帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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第百三十八話 躾の加減は時代によって変わる

 少なくともゲームは決して退屈なものではなかった。いい歳こいて子供っぽいと言われるかも知れないが、フェザーン製の帝国貴族用の最高級の人生ゲームは最後まで勝敗が分からない博打性に加え、濃厚なストーリーと高いクオリティを有したものであるし、それ以上に共に遊ぶ幼く純粋な妹の素直に楽しむ姿を見ているだけでも十分過ぎる程に満足出来た(変は意味はないぞ?)

 

「あっ!おにいさま。しょうえんちょうだい」

「アッハイ」

 

 止まったマスの指示に従い侯爵閣下な妹に荘園の献上を要求される私(男爵)である。うん、別に気にしてないよ?(白目)

 

「あ、すみません。……御屋敷を頂いても宜しいでしょうか?」

「……喜んで」

 

 今度は孔雀石の賽子を振り圧力イベントマスに止まった伯爵様なグラティア嬢から屋敷の献上を要求される。田舎の貧乏男爵は肩身が狭いなぁ。門閥貴族達が派閥を作る訳だよ、群れずに油断していたら法律とブラスターライフルで武装した諸侯に満面の笑みで財産を要求される。そりゃあ面倒見と気前の良いブラウンシュヴァイク公が持て囃される訳ですわ。

 

「まだだ、まだ死んだ訳じゃないぞ。一発逆転の機会は幾らでもある……!」

 

 ソファーに座った私は輝石から削り出して作られた賽子をマホガニー材のテーブルの上で転がす。狙いは三か五だ。前者は昇爵イベントが、後者は鉱山事業成功で大量の株式の配当があるのだ。

 

「あ、りょうちでさいがいはっせいだって。ふっこうのためにしさんきりくずしてって」

「ガッデムっ!!」

 

 何故だ、何故そこで四が出る!?死ねと?死ねというメッセージかこの野郎!?毎日祈ってやってるんだ、少し位運気寄越せや糞大神野郎が!!

 

「つぎわたしねっ!!えーと……あ、てんれいしょうしょににんめいだって。グラティアさまつぎどーぞ」

 

 駒を進め栄達を続ける妹は次のグラティア嬢に賽子を渡す。なぁ、私達兄妹だよな?もう外聞とかどうでもいいから養ってくれない?駄目?ですよねぇ。

 

「私ですね。これは……」

 

 妹から受け取った賽子を振る伯爵令嬢。その出目に従い駒を進めていき……そのマス目の内容に一瞬沈黙した。

 

「ん?えっとこどもをひとりとつがせてって。だれにする?」

 

 マス目を覗いて内容を口にしたナーシャが尋ねる。彼女の駒を有している子供の内から娘を一人ほかのプレイヤーの家に嫁がせるイベントであった。このイベントは相手の家格の差によって若干の違いがあり、基本的に娘嫁を出す家は相手の家格が上の場合は持参金を持たせ、相手の家格が下の場合は結納金を受け取る事になっている。

 

 これは帝国における結婚事情と同じだ。一つには極端に階級差のある者同士の婚姻を抑制する意味がある。特に階級が格下の男性が求婚してきた場合に振るいとして機能する。馬鹿げた額の結納金を要求する事で相手の経済力や才覚を見定めるのだ。当然その程度の事も出来ない者に娘を預ける者はいない。

 

 また嫁ぐ立場からすれば持参金や結納金はある種の嫁ぎ先に対する人質であり、離婚時に夫に瑕疵がある場合は慰謝料代わりに持参金を数倍に上乗せして、結納金の場合は返還せずに済み、花嫁の嫁ぎ先での立場を補強する材料となる。

 

 因みに支度金を受け取ると言うものは帝国人にとっては恥に等しいものだ。嫁ぐに際して持参金も用意出来ない家に対して夫の家が恵む物であり、娘の実家からすれば対等ではなく、嫁ぎ先での立場を保証出来ない事を意味する(逆に言えば身分に差があろうとも持参金や結納金があれば一応形式だけでも嫁ぎ先と関係は対等であると言える)。人身売買……とは言わずともある意味身売りに近い。煮るなり焼くなり好きにして下さいと言う訳だ。大抵の場合平民等から豪商や貴族に妾になる事を強いられた場合に多い。

 

 そりゃあ金髪の孺子がぶち切れる訳だわな。痴愚帝様は後宮に寵姫を納めさせる際に多額の持参金を要求したそうだ。痴愚帝はやり過ぎだとしても大抵の場合後宮に上がる娘は良い所の令嬢なので持参金を背負って召し上げられる。

 

 当然、後宮での扱いやマウント勝負は持参金の多寡(と身分であるが大体両者は比例している)で決まる。持参金を出す所か逆に支度金を下賜される程貧しく情けない家柄なぞ下手しなくても運が良くて孤立、場合によっては虐めの対象であり、下手したら宮中の陰謀に巻き込まれた末に蜥蜴の尻尾切りされかねん。ミューゼル家は確か歴史も浅く血縁も少ない筈、頼れる者もほぼいないだろう。

 

 陰謀渦巻く後宮でそれは殆ど死んで来いって言っているようなものだ。……いや、あの孺子の場合だと持参金を出せる立場でも普通に駄々こねそうだけどな。

 

 逆にあの姉貴はそんな底辺から良くも成り上がったものである。本人の気質を知る者や近い場所にいる者なら兎も角、縁無く、遠くで見聞きしている者達からすればがつがつしたハングリー精神の塊にも見えただろう。ベーネミュンデ侯爵夫人が毛嫌いした一因かも知れない。皇帝から、というよりも姉貴から迫っているように見えても可笑しくないのだ。

 

「えっと……あの………」

 

 話を戻し、マス目の指示に難しそうに悩むグラティア嬢だった。それはゲームそのものではなく、より現実的な意味で悩んでいるように見える。ちらり、と一瞬私と視線を合わせてすぐに俯くように下に落とす。

 

 ゲーム的に言えばこれは資産巻き上げイベントである。自身より下の者に娘を嫁がせて資産を結納金としてごっそりと貰う訳だ。ゲームだけ考えていれば選択肢はほぼ私狙いになるであろうが……。

 

(まぁ、言いにくいだろうな……)

 

 彼女の立場はある種の人身御供だ。階級はほぼ同じなので仮に式を挙げれば持参金と結納金を双方が交換する事になる(大抵の場合双方が見栄と家庭の力関係のためにより高額を支払おうとする)。だが現実には殆どティルピッツ伯爵家にケッテラー伯爵家が頭を下げ援助を受ける形であり暗黙の内に上下関係は出来上がっている事だろう。

 

 そんなケッテラー伯爵家の人質役の小娘が私に『娘を下賜』し、莫大な『結納金』を支払わせようというマウントを取りに行くような真似をゲームであれ口に出来る訳がなかった。

 

 貴族は生まれながらの権力者だ、故に口にした言葉一つでいらぬ勘繰りをされてしまう。言葉は大事に使いなさい、口は災いの元……その手の躾は貴族であれば幼少期から受けていよう。そんな事は口が裂けても言えない筈だ。

 

「……ここはゲームのセオリーでいえば私がお受けするべきなのでしょうね。結納金はこれだけで結構でしょうか?」

 

 なので、私は自身から話を進める。持参金に本物の純金や白金で特別に鋳造したゲーム用貨幣を幾枚か、それに債権と株式の権利書(の玩具)を婚約者のテーブルに移動させる。伯爵家の御令嬢を受け取る事が出来るギリギリの資産だ。私の手持ち財産余り無いから許して……。

 

「えっ……は、はい。えっと……此方、御譲り致します」

 

 一瞬、話を理解出来なかったのかぽかんとしていた婚約者は、しかし慌てて承諾の返事をする。そのまま手元の娘の駒(象牙製に鼈甲のティアラが装飾されている)を差し出す。

 

「ええ、丁重にご家族に迎え入れさせて頂きますよ」

「は、はい………」

 

 恐縮そうに伯爵令嬢は答える。……あ、ミスったな。今の言葉は意味深げに聞こえるか……私も大概舌禍ばかり引き寄せるな……。

 

「とは言え、此方は貧乏男爵ですからね。伯爵家の御嬢さんに満足して頂ける生活をご提供出来るかは怪しいものですが」

 

 私は冗談めかして会話をそう続ける。あくまでも純粋にゲームの事を口にしただけというメッセージだ。これで誤魔化せれば良いのだが……。

 

「?わたしたちのいえってはくしゃくじゃないの?」

 

 不思議そうに妹が横槍を入れて来た。……おう、急にリアル持ち込むな。

 

「今のお言葉はゲームの内容ですよ、アナスターシアさん。……旦那様は今は男爵の駒ですからね」

 

 一瞬だけ重い沈黙が場を支配した。しかしすぐに伯爵令嬢は妹にやんわりと誤解の修正を行う。私の呼び方に少し迷ったようにも見える。

 

「あ、そうだった。ねぇねぇ、グラティアさまはいつおよめさんにきてくれるの?おとうさまがいってたよ?およめさんにきてくれたらわたしのおねえちゃんなんだよね!」

 

 楽し気に話す妹とは正反対に私の方は胃袋がキリキリしてきていた。うん、気持ちは分かるよ?けど今は止めような?お願いします、突っ込まないで……。

 

「それは……申し訳ありません。まだ諸事情があるので正確には……」

 

 少し困ったような微笑みを浮かべて答えるグラティア嬢。彼女からすれば複雑な心境であろう。寧ろ一番気にしているのは彼女であろうから。妹の純粋無垢な瞳が見ていて居た堪れない。

 

「そうだな、今は父上も御忙しいから……今のお仕事が終わった後にまた色々と調整が必要かな……?」

 

 私は妹の頭を撫でて、伯爵令嬢の方を見つめる。私が妹を誤魔化すためのフォローを入れた事は理解しているようで安堵したように小さく息を吐いて頭を下げる。それに答えるように私は何とも言えない笑みを浮かべた。

 

「あら、随分と楽しそうねぇ?私だけ除け者なんて妬けちゃうわ」

 

 刹那、背後から響いたその声に弛緩しつつあった場の空気は一気に冷えきったのだった………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、随分と楽しそうねぇ?私だけ除け者なんて妬けちゃうわ」

 

 その声はフルートの音のように優し気で、それでいて有無を言わさぬ重苦しさが併存しているように思えた。

 

 私はゆっくりと体を振り向かせる。途中、妹も伯爵令嬢の表情を覗き込んだ。その顔は確かに恐怖で血の気が引き青くなっていた。貴族の血は高貴な蒼き血……等というがこれでは本当に青い血液が流れていそうだとすら思える程だった。

 

「……母上」

 

 私は部屋の入口で佇む肉親に殆ど漏れ出すような声でそう呟いていた。背後に幾人もの小間使いや侍女、執事を侍らせた(その内若い者達は妹同様に顔を青くしていた)中年とは思えない美貌の夫人。

 

 しかし私には分かっていた。その女神像のような微笑を浮かべる表情の内側にどれだけの激情が漏れ出しているかを。氷のように冷たく、しかし溶岩のように苛烈なその感情が誰に向けられているのかを。

 

「あ……」

 

 小さく、本当に小さく漏れ出たその悲鳴を私は聴いた。その声の主は正に今怒りの矛先を向けられている少女である事に疑いの余地はない。私は寧ろ称賛すらしていた。戦場に出た経験もないであろう少女だ、下手すればその視線だけで気絶してしまうのではないかと本気で思えたからだ。

 

(不味いな………)

 

 不機嫌になる可能性は高いとは思っていたがここまで逆鱗に触れるとは思って無かった。私の想定は余りにも甘すぎたようだった。

 

(私とグラティア嬢は逃げる訳にはいかないか。ならば避難出来る者だけでも逃がすべきか……)

 

 私は取り敢えず被害軽減のために妹の避難を優先する事にした。

 

「……ナーシャ、自分の部屋に戻って勉強でもしておきなさい、良いね?悪いけど遊びの時間は終わりだ」

 

 静かで、それでいて余りに冷たく思えるこの状況で、私は無理矢理口を動かして妹にそう伝える。

 

「えっ……けど……」

「ナーシャ?」

 

 私が強く名前を呼ぶと黙りこみ、此方を窺いながら小さく首を振る。良い子だ。

 

「ナーシャは私の付き添いです。こんな話に巻き込む必要もない筈です。でしょう、母上?」

「……ヴォルターがそう言うならまぁいいわ。早くお行きなさい?」

 

 少しだけ考え込み、しかし母は最終的には私の意見に賛同する。母としても必要以上に娘を責める理由はないし、年が年なので然程ちゃんとした会話は出来ないと思ったのだろう。幼い娘の戦線離脱を許可した。

 

「あ……ぅ……ばいばい」

「ああ、ばいばい」

 

 侍女達に誘導されてナーシャがサロンを出る。退席直前に不安げにこちらを見つめ、手を振ったので安心させるために小さく手を振り返しておいた。

 

「……さて、お話を再開しようかしら?」

 

 妹の姿が消えてから、心底不快げに母が話を切り出した。扇子を広げて口元を隠す。その目は尋問をしようとしているように見えた。

 

「グラティアさん。これはまた、私の知らない間に随分と子供達と仲良くしていたようね?」

「えっ……は、はい。このような機会も中々御座いませんので友誼を深められたらと思いまして……」

「あらそう」

 

 グラティア嬢の丁寧な説明に、しかし冷淡に、そして興味のなさそうにそう答える母。

 

「けど……少し身勝手ではありませんかしら?確か家の娘はヴァイオリンの練習をしていた……筈だったわよね?ヴォルター?」

 

 優しく、しかし問い詰めるように母は尋ねる。

 

「ええ、しかしその点については伯爵令嬢の責任ではありませんよ。練習が少々疲れてしまいまして、気晴らしをしていた所でした。その際に彼女にも参加を御願いしただけの事ですよ」

「そう……」

 

 疑るようにグラティア嬢を見つめる……というよりも睨み付ける母。

 

「母上の御気持ちは分かります。演奏の練習を途中で投げ出してしまいましたから。その点については謝罪致します」

 

 そう言って私は謝意を伝えた。

 

「……いいえ、ヴォルターは良いのよ。………話は変わりますが、丁度良いわね。昨日の事ですけれど、グラティアさんはどちらにおいでに?」

「えっと……」

「どちらに?」

 

 再度追及の矛先が婚約者に向かった。昨日の事を口にするべきか彼女も判断しかねているようで若干迷う素振りをして、答える。

 

「その……庭先の散歩を……」

「御一人で?」

「それは……」

「……私の方から御誘いさせて頂きました」

 

 見ていられないので私は婚約者を庇いだてする事にする。どの道呼んだのは私だ。嘘ではない。私は視線でグラティア嬢に話を合わせるように伝える。 

 

「ヴォルターが?」

 

 怪訝そうに母は私を見つめる。

 

「はい、折角私の御見舞いのために此方に来て頂いたのです。お手数をお掛けした事になりますからせめて私が直々に客人に対して庭先の案内をしたいと思いまして。丁度梅雨入りの時期ですから暫くは雨ばかりです。その前に一度見てもらおうかと」

「ふぅん……本当に庭先を散歩しただけ?」

 

 私に更に追及の手を伸ばす母。うーん変な所で勘がいい人だなぁ。

 

「……食事や川下り等もして持て成さして頂きました」

「……へぇ」

 

 明らかに母の眼差しに意地の悪い光が差し込めた。

 

「ヴォルターの気持ちは分かりますけど、余り軽挙は頂けないわよ?賢い貴方なら自分の立場は分かっているでしょう?怪我の療養もあるのです。無理をしてはいけませんよ?」

「……承知しています」

 

 母にとっては私は唯一の直系の跡継ぎだ。愛情が無い訳ではない。私の我が儘をいつも最終的には呑んでくれるのがその証明だ。しかし同時に自身のためにも勝手な行動はして欲しくはないのが本音だろう。特に相手がグラティア嬢となると……。

 

「御心配をおかけして申し訳ありません母上。自らの立場を考えぬ浅慮で御座いました」

 

 取り敢えず私は素直に謝罪する。ここで母に不必要に逆らい事態を悪化させても何の益もない。下手に反発しても悪目立ちして伯爵令嬢にも飛び火しかねない。 

 

「良いのよ。外で食事というのも悪くはないわ。雨が止んだら今度ナーシャも連れて三人で川下りもしましょうか?それよりも……」

 

 と切り返すように次の瞬間には母はグラティア嬢に再び標的を変えた。

 

「ヴォルターが御誘いを?」

「は、はい。大変良く持て成して頂きました。良く配慮が行き届いており、流石伯爵家を御継ぎになられるお方だと思い感服致しました」

 

 お世辞半分に少しだけ慌て気味に伯爵令嬢は答える。婚約者として私を立てるのは当然であるし、可能な限り私を立てて敵意を剃らしたい意図が見えた。だが……ある意味ではこれは悪手であったかも知らない。

 

「そう、それにしては随分と貴女は怠慢な事ね?」

「えっ……?」

 

 その言葉にグラティア嬢は困惑した。何故責められたのか分からなかったからだ。

 

「あら?気付かないのかしら?随分と御一人で楽しんでいたようねぇ……」

 

 粘り気のある声で小さく嘲笑の笑みを浮かべて続ける。

 

「察しが悪いようですから特別に教えてあげましょう。貴女は見舞いに来た立場、即ち……未来の夫を支える立場なのよ?その自覚が足りな過ぎると言っているのです」

 

 この上なく不快げに、そして不満げに表情で母は説明を……いや、糾弾を始めた。

 

「ヴォルターは戦傷をしてまだ万全ではないのよ?それを無理を押して貴女のために散歩を提案したの。本来ならばヴォルターの身体のために気分を害されてでも遠慮した方が良いでしょうに。その程度の配慮も出来ないのかしら?」

「あっ……」

 

 それは殆どこじつけに近かった。しかし、その剣呑な眼差しに婚約者は反論も出来ない。

 

「それは……!」

「それだけではないわ。まさかとは思うけど護衛は十分つけたのでしょうね?警備の責任者から何も知らせも受けていないのだけれど。それに散歩自体私は何も聞いていないわ。ヴォルターは我が家の唯一の嫡男よ?代理当主の私への言付けの一つも出来ないのかしら?ああ、何よりもその事をどうしてヴォルターに尋ねて見なかったのかしら?従順だけならどんな木偶にでも出来るわ。夫を立てるのは当然として見落とていないか然り気無く尋ねる事位は最低限出来る筈よね?」

「母上……!」

「ヴォルターっ!少し黙っていなさい!!私はこの小娘に教育をしてあげているのよっ!!」

 

 その怒気を含んだ声に流石に私も少したじろいだ。私ですらそうなのだ。敵意を向けられている伯爵令嬢は肩を震えさせ、母のその迫力に顔を恐怖の色に染め上げていた。僅かながらその瞳も潤ませていた。とは言えその程度は母の同情を買う事は出来なかった。

 

「あらやだ、嘘泣きかしら?およしになさい。みっともない!それとも同情でも誘っているのかしら?そんなものにほだされる程私は甘くないわよ?」

「あ、いえ……私は…決してそんな事は……!!」

 

 必死に弁明しようとする婚約者をしかし、一瞥して母は責め立てる。

 

「ふんっ!どうかしらね?私からしてみればこんな事で泣かれても困るのだけれど?武門の誉れ高いケッテラー伯爵家に生まれてこの程度の事も飲み込めずにお泣きになるとは何事ですか?一体どんな教育を受けて来たのかしらっ!!?……ああ、そうだったわね」

 

 ここで態とらしく思い出したと言った風情で母は口元を釣り上げる。それは獲物をいたぶる猛禽を思わせた。

 

「半分は武門は愚かお里の知れるような係累だったかしら?まして御父上は確か若くして御亡くなりになったのでしたわね?と言う事はお母様から御指導されたのでしょう?なら納得ですわ。さぞかし素晴らしい教育をお受けになられたのでしょうね?」

「母上!言い過ぎです!!落ち着いて下さい……!」

「だ、旦那様……!お止め下さいませ……!伯爵夫人の御言葉は御尤もで御座います……!私は気にしてはおりませんので……!」

 

 母の罵詈雑言を止めようとする私をグラティア嬢は制止しようとする。後になって思えばあるいはこの時点で彼女は薄々と最悪の事態を想像していたのかも知れない。私の行動が火に油を注ぐ行いと気付いてそれを食い止めようとしていたのかも知れない。尤も、視野の狭い私の方はそれに気づく事が出来なかったが。

 

「……っ!?あ、あら、私の指導なんて気にしないのね?これはまた随分と大きく出たわね?」

「それは……!」

 

 私が噛みついて動揺していた母は、しかしすぐに私を相手するのではなく婚約者に絞って叩こうという戦略に出ていた。言葉尻を捉えるような追求。しかし貴族にとって言葉は重い意味を持つ。安易な言葉遣いはその者の教養と思慮不足を晒す事である。

 

「本当、どういう教育を受けて来たのかしらね!?言っておきますが我が家は貴女の実家程甘くはありませんからね!こんなのが家の子の婚約相手だなんて……!これで社交界で本当にやっていけるのかしらっ!?ヴィレンシュタイン家は男に色目ばかり使う不良品を押し売りでもして……」

「母上っ!!」

 

 遂に私は母の言葉を怒鳴るように遮った。

 

「今の言葉は何ですかっ!?幾ら母上でもその御言葉は見過ごせません!私の婚約者をそこまで貶めるとは何事です!!?貴女にそんな権利が御有りですかっ!?今すぐ訂正を御願いします……!!」

 

 私自身その態度は悪手ではないかと危惧はしていた。しかし流石に母の口にした言葉は言い過ぎだ。余りに度を越している。本人だけでなく親や先祖まで掘り返して詰るなぞ相当であるしグラティア嬢の行いから考えるとその扱いは酷すぎる。知らぬ所でなら兎も角目の前でここまで罵倒されれば彼女の名誉のために私は口出しせざるを得ない。

 

「……!!?」

 

 私は母から敵意を向けられると思っていたが実際に返ってきたのは驚愕と困惑の視線であった。私の口出しに対して信じられないといった態度だ。恐らくここまで私が強く反発するとは思わなかったのだろう。

 

「ヴォルター!?どうして……!?どうして貴方がそんな事を言うの……!!?」

 

 悲しげな感情すら浮かべて母は叫ぶ。ここまで私が食い下がるのは想定外だったのだろう。寧ろ私からすれば想定外だったのは母のリアクションだが。

 

「母上こそ落ち着いて下さいっ!!折角見舞いに来た客人にこのような態度でもてなすのが我が家の流儀ですかっ!!?他の家の噂になりますよ!?」

「それはっ………!?」

 

 苦い表情を浮かべる母。流石にややこじつけの色が強く言い過ぎな事は自覚しているのであろう。返答に詰まり視線を逸らす。

 

「だ、旦那様……」

「申し訳ありません。このような所を御見せしたくはなかったのですが……」

 

 怯えたような不安な表情を浮かべる婚約者に、私は苦味のある微笑みを浮かべて謝罪する。

 

 ……しかしこれは失敗だった。謝罪は必要であったが少しタイミングは悪かったかも知れない。あるいは彼女の私への呼び方に媚びた印象を受けたのだろうか?こういう時はどんな行動も悪く見られるものだ。

 

 ……兎も角も、我々が地雷を踏んだのは事実だった。

 

 次の瞬間、私から逸らしていた視線を、母は憎悪に溢れた眼光と共に伯爵令嬢に向けていた。

 

「ヴォルター……そう……貴女……貴女ね……?私の大切な家族に……可愛い子供達に見境なく媚びを売って誑かして……!!何て手が早いのかしら……!?」

「えっ……?」

 

 グラティア嬢は自身に一層濃厚に向けられたその感情に困惑していた。

 

「母上……!いい加減にして下さい!流石に客人に無礼過ぎますよ……っ!?そんな事も御分かりになりませんかっ!!?何があったんですか……!?」

 

 私は声を荒げて母の敵意を非難する。実際、母のその思考にうんざりしていた面はあるがそれ以上に恐らくは私自身の伯爵令嬢に対するこれまでとこれからしなければならない行いによる負い目がその敵愾心を煽っていた。

 

「……!?」

 

 私の今日一番の鋭い視線に一瞬母は驚愕し、戦慄し、衝撃を受けたように思えた。

 

 顔を蒼褪めさせて信じられないと言うような表情を浮かべる母は、しかし次の瞬間には肩を震わせて客人を射殺さんばかりに睨みつける。私が生まれて初めてあからさまな憎悪を向けた事が相当衝撃的であったのだろう、そして母はそれが目の前の小娘の差し金であると判断したらしかった。

 

「よくも……よくも子供達を……私の子供達を……!!盛りついた牝猫めっ!」

 

 顔を紅潮させ、母は到底客人に向けて口にするべきではない言葉を吐いていた。明らかに母は頭に血が上っていた。日頃からのストレスに私の(母の目から見た)裏切り、そして客人の小動物のように縮こまり怯える姿すら癪に障っていたのだ。そうでなくとも高貴な生まれであり我慢なぞ……特に彼女が自身より下と考えている者に対して……殆どした事が無かったし、少なくとも彼女は立場的にグラティア嬢に対して遠慮する、という考えは埒外の事であった。

 

 それが母に一線を越えさせる事になった。

 

「私から……私から大切な家族を奪わないでっ!!早く……早くこの部屋から出ていきなさい!!出ていけっ!この淫売の女狐!!」

 

 これまで聞いた事のないヒステリック気味に、金切声に近い悲鳴を上げる母。恐らく衝動的であった事だろう。若干血走った母の視線は偶然傍に置かれていたアンティークな馬の置物に目が移っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「っ………!!」

 

 あるいは別の置物であれば良かったのだろうか?少なくとも馬の置物なのが余計に母の怒気に触れたのは間違いなかった。ケッテラー伯爵家の家紋は一角獣だ。その事を咄嗟に思い出した母は条件反射的に息を飲み顔を青くする。

 

 母は殆ど反射的に母はそれを掴んでいた。そして怯えと怒りをその眼に浮かべて……。

「奥様……!?」

 

 咄嗟に家政婦長と数名の侍女が母の凶行を止めようと駆け寄り抑え込もうとする。だがそれは少し遅かった。次の瞬間には母は手に持つそれを乱雑に投げつけていた。

 

「きゃっ……!?」

 

 恐らく敢えて狙った訳ではなかっただろう。だが偶然にも狙いをつけずに投げたそれは明確に伯爵令嬢を狙い済ましていた。そして彼女自身はいきなり固形化して向けられた敵意に怯み足を竦ませてしまっていた。

 

 放物線を描きながら飛ぶ銀塗りの馬の置物。恐らくはブロンズ製に銀箔を張り付けた物だろう、当然ながらぶつかれば死ぬ可能性は低くとも怪我をしかねない。故に……。

 

「っ……危ない!」

 

 私は咄嗟に両者の間に割って入った。伯爵令嬢の守るように盾になる。客人を怪我させる事も婚約者を怪我させる事も貴族社会では十分に醜聞であったし、それ以上に自身の問題で無関係な伯爵令嬢に傷つける訳にはいかなかった。

 

 次の瞬間、室内に鈍い音が響いた。衝撃が私の頭部を襲い、次いでゆっくりと、そしてじんわりと焼けるような鈍痛が広がる。視界が揺れて、切れたこめかみから熱い物が顔を伝い流れ落ちる感覚がした。

 

 その場にいた全員が戦慄して、唖然として、静まり返っていた。いや、私と母だけは違った。私は(恐らくは)冷静に周囲を観察していたし、母は我を忘れたように荒い息をして此方を凝視していたからだ。床に落ちた置物の反響する音が鳴り響く。

 

 私が冷静に置物を投げつけた相手を静かに見つめている一方、はぁはぁ、と怒りに震える母ははっと我に返る。同時に自身が何を行ったかを理解してみるみるとこれまで見た事がない程に急速に顔を青ざめさせた。……そこまでショック受けなくても良いんだけどなぁ。

 

「えっ?………あ……あぁ………!!?ヴォ…ヴォルター……?ち、違うの……これは………」

「……いえ、母上。私も熱くなり過ぎました。お陰様で冷静になる事が出来ました、感謝致します」

 

 私は慇懃に頭を下げてそう伝える。傷口から垂れた血が床に垂れ落ちて数滴の血痕を作り出す。ミスったな、床が汚れてしまった。私はすぐに頭を上げた。

 

 先程の言葉には嘘偽りも無ければ当然嫌味でもない。私も内心で少し暴走しかけていたし、母もかなり気が立っていたのだろう。私は母の愛情の深さは理解しているつもりだ。決して簡単に私に手を出す人ではない。つまりそれだけ母も不満やストレスが溜まっていた。そして私はそれを配慮出来ていなかった。それだけの事だ。

 

「いやっ……ちが……私はただ……ただこの家と家族を……!!」

 

 打ち震える声でそう呟く母の言葉は、しかし要領を得ない。怯えを含んだ瞳で私を凝視し、一歩、二歩と下がる。それだけ混乱しているのであろう。その姿に対して母親相手に不遜ではあるもののある種の憐れみの感情すら感じてしまう。

 

「母上、客人がいる場です」

 

 そう口にすると動転した思考で事態を把握した母は葛藤するように顔を歪ませて、最終的には黙りこむ。母もこれ以上他所の家の者に醜態を見せるべきではないと理解しているらしかった。その場で茫然自失と言った顔で項垂れる。

 

「そ、それよりも傷が……!」

 

 その事に最初に気付いて指摘したのは背後に隠れていた少女の悲鳴だった。グラティア嬢はドレスのポケットに入れていた絹のハンカチを取り出すと若干母に怯えつつ、しかしすぐに私の方を向いてこめかみの傷に当てがう。

 

 それに触発されて動いたのは侍女や使用人達であった。ある者は応急救護キットを取り出し、ある者は椅子を用意する。応急処置の心得のある執事が恭しくグラティア嬢からハンカチを受け取り傷口を抑え、背後から女中が私を椅子に座らせる。

 

「針で縫う必要はあるか?」

「いえ、角度が幸い致しました。この程度であれば冷却スプレーで止血すれば大事は御座いません」

「それは重畳」

 

 赤…というより赤黒い染みを作ったハンカチを離して傷口を見る執事(うわぁ、我ながらドン引きものだ)。横から侍女が応急救護キットの蓋を開いて差し出す。

 

「ひっ……」

 

 横で小さくそう声を漏らしたのは婚約者であった。目元を潤ませて何をどうするべきか分からずに捨てられた子犬のように此方を見つめ指示を待っていた。とは言え、この場で出来る事は限られているんだよなぁ。

 

「お恥ずかしい所を御見せしました、申し訳御座いません。……どうか今日はお休み下さい」

 

 それで良いですよね、と目で正面の椅子に座らされている母に伝える。尤も母の方は情緒不安定気味に自分の両手を見つめていたので返答は無かった。仕方なしに傍の女中に命令する。

 

「し、しかし……」

 

 女中から場を離れるように促される伯爵令嬢はそれを拒否しようとする。

 

「退席を御願いします。御気持ちは分かりますが私も今は貴女に構う余裕がありません、非礼ながらどうかご理解下さい」

 

 止血途中の私に若干不機嫌そうにじろりと睨まれれば流石に反論は出来ないようだった。びくり、と肩を竦ませてから母と同じく顔を青くして小さく承諾の返事を呟く。私がそれに頷けば両脇から女中に肩を支えられて婚約者は退席した。

 

「……少し乱暴な言い様だったかな?」

「いえ、この場合は少々高圧的に接しなければ御言葉には従わないかと。妥当な判断で御座いました」

「だといいがね」

 

 応急処置の作業中の執事が治療に集中しながらも意見した。手慣れた動きで骨や脳に問題がないか調べて、それを確認し終えると止血する。ガーゼと冷却剤を優しく押し当て、包帯で巻いて固定していく。流れるような動きだ。門閥貴族の執事たるもの応急処置は有事の際に備えて当然のように習得しているしほかにも実用的な技能を有している。人材を集め、育て、独占出来るのは門閥貴族の強みだ。

 

(さてさて……厄介な事になったな)

 

 ちらりと母を見ながら私は陰鬱な溜め息を吐く。

 

(ここに至っては最早どうしようもない。もう少し母を懐柔してから脱走を考えていたが……そうも言ってられないな。こうなったら悪いがあの人にアフターケアを投げるしかないな……)

 

 あの人なら流石の母も強気には出れまい。私の夜逃げの後の抑え役には丁度良い。……問題は逆に母が虐められないかだが。その辺は穏便に宥めてくれるように御願いはしてみるが配慮してくれるかどうか……。

 

「家政婦長」

「此方に」

 

 いつの間にか傍らで控えていた老家政婦が返事をする。優秀な事で。

 

「母上を自室に御願いしたい。侍女と小間使いも必要なら呼んでいい。面倒を押し付ける形だが……頼まれてくれるな?」

「承知致しました」

 

 家政婦長が視線を侍女達に向ければ侍女達が恭しく頭を下げて答える。家政婦長はこの場で最も冷静に物事を判断出来るのは私だけである事を見抜いたようだった。侍女達と共に母を優しく支えて退席しようとする。

 

「えっ……?ヴォルター?駄目っ……私はっ……違うのっ……!離してっ!!ヴォルター!!違うのよっ!!?私は貴方をっ……!!」

「分かっております、御心配なさらないで下さい。ですがこの事態です。今日一日だけは落ち着くためにも御休憩を御願い致します」

 

 なにかを必死に弁明しようと悲鳴を上げる母。私はそんな母を安心させるように落ち着いて声をかける。家政婦長も同じく声を掛けながら母を私室に連れていく。

 

 別に粛清なんてしないし出来ないしするつもりもない。ただ単に自室で落ち着くまで休んでもらうだけだ。尤も、母の悲鳴は粛清や監禁されるというよりも寧ろ私と離れ誤解される事を恐れているように思えた。あるいは私がそう思っているだけかも知れないが……。

 

「……悪いが少しの間、全員ここから退席してくれ。一人になりたい」

 

 私は母の姿と悲鳴が聞こえなくなると共に残る使用人達に静かに命じる。この場の主人たる私の命令は絶対だ。淡々と、黙々と使用人達が礼をして退席する。

 

 ……あるいは彼ら彼女らもここから去りたいと思っていたかも知れない。尤も、すぐに命令に呼ばれて来れるように扉の裏側に待機しているであろうが。

 

「……はぁ」

 

 深い溜め息をした後、私はガーゼを当てたこめかみに触れる。大したものではない。母の全力とは言え、子供時代の私を除けばフォークとナイフより重たい物は持った事もない人だ。当然鍛えている訳でもない。出血しているとはいえこれまで私が軍人として受けたどの怪我よりも軽い怪我でしかなかった。

 

 だが………。

 

「流石に……少し辛い……かな?」

 

 躾ですら一度として母に手を出された事も、叱られた事もない。まして敵意を向けられた事なぞある訳がなかった。

 

 だからこそその精神的な衝撃はこれまで経験した事もないものだった。しかし、そこに宿る感情は自身に手を出した母への憎しみではなく、寧ろあそこまで母を怒らせ、傷つけた事への罪悪感で……。

 

「………」

 

 痛みこそ大したものではないが、これ程辛い怪我をしたのは初めてだった………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お!これはまた、随分と珍しい方がお迎えに来ましたねぇ」

「何か御不満かな?フロイライン?」

「いやいやまさかぁ」

 

 ゴトフリート従士家のハイネセン別邸の待合室で遠慮もなく紅茶と焼き菓子を頂戴していたイングリーテ・フォン・レーヴェンハルト中尉はニコニコと手を振りながらそう答えた。とは言え、内心では小さな驚きがあった事は否定出来ない。

 

 端正な顔立ちをどこか虚無的で冷笑的な笑みを浮かべる礼服で着飾った金髪紅瞳の男性、部屋に入室した彼はレーヴェンハルト中尉の目の前のソファーに深々と座り込み、足を組む。

 

「にしても、いつ此方に御帰りで?」

「これは酷いな。同じ便なのだけれど……覚えていないのかな?」

 

 ジークムント自身、一月前までレーヴェンハルト中尉と同じフォルセティ星系の防衛線に巡航隊を率いて参加しており相応の軍功も立てた上で同じ人員輸送艦に乗ってハイネセンに休暇を兼ねた転属をしていた。

 

「フォルセティの?……あー、確かいたかも知れない?ですねぇ」

 

 口元に手を添えて記憶を探っていきそうはっきりしない返答をするレーヴェンハルト中尉。相手の立場を考えれば本来ならば非礼とされるがそこは本人の立場とこれまでの所業からか相手のジークムントも強くは出ない。いや、出たら負けという空気が伯爵家の家臣団の間でも広がっていた。

 

「相変わらずの態度ですね。レーヴェンハルト閣下も不運な方だ、貴女のような人物が直系の長女とはね。随分と頭を抱えておいででしょう?」

「いやぁ、それ程でも」

「……いや、褒めていないのだがね」

 

 真性で照れくさそうにするレーヴェンハルト中尉に不機嫌そうに吐き捨てるジークムント・フォン・ゴトフリート亡命宇宙軍中佐。母親から受け継ぐ血のような紅色の瞳は、胡乱気に問題児として評判の女性従士を映し出す。

 

「……そうでした、我が家の不肖の妹と御会いしたいと?」

「えぇ!ベアトちゃんが一人で謹慎していると聞いて今なら結構弱ってるかなぁ?と。その心の隙間に付け込んであの鉄壁の心を融解させればきっとムフフな展開も待っているじゃないかと思う次第でして」

 

 胡麻擦りしながらにまにまと貴族令嬢にあるまじき笑みを浮かべる女性従士にあからさまに肩を竦めうんざりした表情を作るジークムント。

 

「冗談ではないと言いきれないのが笑えない所ですね。話は聞いていますよ。前回訪問された際は扉を開いた瞬間ベッドにダイブしてきたとか……」

 

 同席していた監視役が四人がかりでどうにか引き離した事も聞いている。顔を紅潮させて涎を垂らし、荒い息に目を潤ませている姿は元々の顔立ちも良いので状況が状況で無ければ相当の破壊力があった筈だ。いや、それを目撃した者達には別のベクトルで破壊力はあったが……。

 

「いやぁ、ベッドで寝込んでいたベアトちゃんを見ると我慢出来なくてつい……」

「笑えない返事ですね。全く、妹さんの爪の垢を煎じて飲んではいかがですか?」

 

 小さく溜息をするジークムント。ふと気が付いたようにレーヴェンハルト中尉の傍に置かれた空になったティーカップに目を向ける。

 

「おや、これは失礼。もし必要でしたらお代わりを入れましょうか」

「おや?良いんですか?」

「勿論ですとも」

 

 そう口にして傍らのティーポットの中身を確認した後、体を若干浮き上がらせてティーカップに薄紅色の熱い液体を注ぎ込む。

 

「いやぁ、名家たる『ゴトフリート従士家』の本家嫡男から直々に紅茶を注いでもらえるとは、何とまぁ贅沢ですねぇ!」

「それは此方も同じですよ。名家たるレーヴェンハルト家本家の長女たるエースパイロット様に紅茶を提供出来るとは光栄の至りです」

 

 互いににこやかに『御世辞』を語り合う従士達。尤も、表情は温厚で微笑んでいてもその瞳には一切の喜色が無かったが。

 

「どうぞ」

「はいどうもー」

 

 受け皿ごとジークムントが差し出すティーカップをニコニコとレーヴェンハルト中尉が受け取ろうと手を伸ばす。……それと同時だった。ティーカップを受け取ったレーヴェンハルト中尉の腕をジークムントが強い力で掴んだのは。

 

「ん?何事ですか?はっ!?まさか私見初められちゃいました!?もう君を離さない的な!?いやぁ照れますねぇ!!がつがつしたり無理矢理な人は嫌いじゃないですけどぅ。けど困りました今私は……」

「残念ながら私は愛妻家ですので」

 

 にやにやと笑みを浮かべながら捲くし立てるレーヴェンハルト中尉の声を静かに、冷淡にジークムントは遮った。そして平坦な声で続ける。

 

「……そろそろ今回は何の用で此方に来たのかお伺いしても?」

「……何の事ですかねぇ?」

「御冗談を、態々こんな日に面会しに来たら怪しみもします」

 

 ゴトフリート従士家の当主にしてジークムントやベアトリクスの『父』であるルドガーは職務でハイネセンの屋敷を空けていた。まして梅雨時で大雨も降る中、今日に限って来る理由なぞ無い筈だった。ならばそこに別の目的があると考えるべきだろう。

 

 とは言え、正面から尋ねた所で意味は無かろう。口を割る理由は彼方には無いし、だからと言って尋問する訳にもいかない。唯でさえ立場が怪しいゴトフリート従士家がほぼ同格かつ比較的中立的なレーヴェンハルト従士家本家の娘にそんな事すればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。レーヴェンハルト中尉の行動を牽制出来る者はゴトフリート従士家にはいない。故に主家のボンボンは彼女を寄越して来たのだろう。こういう時にばかり頭が回るとは厭らしい事だ。

 

「私の立場から言わせて貰えれば余り面倒事に巻き込んで欲しくないのですがね?坊っちゃんは随分と妹に御執心のようですが、正直余り入れ込まれ過ぎても周囲からの目というものがあって此方が迷惑なのですよ。選り取りみどりなのですから他を当たってくれるように御伝え出来ませんか?」

 

 ここで一拍置いて、ジークムントはレーヴェルハルト中尉に顔を近付ける。その表情は剣呑だった。

 

「もし、それが容れられぬ時は此方も相応の手段を講じざるを得ません。我が一族の存続と伯爵家家臣団の安寧のため、どうぞ御容赦と御理解を御願いしたい」

「それって忠告ですかねぇ?」

「警告ですよ」

 

 ふっ、と小さく冷笑してジークムントは漸くレーヴェルハルト中尉の腕を離した。

 

 警告より寧ろ脅迫に近かったかも知れない。だがジークムント個人としては今の言い方でも問題ないと考えていた。知れる限りの情報では少なくとも当主代理を勤める伯爵夫人は息子の入れ込みを歓迎しないだろう。寧ろここで息子が下手な事をすればその敵意はゴトフリート従士家に向けられかねない。

 

 恐らくは何かを仕掛けて来るであろうが、家臣団の大半は伯爵夫人の息がかかっている。夫人の意に沿わぬ命令では動くまい。子飼いの食客が幾らか存在していると言うが数は知れている。その程度の者達が動いても屋敷の者達だけで対処は可能だ。

 

「……それは御当主の御意思でしょうか?」

「言う必要があるかな?」

「其方方全体の意思なら兎も角、『たかが』一個人の判断程度なら汲む必要があるかなぁ、などと愚考致しましてね?」

 

 目を細め、相手を値踏みするように不躾な視線を向けるレーヴェルハルト従士家の長女。

 

「そちらこそ、『たかが』一個人の命令ではないのかな?我らが奉仕して尽くすべきなのは個人ではなくて家だろう?」

「いやぁ、私は家に尽くしているつもりはないのですがねぇ」

「……成程、君が言うと説得力が違うね」

「貴方こそ、本来ならば『何方の血の立場でも』そのような不用意な御言葉を使うべきではない筈では?」

「その事に触れないで欲しいね、吐き気すらしてくる」

 

 互いに探りを入れるように剣呑に見つめ合う、いや睨み合う従士………だがそれも次の瞬間に奉公人の女中が扉を開き連絡に来ると終わる。

 

「御客様、御面会の準備が……ひっ!?」

「ああ、御苦労。案内をしてくれると助かる」

 

 入室した年若い女中が室内の剣呑な空気に怯えるがジークムントはソファーに戻ると足を組み淡々とそう命令を下す。一瞬迷ったような表情を作る女中であるが先程とはうって変わってニコニコとどこか弛んだ笑みを浮かべる客人を見て狼狽えながらも命令に従った。

 

「……それでは、御検討頂けたら幸いです」

「はい、お互いにとって良い結果となれば幸いですねぇ」

 

 退室間際に互いにそのように言い捨て合い、視線を交差させた。しかしそれも刹那の事で次の瞬間には柏材の扉が閉まり両者の間を遮った。

 

「これはまた皮肉なものだ。本来ならば家柄的に立場は逆が順当なのだが……」

 

 ソファーに深く沈み、先程の応酬を思い返してゴトフリート従士家の長男は呟く。これが初代ならば立場は完全に逆だった。忠誠心『だけ』で従士に取り立てられたゴトフリート家と銀河連邦軍で代々職業軍人としてコネとノウハウを有していたために引き抜かれたレーヴェルハルト家とでは本来後者こそがリアリストの集まりの筈だ。実際忠誠心が無いわけではないが彼女の実家は必ずしもジークムントの家のように盲目的で狂信的な家風ではない。

 

「何が琴線に触れたのやら……。まぁ、どの道私には理解し難い事だね。彼処まで坊っちゃんにしてやる義理がどこにあるのだか」

 

 ふと、湯気を引く紅茶を見つめながらジークムントは独白するように呟いた。それが自身が生まれた時には既に存在を必要とされず、落胆されたジークムントの本音であった。どれだけ経済的な恩恵があったとしても一族の子々孫々まで血の一滴まで『私有財産』として扱われるなぞぞっとする事実だ。まして彼処まで尽くす理由なぞある筈がない。

 

 そしてよりぞっとする事は幾つかの幸運……あるいは不運……が無ければ彼自身、それに疑問も持たずに唯々諾々として従っていたであろう事だった。

 

「『常識とは成人まで身に着けた偏見の塊である』だったか?……さて、誰の言葉だったかな?」

 

 少なくとも同盟の中央で教育を受けた者にとっては『我々』の存在は吐き気を催す存在である事は間違い無い。『自由』と『平等』、『自主』、『自律』、そして『人権』……同盟人が凡そ思い浮かべる人間にとって最重要な権利を簒奪され、喪失しながら盲目的な圧政者を崇拝し、媚び、その支配の手先となる事を進んで行う異質な存在だ。同盟では階級差別と不平等が蔓延する帝国の体制に唯々諾々と従う者達は皇帝と貴族によって無学に貶められ、洗脳され、偏見を植え付けられた被害者とする意見は根強い。

 

 同盟人が感じる程の嫌悪感がある訳ではないが、ジークムントも一歩間違えれば恐らくは実家のほかの者と同じような価値観の下に一切の疑問も持たず生きてきた事であろう。

 

 そうならなかったのは一つには当時の主家の事情から彼自身の存在が手に余り、もう一つには父が比較的同盟の文化に理解があったためだ。そのため弟が生まれた時には既にハイネセンに移住していた。同盟の自由な気風を存分に学び、同時に少しずつ自身の置かれた状況を理解した。

 

 自身の立場に幼いながらも足元が崩れ去りそうな虚無感と幻滅感を受けたのは事実だ。だがそれでも……それでも生まれた家である。必要以上に不当に扱われた訳ではないし、親元から離された理由も分かる。『両親』の愛情は決して偽りではなかったし、彼なりに先祖からの役目を果たすべきという仄かな帰属意識と使命感はまだ残っていた。そう、まだ残っていた筈なのだ。だが……。

 

「あんな仕打ちを見せられれば残滓のような忠誠心も消し飛びもしましょう」

 

 小さく嘲笑の笑みを浮かべるジークムント。自分だけなら兎も角、弟や妹の境遇を思えば残された主家への帰属意識も霧散する事請け合いだ。幼少時から忠誠心を仕込まれ、植え付けられた弟妹はそれでも盲目的に忠誠を誓うかも知れないが……少なくともジークムントからすればそれは正常なものとは思えなかった。

 

 とは言え、それを一族郎党の前で口にする訳にもいかない。言った瞬間に自身の立場が危うくなる事位理解している。今は自身の本音を口にするべきではない。今はただ嵐が去るのを待つ時だ。下手を打てば気が立っている伯爵夫人によって妹の身が、いや一族から幾人かが犠牲になりかねない訳で……。

 

「………っ!」

 

 ジークムントはふと苦い、思い出したくもない記憶が脳裏に過る。

 

 いつの記憶であろうか?幼い頃、本当に幼い子供の頃の事だ。彼は『母』に手を引かれて『鷲獅子の宮(グライフ・シュロス)』の庭園に設けられた小さな離宮から出ていく記憶だ。

 

 屋敷が急に慌ただしくなっていたのは覚えている。いつも屋敷に訪れ自身を可愛がってくれたその人が来なくなってからだ。『母』が泣いていたのを覚えている。幾人かの老貴族が『母』に何事かを詰め寄る。服の裾を掴み懇願する『母』。その結果が生まれた時から住んでいた屋敷を出ていく事だった。いや、追放と呼ぶべきか。もう、屋敷は新しい主人の物、もう『母』にも彼にも住む資格なぞ無い。

 

 そして『母』は泣く泣く実家に戻った。尤も、元々病弱であった母は心労が重なりいつの間にか消えるように……。

 

 部屋の隅で泣きじゃくっていたのを覚えている。そしてそんな彼を迎え入れてくれたのは………。

 

「……あんな思いはもう沢山です」

 

 ぎりっ、と奥歯を噛み締め、ジークムントは嘯く。そうだ、あんなのはうんざりだ。家族を失うのは……いや、奪われるのは一度きりで良い。まして妹を散々慰み者にして、追い詰めて、ましてこれ以上自身の都合を強いるならば……!

 

「流石に『相応』の対応を取りませんと、ね?」

 

 忌々しく、冷淡に、そして毅然とした覚悟を決めた表情を浮かべ呟いていた。その姿は少なくとも彼なりに一族と家族の身を案じる『兄』そのものだった……。




小ネタ
同日・ハイネセン某フェザーン人向け酒場

「おう!お前さん久し振りだな、まさかハイネセンで会うとはな。何か美味い儲け話でも見つけたか?

 俺か?ふふ、実はこれから商売しにいこうと思ってな。実は今この星に大層高貴な生まれの伯爵夫人が滞在していてな。ああ、亡命貴族様って奴よ。そこに仕入れた美術品を売りにいこうと思っているのよ。へへ、同盟の成金共は兎も角帝国の貴族様は傲慢だが審美眼は本物だ、贋作は売りに行けねぇが本物ならケチらずに大枚叩いて買ってくれるからな。

 ん?何を売りに行くかって?見て驚くなよ?何と一三日戦争以前の物品だぜ?特にこいつはかなりの一品でな、三大陸合衆国の政府要人用核シェルターの中に埋まっていたもんなんだよ。

 ん?名前知っているのかって?あたぼうよ、美術品を売りに行くんだ。名前や背景位理解出来てねぇとな!おうよ、こいつはイリヤ・レーピンとかいう画家の描いた作品でな、『イワン雷帝とその息子』って言うんだよ!」


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