

 当然これらの整備に必要な人と物と財力は莫大であり、それを有する領主一族の権勢を極めて分かり易く示してくれる。多くの訪問者は本邸であれ別荘であれ、庭先の広さと優美な庭園、そして屋敷の大きさでまず相手の実力を見積もる。庭園は交渉における最初の牽制の役割を果たしてくれるのだ。

 

 また余談ではあるが、屋敷の裏口等にはこれまた相応に広大なキッチンガーデンやハーブガーデン等も広がり、荘園と並んで領主一家の食卓に上がる食物を供給していた。

 

「……少し日差しが強くなってきました。彼方の四阿でお休み致しませんか?」

 

 暫し屋敷外苑の庭園を見回りした後、私はとある四阿を指して提案する。時刻は午後になっていた。

 

「……全て旦那様の御随意のままに」

 

 片手で日傘を差したまま、もう一方の手でフリルのスカートとちょこんと持ち上げ淑女として最大限の礼節を持って少女は答えた。即ちお好きにして下さいという訳だ。尤も、彼女も私が休憩を提案した理由は分かっているであろうしそれに反対する選択肢は元からありはしないのだが……。

 

(何を言われようと従うしかない、という訳か……)

 

 目の前の一回り以上歳下の少女が周囲からの目や噂に耐えながら私に恭しく従っている事を考えると何度目か分からない罪悪感が疼いた。

 

 四阿では既に準備が整っていた。テーブルの上に染み一つない真っ白のテーブルクロスが掛けられている。ティースタンドにはサンドイッチやハム、ケーキと焼き菓子が載せられており、ポットには注ぎたての湯の湯気が立っていた。氷バケットは二つ用意されており片方には果物が、もう片方にはワインボトルが砕けた氷の中に沈んでいる。

 

「御苦労、後は私達だけでいい。下がってくれ」

「はっ!」

 

 使用人服を着て敬礼する恰幅の良い彼らは、しかし伯爵家の者達ではなく休暇中の『薔薇の騎士連隊』の隊員達だ。より正確に言えば『薔薇の騎士連隊』の中でもどこかの家の紐付きでなく、不良騎士にスカウトされて此方に来た者達だ。

 

 エル・ファシルの激戦にて、『薔薇の騎士連隊』こと第501独立陸戦連隊戦闘団は司令部と主要指揮官こそ生還したものの、人員の四割を失う損害を出すに至った。

 

 一応、基幹部隊は無事なので人員の補充と訓練さえ積めばある程度は再建は可能だ。だがそれも今すぐとには行かない。熟練の兵士はどこからかポンポンと生えてくるわけでなし、それが亡命帝国人からのみ選抜するとなれば尚更だ。また連隊長リリエンフェルト大佐の准将昇進を始めとしたメンバーの昇進と勲章授与に伴う連隊戦闘団の組織再編も検討されていた。

 

 結果として、連隊戦闘団は人員の補充が不十分なため少なくとも今後半年は従軍が無くなった。つまり、生還者の内、重傷者は治療に専念するとして、それ以外の大半は個人から中隊単位での訓練以外では暇を持て余している。そこで、色々と人手が欲しい私は不良騎士を通じて臨時バイト兼暇潰しを探している帝国騎士を一個分隊発注した訳だ。金で揃えられる臨時雇いは母や家の息がかかっておらず、今の私には極めて重宝出来る存在だ。え?給金どこから出すって?お小遣いの国債や株式の利子収入ならがっぽりあるよ?

 

「うむ、……ああ、待て。御苦労だった。これは卿らの分だ。悪酔いはしてくれるなよ?」

 

 そう言って彼らがセットしてくれた昼食の用意から氷バケットに沈んだワインボトルの一本を左手で引っ張り出して差し出す。表面に水滴が出来てひんやりと冷えたそれは宇宙暦760年物の白だ。物としては……まぁ、中の上位のものだな(門閥貴族基準で)。

 

「よ、宜しいので……?」

 

 流石にこの行動は予想出来なかったのだろう、一番階級が高いバイト騎士が窺うように尋ねる。まぁ、門閥貴族基準でそこそこの品である。平気で同盟軍新米士官の給金三か月分が飛ぶなど普通だ。本当に賜下されるか半信半疑にもなろう。

 

「構わんよ、色々準備は不慣れだっただろう?……後片付けも頼めるな?」

 

 ワインボトルを受け取ろうとする帝国騎士の腕を義手の右手で掴んだ後に、後半の言葉を続けた。口にはしないが聞き耳を立てない事と周辺警戒もな、と目で伝える。

 

「し、承知致しました……!」

 

 僅かに身を竦ませて答えた騎士。その答えに微笑んで私は右手を離してワインボトルを明け渡す。ボトルを受け取りつつも掴まれた腕を摩り私を見て、小さく頭を下げて帝国騎士は下がる。

 

 彼は恐らく私のひんやりと冷たい感触と、生の腕では有り得ない握力が加えられた事にたじろいだ筈だ。

 

 ……間違いなく単純な陸戦技能では彼の方が上手であっただろう。下手したら秒殺されかねん位には実力差がある筈だ。だが義手をつけているというのは認識したものに相応の修羅場を生き残ったという先入観を与えるものだ。はったりに過ぎないがこれで悪ふざけや仕事をさぼるような事はするまい。

 

「……それでは人払いもしましたので、軽く休憩しましょうか?」

 

 私は彼らがある程度離れてから振り向いて伯爵令嬢に着席を進めた。無論、警戒感や不安は与えないように先程のやり取りは私の背が影になるように行った。そのため僅かに訝しげな表情を浮かべつつも伯爵令嬢は私の勧めに従い席に座る。私もまたそれを見てから対面の椅子へと腰を据えた。

 

 冷えた度数の低い食膳酒のコルクを抜いて、水晶のワイングラスに注ぎ込む。白よりも寧ろ黄金色に近い液体は気泡を作りながら日光とグラスの反射で虹色の光を放っていた。グラスの一つはグラティア嬢に、もう一つは私の手元に置き、豊穣神への軽い祈りを込めてから乾杯する。

 

「まず、今朝の事は申し訳ありません。母も悪気はないのですが……本領を離れる事になって気が立っているのです。まして私が問題ばかり起こすもので……周囲に負担をかけてばかりで心苦しいばかりです」

 

 一口呷ってから、私はワイングラスを置き謝罪の言葉を述べる。

 

「いえ、当然の事です。領地もご子息も、共に欠かす事の出来ない存在です。寧ろそのように御母様がお悩みになられている所を不躾に訪問してしまい、まして失言すらしてしまった自身の未熟さに恥じ入るばかりですわ」

「御謙遜を」

「いえ、心からの意見で御座いますわ。旦那様、そう御自身や御家族を卑下なさってはなりません」

 

 そして伯爵令嬢は一旦言葉を切り、暫く言葉を考えてから、私の目を見つめて続ける。

 

「朝の事については寧ろ感謝申し上げなければなりません。あのように助け船を出して頂き……その、御母様にあのような事を口にして、旦那様のお立場が悪くなるような事があれば………」

「それこそ杞憂と言うものですよ。あれでも母は私には甘過ぎる人ですから。あの程度の事で気分を害するなぞ有り得ませんよ。……さて、私もそろそろ小腹が空いて来ました。御先に失礼します」

 

 そういってティースタンドに載せられた卵とハムのサンドイッチを頂く。

 

「ふむ、このように野外での食事も悪くはありませんね。戦場と違い落ち着いて料理を味わえるし、見る景色も素晴らしいものです」

 

 私はそう言ってグラティア嬢にも料理を勧める。

 

「……失礼します」

 

 暫く私の食事を観察していた伯爵令嬢は漸く料理に遠慮がちに手を伸ばす。手に取ったサンドイッチを栗鼠のように小さく口を開き口に入れた。

 

「あ、美味しい……」

「それは良かった。御領地の味付けについて調べさせましてね。少し濃い味付けをさせて頂きました」

 

 幾分か宮廷に入り浸った文化であるティルピッツ伯爵家やバルトバッフェル侯爵家に対して、ケッテラー伯爵家はより保守的であり質実剛健だ。客人を招いた席なら兎も角、普段の食事の場合は(門閥貴族水準で)質素で戦場での食事を意識したものが出されるのは良く知られている。故に今回は彼女の舌の合わせた味付けにしていた。……まぁ、朝の事があったからその配慮だ。

 

「申し訳御座いません、旦那様にこのようなご配慮を……本来ならば私の方が旦那様の御実家に合わせるべきなのですが………」

 

 本日何度目か分からない恐縮そうな表情を浮かべるグラティア嬢。

 

「そう何回も謝られても私の方が困ります。……余り片意地を御張りになるのはお止め下さい。こう言っては何ですが此方もやりにくいのです」

「ですが……」

「だからこそですよ。私としては……ああいや、済まない。私の立場で貴女を責めるべきではないし、卑怯でした」

 

 彼女からすれば私も母もマウンティングばかりかけているのだ。まして私が片意地張るなと言って過度な敬語を止めさせても今度は母に睨まれる。此方を立てれば彼方が立たない……唯でさえ家の立場から上下関係がはっきりと分かっているのだ。彼女の視点からすれば虐めでしかなかろう。

 

「いえ、そんな事は……」

 

 遠慮がちに私の過失を否定する伯爵令嬢。だがそれは十中八九本音ではあるまい。彼女から見た私は随分と意地悪な婚約者に見えている事請け合いなのだから。無理している事位分かる。

 

「警戒なさる理由は分かります。我が家の、そして私の貴女へのこれまでの仕打ちは余りに惨いものです」

 

 ここから先を口にするべきであろうか?真実を口にしたとして、それはそれで別の不満と怒りに変わるだけではなかろうか?そんな思考により口にする事に躊躇いが生じる……いや、しかしこのまま黙っておく事も出来まい。どの道これまでの私の仕打ちのせいでここまで関係が拗れたのだ。意図したことではないとは言え、責任は私にある。ならば私がその責任の清算から逃げる事も目を逸らす事も許されまい。

 

「貴女にとってはとても不快な事でしょう。そして……私は貴女に不必要で理不尽な負担を背負わせ続けて来た事を謝罪せねばなりません」

「?それはどういう……」

 

 私の触れようとする事に思い至らず、困惑の表情を浮かべずにはいられないグラティア嬢。その幼さと純粋さの感じられる顔立ちが一層私の罪悪感を刺激する。

 

「……全て、私の考えなしの言動が原因なのです」

 

 ……私は淡々と説明を始めた。即ち、彼女と彼女の実家に対する私の態度の本当の真意について……いや、そんな高尚な物ではない。ただただ、私のその場凌ぎの言い訳が彼女の一族に負担と不安をかけて来た事実をだ。

 

 私が一つ一つの事例に対しての説明を語る間、彼女はある時は不安を、またある時は疑念を、時として困惑を表情に浮かべる。当然だ、悪意が無かったと言われても余りに偶然と不運が重なり過ぎている。言い訳に聞こえてしまうのも仕方無かろう。

 

 ………殆ど事実なのが質が悪いんだよなぁ。

 

 私が彼女の実家に対する事を粗方口にし終えた時、手元のワイングラスが水滴で濡れていた事に気付いた。水滴が重力の法則に従い雫となってテーブルクロスに落ち沈む……。

 

 ……恭しく話を聞き終えた伯爵令嬢は両手を膝の上で重ねて口を開いた。

 

「……御話は理解致しました。しかし……にわかには信じがたい内容です。今の内容を信じろと……?」

 

 困惑と警戒感と不快感が合わさったような声音であった。精一杯礼節を守った彼女の声には、しかしやり場の無い怒りの感情が僅かに混じっているように思えた。

 

 当然であろう。これまでの私の仕打ちが全て意識したものではなく、まして偶然と不運の産物等と言った所で誰が信用するものか。ふざけているのかと敵意を向けられるであろうし、その不愉快な事実を受け入れれば今度はそんな下らない事に翻弄された事実に理不尽を感じざるを得ないであろう。

 

「御気持ちは御察し致します。突然このような世迷い言を語られて信じろ、と言われて誰が信じましょうか?……ですが全て事実です」

 

 一旦言葉を切って、精神を落ち着かせ、続ける。

 

「後はこれを信じるかは貴女次第、私には無理強いは出来ませんし、信じて頂けなくても構いません。ですがせめてもの誠意として、私自身の口禍で貴女と貴女の一族に要らぬ心労をかけた事を御伝えしたいと考えていました」

「そのためのこの席、ですか……?」

 

 儚げに、そしてどこか陰鬱そうな表情で伯爵令嬢は尋ねた。それは搾り出すような声だった。

 

「………」

 

 恋愛遊戯に興味も関心もない私でも殆ど本能的に理解した。ここでかける言葉を間違えたらいけないと。

 

 とは言え、私は恋愛巧者かつ偽名で恋愛攻略本まで執筆していたリヒャルト一世美麗帝のようなやり手ではない。目の前の令嬢が今この場でどのような答えを求めているのかを直感的に理解出来る訳ではなかった。

 

 故にこの刹那の時間、私は貴族として学んだ社交術(女性の取り扱い方編)の知識を脳細胞から掘り起こし、該当する事例を捜索するのだが……。

 

(いや、ねぇよそんな例題っ……!!)

 

 実家の家庭教師もこんな状況想定している訳ねぇだろ!!と脳内で自分自身を罵倒する。糞ったれ!!

 

 私は時間稼ぎに手元のワイングラスを手に取り一口口に含む。舌の上に渋さと甘さの混在する刺激が広がった。その短い所作の間に思考をフル回転して最も適当であろう答えを探し出す。

 

(どうすればいい……?素直にイエスか?静かな所で話したかったって?土下座でもすればいいの?おいふざけんなよ誰か模範解答寄越せよ!!)

 

 そうこうしている内に貴重な時間稼ぎの時間はあっという間に終わる(そもそも数秒やんけ)。

 

 私はグラティア嬢と目を合わせ、咄嗟に謝罪のために、と答えようとする……が。

 

 ……その時私は感じ取った。目の前の一回り以上年下の少女の瞳に期待と不安の感情が滲んでいた事を。それに似た瞳を私は知っている。そう、それは失態を犯した時の、あるいは命令を実行し達成した後に私に向ける『彼女』のそれであり……。

 

 同時に私は何故かすとん、と彼女が現在何を望んでいるのかに気付いた。そうだ、彼女の……彼女の家の立場に立って考えれば何を望んでいるか想像するなぞ簡単な事ではないか?

 

「……いや、梅雨入りする前に貴女とこの庭先で過ごして見たくてね」

 

 次の瞬間に私は自身の回答が少なくとも誤答でない事を理解した。彼女の瞳には明らかな安堵の色が見えたから……。

 

「……このような日に私一人の都合で水を差す話をしてしまい済まないと思っている。だが……今朝の事もあってね、すぐにもこの話をしなければ貴女も不安であろうし、私個人としても今日を楽しめないと思えて……短慮であったと思う。済まない」

 

 そこまでの言葉は考えていた訳でもなく自然と口から吐き出された。自分自身の事しか考えていないのにまるで相手の事を想って行動してしまったという完全なる責任転嫁であった。まるで詐欺師の所業だ。

 

「そう…ですか……」

 

 絞り出すような少女の言葉。しかしその口調からは刺々しさも息苦しさもなかった。

 

 彼女の求めていた事は分かっている。彼女にとって私の謝罪なぞ根本的にはどうでも良い事なのだ。問題は私が彼女に一抹でも好意を抱いているのかどうかだ。それこそ彼女にとっては実家から突き上げを食らう程に死活問題であるのだ。私のせいで苦しめられている事位少し考えれば分かる事であった。

 

「正直な所、御話だけであれば半信半疑であったと言わざるを得ません。だって随分と出来すぎでありますもの。ですが……」

 

 そこまで口にして一旦迷うように考え込み、しかし……次の瞬間彼女は少し高い、しかし品のある声で答える。

 

「ですが……私もケッテラー伯爵家の娘です。そして旦那様に嫁ぐ身でもあります。諸侯の妻たる者、例え最後の唯一人となろうとも主人を信じ、御支えせねばなりません。ならば……恥を忍んで誠意を御見せ頂いた以上、それを信じ、答えるのが私の当然の務めで御座います」

 

 その常に張り詰めていた彼女の雰囲気が弛緩したのを私は気付いた。微笑を称えて僅かにはにかみつつも私を見つめ微笑む。自然な笑みだった。白磁のような肌をし可憐なドレスを着たビスクドールのような少女が優し気で温かみのある瞳で私を見つめる。

 

「あっ……あぁ……はい………」

 

 正直に自白しよう。僅かな時間だけ私は放心した。随分と美人を目にして美形耐性は獲得してきたつもりであったが甘かったらしい。身内でない事もあるが……美男美女の血を何十代にも渡って加えて作り上げた素材、そこにコスト度外視であろう美容法を幼少時より行い磨き上げる。高度な教養とマナーを叩き込み、平民では到底手に入らない華美なドレスやネックレスでその身を飾りたてる。丹念に化粧をほどこして、最後は男性を堕とすために磨きに磨いた声と微笑を使った一撃である。不意打ちであった事もあり流石に私にも内心では動揺を隠せなかった。今の笑み一つのために何十万ディナールの投資がされたのだろうか?ある意味芸術品だ。

 

 美貌というのは存外馬鹿に出来ないものであると再確認した。精神性は兎も角、人間というものは相手の外見のイメージにかなり影響される。大貴族の御令嬢にここまで健気な態度を取られれば常人では平静ではいられない。

 

 同時に門閥貴族が美男美女の血を積極的に混ぜようとする理由も分かる。仕える臣下や領民にとっては美しく品のある女性とアウグスト二世のようなラードの塊とでは忠誠を尽くすにしてもやる気は段違いな筈だ。門閥貴族令嬢の美貌の効果が無いとすれば、それは相手が同性愛者であるか、生まれつき性欲が希薄であるか、あるいは女性という存在を蔑視しているような者であろう。

 

 ……幸運にも怪しまれる前にどうにか私は気を取り直す事が出来た。その後の食事は比較的、和やかな雰囲気であった。最初の方こそ母の話に戻り、私から可能な限り庇いだてるという申し出をしたが……。

 

「御母上の御指摘は一族を取り仕切る御立場としては尤もな事、寧ろ不勉強な私こそ努力し、学ばなねばならぬ身で御座います。御配慮は嬉しく思いますが、今は御気持ちだけ頂戴させて下さいませ」

 

 と言われて丁重に断られ、余程の事でない限り出来るだけ首を突っ込まない事を約束させられた。私は不安げな表情を浮かべたが、それを見た伯爵令嬢は健気に笑みを浮かべて私を安心させようとする。まるで先程までの会話を立場を反対にしたようであった。

 

 その後、より私的な話題に会話は移る。庭園の草花の話に料理の話、学院での話に領地の話、最近流行の書籍や歌劇の話に宮中の噂話へと度々話題の重点は移り変わる。

 

 武門の家柄であるために然程抵抗がないのだろう、私の従軍の話にも会話は飛び火した。流石にR‐18Gな内容(オフレッサーとかオフレッサーとかオフレッサーとか……)は口にする訳にもいかないのである程度誤魔化して話したが、伯爵令嬢は専門用語も多いのに健気にも最後まで聞いてくれた。

 

 私も自慢話が好きな訳ではないために最初の内は控えめに語るだけであったが、こうして良く相槌と質問をしながら武功話を聞いてくれる女性は付き人以外には滅多にいないので途中から熱を入れて長く語ってしまっていた。

 

「余りこのような話、御令嬢には面白くもないでしょう?」

 

 私は途中で我に返り、謝罪するようにグラティア嬢にそう尋ねた。

 

「そんな事はありませんわ。旦那様の御栄達の御話で御座います。武門の家の妻となる以上、その軍功を知るのは寧ろ当然の事ですわ。どうぞお気になさらずお聞かせ下さいまし」

 

 そう言われたら私も最後まで説明するしかない。嘘か真か、女性は別の女性の話をされるのを嫌がるという。ベアトやテレジアの事はぼかしてであるが、私はいつしか長々と自身の軍歴と経験について説明していた。

 

「おっと、流石に話し過ぎましたね。この辺りにいたしましょう」

 

 テーブルの上の料理を粗方食べ終えてしまった所で私は自身を律した。こういっては何であるが、彼女とこうした雑談をした機会は幾度かあったが、今日程に楽しめたのは初めてで当初の予定以上に長くなってしまった。

 

「そうですね。片付けの方は使用人が?」

「ええ、放っておけば準備をしていた者達が戻ってやってくれるでしょう」

 

 ワインボトル一本でならば精々全員で一杯と少し程度しか飲めまい。度数も低く味もあっさりとした物を選んでいるのでまかり間違って泥酔する者なぞいやしないだろう。

 

「そうですか。では……あっ……」

「おっと、失礼」

 

 立ち上がろうとしてふらついた婚約者を私は駆け寄り肩を持って支える。その頬は少し紅潮していたがそれは気恥ずかしさもあるがそれ以上に別の要因があるように思われた。

 

「申し訳ありません。長く話をしていたので……つい、飲み過ぎてしまいました。お恥ずかしい……」

 

 酒気を帯びた顔を少し背けながらグラティア嬢は謝罪する。会話が弾み、酒が進むのは良くある事だ。一応食膳酒ではあるがそれでも三、四杯も飲めば軽い酔いも回ろうというものだ。

 

「成程、これでは散歩は少し疲れそうですね……」

 

 私も自身が僅かに酔っているのを自覚していた。酒精が身体の血行を促進し、僅かに火照らせる。尤もある程度は予想はしていた。だから私は肩を支えたままの姿勢で彼女にこう提案した。

 

「どうです?この後、一つ涼みにでも行きませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 領内には幾つかの河が流れている。その中でも最も大きく長いそれの川辺に私はいた。

 

「私が支えます。どうぞ此方に」

「し、失礼致します……!」

 

 先に停泊した小舟に乗り込み私が手を差し出せば、若干怯えつつも純白の絹で編まれたオペラ・グローブに包まれた女性らしい小さく細い手が添えられる。

 

「失礼」

「え?きゃっ……!?」

 

 私は添えられた手を掴み一気にグラティア嬢を小舟に引き寄せた。小さな悲鳴を上げながら伯爵令嬢は両手で私の腕を掴み埠頭から小さく跳躍し小舟に乗り込む。

 

「い、いきなりはお止め下さいませ……!思わず河に落ちるかと思いました……!」

 

 少しだけ涙目になりながら少女は声を荒げて私を糾弾する。

 

「御謙遜を、御上手な乗船でしたよ?」

「御戯れもお止め下さいませ……!」

 

 とは言え安全対策を完全に行うのならかなり近づいて腰回りに手を添えねばならない。流石に婚約者相手でも直に会った事がそう多くない少女が相手となると憚られる接触だ、勘弁して欲しいものである。まぁ、口にはしないが……。

 

「申し訳御座いませんフロイライン、どうぞ御許し下さいませ」

 

 仰々しく私は胸元に手をやり深々と頭を下げる。家令が主人に向けて許しを乞う礼の仕方だ。流石に冗談であってもこのような礼を婚約者にいつまでもさせられる程彼女の神経は太くない。すぐに「お止め下さいませ!」と慌てて叫ぶ。

 

「いや、いっそこのままにさせるのも一興ではありませんかな?慇懃無礼に主従の礼を取っているのです。このまま御望み通り尻に敷いてやるのも悪い選択肢ではないと思いますよ?」

「おい船頭、煩いぞ」

 

 私は小舟の船尾で櫂を手にカンカン帽姿で待機する食い詰めを詰る。お前さんは護衛と船の操舵をしとけば良いんだよ、特別手当は出すから私で遊ぶな。

 

「え、えっと……」

「これは失礼致しました。いと貴き御身の前でご紹介が遅れました事どうぞ御許し下さいませ。ファーレンハイト、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト二等帝国騎士と申します。ティルピッツ伯世子殿下(エルプグラーフ)・ヴォルター様の下に召し抱えられ食客として忠誠を御誓いしている身で御座います」

 

 船頭とは思えない優雅な一礼をして慇懃に名乗る食客殿である。因みにエルプグラーフとは権門四七家に名を連ねる伯爵家の嫡男を公的に極めて改まった形で呼ぶ際の形式だ。因みにこれが帝室の皇太子なら皇太子殿下(クロンプリンツ)、公爵家の場合なら公世子殿下(エルプヘルツォーク)等と呼ばれる。

 

 グラティア嬢はちらりと私の方に視線を向けた。私が肩を竦めながら承諾の意思を態度で示すと漸くそこで彼女も名乗る。

 

「ケッテラー伯爵家の長女グラティアですわ。ご存知と思いますが貴方の主君、ティルピッツ伯世子殿下(エルプグラーフ)と婚約を結んでいる身ですわ」

 

 宣言するようにグラティアはそう答える。

 

「はい、存じております。貴婦人への奉仕は騎士の義務にして誉れ、お困りごとがあれば何なりとお申し付け下さいませ。騎士道に基づいて助力させて頂きましょう」

「おう、挨拶は良いが私の出番を奪うな」

 

 主人よりも目立つ食い詰め騎士に私は愚痴を入れる。

 

「御安心下さい、『騎士道恋愛(ミンネ)』は既婚者に対して向けても道徳的に何ら問題ではありませんよ?精神的なものですから」

 

 飄々と言い逃れを宣う食客である。因みにより正確に言えば『騎士道恋愛』は忠誠を捧げ奉仕する貴婦人のために自身に試練を課しその精神性を高めていく事に神髄がある。恋愛と言いつつ根本的には主人と下僕の絶対的な上下関係があり、貴婦人への忠誠がために自身の命すら投げ出す奉仕の精神がある事が美徳とされる。そして貴婦人がその見返りに下僕に与える愛はラブではなくライクである。あるいは飼い主がペットを可愛がる事に近いか………。何方かと言えば主従関係の確認に近い所がある。まぁ、そんな事は今どうでも良い訳で……。

 

「いいからお前さんは自分の仕事をしろ。手当出さんぞ」

「それは困りましたね。ではフロイライン、我が主君は些か狭量で嫉妬深いようですので申し訳ありませんが職務に戻らせて頂きます」

「いちいち言葉が多いな……」

 

 本当に忠誠心があるのか怪しい食客は冷笑を浮かべて漸く櫂を漕ぎ始める。木製の小さな小舟は少しずつ河を進み始める。小舟の操舵は案外体力を使いコツもいるが問題ない。軍人はそもそも体力と筋力をつける仕事であるし、特に帝国軍は反乱鎮圧等もあって宇宙艦隊所属の兵士にも陸戦の教練を行っている。ファーレンハイト中佐もまた海上揚陸時に向けての各種小型水上船舶操舵の訓練を受けており櫂を使う経験はある。

 

「さっさと出してくれ、私達は涼みに来たんだぞ?」

「どうぞ、宜しく御願い致しますわ」

 

 私が首元のネクタイを緩めながら、グラティア嬢は日傘を差してそれぞれ食い詰めに出港を命じる。

 

 穏やかな日差しが降り注ぐ中小舟は河を下る。

 

 内陸部であるが故に冬の間に深々と降り積もった雪が少しずつ溶けて河に流れ込んでいた。そのため瑠璃(ラピスラズリ)色に輝き、同時に透明感の強い河の水は夏の入り口に差し掛かろうというこの時期になっても案外冷たい。

 

 暑さが少しずつ近づいているとはいえ、曲りなりにも春である事に変わりはない。川辺には冬の終わりに種子から芽吹いた色とりどりの草花が咲き誇り、幾羽かの蝶が気紛れ気味にその間を舞っている。川中では川魚が群れを作り岩場の影で身を休めていた。

 

 これと言って語る事はない。ただ清涼な山風に身を任せ、静かに移り変わる景色を鑑賞する。昼食で空腹を満たし、酒精で火照る身体にはそれで充分であった。

 

「寧ろ日差しが心地よくて……少し微睡そうな程です」

 

 日傘を差して川辺の草花を鑑賞しながら伯爵令嬢は語る。食膳酒で少し赤らんでいた頬は涼風によって随分と冷えてきており普段の白磁のそれに戻りつつあった。

 

「そうですね、確かに心地よい暖かさです。ん、あれは……」

 

 暫く河を下り続けると反対の川辺の森から何かが姿を現す。

 

「鹿、ですか?」

 

 伯爵令嬢の視線の先には数頭の小鹿が川辺の水を飲む姿があった。此方を警戒しているのか、それとも物珍しいのかちらほらと獣達も視線を向ける。

 

「ああ、そうか……ここは……」

 

 丁度、河を挟んだ反対側は狩猟園であった。他の場所は柵で仕切られているが、ここは河があるので川底に網があるだけらしい。因みに狩猟園の下層で放し飼いされているのは安全な草食獣か小型の雑食獣だけである。アオアシラやイャンクック等の危険な肉食獣は上層の特別飼育地域で有刺鉄線と電気柵に囲まれた森で飼育されている。

 

「ふふ、可愛いですね」

「今年生まれたばかりでしょうね。……そうだ、ファーレンハイト中佐」

「承知致しております」

 

 櫂を漕いで食い詰め騎士が小舟を反対側の岸に寄せる。同時に私は懐から昼食の残り物のパンを取り出した。

 

「何をする御積もりで?」

「いえ、少しね」

 

 元々は野鳥か川魚にやる予定だったが……まぁ良かろう。

 

 私達の小舟が近寄って来たので警戒してビクッと川辺から離れる小鹿達。しかし、次の瞬間私が千切ったパン屑を投げつけてやると反応は変わる。

 

 向こう岸に投げつけられたパン屑に駆け寄る小鹿達は鼻先で臭いを嗅ぐと危険性が無い事を理解して我先に食いついた。

 

 パン屑にありつけなかった小鹿は返す刀でこちらに小さな足で駆け寄って来る。流石畜生の類である、最早そこに先程までの警戒心は欠片も見られず唯々おこぼれを貰おうと群がるだけだ。

 

「きゃっ……!?」

 

 食い意地が張った一頭は河の中に突っ込み水飛沫を上げながら此方に来て早く寄越せやとばかりに口をがっつりと開ける。グラティア嬢は水飛沫に驚き此方へと寄って来た。

 

「大丈夫ですよ、パンが欲しいだけです。ほら、あげて見て下さい」

 

 そう言って私はパン屑を差し出す。グラティア嬢はそれを受け取ると恐る恐ると泳ぐ小鹿に差し出す。小鹿は急いで少女の白魚のような白い掌からパン屑を掠め取った。

 

「わっ……!?」

 

 掌に感じた生暖かい小鹿の舌の感触に、今度こそ驚いた婚約者はのけ反った。そしてそのままドレスのスカートに足を引っ掻けてバランスを崩す。

 

「っ……!失礼!」

 

 こけて怪我をしないように、あるいはそのまま河に落ちてしまう可能性すらあったので慌てて私は婚約者を支える……が次の瞬間バランスを崩した小舟が揺れる。それによって私もまたよろけた。

 

「きゃっ……!?」

「うおっ……!?」

 

 次の瞬間、日傘が宙を回転しながら舞い、水面へと落ちた。私とグラティア嬢は一緒に小舟の上で倒れる。幸い私が婚約者の下になる形でクッションになったため彼女に怪我は無かった……と思いたい。

 

「痛……」

「も、申し訳御座いません……!御怪我は……」

 

 そこまでグラティア嬢は口にして突然口を止める。尤もそれもある意味仕方の無い事だ。彼女が気付いた時には鼻の先がぶつかる寸前な程私と彼女の顔は近かったのだから。

 

 この時、仰向けになっていた私の胸元に婚約者の顔がある状態で倒れていたようだった。恐らく反射的に小舟から落ちないように抱き寄せていたらしい。視線が重なり互いの吐息の温かみが分かる程の近さだ。鼻孔から柑橘類のほのかに甘い香りを感じた。

 

 あー、うん。向こうの実家に知られたらぶっ殺されそう(少なくとも保守的な門閥貴族の娘相手だと婚姻前の不純関係は基本的に向こうの私兵が笑顔で屋敷の扉蹴り上げてお邪魔する案件だ)。

 

「し、失礼致しました……!きゃっ!!?」

 

 半分程現実逃避していた私に対して、ある意味より理性的に反応したのは婚約者の方であった。慌てて飛び跳ねるように私から離れようとする。尤も、これは悪手であったが。

 

 唯でさえ揺れていた小舟で咄嗟に飛び跳ねれば余計揺れるのは当然の事である。結果的に足を解れさせて今度こそ河に頭から落ちかけるグラティア嬢。

 

「ちぃ……!」

 

 私は彼女の腕を掴みそのまま強引に引っ張る。痛いのは我慢して欲しい、河に落ちてずぶ濡れよりはマシな筈だ。尤も、私自身も小舟に落ちそうになるのでそのまま落ちないように身を低くせざるを得ない。つまり何が言いたいかと言えば……。

 

「おい、余計悪化したぞ」

 

 取り敢えずさっきの状況の上下を反対にしたような状況になった訳だ。流石に私が未婚の淑女の胸元に突っ込むなんて事はないが……所謂床ドンみたいな位置関係になっていた。いや、船ドンというべきか……?

 

「あ…あうあ……」

 

 私が下らない事を考えていたのとは反対に船ドン?される側は当然正気ではいられなかった。私の目の前にいる御令嬢は頬を赤く染め、不安と怯えで目元を潤ませて声にならない声を漏らしていた。うーん、歳の差もあってこれは事案だ。ひょっとしなくても見る者が見れば完全にレから始まりプで終わる事を実行しようとしている糞貴族だ。とは言えここから再度勢いよく飛び跳ねて無限ループを行う訳にも行くまい。

 

「御無礼、御許し下さい。舟が揺れておりますので収まるまで御容赦を」

「ふぇ……?、ひ…ひゃい……」

 

 緊張と怯えと恐怖から若干訛ったような口調で伯爵令嬢は答えた。尤もそれを嘲笑う程私も性格は悪くもないので指摘はしない。

 

「ほぅ、若様も中々食い意地が張っておいでのようで……」

「お前河に突き落とすぞ」

 

 耳元で楽し気に囁いた臨時雇用の二等帝国騎士を私は罵倒する。実際伯爵令嬢に聞こえるような声だったら突き落としていた。酷い風評被害だ。

 

 ……どれ程の時間が経ったろうか。揺れる小舟の上で互いに黙ったきりで固まり続ける。唯相手の視線が気になるのか互いの目だけは見つめ合っていた。

 

 小舟の揺れも収まり漸く私は婚約者の上から身体をどかした。そそくさに婚約者は上半身をあげて小さく礼を言ったっきり目も合わせずに崩れた髪の手入れを行い、食い詰め騎士が回収した日傘を受け取るとそのまま畳んで隣に置いた。当然何も口にしない。……まぁ、ある意味当然の反応ではある。

 

「ん?おいこら離せ、しゃぶるな」

 

 取り敢えずまだ食い足りないのか泳ぎながら私の礼服の袖に噛みつきしゃぶり回す小鹿の頭にデコピンを加えてやった。小鹿はぐへっ!と言った風体で小さい鳴き声をあげてしゃぶっていた袖を吐き捨てる。おい、何だその目は、畜生の分際で生意気だぞ。はぁ………。

 

 私は内心で溜息をつきながら伯爵令嬢の方を見る。あ、また目を逸らされた。

 

「………」

 

 うん、空気重い。故意ではないとはいえ、いきなり船ドン(仮称)なんかされれば空気も重くなろう。少し前まで朗らかだった空気が今では碌に会話も出来なくなってしまった、畜生。

 

「……若様、そろそろ小屋に着きます。下船の準備を御願いします」

「マジか……」

 

 視線を向ければ船着き場に河にかかる橋、それに狩猟園側に建てられた休憩用の小さな小屋が見えて来た。即ち舟遊びの終わりである。予定では出迎えの馬車が来るまで小屋で待機する筈であったが……。

 

(予定では明るい雰囲気で終わる予定だったんだけどな……)

 

 いつも綿密に計算しても想定外の事態で台無しになってしまう。全く持って腹が立つ。

 

「延長は……無理だな。仕方ない」

 

 後は馬車が来るまでに少しでも機嫌を直してもらうしかあるまい。

 

 小舟が船着き場に着岸する。食い詰め騎士に労いの言葉をかけた後休憩と馬車を待つ予定を少女に伝え、小舟を降りるように頼み込む。よそよそしくも承諾してくれた伯爵令嬢に手袋をした右腕で降りるのを手伝う。

 

「………」

 

 一瞬手袋越しで差し出された手を見つめ立ち止まるが、すぐに伯爵令嬢はその機械仕掛けの掌に自身の手を添えた。

 

 狩猟の休憩所である小屋は然程大きくない。精々が一階建ての寝室を含めた数室、内装も程々と言ったものだ。下手しなくても平民の家より小さい。無論、そもそも一時休憩用の部屋と生活の基盤たる家を同列に語るのは可笑しいのだが。

 

「何か御飲みになられますか?」

「いえ、結構ですわ」

 

 小屋に設置されていたソファーに座り込むグラティア嬢。足を閉じ、両手を膝の上に置いて、時たま崩れた髪形を直し、髪に触れる。そして伏し目がちにちらほら此方を見つめる。……うん、ひょっとしなくても気まずい。

 

「その……先程の事は改めて謝罪致します」

 

 私は対面のソファーに深く腰掛けた後、謝罪する。誠意を見せるにしても立っていると圧力を感じるであろうし、土下座されても逆に引くだろう。此方が気分を害して襲い掛かって来ないように(あるいは襲うのにタイムラグを作るために)少し距離のあるソファーですぐに立ち上がれないように深く座る必要があった。

 

「先程の事は……」

 

 何か口にしようとするがすぐに黙りこくる伯爵令嬢。当然ながら碌に男性耐性なぞ無かろうし、まして上に乗りかかられるなんて経験なぞある訳ない。かなり内心では動転しているように思えた。

 

「故意ではなく事故ですが……御気分を害されたでしょう、申し訳御座いません。餌やりなぞ言い出したのが軽率でした」

 

 私の謝意は決してやり過ぎではない。同盟人相手ならラッキースケベやらサービスタイムなぞとほざきビンタ一つで済んでも帝国貴族令嬢にとっての純潔と風聞は何気に死活問題だ。

 

 帝国貴族総処女厨という訳ではないにしろ、そもそも帝国ではお見合いや政略結婚が全体の九割を占めているし、オーディン教の教義では貞節の重要性を説いている(連邦末期の文化的・性道徳的な退廃からルドルフの命令によって再編されたオーディン教団は道徳教育に注力していた)。帝国社会的に婚前交渉や不倫は極めて不潔で無礼だと敵視されている行いだ。

 

 そして、貴族階級は一族の血を残し家を守らなければならないのだ。確実に自家の血統を残すために嫁の清廉と貞節を重視するのは当然だった。故に特に保守的な貴族は婚前までは相手に触れない精神的恋愛に拘る家が多く、宮廷やパーティー以外の場所でどこの馬の骨とも知れぬ男の元に娘を晒す事を厭う者も多い。

 

 それに性質は遺伝するという(似非)遺伝学的意識が強く、緩い女性は親族や子孫もそうであるのではないか?と差別的な目で見られる。そうなったら洒落にならない。母親や本人の素行一つで娘の嫁入り候補全滅なんて事もあるし、そうなったら貴族としては詰みだ。結婚して子供を作れないような令嬢にどれ程の価値があるか……少なくとも大抵の場合は世間に隠して飼い殺しされる(尚、当然の如く男側は経済的に豊かで認可のある者は妾を囲う事多いのでひょっとしなくても男女差別である事に触れてはいけない)。

 

 その点、何もなかったとはいえ舟ドン(仮称)は当然のように奨励されるものではなかった。ケッテラー伯爵家にとっても虎の子の政略結婚の駒でありその取扱いにはかなり注意していた筈だ。男性耐性が低いであろうし、相当恐怖を感じただろう。それ故の謝罪だった。

 

「お、お気になさらないでください。アレが事故である事は承知しております。それに……」

 

 伏し目がちの顔をあげてグラティア嬢は続ける。

 

「その……あの時お助け頂いて二年前の事を思い出しておりました」

「二年前?……ああ、あの時の事ですか」

 

 グラティア嬢が言うのは十中八九、サンタントワーヌ捕虜収容所でのあの騒動の事であろう。

 

「あの際もあのように御守り頂きましたね」

「あの節は申し訳御座いません、余りに緊急の事でしたから」

 

 流れ弾やガラス片が飛んで来る可能性もあった。無礼を承知でも覆いかぶさるしか安全を確保する手段は無かったのだ、勘弁して欲しい。

 

「承知しております。……そうでした、旦那様。私も非常に非礼な事をしている事に気が付きました」

「ん……?」

 

 優し気に目を細めた小柄な少女が私と目を合わせる。そして何の事を言っているのかよく分かっていない私を見て小さく口元を綻ばせた。

 

「あの時、身を挺して私を御守り頂き誠にありがとう御座いますわ。ふふ旦那様、これで互いに非礼を行いました。御相子で御座いますね?」

 

 そう言って無邪気な子供のようにはにかみ笑う少女。それは食事中に語った私の非礼と小舟でのアクシデント、その双方の過失を不問にする、という事を暗に示していた。

 

「……勿体なき御言葉です、フロイライン」

 

 そしてその寛容な言葉に、私は苦笑して同じように頭を下げたのだった。

 

 気付けば小屋の外では迎えであろう馬車が近づく音が響き始めていた………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 尚、その後屋敷の撞球室にて…………。

 

「そう言えば若様、惚気話も結構ですがもうすぐ御屋敷から脱走する頃合いです。その事をご婚約者に御伝えしてご了承は得られましたかな?」

「………ミスった」

 

 私は最後の最後に事態を悪化させただけだという事に気付いたのだった。




信頼が高くなれば高くなる程裏切られた時の衝撃と絶望は大きくなると思うんだ(唐突なフラグ立て)

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