帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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「愛する人の欠点を愛する事の出来ない者は、真に愛しているとは言えない」
                 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ




第百四十話 吊り橋効果は広義における洗脳だと思う

自由惑星同盟において、人は生まれながらにして自由で平等であると言われているが、少なくとも彼女はそのような言葉を信じない。彼女の一族は先祖代々『私有資産』であり、その一切合切の存在意義は生まれながらにして既定されているからだ。

 

 別に珍しくない事だ。そもそも銀河帝国であれば真の意味での自由人は皇族と諸侯だけである。それ以外の存在……下級貴族も平民も農奴も奴隷も自治領民も、全てが社会を回す歯車に過ぎない。

 

 考える必要はない。唯整然と、変わらず、唯々諾々と与えられた命令に従い、与えられた役割を演じていれば良いのだ。無知蒙昧にして軽挙妄動の輩が我欲のままに生きれば、そこに生まれるのは互いが互いの利己のために憎み合い相争い続ける万人の万人に対する闘争しかない。教養と使命感に燃え、かつ『公益』を尊び同胞意識に富んだ帝室と諸侯だけが物事を考えれば良いのだ。それこそが社会の安定と発展に資する。開祖ルドルフ大帝の……長い月日の中でその意味を歪められた……遺訓である。

 

 故に従士家と言う帝国社会の下位エリートに生まれた彼女の人生もまた、彼女を産んでからすぐに逝去した母親同様に、主家への奉仕と一族の繁栄のための道具であり礎に過ぎない。そこに個人の自由意思が介在する必要は無いし、疑問を持つ必要もまた一切存在しない。末端の末席なら兎も角、本家の一人娘である。その資産的価値は高価かつ重要であり、数百数千の一族と家臣のために人柱になるのは余りにも当然の義務である。

 

 ……とは言えそれは建前だ。どのようなイデオロギーを並べ立てようとも人間は所詮人間に過ぎない。生まれながらにしてそのような存在になれるならそもそも銀河連邦末期の混乱と無秩序なぞ起こり得ない。人間とはある意味で蟻や蜂等の下等生物にすら劣るような浅ましく、貪欲で、高慢で、自堕落で、欠陥だらけの社会性動物なのだ。故に大帝陛下の理想とする整然かつ健全的な秩序ある社会の実現のためには欲望に満ちた獣を教化する教育が不可欠である。

 

 彼女もまた一族に生まれた瞬間から教育を受け続けた。主家を信奉し、一族を愛で、先祖を敬い、帝室を崇拝し、大神の教えを信仰する。そこに余計な価値観が介在する余地は一切ない。そして幼い子供にとって周囲の世界が全てであり、周囲の大人の言葉は絶対である。帝国建国までの歴史にルドルフ大帝の思想、オーディン教の戒律に主家と一族の連綿と続く繋がりを真摯に学んだ。

 

 それはあるいは一般的な同盟人やフェザーン人にとっては到底教育とも呼べない代物であったかも知れない。思想と偏見と信仰と忠誠心の植え付けであり暗示であり矯正であり全体主義的な洗脳と言えた。自由主義的に育てられた長兄と違い、彼女は初代から続く典型的な一族の狂信を受け継いだ。

 

 唯一の救いは当時の彼女が所詮子供であった事か。どれだけ偏見に凝り固まった教育を受けようとも子供の理解力には限界がある。

 

 しかも彼女の忠誠を誓うべき対象は未だ言葉や文字としてしか知らず、形あるものとして一目目にする事すら無かった。それ故に当時の彼女のそれは忠誠心と呼ぶには拙く、あやふやで、はっきりしないものでしかなかった。

 

 それがはっきりとした色と形を持ち始めたのはいつの事であったろう?

 

 ……そう、それはまだ口にする言葉は拙く自身の足で歩く事も下手糞な程に幼い頃だ。女心なぞ当然ある訳もなく厭々おめかしをさせられて愚図っていた少女は唯一の親であり最愛の父に抱っこされながらその屋敷に足を踏み入れた。

 

「わぁ……!!」

 

 その玄関を抜けると、少女は先程まで愚図っていた事をすぐに忘れてしまった。

 

 そうだ、誕生日だった筈だ。その御祝いのために主家の豪邸に多くの分家や親族、家臣が詰めかけていた筈だ。天井に吊るされる虹色のシャンデリアに豪奢に着飾る紳士淑女、テーブルの上に盛られた煌びやかな料理の数々、大広間に響くクラシックの演奏に参加者から主家に献上された山のようなプレゼント……その全てが幼い彼女には幻想的で興味をそそるものだった。

 

「おとーさまっ!あそこっ!あそこいこっ!!あれたべたい!!」

「待て待て、そう急かすものではないぞ?ほら、御兄さんと一緒に行きなさい」

 

 年相応に食い意地の張った子供らしくテーブルの上の御馳走の山に視線が向かう。父が他の参列者に挨拶に向かうと言って自身を降ろし、二つ上の兄……次男は出席していた気はするが長男がその場にいた記憶は無かった……と共に部下の奉公人に預けられる。

 

 彼女は次兄共々その奉公人を急かして料理で満たされたテーブルに駆け寄った。奉公人やその場にいた伯爵家の給仕に命令して欲しい物を盛りつけさせれば別のテーブル席に座って笑顔を浮かべて次兄と御馳走を頬張る。

 

 あるいは宴会に来ていた他家の子供達と拙い礼儀作法で自己紹介もした。挨拶した後に何が面白いのか顔を突き合わせるだけで互いに笑顔を浮かべ笑い声をあげる。

 

 見知らぬ者ともすぐに仲良しになれるのはこういう幼い時期だけであろう。特に下級とは言え貴族のような立場の者にとっては。もう少し成長すれば相手と顔を合わせるとその血縁や家柄、本家分家の関係を意識するようになってしまう。純粋に同年代と仲を深める事が出来るのは幼少時だけの特権だ。

 

 子供らしく彼女達は食べながらお喋りをして悪ふざけをして、遂には各々のお目付け役から脱走して追いかけっこをして宴会の会場を、遂には屋敷中を逃げながら探検していた。皆でワイングラスを運ぶ給仕達の隙間を通り抜け、目付け役からカーテンやテーブルクロスの中に入る事で隠れて、慌ただしい厨房でカップケーキを拝借した所を包丁を手にした料理人達に怒鳴られて歓声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げる。

 

 彼女は無邪気に同年代の子供達と遊び回る。子供らしく年相応にはしゃいで我を忘れるように走って、逃げて、隠れて……そしてふと夢から醒めたように現実に立ち返ると気付いてしまった。

 

「あ、あれ……?ここ……どこ?」

 

 追っ手から逃げるために人気のない方人気のない方……と向かっているうちに両隣にいた他の同年代の子供達もいつの間にか消えていた。

 

 薄暗い廊下は幼い彼女には永遠に続いているように思え、広大な屋敷は怪物の住まう迷宮のように思われた。悲しい事に多くの客が宴会に集まっているために大半の使用人達も広間におり警備のために屋敷内部を巡回する者は殆どいなかった。

 

「あっ……あ……おとーさま……?おにいさま……?どこっ……?どこにかくれてるの?どこに……いるの……?」

 

 魔法から覚めたようについ先ほどまでの楽しさは消え失せていた。その後に襲い掛かるのは圧倒的な孤独感と不安だ。とてとてと小さな歩幅で廊下を歩む少女。震える声で大切な家族を呼ぶが当然の如く返答はない。

 

「おとーさまっ!?おにーさまっ!?どこっ!!?どこぅ……!?」

 

 若干声を荒げて呼んだ所で、ただただ虚しく声が反響するだけであった。そしてその反響する声が特に理由もなく彼女をより一層不安にさせる。

 

「うっ……ひくっ……おとーさま……うぅぅ…………どこにいったのぅ……?ひくっ……ねぇ…どこぅ……?」

 

 次第に不安は増大していき、目元は潤み始め、鼻づまりし始める。それが泣く前の前兆である事を理解し必死に止めようとするが逆効果となって寧ろ余計に涙を誘う。

 

 そのままその場に踞りぽたぽたと瞳から熱いものが落ち始める。父がこの日のために新調したドレスが涙で濡れ、床について汚れ、皺がよる。整えた長い髪は駆けまわっていた事もありくしゃくしゃになってしまい顔を少し隠してしまった。しかし幼い子供にはそんな事まで気にする事は出来ない。ただ今は父や兄……特にやんちゃで意地悪な次男ではなく優しい長男の方の名を呼んで……に助けの言葉を口にしながら泣きじゃくるだけしか出来なかった。

 

 そう、泣きじゃくる事しか出来なかった。その人影が目の前にやってくるまでは………。

 

「……おい、さっきから五月蝿いぞ。……子供がこんな所で何をやっている?」

「えっ……?」

 

 そのぶっきらぼうで不機嫌な、面倒臭そうで腹だたしげな、しかし確かに思いやりのある言葉に彼女は反応して潤んだ瞳で顔を上げる。

 

 そこにいたのは声から想像出来る程不機嫌そうな少年の姿だった。同い年位だろうか?此方に対して関心の薄そうな、いやどこか疲れ切ったような、到底年不相応に疲弊した表情を浮かべる子供が立っていた。

 

「おい、返事をしろ。何でこんな……」

「うっ……うぅぅ………うえぇぇん……!!」

「なっ……!?おいっ!!?何だ!?やめっ……!?」

 

 別に他意があった訳でもない。もしこの場に父や兄達が入ればそちらに突撃した筈だ。このような可愛げのない少年から寧ろ距離を取ろうとするだろう。

 

 ただ一人っ子一人見当たらない場所で寂しくなり泣いていた幼女にとってはそんなひねくれていそうな少年ですら救いだった。気付けば藁をもすがる思いで立ち上がり泣き顔のままに目の前の少年に抱き付いていた。抱き付いたまま泣いていた。

 

「おいっ!?止めろ!服が汚れっ……この……離しやがれ……!」

 

 泣きじゃくる彼女のせいで目の前の少年の衣服は涙と鼻水で汚れていく。最初は心底嫌そうに引き剥がそうとするが相手は我を忘れた子供である。いやいやこわい、と文句を言って歳不相応な握力で縋りつく。

 

「ちぃっ!……糞ったれが、静かにしろってんだ。……ああ糞!分かった!おらおら泣くな、落ち着け!黙れ!」

 

 結局根負けして絹で出来た衣服を汚されるがままで少年は諦める。舌打ちし、仕方なしにと言った表情で慰めの言葉をかけ、頭を少し乱暴に撫でる。

 

「うう……おとーさまぁ……おにーさま……さみしいよぅ………こわいよぅ……」

「……本当、間が悪いな畜生」

 

 本当に嫌々ながらである事が分かるが彼女の嗚咽の声を聞くと歯切れが悪そうに頭を撫で続け、背中を摩り続ける。そこには少なくとも相手を心配する優しさがあった。少なくとも縋る物のない彼女にとってはそう思えた。

 

 鼻を啜り、涙を(少年の衣服で)拭き取って漸く落ち着いたのは十分位経った頃だろうか。目元を赤く腫らして少女は漸く「ごめんなさい」と小さく呟く。本来ならば幼い子供の粗相である。寛容な人間ならば仕方ないと許しても良いのだが……目の前の少年はそこまで心は広くはなく、べとべとに濡れた自身の服を見て不機嫌そうにする。

 

「謝る位なら最初からこんな事するなよ。全く、これだから餓鬼は嫌いなんだ……」

 

 ぶつぶつと文句を言う少年に少女は再度目元を潤ませる。二番目の兄相手なら兎も角、基本的に蝶よ花よと一族本家唯一の娘として周囲から可愛がられてきた彼女にとって見ず知らずの少年からあからさまな敵意と悪意を向けられる事に慣れていなかった。

 

「う……ううぅぅぅぅ」

「ちぃっ!泣くな泣くな!気付かれるだろうがっ!!……もういい、気にするな!たくっ……何でこの歳で御守りなんてしないといけないんだ?いや、ある意味当然なのか……?」

「うぅ?」

「何でもないって言ってんだろ!面倒な事してくれやがって!」

「ひっ……ご、ごめんなさぃ……」

 

 舌打ちに鋭い眼光に身を竦ませて少女は小さく謝った。ふんっ、と鼻を鳴らす少年、少女は目を合わせないように注意しながら怒る少年を恐る恐ると見やる。

 

(うぅぅ……どこのこなんだろう……)

 

 自分が汚してしまったものの、衣服は高価そうであり少なくとも使用人や奉公人の子供ではないだろう。となれば同じ従士だろうか?それとも招かれた食客の家の子かも知れない。あるいは爵位を持っている家の可能性も無い訳ではない。

 

「あ、あのぅ……」

「……?何だ?」

 

 廊下の扉の一つを背伸びして開こうとしていた少年が振り返って尋ねる。その目付きの悪さにまた怯えるが少女は勇気を出して尋ねる。

 

「えっと……あなたはなんておなまえなの?なんでここにいるの?まいごなの?」

「迷子はお前さんだろうが。……少し隠れているだけさ。名前は……」

 

 そこで少年は僅かに悩まし気な表情を作る。

 

「……いや、これは聞かない方が良いだろうな、互いに」

「?なんで……?」

「こっちもやんちゃして周囲に迷惑かけている身でね。お前さんもそうだろう?大方パーティーではしゃいで迷子と言った所かね?」

「う…うん……」

 

 図星の少女は気まずそうに頷く。その態度に優越感でも感じたのか尊大そうに少年は提案した。

 

「なら互いに知らない方が良かろうよ。態々互いの家に恥を塗る必要もあるまい。知らぬ存ぜぬが一番だ。この場ではな」

 

 そう言って少年はうんざりした表情で廊下を指差す。

 

「あっちだよ。ずっと進んで突き当りを右、また突き当りに来たら今度は左、二つ十字路を過ぎて左に曲がれば広間に辿り着く。……ほら、さっさと戻ったらどうだ?」

「えっと……みぎ…ひだり…えっと…あれ?」

「右・左、十字路二つ過ぎて左だ」

「えっと……みぎで…ひだりで…ううん?」

 

 残念ながらもう少し大人であれば兎も角、五歳やそこらの子供にはこの程度の事でも覚えるのは容易な事では無かった。何度か反芻するが最終的に分からない!と投げ出してしまう。

 

「……それで?お前さんが帰り道が分からないのは構わんが。どうして私について来るんだ?」

 

 背筋を伸ばしてつま先立ちして漸くドアノブに手をかけて屋敷の物置を兼ねた薄暗い一室に入室した少年。そのまま様々な荷物がうず高く積まれて置かれた床の隙間に座ると、彼の背後にてくてくとついて来た彼女に不満ありありで尋ねる。

 

「だめ……?」

「理由を聞いているんだが?」

「またまいごになっちゃうもん。ひとりはいや、だったらいっしょにいる……だめ?」

 

 そう言って部屋の床に並んで座る少女は傍らの少年の衣服の袖を掴んで上目遣いで尋ねる。決して意識してやった訳ではないが人によっては相当の破壊力があっただろう。……尤も、目の前の少年には然程意味を為さなかったが。

 

「こっちにも都合ってものがあるんだがな……」

 

 不本意この上ない、と言った表情を浮かべる少年。もう少し優しければ少年が案内するのだが生憎と彼にはそんな事をする事は出来なかったのでそのまま少女を放置せざるを得ない。

 

 一方、少女の方はこれ幸いに会ったばかりの少年に子供らしい好奇心から次々と質問していく。少年は適当に答えていくがそれでも答えてくれた事それ自体が孤独で寂しさに襲われていた少女には満足であり、次から次へと追加の質問をしてしまう。

 

「おい、しつこいぞ。後声が大きい、もう少し位静かにしろよ」

「う……なんかさっきからおこってる?」

「さぁな、いちいち餓鬼に怒る程無駄な事なんかしないさ」

 

 どこか見下し気味な言い草に先程まで御機嫌だった少女は栗鼠のように頬を膨らまして拗ねる。

 

「むぅ……おなじまいごのくせに」

「一緒にするんじゃねぇよ。……私は隠れているだけだ」

 

 憤慨するように少年は呟く。

 

「かくれてるの?なんで?」

 

 少女は子供らしく脳裏に浮かんだ疑問を躊躇なく尋ねた。

 

「いちいち質問する奴だなぁ。………今日は何の日か知ってるか?」

「うん!はくしゃくさまのいえのおたんじょうびなんだよね!」

 

 途端にぱぁ!とした笑顔を少女は浮かべた。まだまだ忠誠心と言うには幼過ぎるがそれでも彼女の脳内では『はくしゃくけ』はとても偉く、敬うべきものであるという思考回路が強固に構築されていた。その『はくしゃくけ』の誕生日(誰のかまでは彼女には良く分からなかったが)は心から喜ぶものであると教えられていたし、見知らぬ人が多く最初は嫌がっていた彼女も多くの知り合いが出来、御馳走を食べられたために今ではそれはとても素晴らしいものであると認識していた。

 

「あんなもののどこが良いんだかな。税金の無駄遣いだろうに。無意味で無価値な事この上ないな」

 

 しかし少年は少女とは真反対の事を乾いた笑いと共に口にする。

 

「う?たのしくないの?」

「愉快ではないな。無駄に豪華で派手過ぎる。あんな誕生日を開く伯爵家の気が知れないな。正直参加なんかしたくないよ、あんなもの」

 

 その皮肉と嫌味をたっぷり含んだ言葉に彼女は不機嫌になる。

 

「だめなんだよ!はくしゃくけのわるぐちはいけないの!ばちがあたっちゃうよ!!?」

 

 少年の台詞に少女は叱りつける。少なくともそれは彼女の主観では善意からの注意だった。生まれながらに主家に忠誠を誓うように育てられた彼女は極極自然に、素朴に『わるいこ』にそう注意したのだ。そう、彼女の主観では。

 

「なにが罰が当たるだよ。んな訳あるかよ。そんな有難がるような奴らかね?所詮は特権に胡坐を掻いた貴族のボンボンじゃねぇか」

 

 しかし少年は冷笑気味に、そして嘲るようにそう言い返す。善意からの言葉を完全に馬鹿にするような物言いだった。寧ろ少女を憐れんでいるようにも聞こえる。

 

「むっ!そんなわるぐちいったらだめなんだよ!はくしゃくけはとってもえらいんだよ!いうこときかないとだめなんだよ!!」

「貴耳賎目ってか?別にお前さんが直接見てそう考えた訳じゃないんだろう?もう少し自分の頭で考えたらどうだ?どうせ周囲がそう言っているから信じているだけだろう?実態は案外幻滅するものさね」

 

 少年の言葉は本人は真摯に言っているつもりだったのかも知れない。いや、飄々としつつも良く観察すれば言葉の節々に吐き捨てるような怒りと理解して欲しいという懇願の感情を読み取れたかも知れない。

 

 尤も、その意味では少年も所詮は身勝手で独りよがりな人間でしかなかったのだろう。自身の生まれ持っての価値観をこう上から目線で徹底的に罵られて怒らない人間が、まして子供がどれだけいるのだろうか?当然の帰結として少女は怒り心頭で叫ぶ。

 

「もう!えらそうにいわないでよ!おなじこどものくせにうえからめせんなの!それにはくしゃくけのわるぐちばっかり!もういいもん!そんなわるいこはおとーさまにいいつけてやるもん!!それではくしゃくにおこられたらいいもん!」

 

 むすっと立ち上がり感情のままに叫ぶ少女。そのまま勇み足で父親の元に向かおうとする。先程まで迷子だった事はもう忘れてしまったようだった。そしてそれ以上に軽率だった。

 

「おい馬鹿!危険だぞって……」

 

 冷静ならば流石に気付けた筈である。うず高く積み上げられた荷物の山は不安定であり、子供とは言え、いきなり立ち上がり勇み足で、両手両足を思いっきり振りながら走ろうとすればどうなるか。

 

「えっ!?」

 

 結果としてうず高く積まれた荷物の一部が揺れて幾つかの小物が重力に誘われて落下する。その内の幾つかは陶器や硝子器であり、真下には丁度少女がいて……。

 

「ちぃ!!?」

 

 慌てて立ち上がる少年はそのまま殆ど突っ込むように少女に飛び掛かる。幼い身体ではこの位乱暴に動かなければ落下物を避ける事は難しかった。

 

「きゃっ!?」

 

 飛び掛かった少年ごと、少女は押し出されるように倒れる。ほぼ同時に硝子か陶器が割れる音が室内に響き渡った。何か鋭い破片が顔のすぐ後ろを通り過ぎる。

 

「大丈夫か?怪我は……まぁ、無さそうだな」

 

 その声に釣られて視線を向けて少女は漸く気付いた。床に倒れた自身の上に少年が乗りかかる体勢でいた事に。鼻先が当たりそうな程の至近で顔を合わせていた事に。同時に薄暗い室内で余り判別の付かなかった相手の顔立ちがとても端正であった事に気付いた。相変わらず目付きは悪いし不機嫌そうではあるがそれでも幼心に『かっこいい』と思える程には整った顔立ちだった。

 

「えっ…あ…あり…がとう?」

「何で疑問形なんだよ。ほら、さっさと立て」

 

 気恥ずかしさからか顔が赤くなるのを自覚しつつも少女は謝意を述べる。助けられた以上感謝の言葉を口にするのは当然の礼儀だ。尤も少年は若干小馬鹿にするようにそう言い捨てて立ち上がり、少女が起き上がれるように手を伸ばす。

 

 少女はその手を少し迷って、しかし受け取って立ち上がると次の瞬間には床に散乱する硝子片を見て顔を蒼褪めさせる。

 

「うう……どうしよう……」

 

 『はくしゃくけ』の物を壊してしまったのだ。怒られてしまうと少女は不安に曇る。どうなってしまうのだろう?捨てられてしまうのではないか?等と怖くなり涙目になる。

 

「あー、泣くな泣くな。これくらいなんでもない。私に任せろ。……母上にでもお願いすれば良い。どうせこんな所に置いてある物なんて安物だからな」

「だけど……」

 

 既に半泣きで視界が良く見えていない少女を少年は慰める。それは嬉しかったが同時に悲しみが消える訳ではなく、寧ろ自分のせいで彼にまで迷惑をかける事への罪悪感に苛まれそれが一層の悲しみを誘っていた。

 

「いいから気にするな。どうせ……ああ、来たな」

 

 先程の音に気付いたのか扉が開かれる音が聞こえた。嗚咽を漏らす少女は扉の方向を見るが涙で良く見えなければ精神的な焦りから周囲の声も良く聞こえない。

 

「おお、何やら音が響いておりましたから来ましたが……ここに居られましたか!おや、それは……」

「丁度いい、迷子だ。親元に連れていけ。鉢合わせしたんだが……私がふざけていたせいで瓶を割ってしまってね。その音で泣かしてしまった」

 

 少年の使用人であろうか?自分を庇うように少年は入室した大人達に語る。何やら言いたげな使用人達に有無を言わさずに少年は泣きじゃくる少女を親の元に返すように命じる。そして半泣きの少女にそれに逆らう余裕は無かった。

 

「えっ?あっ……」

 

 女中に抱きかかえられて部屋から少女は退出させられる。当然抜け出す事は出来ない。唯彼女に許されたのは、朧気に瞳に映る使用人達に命令する少年の何処か孤独な背中を見つめる事だけであった……。

 

 

 

 

 

 

「おぉぉ……良かった!心配したのだぞ……!?」

「あっ…う……お、おとーさまぁ!」

 

 控室で父と再会した時、少女は安堵感から本格的に泣き出して抱きついていた。最初は躾のために軽く叱ろうとしていた父もそれを止めて娘をあやすほかない。そして泣いて、泣いて、泣ききった後、漸く落ち着いた少女は父親に頼み込む。

 

「あ、あのね……!」

 

 それは自分と共にいた少年の事であった。その少年が硝子瓶を割った自分の身代わりになった事、そのために助け船を出してくれるように、と。少女は家族や家庭教師から素直に、そして正直に育てられていた。故に嘘偽りなく答える。唯一答えなかったとすれば少年の『はくしゃくけ』に対する暴言位か。流石に少女も自身が助けられた手前それを言及する程意地悪くも、恩知らずでもなかった。

 

「そうか、成程……」

 

 父はその話を聞くと次いで使用人からも何かを耳打ちされ、何とも言えない難しい表情を作り出す。普段ならば厳しくともお願いを聞いてくれる父のその表情に少女は不安に駆られた。

 

「いや、安心しなさい。大丈夫だ、『その御方』ならば伯爵様も、まして奥様も叱りつける事はあるまい。だが……」

「……?」

 

 堂々とした身持ちをした父の、その歯切れの悪い言葉に少女は怪訝な表情を浮かべていた。尤も……数刻後に彼女にもその理由は分かった。

 

 伯爵家の使用人達の助けも借りて、皺だらけで汚れた衣装を急いで着直し髪形を整えた少女は父や一族、家臣達と共に祝宴の続く広間に戻る事になる。とは言え、その間少女の心中にあるのは心配だった。

 

(あのこはだいじょうぶかな?)

 

 同じように誕生日のパーティーに参加する事になっていたのだろう少年を慮る。父は大丈夫だと言っていたが……『はくしゃくけ』は兎も角親に叱られていないだろうか?服を汚してしまったが大丈夫だろうか?それに助けられていながら碌な御礼も出来ていない。

 

(きらわれていないといいけど……)

 

 そこまで考えるとどっと更なる不安が彼女の心に圧し掛かる。これでは折角の楽しいパーティーも台無しだった。

 

(……けっこう……かっこよかった…かな?)

 

 恐らくは同い年であろう、にも関わらずどこか年に似合わない大人びた雰囲気に整った顔立ちは彼女に強く印象に残っていた。何よりも二度も助けられた事実は思考回路が単純な子供が純粋な好意を抱くのも当然と言えば当然であり、それ故に場にそぐわぬそのような事も考え次いで余計に少年の身を案じて落ち込む事になる。

 

 彼女が陰鬱な気持ちのままに広間に辿り着くと既にそれは始まっていた。数百人は余裕で収容出来る広間では出席者の内レーヴェンハルト家やライトナー家、クラフト家やデメジエール家等の主だった従士家や食客家の代表者達が上座を見据えながら整列し深々と、恭しく頭を下げ臣下の礼をしていた。少女達も急いでその列に加わる。

 

 彼らより近場では伯爵家の分家の代表者達が並ぶ。長老格筆頭の軍務尚書が軍服姿で一族全体を代表して祝意を述べ、次いで皇帝を始めとした貴人からの祝電を厳かに読み上げる。特に皇帝からの祝辞は周囲が僅かにどよめいた。恐らくはこの日のために伯爵夫人が何度も『お願い』したのだろう。残念ながら五歳児の彼女にはその複雑な内容もその政治的な意味も殆ど理解出来なかったが。

 

 そして……少女は上座の席を見つめ、そこで初めて自身の主家、忠誠を誓うべき者達をその眼に見た。そして思わず溜息を吐いていた。

 

「はぁ……」

 

 美しかった。眼下で頭を下げる臣下達を一切気にもせずにバルトバッフェル家やゴールドシュタイン家の当主、あるいは帝室の第三皇女殿下と朗らか談笑する伯爵夫人の肌は雪のように白く、ドレスと合わさり幻想的にさえ見えた。『妖精』、そんな言葉が余りにも当たり前に脳裏に過った。万一、上座に座ってなくともその醸し出す雰囲気だけで少女はその女性が伯爵夫人であると分かった筈だ。

 

「わぁ」

 

 その横の一際豪奢な椅子に座る軍服姿の偉丈夫はその堂々たる姿からすぐに伯爵家の棟梁であり、自分達の主君である事が分かった。この方以外にこの場で主君に相応しい威風を纏う人物はいないと幼心でも理解出来た。誰であろうか老夫人に何かを囁かれ慇懃に頷くと家令に何やら命令している。

 

「あのひとがはくしゃくさま?」

 

 若干緊張気味に少女は父を見上げて尋ねる。その瞳は明らかに興奮していた。父はそんな娘に苦笑を浮かべる。

 

「ああ、そうだよ。ティルピッツ伯アドルフ様だ。我々の主君だ」

「じゃあ、わたしもおおきくなったらあのかたにおつかえするの?」

「いや、お前は若いからな。若様にお仕えする事になろう」

「わかさま?」

「ああ、今日で五歳になられた。今日はその御祝いの日なのだよ。おお、ほらお見えになられた」

 

 そう言う父の言葉に促されて少女はその小さな瞳で再度正面を見つめる。

 

「ふぁ……!?」

 

 そして同時に驚愕に見開いた。何故なら……盛大な拍手と共に多数の使用人達に導かれて現れた少年の姿は余りにも見覚えがあったからだ。

 

 あの後に着替えたのだろう、豪華な軍服風の衣装に整えられた髪形、端正で線の細い顔立ちは母方の血が濃いのだろう、逆に瞳と髪の色は父方に似ているかも知れない。この両親からならこういう子供が生まれるだろう、そう思える美少年がそこにいた。そしてほんの数刻前に肩を寄せ合ってお喋りし、助けてもらった少年がそこにいた。

 

 ……伯爵家の次期当主たる事を約束された少年がそこにいた。

 

 驚愕で思考が止まり次いで働いて来た無礼の数々に顔を青くした少女は、しかし……次の瞬間、少年のその表情に疑念を抱き、不安を抱いた。

 

「えっ……?」

 

 少女には分かっていた。盛大なパーティーにプレゼントの山、御馳走の数々に巨大なケーキ、それらは子供ならば誰でも嬉しいものであった筈だ。だが……。

 

「どうして……?」

 

 彼女の持つ知識に照らし合わせれば少年は何もかも手に入る立場の筈だった。誇るべき血筋の筈だった。選ばれし生まれの筈だった。それがどうして……どうしてあんな辛そうな『瞳』をしているのか?

 

「あれが伯爵家の、我々の次の主君と言う訳か」

 

 近くで数人の従士や食客、分家の大人達が密かに囁き合っているのに少女は気付いた。

 

「あの顔立ち……死産流産と続いての出産でしたから焦った夫人が他所の種でも使ったのではないか等と噂もありましたが……流石にそれは無かったようですな」

「それはそうと可愛げがないものだな、子供の癖に碌に笑わないそうじゃないか?やはり母胎が悪いので知能に障害でも……」

「いやいや、知能テストは良好、寧ろ比較的高めのようだ。だが……」

「使用人に親族がおるので話は聞いておりますよ。気難しくて大層我儘だとか。知ってますかな?今日のパーティーに出るのを嫌がって暫くの間逃げていたとか」

「まさか!流石にそれは……」

 

 一旦、正面の『次期当主』を探るように見つめ、再度彼らは互いを見やる。

 

「……何方にしろアレではまだまだ前途多難です。漸く兄上周辺の問題を片付けたというのに、あれでは養子なり妾なりを押し付けようとする者もまだ居りましょう。当主は無論、後ろ楯の軍務尚書殿や御隠居様も苦労なさいましょうな」

「それもこれも元はと言えば夫人の責任で御座いますよ。さっさと御役目を果たしていれば鎮火した御家騒動が再燃せずに済んだのですから」

「とは言え夫人も良くやる。バルトバッフェル侯にアウグスタ様までお呼びするとは。ましてや陛下から祝辞を寄越させるとなると宮廷での根回しは上々という訳ですな。流石甘え上手の御姫様、と言った所ですか」

「我らも身の振り方を決断せねばなりませんな。……この歳で強制的に隠居させられるのは御免です」

 

 ……その会話の内容はよくよく理解出来なかったが決して穏やかなものでは無い事だけは彼女にも分かった。

 

「佞臣共め……」

 

 父のその呟きに少女は顔を見上げた。そこにいたのは苦虫を噛み締め、やり場のない感情を耐える父の姿だった。それは唯の怒りではない。様々な感情を綯い交ぜにした形容しがたい感情の奔流に無理矢理蓋をしているように見えた。

 

「………」

 

 気まずくなって少女は再度正面を見据える。伯爵夫人であり母であるツェツィーリアが少年を膝の上に乗せて笑みを浮かべていた。

 

 ……あるいはよく観察すればそれがいざ銃撃なり爆弾が投げ込まれるなりした時にいつでも子供を抱いて逃げるなり覆い被さって守るなり出来る姿勢である事に気付く者がいたかも知れない。

 

 一方、抱かれる少年は挨拶に来る親戚や長老達に不機嫌そうな表情を浮かべる。しかし困り顔の母親が何事かを優しく語りかければ葛藤した表情を浮かべ、渋々ながら言われた通りに答えていく。そうすると満面の笑みを浮かべた夫人は優しく息子の頭を撫でる。

 

 実の母親からのそれである、本来ならば喜んでも良いのだが……残念ながら当の少年は嫌がる素振りをしていた。その瞳に映るのは虚無であり、徒労であり、苦痛であり、深い悲しみであり、何よりも筆舌し難い孤独のように思えた。

 

「………」

 

 気付けば、その姿に胸が締め付けられるような痛みを少女は感じていた。

 

 それは忠誠心の目覚めであったのだろうか?それとも………。

 

 どちらにしろ、彼女が彼に会った時に賽は投げられていた。最早この胸に広がる激情を無かった事には出来ないし、引き返す事も出来ない。だから……。

 

「おとーさま……」

 

 本来ならばどこぞの従士家なり伯爵家の分家なりの妻にでもなって一生を終える筈であった彼女はこうして父にその希望を御願いしたのだ…………。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

「寝てましたか……」

 

 ベッドの上で静かに、ベアトリクス・フォン・ゴトフリートは覚醒した。壁掛け時計の指し示す時刻は0000時、即ち夜中の零時、日付が変更されたばかりである事を意味していた。窓に視線を向ければ真夜中の空は厚い雲に覆われ雨嵐が吹き荒び、星空はおろか月光すら見る事が出来ない。

 

「……随分昔の夢を見ていましたね」

 

 本当に昔の記憶だ。流石に今となっては掠れ始めている記憶である。きっと彼は覚えていないだろう。あれから数年後に自分が付き人に任命され対面した時の態度からもその事は分かる。

 

 尤もそれも仕方無かろう。自分ですら前後の記憶は忘れかけているのだ。ましてあの薄暗がりに荒れた髪型、口調すら変わっては朧気な記憶も合わさり忘れている方が自然だ。元々『彼』にとってはあの日の事は大した記憶ではあるまい。寧ろ不快でしかなかっただろう。

 

「別に構いませんが……」

 

 ………それでいい、覚えているのは私だけで良い。何も望みはしないし期待する積もりもない。自分が抱くだけの質量の思いを相手に求めるのは高慢と言うものだ。寧ろその身分差と犯して来た失敗の数々を考えれば今の待遇ですら望外と言うべきであろう。これ以上は強欲というものだ。

 

 だから自分にとっては『今の関係』で構わない。自身の心の内の神殿に住まうあの人の絶望しきった瞳が、疲れ切った声が、孤独な背中が自分の運命を変えてしまった事なぞ知られる必要はない。知らせてはならない。

 

 自分は今の『私』の立場と存在に十分に満足しているし後悔もしていないのだから。だから……彼に不要な罪悪感を抱かせる必要も、知ってもらう必要もないのだ。

 

「っ……!」

 

 付き人は背中に刺すような痛みを覚えて一瞬身震いするが、すぐにベッドから起き上がる。いつまでも過去の思い出に浸る資格も余裕も彼女には存在しなかった。

 

 まずはこれからやるべき事の準備を始める。既に必要な物の大半は自室に幾度か来訪したどうしようもない客人から密かに受け取り隠していた。潜入工作員用の小型ハンドブラスターに同じく小型ナイフ、地図が記録されている小型ソリビジョン投影器に雨具、発信器……受け取った後隠していたそれを取り出すと同盟軍士官軍装に着替えた後に装備する。

 

 部屋の扉の鍵を内側からかけた後、高価なベルベッドのカーテンを外して、結びつけ、一階に降りるための綱を作り上げる。

 

 窓を小さく開けば夜の曇り空、大雨の嵐に雷と視界は最悪である。室内の明かりを消せば窓が開いているとは簡単には分からないし屋敷の周りを歩いていようと視界不良で誰かすぐには分からない。いや、暗視装置無しには存在を視認するのも簡単ではなかろう。型落ちの無人機とゴトフリート家に仕える食客や奉公人、軍役農奴の兵士が巡回しているが、絶対数は少ないし手練れは大半が前線だ。巡回スケジュールも訪問客から教えられている。この時間に逃げればすぐには気づかれまい。

 

 贅沢に高級カーテンで作られた綱を外に投げる。カーテンは雨露と泥で汚れていく。だがこれで地上に降りるための命綱は出来上がりだ。

 

「………」

 

 一瞬、窓から身を乗り出したままゴトフリート家の長女は動きを止める。だがそれは降りる事に恐怖を感じて身体を強張らせたためでは決してない。

 

(本当に……本当にこれで良いのでしょうか……)

 

 それは後で伯爵家から糾弾される、あるいは実家が追求されたり自身が放逐される等という恐れからのものではなかった。そんな事は既に覚悟している。

 

 寧ろ彼女が悩んでいるそれはより単純に自身の行いが本当にその忠誠を誓う人物のためになり得るか、といったものであった。

 

(嫌ならば来なくても良いとは言われましたが……)

 

 客人のどうしようもないパイロットを代理としてその言葉を聞いた時、彼女は迷った。自身が本当に主人の役に立っているのか?この失態ばかり犯して尻拭いをさせている自分が?本当は自分なぞいない方が良いのではないか?

 

 迷いに迷った。只でさえ贔屓にされている自覚はあった。本来ならば今回の失態は問答無用で自裁物である。それが主君の口添えにより首の皮一枚で助かっている事も知っている。そんな状況で主人と共に脱走なぞしてみろ、今度こそ後がない。次戻った時には失態が無くてもその場で拘束される可能性は十分過ぎる程にある。いや、それ以前に残された実家が先に危ないだろう。

 

 ならば動かない方が良いのではないかとも思えてしまう。だが、それでも………。

 

「若様を置いてはいけませんから」

 

 自分が動こうが動くまいが、主人は逃げる積もりだ。自分が動かなければ?最悪主人は一人でどこか危険な場所に向かってしまいかねない。それだけは許されない。

 

 自身が役割も果たせない無能である事は分かっている。それでも自分を信じて傍に置いてくれる主人には恩義があった。それを見捨てるなぞあり得ない。例え盾代わりであろうとも、一族を危険に晒そうとも、自身に未来が無くとも……。

 

「……それだけはあり得ません」

 

 忠実な従士は歯を食い縛り、絞り出すように答える。彼女の脳裏に主人の姿が過る。

 

 それは彼女が初めて主人と出会った大きくて小さな孤独そうな後ろ姿であり、あの嵐の日に泣き叫んで助けを求めていた子供の泣き顔であり、雪原で敵兵に囲まれる中自分の名前を必死に呼ぶ傷だらけの青年の姿であり、破壊された巡航艦の中で寝入っていた時に捉えた誰かに縋りたそうにする寂しげな表情だった。

 

 ………そう、傍らにいなければいつの間にか消えてしまいそうな姿だった。死んでしまいそうな姿だった。だからこそ……。

 

「若様。このベアトリクス、非才の身なれども御一緒致します……!」

 

 彼女にとって……ベアトリクス・フォン・ゴトフリートにとって孤独そうなあの少年を傍で支え、守り、その心の苦しみを少しでも晴らす事が出来るのならば、それ以外の何も惜しくはなかった。

 

 ……それこそが彼女の幼き日に誓い、今も続く忠誠であった。そして呪いでもあった。

 

 恐らく、それは多くの間違いを繰り返して来た彼女の主人にとって最初にして最も絶望的な過ちであっただろう。そして彼女の主人がその事実を知らない事は一番の幸運であった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「若様、お嬢が動き出しましたぜ?」

 

 雨嵐の中、狙撃銃のスコープ越しに山道を必死に走るベアトリクスを観察する者がいた。いや、正確には者達というべきであろう。

 

 完璧な偽装工作をして周辺の景色と同化している五十近い白髪交じりの中年男性……自由惑星同盟軍地上軍所属グンナル・フォン・ゴトフリート大尉は傍らに控える本家の『長男』に尋ねる。

 

「やれやれ、賢い我が妹なら伯爵家と一族のために合理的にかつ最善の選択を取ってくれると思っていたのだけどね。……どうやら坊っちゃんとの付き合いが長すぎて視野狭窄になっているらしい」

 

 電子双眼鏡を目元に当ててジークムント・フォン・ゴトフリート中佐は僅かに失望したような、手間のかかる妹に苦笑いするような何とも言えない苦笑を浮かべる。

 

 実際、妹は責任感が強い性格だ。自身のこれまでの失態から鑑みてこのような逃亡を図れば自身の命も、まして一族の立場も危険に晒されるとは分かっていた筈だ。その上でこのような行動……。

 

(……相変わらず、我らが一族の忠誠心は最早病的だね、ここまで来ると狂気すら覚えるよ)

 

 脳裏に浮かぶ朧気な『母』の姿を消し去ってジークムントは冷たく呟く。滅私奉公、変わらぬ伝統と忠誠心、素晴らしい美辞麗句だ。使う側にとって、支配する側にとっては実に都合の良い道具である。

 

 忠誠心は麻薬に似ている。それが効く間は忠誠を誓い自己犠牲をする自分にいつまでも酔っていられる。だがそれがふとした瞬間に夢見心地から醒めるとそこに残るのはぼろぼろのになった自身の身体だけである。いや、それだけならマシだ。多くの一族が、そして『母』がその命すらも………。

 

「少しだけ躾が必要のようだ。余り手荒な真似はしたくないけれど……ウルスラ、狙撃で動きを止めるからお手柔らかに確保を頼むよ?」

『ふふふ……承致しましたわ再従兄様。御命令通り再従姉様は『可能な限り』無傷でお戻り頂きますわ』

 

 無線機から若干嘲笑うような少女の声が返ってくる。分家筋の彼女もまだ若いが幾度か前線での兵士を率いての従軍経験がある、任務を与える上で問題はない。二個分隊の兵士と共に狙撃で動きを封じた妹の確保をしてもらう予定だ。

 

「さてさて、このまま逃がしては奥様に申し訳が立たない。大尉」

「了解です」

 

 ふっ、と小さな含み笑いを浮かべ大尉はスコープを最後覗き見る。風量や重力を計算に入れての警告射撃である。

 

 大昔に比べてかなり微調整が機械で可能になったとは言え最後の出来は未だに狙撃主自身の技量による所が大きい。まして警告なのでまかり間違って本家の御令嬢を傷つける訳にはいかないが………。

 

 消音装置を敢えてつけなかったのは相手に狙撃していると伝えるためだ。乾いた発砲音、数秒も立たずに山道を必死に逃走していた少女の目の前に火花が飛び散る。すぐ手前の岩場に着弾した弾丸によるものだ。

 

「中々の腕前だな」

「お褒めの言葉、一ディナールの価値もありませんがまぁ有り難く頂いておくとしましょうかね?」

 

 動く目標にギリギリで当てずに、しかもこの距離と気候で警告射撃に成功した親族にジークムントは称賛の言葉をかける。流石元グリーンベレー所属だ。若い頃は帝国領に潜入しての要人暗殺や反帝国ゲリラへの狙撃指導をしていただけの事はある。

 

 咄嗟に妹が草むらに隠れる。狙撃によって脚を撃ち抜かれるのを警戒しているのだろう。あるいは実家が自身を始末しようとしていると考えている可能性もある。

 

 妹がその場から身動きが取れなくなった所で暗視ゴーグルを装備した歩兵部隊が交互に支援出来る散開陣形で迫る。

 

「さて、これで一気に終わらせられれば最善ではありますが……っ!!」

 

 まずその光にグンナルが、僅かに遅れてジークムントが気付きその場から身を翻して逃げる。 

 

 同時に何処からともなく飛んで来た弾丸が狙撃銃のスコープを貫通し、狙撃銃ごと弾き飛ばす。

 

「うぉいっ!何てことしてくれやがった!!?人が細心の注意で微調整している銃を手荒に扱うんじゃねぇよ!」

 

 地面に伏せながら自身の狙撃銃を傷つけられた事に舌打ちするグンナル。口では毒を吐きつつもその身体は這いずり回りながら傍のトランクに納めている予備の狙撃銃へと向かう。

 

「坊っちゃんが送り狼を送りつけてくる事位は予想はしていたが………ほぅ、凄いな。距離九〇〇、いや九五〇と言った所かな?よくも当ててくれるものだ」

 

 一方、伏せながらジークムントは電子双眼鏡で弾の飛んできた方向を拡大していく。狙撃に絶好の地点は粗方調べている。予めそこにいたならすぐに気付けた筈だが……。

 

「そんな場所に構える狙撃手は素人ですぜ。逆に潜伏場所だと気付かれて狙い撃ちされますから。寧ろ狙撃に適した地点を狙える場所に構えるのが基本なんですよ」

「先に敵の狙撃手を処理する訳か。ならば……」

 

 ジークムントはそれを念頭に入れて捜索していく。そして………。

 

「……ビンゴ」

 

 

 

 

 

「おいおいマジか、あの一撃を避けるか?完全に奇襲だぞ!?フツーそこは負傷してリタイアだろうがっ!糞ったれ!!」

 

 一キロ近い距離を挟んで狙撃の姿勢を取っていた迷彩服に追加の偽装を施した出で立ちのビクトル・フォン・クラフト准尉は吐き捨てる。上司の誘いでこの高額バイトに乗ったがどうやら割に合う仕事では無いらしい。

 

「うおっ……!?」

 

 反撃の弾丸がすぐ頭の上に一発飛んできて慌ててクラフトは頭を下げる。

 

「この順応性にこの精度、それに弾の音から見て……うげ、まさかと思うがグンナルの糞爺が相手か?」

 

 うえ、今すぐバックレてぇ……等と今更のように後悔の台詞を口にする。

 

『クラフト、どうだ相手の狙撃手の方は?足止め出来そうか?』

 

 雨嵐の中、すぐ傍の携帯無線機から雑音混じりの声が響く。

 

「最悪ですわ、正直彼方さんが二枚位上手です。悪いですけど逃げても良いですかね?」

『構わんが違約金が発生するぞ?』

「はは、ブラックバイトに捕まっちまった」

 

 上司でありバイトを紹介してもらった帝国騎士相手に肩を竦めるクラフト准尉。だが今更後悔しても遅い。舌打ちしつつ彼は狙撃手同士の静かな睨み合いを始めるしかなかった……。

 

 

 

「ふっ、諦めろ。別に殺害なんて求めちゃいないからな。我らがお姫様が逃避行に成功するまでの間、悪い悪い追っ手から御守り申し上げれば良いのだからな」

 

 一方、無線機にバリトンボイスでそう若干ナルシシズム的に言い放つのは『送り狼』の長たる不良騎士であった。

 

「御守り申し上げるねぇ」

「どっちかというと人拐いの類いじゃないですかねぇ、俺達」

「純情で夢見がちなお嬢ちゃんを甘い言葉で信用させて扉を開いた途端に誘拐って訳か」

「おいおいそりゃねぇぜ、盗賊騎士かよ俺ら。騎士物語だとやられ役じゃねぇかよ」

 

 迷彩服を着たシェーンコップの周りでは同じような出で立ちの兵士達が銃器を装備して軽口を言いながら展開していく。その口調は軽いが翻ってその動きは正にプロの陸兵そのものの洗練されたそれであった。

 

「貴方達は……」

 

 そしてそんな彼らに護衛された状態のベアトリクス・フォン・ゴトフリートは驚いた表情を浮かべる。ニヤリ、とシェーンコップは目標の『護衛対象』に振り向くと不敵な笑みと共に敬礼した。

 

「お久し振りです、少佐殿。ワルター・フォン・シェーンコップ以下休暇中の薔薇の騎士連隊隊員総勢一二名、若様の御雇いの下フロイラインの護送を仰せつかっております。どうぞ雇われの荒くれ騎士の集団ですが騎士は騎士、大いに御頼り下さいますよう御願い致します」

 

 それは実に慇懃無礼であり、しかし実に騎士らしい騎士の自己紹介であった。

 




Q:どうしてベアトは自己中でドクズ貴族な主人公なんかに尽くすん?
A:ゴトフリート家の血筋はダメンズ好きの血筋だから

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