帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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第百四十二話 何かを得るためには何かを捨てなければならないという話

 ティルピッツ伯ヴォルフラムの長子、第二八代ティルピッツ伯爵家当主ルートヴィヒ(ルートヴィヒ三世)は典型的な門閥貴族であり、武門貴族の棟梁であった。厳格かつ抑圧的、厳粛にて高慢な大貴族である。特に鋭い目つきが見る者に威圧感を与えていたという。公的には銀河帝国亡命政府軍宇宙艦隊司令長官とシュレージエン州知事、アルレスハイム星系政府議会貴族院議員と複数の顕職を兼ねるだけの財力と才覚を持ち合わせていた。

 

 大貴族が大貴族と婚姻関係を結ぶのは常識中の常識であり、それは亡命貴族も変わらない。当時のゴールドシュタイン公の次女ゲルトルートを妻に迎え長男アムレートと次男アドルフ、長女アレクサンドラを授かった。また数人いた妾から女子が三人、男子が二人生まれ、特にこれ等の庶子は分家や他家への嫁入りや養子、教会への出家と言った政略の道具として利用された。

 

 少なくともその初期において家庭環境は円満、と言わずとも険悪ではなかった。家長たるルートヴィヒは厳しい人物ではあったが彼の求める水準に妻も子供も十分達していたので殊更に叱りつける理由はない。

 

 妻は亡命政府政界の重臣、開祖ルドルフ大帝の三女を始祖とするゴールドシュタイン家の生まれである。極度に貴族主義的な価値観の持ち主であったが、夫婦にとってそれは良い方向に作用していたと言えるだろう。もし夫が矜持が高いだけの無能であれば何くれと無く口出していたかもしれないが、軍事にも政治にも、統治にすら敏腕を振るう傑物であったため殊更口を挟む事は無かった。彼女は唯黙って家を支えるだけであり、ルートヴィヒが妻に望むのもただ自身に従う事だけであった。

 

 嫡子たる二人の息子と娘の養育にも問題は無かった。長男アムレートも、次男アドルフも、生来の素養と金に糸目を付けぬ英才教育の成果によりまず水準以上の知性と上流階級として十分な礼儀作法を身につけていた。末のアレクサンドラは母譲りの美貌を持ち、機転の利く賢い子供だった。人格的にも、父親と違い厳格過ぎず穏やかで誰に対しても優しい長男と、そんな兄を立てる生真面目な次男はその仲も良く、御家騒動の心配はない。そんな兄二人に可愛がられていた器量良しのアレクサンドラも分家筋のヴァイマール伯爵家に嫁ぎ、その家族関係は良好だった。

 

 このように、門閥貴族の家庭としてはまずまずの合格点と言えただろう。実際この時期の伯爵家は権勢も強く、分家や家臣団もかなり伯爵家の将来を楽観視していた。

 

 どこで選択を誤ったのであろうか?ゴトフリート家から献上された純情な少女に年若いアムレートが入れ込み過ぎた事であろうか?アムレートにとって信頼出来る相談相手であった次男アドルフが自由惑星同盟軍に入隊し疎遠になってしまった事であろうか?あるいは父ルートヴィヒが狭量で息子に高圧的過ぎた事か、いやもしかしたら妻であり母であるゲルトルートが不干渉に徹さず双方を宥めていれば良かったかも知れない。

 

 兎も角も、ゴトフリート家本家の長女オフィリアに心底惚れ込んだアムレートは妾としてではなく妻に迎え入れようと望み、当然のように父親と激しく争う事となった。堂々とした好青年であったアムレートが正面から父に直訴すれば貴族主義者のルートヴィヒは悪鬼のような形相で息子を怒鳴りつける。

 

 ルートヴィヒは『彼なりに』息子を大切にしていたが、父に逆らうとなれば話が変わる。息子にその様なことなぞ許されるはずはないし、その内容も論ずるに値しないものであった。幾ら重臣の家の娘だろうと正妻とするには立場が釣り合わなすぎた。

 

 一方、冷酷で抑圧的な父とは似つかぬ義侠心と深い愛情を持ったアムレートもまた、一歩も引かなかった。その性格は分家や家臣団からの評判も良く、特に同世代や若い世代からは父ルートヴィヒの厳格さと冷酷さへの反発もあって高い支持を集めていた。特にゴトフリート家当主の長男でありそしてアムレートの付き人でもあったオフィリアの兄はその立場もあって重臣の筆頭だった。

 

 古参や長老衆を従えるルートヴィヒと若手の有力な家臣達を率いるアムレートの対立構造であると言えよう。対立を嫌った者達は抗争から遠ざかり、同盟軍で生真面目に軍功を重ねるアドルフや同じく中立に立ったヴァイマール伯爵家のアレクサンドラを頼り身を寄せる。

 

 騒動の渦中にいたオフィリアは、良くも悪くも何らの関与もしなかった。元々『献上品』として教育された彼女は穏やかで、素直で、健気で、淑やかで、何よりも愚かな娘だった。無菌室で純粋培養された少女は悪意にも敵意にも無頓着であり、人懐っこい愛玩動物以上の存在ではなかった。背中を押す事も自重を促す事もなく、ただひたすらに自らの主人と刷り込まれた相手を愛し、尽くし、付き従うだけの哀れな存在でしかなかった。

 

 アムレートはそんな彼女をただの都合の良い女と見なす程に冷淡でも自己中心的な性格でもない。それは一個人としては確かに美徳であったが、この情勢では悪手と言わざるを得ない。

 

 オフィリアが産んだ男子にアムレートが嫡男同然に接すると父子の緊張は更に高まる。そして、父が半ば無理矢理見繕った名家の婚約者を懇切丁寧に事情を説いたとは言え引き取らせてしまうと父子の関係はいよいよ修復が困難なレベルとなった。伯爵家の亀裂は遂に、いつ嫡男アムレートの勘当に踏み切るかと言う段階に達したのだ。

 

 しかもその間に父の手の者か一部の独断か、あるいは第三者の手によるものか、オフィリアやその子に対して毒殺の危険が幾度か差し迫っていた。息子は一層父を責め立て追及し、父は知らぬ存ぜぬ息子の戯れ言だと切って捨てる。最早決裂は時間の問題であった。

 

 そんな折に行われた出征であった。亡命政府軍宇宙艦隊約三三〇〇隻は二手に別れて帝国軍に攻勢を仕掛ける予定だった。主力艦隊の指揮官をルートヴィヒが、別動隊をアムレートが率いる。

 

 恐らくであるがそれは決して故意ではなく、まして互いに足を引っ張った結果でもなかったと思われる。当主もその息子も私情を戦場に持ち込む人物ではなかったし、そもそも作戦自体幾人もの参謀や将軍が練ったものだ。生き残った艦隊の主要幹部からの事情聴取でも両者がわざと味方の危険を見過ごしたような痕跡は見られない。

 

 それ以前に、そのような危険があれば軍部も宮廷もこの二人に艦隊を任せなかっただろう。少なくともその意味では信頼されていた。

 

 兎も角も、残された事実は時の帝国軍『七提督』の一人、エックハルト少将率いる分艦隊の待ち伏せを前にまず嫡男アムレートの別動隊が奇襲攻撃を受け半壊、次いで五里霧中の中で前進した主力艦隊が包囲網に引っ掛かり同じく大打撃を受け両艦隊の指揮官が戦死した事である。

 

 軍部も宮廷も、そして当然の如く伯爵家も混乱した。ルートヴィヒの腹違いの弟アルフレートはこの非常事態の収拾に奔走した。敗戦に対する伯爵家の責任を最小限に止め、次いで空席となった当主・次期当主の席をどのようにして埋めるかの家内の意見対立を説得し、あるいは粛清して迅速に一族と家臣団を纏め上げた。

 

 こうして同盟軍にて将来を嘱望されていたアドルフは半ば強制的に伯爵家の当主の座に就任させられた。そしてこの新当主就任の影で密かに屋敷に住み込んでいたアムレートの愛妾が息子と共に追放されたのは当然……むしろ慈悲ですらあった。

 

 真偽は兎も角、此度の騒動の原因を愛妾の存在による両者の不仲に求める者は少なく無かったし、そうでなくとも生き残ったアムレート派の残党は自分達の立場もありその息子を神輿に担ぎ出そうと悪足搔きをしていた。アドルフを推していたアルフレート以下の主流派としては心底目障りであった。

 

 それらを加味すると、母子への処遇は門閥貴族から見た場合極めて『寛大』であった。

 

 実の所、伯爵家の長老達からすれば伯爵家のために母子共々殉死を強要して抹殺しても良かった位である。情けは無用なのだ。かつて、エーリッヒ一世酷薄帝は愛らしい顔立ちに優しい表情を称える純粋な少年として有名だった。その彼が一二歳の頃、自身と皇后であった気の弱い母が異母兄アルブレヒトとその親族に文字通り殺されかける事件が起こった。彼は重傷を負いながらも襲撃者を返り討ちにして生き延びたが、以来性格が豹変し、異母兄弟姉妹を謀殺し尽くして皇帝となった。あるいは読書を趣味とする病弱で大人しい性格だったオットー・ハインツ一世能書帝は、皇位の対抗馬に担ぎ上げられた自分を慕う健康優良な弟を周囲の進言を容れて自裁させた。マクシミリアン・ヨーゼフ二世晴眼帝に至っては自作自演で兄を毒殺し、自らを脅かす弟二人をギロチンの露と消してしまった。

 

 帝室の皇位継承に限らず貴族の家督争いでもこの手の話は探せばごまんと出て来るものだ。帝国貴族は血縁と家を重視する。遠縁であろうとも一人が害されれば一族郎党総出で相手に報復する。その一方で、必要であれば一族全体の安寧ために涙を飲んで不要な枝葉を斬り落とすかのような所業を当然のごとく行うのだ。しかも相手が同じ門閥貴族の血統なら兎も角、所詮は従士である。事実、オフィリアの父は娘達を自裁させるべきかアルフレートに尋ねた程だ。

 

 最終的に母子の自裁が為されなかったのは当主就任に際してアドルフの行った口添えのお陰だった。少なくとも彼は母子に恨みは無かった。寧ろ良き夫であり良き父であったであろう兄を失った母子を憐れんですらいた。流石に面会は周囲に止められたのでしていないが、アドルフは二人に害意を持った干渉はせず、養育費だけ与えて実家に帰らせた。

 

 尤も、五体満足で帰って来た娘を父は軟禁したが。そして娘は殆ど亡霊のような表情でそれを唯々諾々と受け入れた。

 

 軟禁された娘は兎も角、主家の血を引き継ぐ孫は流石に一応の礼節を持って遇された。とは言えその子供には何の慰めにもならなかった。

 

 可憐で無邪気な優しさに溢れていた母は、外出はおろか庭先での散歩さえ許されなかった。殆ど座敷牢のような地下の一室で日に日に弱り、それでも一日の大半を死んだ夫の安眠のため、祈りを捧げる事だけに費やしていた。時たま面会を許された息子が心配しても儚げに問題ない事を伝え、死んだ父の事ばかり口にする。

 

 実際、愚かで哀れな娘だった。生まれた時から何も知らぬままに主人に気に入られるように『教育』され、身勝手に愛されて、望んでもないのに御家騒動の渦中に放り込まれた。主家にとっていらなくなれば邪魔者として屋敷を追放され、実家に戻れば軟禁される。そして未だ若く美しいのに再婚する所か恋をする事も、その発想に至る事も許されず、何らの人生の楽しみもなくひたすら不幸の元凶のために祈りを捧げながら弱っていくだけの生活だ。これを哀れと言わずに何と言おうか?

 

 ………何よりも、息子にすらそのように思われている事がこの娘を一層惨めで哀れにさせていた。

 

 伯爵家本家にて新しく一族の女主人となった皇女が死産流産を立て続けに経験していた頃、オフィリアは死んだ。一応は衰弱死であったが時期が時期だけにいらぬ噂が立ったのも事実だ。

 

 だがゴトフリート家からして殆ど出家したも同然の本家の娘が死んだ事なぞどうでも良い事だ。寧ろひっそりと死んでくれたのは幸いだった。実際葬式も埋葬も家柄に対して余りに簡素であり出席者も少数だった。

 

 まぁ母親は死んだから良い、問題は半分とは言え高貴な血を引くその息子だ。

 

 下手をすれば火種になりかねない、そうでなくとも生かしているだけで要らぬ疑惑を与えかねないこの子供をどうするべきか、一族の年長者達は悩んでいた。

 

 そこに手を差し伸べたのは本家の次男であり次期当主であったルドガーであった。御家騒動中は中立の立場にあり、現伯爵家当主アドルフからの信任も厚い彼は姉の忘れ形見を冷遇する積もりは一切なかった。妻と相談して養子として、長男として甥を受け入れる。

 

 正直な所、ルドガーにとってもこれは命懸けの決断であった。御家騒動が勃発した初期からアドルフの所に身を寄せていたため長老衆達からも信頼され、一族の立場を復権させた彼であるが流石に甥を養子に引き取るリスクは低くはなかった。

 

 少しでも甥が野心を見せていれば即座に粛清されていただろう。名門従士家の権力は平民から見れば十分巨大で、数百人の一族に数千人の奉公人、幾つもの荘園と企業を有している。だが大貴族の当主の権力はその数十倍に上るのだ。人の欲望は際限がない、実父が生きていれば得られたかも知れない伯爵家当主の椅子、そこに自分ではない幼子が座っている。そこに叛意を抱きはしないか………ルドガーの心配はそこにあった。

 

 その意味では養父の心配は無用の物だった。引き取られたばかりの長年腫物を扱うように育てられていた(そしていつ処断されるか恐怖で病んでいた)幼い甥の心は荒み、やさぐれていたが同時に伯爵家を嫌いこそすれその頂点に立とうとは思ってもいなかった。幾人かの邪な企みの誘いを甥は即座に断って通報さえもした。甥は権力闘争の道具にされるのを嫌っていたし、『あんな家』に戻るのに至ってはもっての外であったらしい。

 

 寧ろ甥は養父母の愛情を受けて真直ぐに育った。父親に似た生来の優しさを取り戻した彼は血の繋がらない両親を心から愛したし、同じように血の繋がらない幼い弟妹も心から可愛がった。特に妹は死んだオフィリアに顔も性格も良く似ており家族の中でも特に気に入っていたようだった。

 

 長男の血筋を知る者は最低限に限定された。ルドガーの実の子供達も兄の本物の血筋は知らない。ルドガーはそれで良いと考えていた。下手に血統を騒ぎ立てて荒事を起こす必要はない。長子自身にも自身の血に悩む事や利用される事がないように宮廷とは距離を置いて育てた。ハイネセン留学で学んだ価値観は彼の劣等感や苦悩をある程度は拭ってくれるだろうし、次代のゴトフリート家の当主となった時には実務面でも役立つだろう。異常な貴族主義と主家の崇拝から距離を置いていた『息子』は一族を上手く舵取り出来る筈だとルドガーは考えた。

 

 実際、それは途中までは上手く行っていたと言えた。

 

 ハイネセン留学から夏季や冬季休暇で帰って来る息子は屈託のない笑みを浮かべていた。その姿に葛藤はなく、理知的で広い視野も持っていた。主家に対する蟠りはあるようだが、家族の存在もあって自身の中である程度の折り合いをつけていたようだ。主家を唯々盲信するのではなく、しかし現状を受け入れ自身の感情よりも一族の安寧を優先出来る現実主義を選ぶ事も出来る。これからの時代の従士家当主として理想的な人物となり得る筈だった。

 

 ところが、我儘で問題児の伯世子に可愛がっていた弟が付き人の立場から追い返された。次いで妹がその次期当主のせいで北苑で遭難した。そして溺愛された……これらの出来事は長子の主家に対する敵意を再燃させるに十分だった。

 

 まして異常な程にその伯世子が妹に入れ込み戦場に連れ回す。その度に問題が起きて妹が怪我をし責任を追及される。それを伯世子が庇いだてすれば余計妹に怪訝な視線が集中する事になる。正に悪循環であり、オフィリアの前例もあって実家の立場が再び悪くなるのも当然であった。一度ならばまだ入れ込んだ側の責任かも知れないが二代続けば確信犯扱いもされよう。

 

 あの大切な妹が!実母の生き写しであり、病弱でありながら血の繋がらない自分に愛情を注いでくれた育ての母がその命と引き換えに生んだ妹が!よりによって『あんな一族』の放蕩息子の慰み者にされて!戦場に連れられてボロボロにされて!ましてや周囲に疎まれるなんて!

 

 実母の末路を思えば到底このままあの放蕩息子の下に預け続けるなんて許容出来る筈がない。妹が盲目的に主人を敬う姿なぞ見ていて痛々しいだけだった。惨めで愚かで哀れな母を思い出すだけだった。その余りに献身的で歪な感情が彼女の生来のものとは彼には思えなかった。植え付けられた、作られた感情としか思えなかった。

 

 正直、伯爵夫人の勘気に触れて伯世子から引き離されたのは幸運だとすら思っていた。深い怪我を負ったが障害はない。このまま暫くは謹慎であろうがあの放蕩息子の傍に妹が引きずり回されないだけで良かった。どうせ伯爵夫人にお願いすれば幾らでも『代用品』を貰える立場なのだ、妹をこれ以上拘束して苦しめるな!

 

 彼は一族を愛していた。家族を愛していた。この身体に流れる半分の高貴で身勝手な吐き気すらする一族の血なぞではない。もう半分の血を愛していた。自分を迎えてくれた家を愛していた。

 

 ……だからこそ、問題児の伯世子が妹を奪おうと画策している事を知った時、彼……ジークムントの心中に憎悪の黒い炎が燃え上がったのは余りに当然過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 雷鳴は未だ鳴りやまない。どしゃ降りの大雨は数日に渡り続いているがここに来て一層激しく降り始めているように思えた。

 

 そんな中、ベアトリクスは足を止める。止めざるを得ない。忠義深い彼女ですらその声を振り払うのは容易では無かった。

 

 彼女の『兄』は優しく微笑みながら愛すべき妹に呼び掛ける。

 

「さぁ、早く此方に来なさい」

「お兄…様……」

 

 優しさに溢れた呼び掛け、しかし従士はそれに応じる積もりはない。だが同時に向けられる圧迫感から逃げる事も出来ず、ただただその場に佇む事しか出来なかった。

 

「ベアト、気持ちは分かるよ。この事が知れたら父上は大層御立腹されるだろうからね。……だけど今なら私が父上を宥められる。何、可愛い妹のためだ、安心して家に戻って来なさい」

「わ、私は……」

「おっと、兄貴か何か知らんがそれは出来ないぜ。御姫さんは今から駆け落ちデートを為さるからな。いい歳こいてるんだ、シスコンは止めたらどうだい?」

 

 ベアトリクスを守るようにギーファー少尉が身構える。挑発するような物言い、尤も少尉の内心は戦慄と緊張に満ちていた。

 

(おいおい、ロイシュナーとハルバッハがやられてるのかよ。冗談きついぜ……?)

 

 先行していた筈の二人、その片割れがやられたのは目の前で確認出来た。十中八九もう一人も無力化されている事であろう。双方とも数年に渡る厳しい訓練とエル・ファシルの激闘を経験した精兵だ。それを無力化するなぞ……正直士官学校を卒業したばかりのギーファー少尉では荷が重い。

 

(俺一人では勝てないな。ならば足止めして御姫さんにはお逃げ頂くしかない、か……)

「止めておいた方が良い。君が動けば私は妹の足を撃つ。我が妹が幾ら軽いとは言え人一人抱えてこの悪天候の中逃げるのは簡単ではないだろう?」

 

 相手の思考を見透かしたようにジークムントは警告する。

 

「これは酷いな、可愛い妹と言いながら平然と撃つと宣言するとは。まるで鬼だぜ?」

「いやいや、私も本当に心臓を抉られる気持ちだよ。言葉にする事すら辛い。だけど、妹が悪い男に騙されて行ってしまうよりはマシさ。ちゃんと後遺症も残らないような場所に撃つから安心してくれていいよ?それに……」

 

 暗い笑みを浮かべてジークムントは雨具を開き懐のハンドブラスターを見せつける。

 

「君のお仲間から拝借した。これで撃たせてもらう。当然傷口は後で照合される。妹を撃ったのが君達のハンドブラスターだと分かればどうなるか、分かると思うんだけどね?」

 

 見る者によっては敷地に土足で入り込んだ『送り狼』共が撃ったと捉えかねないだろう。

 

「君達の雇用主が最後まで君達を守ってくれるかな?君達の雇い主は『伯爵家』ではないだろう?一個人の独断、ならば君達が捕まれば縁を切って知らぬ存ぜぬを決め込む事もあるだろうさ」

 

 そうなれば周囲の理解は兎も角、公的には薔薇の騎士連隊所属の一部の隊員が無断でゴトフリート家の屋敷に入り込み本家の娘を拉致、追い詰められてその娘を撃った……そう記録されるだろう。伯爵夫人としても息子の不名誉な記録なぞ残って欲しくあるまい。ギーファー達は双方から蜥蜴の尻尾切りされる可能性すらあろう。

 

「そうだ、取引をしないか?妹を返して降伏してくれないかな?後、事情聴取にも協力して欲しいかな?君達が雇われただけなのは知っているし、今なら事を公にせずとも裏で手を回せば内々で処理も出来る。……そうだ、君達に支払われる謝礼の倍の礼金も上げようじゃないか。悪い話ではないと思うけどね?」

 

 ジークムントは大幅に譲歩した条件を提示して揺さぶりをかける。彼ら薔薇の騎士が雇用主さえ見捨てれば一切損のない条件と言えた。

 

「………」

 

 護衛対象の従士は薔薇の騎士を不安げに見やる。流石の彼女も兄と薔薇の騎士双方を相手にして逃げ切る自信なぞ一切無かった。

 

 ギーファー少尉は悩まし気に頭を掻いて……面倒そうに答える。

 

「旨そうな話だが……御断りさせて頂きましょうかねぇ?」

「……へぇ」

 

 あっけらかんとした薔薇の騎士の言にジークムントは冷たく呟く。

 

「意外だね、金で雇われた身でありながら変な所で忠義深い」

「いやいや、だからこそですぜ。主従契約は命に代えても遵守せねばならんものでしょう。常に誇り高い騎士として振る舞えが副連隊長の教えでしてね。まして……」

「……まして御姫様を御救い申し上げようと言うんです、騎士冥利に尽きるってものですよ。このような大役、逃す手はありますまい」

 

 ギーファー少尉に続けるようなバリトンボイスが響き渡る。ちらりとジークムントが視線を向ければ肩にブラスターライフル……型式からして明らかにこの屋敷の警備兵から強奪したものだった……を背負う迷彩服の青年紳士が不敵な笑みを湛えながら姿を現す。

 

「君は……」

「ワルター・フォン・シェーンコップ上等帝国騎士で御座います。ゴトフリート従士家本家の長子ジークムント様ですな?軍功はかねがね聞き及んでおります。此度は土足で御屋敷に訪問いたした事、誠に御迷惑をおかけしております。どうぞご容赦下さいませ」

 

 ジークムントの怪訝な表情に反応して大袈裟に帝国騎士は挨拶の口上を述べる。

 

「構わないよ。小汚い鼠が庭先をはい回ろうと気にしないからね。それよりも、そんな鼠共が我が家の可愛い妹を連れ出してどこに向かうのか、聞かせてくれてもいいかな?」

「さて?御年頃のご令嬢ですからな、どこぞで逢い引きの御約束でもしているのでしょうよ。良い歳なのです、いつまでも妹離れ出来ずにお出掛け先についていっては嫌われてしまいますぞ?」

 

 嘲笑うように帝国騎士は指摘する。その挑発に対してジークムントは肩を竦めて辛辣に返答する。 

 

「一般論ならその通りだけどね。流石に悪い虫を超えて毒虫が誘惑しているとなると心配性の兄としては世間知らずの妹に代わって消毒をしないと気が済まないのさ。君は確か既婚者だったかな?娘に軽薄な男が寄って来ても同じ事は言えるのかな?」

「我らが主人を毒虫扱いとは、これはまた手厳しい。ですが今の例えを言われると否定が難しくなりますなぁ……」

 

 参戦してきた帝国騎士は悩まし気に語る。実際、てくてくと可愛らしい足取りで自分の下に駆けよって来る娘がどこぞの遊び人と駆け落ちすると考えると……戦斧片手にその糞野郎の家の玄関を蹴り飛ばしているだろう。

 

 まぁ、それはそれとして………。

 

「残念ながら追っ手の方は粗方寝てもらうか逃げ帰って頂きました。私としましては曲がりなりにも重臣の御坊っちゃんを傷つけるのは避けたいのが本音でしてな。お引き取り願えませんかな?」

「脅しかい?」

「それ以外の言葉に聞こえたなら私の言い回しが悪いのでしょうな」

「成る程………」

 

 ジークムントは小さな溜息を漏らす。

 

「……流石に本職が船乗りの私では君を相手に早撃ちで勝負しても勝てないだろうね。このまま抵抗をしたところで無意味だろう」

「御理解頂けたら何よりですな」

「ああ。……だから応援を貰おうかな?」

 

 ジークムントは不敵な笑みを浮かべた。次の瞬間、ギーファー少尉の肩が撃ち抜かれる。

 

「痛てぇ!!?」

「っ……!狙撃かっ!?」

 

 事態を察したシェーンコップはギーファー少尉の撃たれた角度から狙撃手の潜伏先を逆算し咄嗟に物影に隠れる。

 

「……流石だね、大尉。良くもこの雨の中狙えるものだ。……尤も、もう少し早めにやってもらえた方が助かったが」

『いやはや、遅くなってすみませんねぇ?何せあの糞餓鬼暫く見ないうちに随分と腕を上げたみたいですので……。それに本命はどの道今の場所では狙えませんのでよしなにお願いしますよ?』

 

 イヤホン型の短距離無線機越しに形式的な謝罪が為される。本来ならばシェーンコップこそ狙撃し無力化するべきであったが仕方ない。そもそも先ほどまでのギーファー少尉とのお喋りはゴトフリート大尉の狙撃地点移動のための時間稼ぎだった。ジークムントも本気で妹を撃つ積もりなぞない。あくまでも脅しだった(無論、ギーファー少尉が裏切りに乗ってくれるならそれに越したことはなかったが)。尤も、当初の目標のギーファー少尉より遥かに厄介なシェーンコップは射角の関係で狙撃する事は出来なかったが。

 

「ちぃ、おいクラフト。何遊んでいやがる?お前さん仕事はどうした?」

 

 一方、一本取られたシェーンコップは舌打ちしながら無線機越しにクラフトに愚痴を言う。

 

『んな事言ってもよぅ……!痛ててて……こっちは狙撃銃撃ち抜かれた上に尻撃たれたんですよっ!?うぐぐぐっ……!?』

「知るかボケっ!肛門が二つになった位で泣くんじゃない!!」

 

 涙声で尻の激痛を訴えるクラフトを叱責しつつ不良騎士は策を考える。狙撃手が復活したとなるとかなり行動が制限される事になる。相手の腕は中々のものだ。不用意に出ては鴨になるだけだった。

 

「うぐっ……」

 

肩を撃ち抜かれ倒れ込んでいたギーファー少尉はそれでも手元から落としたブラスターライフルをジークムントに向けようと試みていた。だがそれは徒労に終わる。

 

 ぬかるんだ地面に落ちたライフルを握ろうとした手は次の瞬間踏みつけられた。

 

「ぐっ……!?」

 

 小さな悲鳴。ライフルに向かっていた腕を足で払われる。泥の中に沈むライフルを拾ったジークムントは内部のエネルギーパックを取り出すと無感動に茂みに放り捨てる。ライフル自体も逆方向に投げ捨ててから、憎々し気に此方を見上げるギーファー少尉の腹を淡々と正面から蹴り上げて沈めた。その一連の流れは実に事務的だった。

 

 ……そして能面のような表情を温かみのある笑みに変えて振り向く。

 

「さてベアト。邪魔者はいなくなった事であるし、家族同士の話に戻るとしようか?」

 

 ハンドブラスターを構えつつも、手足が震えて発砲する事も、その場から動く事も出来ない哀れな妹に兄は嘯いた。

 

 

 

 

 

 兄の表情は穏やかそのものだった。彼にとって大切な妹は敵意を向ける対象でなければ憎しみを向ける対象でもない。過ちを犯したのであれば唯優しく諭すだけである。そう、小さい頃に接してきた時と同じように……。

 

「ベアト、落ち着いて考えておくれ。私がお前のためにならない事をこれまで一度としてして来たかい?」

 

 ジークムントの言に偽りはない。家族思いの彼は血の繋がらない弟妹達を可愛がって来たし、二人のためにならない事なぞした事がない。

 

「…………」

 

 妹が気まずく、罪悪感に顔を引きつらせる。彼女とて、兄を慕い敬う気持ちは嘘ではなかったし、兄の言葉が実際自分の事を思いやっての事であるのは自覚していた。

 

「君の忠誠心は見上げたものだよ。実に献身的だ。従士の鑑だよ。だが……冷静に考えなさい。お前の行動は本当に伯爵家のためになるのかい?」

 

 ジークムントは妹を揺さぶる。彼自身は当の伯世子も伯爵家も嫌いであったが流石に妹にまでそれを強要する積もりはない。故に彼女の行動が彼女の忠誠を捧げる『伯爵家』に貢献するのかを通じて説得を図る。

 

「お前がこれまで多くの失敗をしでかした事は良く理解している。特に今回は特大だ。奥様が大変ご立腹している事は承知しているね?」

「……はい」

 

 落ち着いた兄の声に、しかしベアトリクスは震える声で短く答える。尤も、兄もそれを咎めない。誰だってこういう時は委縮するものであろうから。

 

「ではお前が付き人から外されたのも、我が家に軟禁されているのも当然の処遇だ。その点に異論はないね?」

「……承知しています」

「じゃあ、御当主はおろか奥様の、ましてや父上の御許可もなく家を出るなぞもっての外である事も理解出来ている筈だね?」

「………」

 

 ベアトリクスは肯定の返事を口にしない。その代わりに小さく頷いた。ジークムントにとってはそれだけで十分だった。妹の自身の非を素直に認められる点は美徳であると彼は確信していた。

 

「ベアト、君の忠誠心がいけない訳ではないんだよ?けど今回の行動は良くないね。ついて来るように命じたのは若様かな?随分と気に入られているようだけど、だからと言って今回ばかりは従うべきではないね」

 

 ジークムントは理詰めで妹を論破し、諦めさせようと説明していく。あくまでも今の妹の主人は『伯世子』に過ぎず当主ではないのだ。即ち『伯爵家の筆頭』ではない。十年後であれば兎も角、今現在を考えれば妹が自身の主人に従う事は必ずしも『伯爵家』のためになるとは限らない。そもそも今回の行動自体問題だ。

 

「どうやら若様はご自身が伯爵家の次期当主としての自覚が足りないようだ」

「そ、そんな事はありません!若様は……!」

「いけないねベアト、私の話は終わっていないよ?」

「っ……!」

 

 妹の反論を鋭い口調で咎めるジークムント。その警告に口ごもる妹に小さな溜息を漏らす。どうやらあのような感情ばかり優先する男の下に長年いたせいで妹も随分悪い影響を受けてしまったようだ。

 

「付き人として今の言を否定したいのは分かるけど、冷静に考えなさい。武門の当主たる者、確かに軍功が大事なのは同意しよう。だけどそれ以上に自らの安全を確保する事が大事なのは言うまでも無い事だね?ましてはアドルフ様の唯一の嫡男であらせられる。尚の事自らの立場を自覚するべき、そうだろう?」

 

 それが蓋を開けてみればどうだろう?軍功を挙げる事は良いが、それと引き換えにどれだけ無用の危険を冒しているのか?カプチェランカでは逃げられる立場でありながら殿の下に戻り後一歩の所で戦死しかけた。ヴォルムスの地域調整連絡官としては味方が来るまで待っていれば良いのに単独で突入した。第四次イゼルローン要塞攻防戦でも伝令から降りる事が出来たのに率先して参加し遭難。エル・ファシルでは武功に目が眩んだ結果として挽肉製造機に目をつけられた。それ以外でも小さな問題は数えきれない。

 

 成程、軍功は挙げただろう。文句の付けようがない程の軍功だ。だがそれに目を眩ませてはならない。その代わりに何度一粒種の嫡男が死にかけた?何度周囲に負担をかけた?軍功を挙げる事は大事だがそれだけが当主の仕事ではないのだ。その点でいえばその素行は不合格と言わざるを得ない。

 

「此度の事もそうだ。お前の事を大層気に入っておいでのようだがこのようなやり方は頂けないね。外に漏れれば酷い醜聞になるだろう、まして唯でさえ微妙な立場の我が家の立場まで危うくなりかねない。伯爵家だけでなく重臣たる我が家の立場すら配慮出来ないとなれば次期当主として手放しに肯定する訳にはいかないだろう?」

 

 ジークムントの説明は正論だった。まごう事無き正論であった。

 

「それは……」

 

 妹は兄に反論しようとするが言葉が出ない。少なくとも兄の言葉に間違いはなかったからだ。実際兄の口にした幾つかの言葉は彼女もまた主人に口にした事のある内容であったからだ。だが………。

 

「ベアト、ならお前が自分の主人のために本当にやるべき事が呼びかけに馳せ参じる事ではないのは分かるだろう?」

「………」

 

 ベアトリクスは葛藤の表情を浮かべる。そして……ゆっくりとハンドブラスターの銃口を下げる。頭の良い彼女の事だ。決してジークムントの指摘に気付いていなかった訳ではあるまい。だがそれ以上に主人からの命令であるために忠誠心を優先してしまったのだろう。妹はゴトフリート家の者らしく、いや本家であるために一層主家への献身を第一とするように刷り込まれている。

 

(そしてそれを良いように利用している訳かな……?)

 

 苦し気な表情の妹を見てジークムントは『実母』の姿を思い出して自身の良心を痛めると共に一層伯爵家と次期当主への敵意を強める。可哀そうに。理不尽かつ身勝手に弄ばれて、無理難題ばかり押し付けられ、少しでも問題があれば一方的に責め立てられる。正直これまでそんな妹に何ら手を貸してやれなかった自身の無力感が腹ただしい程だ。

 

 だが、それも今日限りだ。今回の件を報告すれば流石に伯世子の希望であろうとも引き離しが取り消される事はあるまい。伯爵家からしてもこれ以上の入れ込みは困るが、だからと言ってゴトフリート家の取り潰しは出来まい。妹を自裁させてもどのようなリアクションが来るか分からない。となれば距離を取らせて忘れさせる事になるだろう。大概の感情は時間と共に風化するものだ。

 

 恐らく最初の内は妹も裏切ったともいえる行いに罪悪感を感じて苦しむ事になるだろう。少しずつ傷を癒していけば良い。そして世界がもっと広い事を知っていけば良いとジークムントは思っていた。

 

 主家のために命を使い潰す事だけが人生ではないのだ。もっと多くの楽しみを知り、自分のために生きていけば良いのだ。恋愛をしても良いだろう。与えらえた、植え付けられた好意ではなく自分で好みの人物と添い遂げて幸せに生きてくれたら一番だ。相手が誰であろうとも彼は妹の味方をする積もりだった。それだけ彼は妹の事を心から愛していた。

 

(それに……)

 

 ジークムントは脳裏に母の姿を、『養母』の最期の姿を思い浮かべていた。『あんな男』の事ばかり想っていた夢見がちで愚かな『実母』ではなく、自身を見て愛情を向けてくれたあの病弱な『母』の最期の姿を。か細い手で生まれたばかりの妹を抱き抱えて自分と弟に守ってあげるように頼んだ母の姿を。だから……。

 

「さぁ、ベアト。雨で随分と濡れてしまったろう?早く家に帰ろう」

 

 ジークムントは穏やかな笑みを浮かべ妹の肩に手を添えて優しく、優しく帰宅を促した。大切な物を、壊れ物を扱うように。

 

 彼の妹に対する愛情は誠実で、真摯で、本物だった。それに疑う余地はない。だが……彼にとって悲しい真理は、愛情と言うものは注いだ分だけの見返りがあるような単純なものではない事だった。

 

「えっ……?」

 

 次の瞬間、彼は目の前に突きつけられるハンドブラスターの銃口を見た。刹那、視界にとらえた此方に銃口を向ける妹の表情は苦悩に歪み、その瞳からは大粒の涙を流していた。そして、彼は妹の考えている事を悟った。

 

「ごめんなさい、お兄様」

 

 悲痛な謝罪の言葉と共にブラスターの発砲音が嵐の森の中に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

「あー、若様。生きてますかねぇ?」

「……ああ、一応ね。急所は外れているようだからね」

 

 森の中で倒れるジークムント、その視界の端から見下ろすようにゴトフリート大尉が姿を現す。

 

 あれから何時間経ったのだろうか?妹の撃った閃光を脇腹に受けて倒れたジークムントはしかし、激痛の中でも碌に止血もせずにただ暗黒の空を見上げていた。いや、正確には止血するだけの気力が無かったというべきか。

 

「あらあら、随分と盛大に出血してしまってますね。仕方ない、今止血するので我慢してくださいよ?」

 

 大尉は面倒臭そうに木陰にだらだらと半分高貴な血を流すがままのジークムントを引きずった後、その手に持つ医療キットで応急処置をしていく。

 

「……部下達はどうだい?」

「半分位は伸びちまって、残り半分は大なり小なり負傷してますね」

「そうか……」

 

 ジークムントは心底無念そうに呟く。絶望、失望、諦念、悲嘆……その表情は様々な感情が混ざりあっていた。

 

「はは、また随分とまた滑稽な形で失敗したものだね」

 

 その笑い声は空虚だった。無念に打ちひしがれた男のものだった。

 

「傷口を塞ぎますよ。本格的な治療は屋敷でやる事になりますが……どうします?動かせる人員を搔き集めて追跡しますか?」

「……いや、止めておこう。今回集めた人員で駄目だったんだ。残った人員で追っても返り討ちに遭うだけだろうね。それに……」

 

 妹が逃亡したであろう方向に憂いを込めた視線をジークムントは向ける。

 

「妹を本気で傷つけたくはないし、自殺させたくもない」

 

 自身を撃った妹の表情を思い浮かべる。相当悩み抜き、葛藤したのだろう。それでも最後は兄と家族を捨てたのだ。万一確保出来たとしてもその時こそ自ら命を絶ちかねない。そんな事はしたくなかった。

 

「流石に兄を撃つのは想定外でしたね。あのお利口だったお嬢も結局は女って訳ですか。感情で動くし一族よりご主人様との色恋優先という訳なんですかね?」

「その言い方は承服しかねるね。女性と妹、双方を侮辱しているよ」

 

 ゴトフリート大尉の差別的とも取られかねない発言をジークムントは不機嫌そうに注意する。女性が感情を優先する生き物であるという認識は必ずしも正しい訳ではないし、まして可愛い妹を色情魔扱いなぞ不愉快だ。

 

「その妹に撃たれた兄の言う事ですかい?」

「私の説得の詰めが甘かっただけさ」

 

 肩を竦めてジークムントは自嘲する。交渉が上手く行かなかったとしてその責任を全て相手に求めるのは甘えと言うものだろう。

 

「……周囲を抑えるのに苦労しそうだね」

 

 ジークムントは小さな溜息を漏らす。今回の騒動で一族の中でも外でも一層妹への風当たりは悪くなるだろう。そんな中彼はいざと言う時に妹が帰る事の出来る席を用意しなければならない。

 

「若様も気をつけなければなりませんよ?これを機会に貴方の立場と血縁を利用しようとする輩が絶対出てきますからね」

「それに面倒事になる前に始末しようか、とかもね?」

 

 長老衆の軍務尚書閣下や祖母辺りは極端に貴族的であり、同時にリアリストだ。血が繋がっていても火種になるなら『処理』だって行うだろう。身内を大事にすると言っても半分が下賤な従士の血ならそこまで葛藤もするまい。

 

「まぁ、上手く立ち回るしかないね。それでも危なそうな時は……頼むよ?」

 

 ジークムントは幼少の頃、自分と母の『護衛』であり『監視役』として助言し、守ってもらった付き人に尋ねる。

 

「マジですか?危険手当も出ないのでしょう?……本当、付き人なんて真っ黒なお仕事ですよ」

 

 自身の主君に対して皮肉気に語る大尉は、しかし困り顔であったがその表情は父親か兄のように大らかに苦笑していた。

 

 

 

 

 

「はぁ…馬無しで歩くと……はぁ……思ったより広いな」

 

 大雨が降り続く狩猟園を私は必死に走っていた。迷子にならないように方位磁石の向きを確認して進む。獣道が多く地面は雨でぬかるんで足場は悪い。草食獣しかいないとしても猪辺りに刺突されたら結構危険なので注意が必要だ。しかも装備品にも限度がある。そんな中で冷たい雨に何十分も当たり続ければ想定以上に体力を消耗するようだった。

 

「後……三〇分位歩かんとな」

 

 恐らくそれ位歩けば狩猟園の外縁部、星道に接したフェンスに辿り着く筈だ。そこが各自の集合場所であり、地上車が停めてある。ベアト達の方は上手くいけばそろそろ集まっている頃だろう。私も早く合流しなければなるまい。

 

「急ぐべきかな……ってうおぃ!ビビらせるな!ボケ!」

 

 逡巡していた私は自身の軍服の袖を引っ張る感触に驚く。慌てて振り向けば小鹿が私の袖口に食いついてしゃぶりついていた。おいてめぇ、まさかこの前の河にいた奴じゃあるまいな?

 

「おい止めろべとべとになる。ちょっと待て、ガチで離してくれない?殴るぞコラ」

 

 何が気に行ったのか袖口を美味そうに舐め回す小鹿である。私の軍服はキャンディーか。頭をぺんぺん叩いて離そうとしない。

 

「おいいい加減にしろ。糞が。丸焼きにされてぇのか?」

 

 私は小鹿と低レベルな争いを演じる。いい歳こいて私は何をしているんだろう?

 

「おいコラしつこいぞ。いい加減に……お、漸く放したか?」

 

 暫く小競り合いを続けているといきなり小鹿は袖口から口を離した。と、一瞬ブルっと身体を震わせると一目散に跳躍しながらその場を去っていく。

 

 ……そう、それはまるで何かから逃げ出すように。

 

「な、何だ?いきなり……糞、折角洗ったばかりの軍装がベとべ『グウウウウゥゥゥゥ!!!』………はい?」

 

 その獣が唸るような声に私は嫌な予感を背筋に感じながら、引き攣った表情を浮かべゆっくりと振り向く。

 

 闇夜の森の中でもそのシルエットは良く見る事は出来た。全長にして二メートルは超えているだろう、筋肉質な身体はしかし、同種の中ではそれでも小柄で痩せている方であるらしい。

 

 尤も、それでもその牙の威力は西瓜を焼き菓子のように噛み砕くし、その爪は一撃で猪の腹を引き裂く事が可能だ。蒼い毛色の頭部に翠がかった腹部は印象的であろう。嵐の中でもその荒い鼻息は良く響き、暗闇の中で紅い瞳が不気味に輝いていた。

 

「……はは、マジかよ」

 

 いっそ乾いた笑い声すら浮かんでくる。おいこの世界はスペースオペラじゃなかったのか?いつから私はハンターになったんだ?

 

『グオオオォォォォ!!!!』

 

 雷鳴と共に猛獣は咆哮を上げた。それは明らかに私に向けた威嚇であり、死の宣告であった。

 

 一三日戦争と九〇年戦争……その帰結による大規模絶滅のために新品種開発を推進した地球統一政府、その後期に遺伝子操作により誕生した大型雑食哺乳類『青熊獣』……別名アオアシラが私の前に姿を現したのだった。




殺戮者のエントリーだ!

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