帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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今章は次回で終わりです


第百四十四話 来いよ、らいとすたっふルール!訴訟なんて捨ててかかってこい!(震え声)

「はぁ……はぁ……済まん、助かった」

 

 大雨が降りしきる山林の中で全身(熊公の吐き出した血で)血塗れになった私はそう謝意の言葉を口にした。数百キロの重量のあるアオアシラの下敷きになればそれだけで圧死しかねない。殆ど半壊していた義手とベアトに支えて貰った事で、どうにか私は地面と死骸の間から抜け出す事に成功した。

 

「し、失礼致します……!」

 

 尤も、彼女の方は私の謝意なぞ望んでいないらしい。そんな事よりもどこからかハンカチを出したベアトは来て私の右耳を抑える。千切れた耳から流れ出す血で白地の絹のハンカチは瞬く間に赤黒く染まっていく。

 

「……少し抑えておいてくれ。……ぐっ、こりゃあ駄目だな。中の配線がイカれてやがる、外すか」

 

 ベアトに右耳の傷を抑えたままにするように頼んだ後、アオアシラのアイアンクローで盛大に凹み、次いで盛大に噛みつかれてくっきり歯型がついてズタボロになった義手を見て私は呟く。

 

 まぁ、ここまでやられてまだ一応動くだけでも市販の大量生産品に比べれば上出来ではあるが、それでも誤作動が怖い。このままでいるよりは捨てた方がまだ動きやすいだろう、勿体ない気もするが仕方ない。

 

 泥まみれになった軍服の袖をめくり上げ、義手と生身の腕との間を橋渡しするコネクタ部分に触れる。数秒もせずに右腕の感覚が突如消失した。同時にボロボロの義手が落下、そのまま泥の中に落ちてゆっくりと沈み込んでいった。

 

「若様……」

「待て、大体言いたい事は分かる。それは後回しだ」

 

 耳の傷口を抑えるようにハンカチを結んだ後、何か言いたげな表情を浮かべるベアト。しかし疲労困憊した口調で私はそれを制止した。今は逃亡を優先するべき時だった。私は重い腰を上げる。そして……。

 

「マジふざけんじゃねぇぞこの糞熊公がっ!!畜生の分際で分を弁えろボケッ!!!」

 

 取り敢えず怒りに任せてくたばったアオアシラの死骸に蹴りを入れる。更にズタボロのミンチになった頭に数発ブラスターを乱射してやった。熊の頑強さと狡猾さは知っている。遺伝子改良していない原種の熊ですら猟師が仕留めたと思って近づいたら平然と起き上がって襲い掛かって来たなんて逸話がある程だ。ましてアオアシラ相手となれば念には念を入れてこれ位やるのは当然だ。断じて殺されかけた事への恨みつらみが理由ではない。……嘘じゃないよ?

 

 ある程度意趣返しをして気分を落ち着かせた私は肩で息をしつつハンドブラスターを構えていた手を降ろす。

 

「……済まん、無駄な時間を使ったな。ベアトの方は背中の傷は大丈夫か?」

「……も、問題はありません。……軍服のお陰で薄皮を少し削られただけです、出血はしていません」

 

 原作では然程役立っているようには見えないが、一応の防刃・防水・難燃性能を有している同盟軍制式採用の暗緑色の上着である。今回の従士の身の安全に役立ったのなら幸いの事だった。

 

「そうか。………それじゃあ、行くか?」

 

 疲れ切った表情で深い安堵の息を吐き、私は笑みを浮かべてベアトに提案する。

 

「わ、分かりました。そ、それでは先導を致します……」

 

 どこかぎこちない、バツの悪そうな所作でベアトは私の案内を行おうとする。だが……。

 

 次の瞬間何かに気付いたかのように、らしくもなく周囲をキョロキョロと見渡した後目を見開き、次いで顔を青くして怯えるように此方に視線を向けた。私は嫌な予感を感じていた。そしてそれはすぐに現実の物となる。

 

「若様、何方に向かえば宜しいのでしょうか……?」

 

 恐る恐ると、この場において致命的な質問を従士は口にした……。

 

 

 

 

 

 

 現在位置と方角が分からなくなった。GPSの使える携帯端末は位置を逆探知される危険から私も従士もそれぞれの屋敷に残していた。方位磁石も熊公との戦闘で行方不明となり、天測で座標を割り出そうにも曇天に大雨となればそれも不可能と来ている。即ち、人はこのような状況を一般的に遭難と呼ぶ。

 

 遭難、その状態で不用意に動くのは本来危険であるが、そうも言ってられなかった。この大雨に軽装備で全身びしょ濡れである。寒さが先程までの戦いと合わさり体力を削る。千切れた耳を始め傷口は痛むし、何より酷い倦怠感が全身を襲う。このままでは凍死の危険性すらあった。

 

 幸運と言えるかは分からないが、ここは狩猟園の敷地である。探せば幾らでも休憩用の小屋はある筈だった。中には暖を取るためのストーブや毛布、食料もあるだろう。天気予報が正しければ明日にもこの梅雨の大雨は止む筈だ。危険性はあるが一旦小屋に引き籠り休息するしかなかった。最悪逃亡に失敗したとしても、生物学的に死亡は御免だ。

 

「とは言ったものの、その小屋探し自体が案外辛いものだな……!」

 

 ベアトと共に私は山道を歩き続ける。脳内に叩き込んだ地図を周辺の地形と照らし合わせるが、そもそもこの辺り一帯は森と山ばかりで見分けるのも困難を伴う程だ。

 

「若様、足元にご注意下さいませ」

 

 先行するベアトが手を差し出す。私はそれを掴み滑りやすくなった傾斜を降りていく。片手ではバランスを取りにくく、足を掬われても身を守りにくい。故に小まめにベアトの支えが必要だった。

 

「はぁ……はぁ……有難う。はは、まるで士官学校の山岳地行軍訓練だな」

 

 私は同盟軍士官学校時代の訓練を思い出して苦笑する。小隊や中隊単位で山岳部を一週間かけて走破する訓練だったが、当然ただ山を登るだけではない。気候は敢えて悪い時期を選び、野宿や食事、飲み水の補充は部隊単位で行う。しかも他の班や完全武装のアグレッサー部隊が敵役として襲撃をかけて来た。教官達が大人気もなく亡命政府軍から貸与して貰ったフェルディナンドに乗車して笑顔で戦闘中の生徒達を横合いから殴りつけて来た時はスコットは当然としてコープやスミルノフのような優等生組すら「ふざけるな!」と教官達を絶望顔で罵倒していた。

 

 確かあの時も途中でベアトと共に迷子になって山をさ迷っていたな……。しかも本隊合流はベアトに先導して貰っていた筈だ。悲しいなぁ………。

 

「山岳地訓練ですか……。私としては寧ろ……いえ、それよりもここから先の土は柔らかそうで泥に足を掬われます。より一層ご注意を御願いします」

 

 付き人は一瞬、何かを思い返すような表情を浮かべ、しかしすぐに義務的な注意を行う。その態度に怪訝な印象を受けるがそれを指摘する余裕もないので粛々と私はその言葉に従った。

 

「………」

「………」

 

 傾斜を降りて水溜まりと木の根に気を付けながら我々は沈黙の内に徒歩で歩き続ける。しばしば此方の様子を窺うように後方を振り向いたり周囲を警戒したりもするがそれだけだ。雑談もせず互いにひたすら歩き続けるだけ………。

 

(……急に重苦しくなったな)

 

 ずきずきと疼くような痛みを右耳に感じながら私は逡巡する。彼女の内心についてはある程度想定出来るが……全くもってタイミングが悪い事ばかりだ。よりによって初っ端からこの様とは。下手に罪悪感を植え付ける積もりは皆無なのだがな………。

 

 ちらり、と私は先行する従士に視線を向ける。数えきれない程見て来たその背中は元々小さいが今は一層頼りなく、弱弱しく思えた。

 

「……若様!見て下さい!小屋を見つけました!」

 

 ふと、物思いにふけていた所にその叫び声が響いた。僅かに喜色を浮かべてベアトが此方を振り向いて目的の場所を指差す。そこは私も知っている小屋だった。

 

「こりゃあ、まぁ……因果なものとでも言うべきなのかね……?」

 

 狩猟園と庭園の境界線にあるその小屋に私は見覚えがあった。

 

 ………何せほんの数日前に休憩に使った覚えがあったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 当然ながら外部から明かりが見えたら小屋に隠れているのがばれるので、光源は最小限にしたかった。その上で暖も取りたかったので備え付けられていた照明も、燈も使わなかった。

 

「お待ちください、今火を起こします」

 

 湿気気味の薪に紙を追加して従士は薪ストーブ(飾り気の少ないペンシルバニア・ストーブだった)に点火した。私は泥と血で汚れたびしょ濡れの外套を脱ぎ、同じく泥と血で汚れた上着を脱いだ。うわぁ、下のカッターシャツまで完全に染み込んでやがる。

 

 白地な分汚れは丸わかりだ。こりゃあ後で捨てるしかないな。上着含め新品をヤングブラッドに仕入れてもらうしかあるまい。

 

 私は半裸状態になると鼻を啜り、身体を震わせる。今更ながら身体が冷え切っている事に気付いた。下手に少し暖かい小屋に入ったために自身の身体がどれだけ冷たいかが分かってしまう。小屋の中にあったタオルで雨水と泥と血で汚れた身体を拭いていく。

 

「若様、御傷の方を失礼致します」

「ん?あぁ……頼む」

 

 マットが地味に硬い簡易ベッドに座り、毛布に包まる私に外套を脱いだだけの従士が駆け寄った。びしょ濡れの上着に雨水の滴る髪のままで小屋から探し出したのだろう救命キットを持って傍に来る。右耳を縛るように結んでいたハンカチを外していく。あー、うん。真っ赤所か黒ずんでるな。

 

「痛みますが御容赦下さいませ」

「任せる」

 

 そう返答したかどうかというタイミングで鼻孔に消毒液のアルコール臭が漂ってきた。滴る液体が触れる感覚と共にズキズキという痛みを感じたがそれも次第に薄れていく。恐らくは局所麻酔を使用したのであろう。止血用の冷却スプレーが傷口を凍結させ、細胞を活性化させるための成分を含んだ軟膏が塗られる。そしてガーゼで抑えられた状態で包帯で覆われる。

 

 一応これで化膿する可能性は最小限に抑えられたと言えよう。救命キットの装備は所詮は応急処置用ではあるがまずは上々だ。まぁ、再生医療があるので最悪片耳が腐り落ちようとも切除した後に細胞片から培養した耳を縫い付ければ良いだけだがね。

 

 ………耳を千切られて平然とこんな事考えている自分はとっくの昔に末期な気がしない訳でもないが。

 

「残念ながら川幅は広く、荒れています。橋を渡るのも川を泳ぐのも推奨出来ません」

 

 そもそも待ち合わせ場所とは違うので、橋が渡れようとも地上車の停車場所まで歩かなければならない。

 

「方角は分かりました。川伝いに歩いていけば待ち合わせ場所に辿り着けます。今は体力の回復を優先し、その後に向かいましょう」

「あぁ、流石に寒いし疲れたからな。休憩したい」

 

 ベアトの提案に私も賛同する。今の位置的に徒歩で、しかもこの天候では一時間以上は歩かねばなるまい。どうやら我々は山林をさ迷って見当違いの方角を進んでいたようだった。失敗だな。

 

「幸い防寒具の類はこの小屋に完備されております、暖は取れるでしょう。衣類の汚れを落とすのは難しいですが乾燥は出来そうです。御食事も保存食なら御座います、温めて召し上がりますか?」

「ああ、そうだな……貰おう」

 

 相当疲労していたのだろう、少し空腹感を感じて私は賛同する。

 

「それでは少々お待ちを……」

「いや、私がやろう」

 

 私は調理を行おうとしていた従士の手を止める。

 

「若様……?」

 

 ベアトが怪訝そうな表情を浮かべるので私は補足説明を行う。

 

「それより彼方の部屋で身体を拭いてこい。いつまでも捨て犬みたいにびしょ濡れじゃあ敵わんからな。それに、お前だと二人分の所を一人分しか作らなそうだしな?」

 

 私は冗談めかしてそう口にする。その時脳裏に過っていたのは幼少期の記憶だった。拗ねた私が北苑の狩猟園で迷子になった時の記憶だ。あの時は皇帝の財産だから小屋の保存食を食べようとしなかったので命令して食べさせたのだったか……。

 

「ここの飯は伯爵家の財産だが気にするな。お前みたいな信頼出来る部下のためなら飯一人分所か屋敷一軒と引き換えても問題ない位だからな、遠慮せずに食べとけ。私としてもいざと言う時に空腹で力が出ないなんて言われたら笑えないからな」

 

 冗談めかして私は語る。実際にベアトが自分の分を作ろうと考えてなかったかは分からない。私の自惚れかも知れない。それでもいつまでも彼女をびしょ濡れにする訳には行かなかったし、少し位は手伝いもしたかった。それもあって調理を受け持つ事にした。

 

「ですが……いえ、了解致しました」

 

 僅かに迷った素振りを見せつつも、最終的に彼女は私の意見に従った。隣の部屋に向かうのを横目で確認しつつ私も薪ストーブの方へと向かう。

 

 ポットにペットボトルのミネラルウォーターを注いで薪ストーブの上に鎮座させる。木箱の中で包装されていた銀皿とカップを取り出す。

 

「門閥貴族の避難小屋ともなるとそれなりに豪華なものだな」

 

 カプチェランカやエル・ファシルでは帝国軍から鹵獲した冷製ヴルストや黒パンばかり食べていたが、流石に伯爵家の狩猟園に完備されている保存食は戦場での摂取を想定していない分、幾分かマシな内容だった。

 

 パンは缶入りのミッシュブロート、真空パック入りのコトレット(カツレツ)は加熱処理して封を切ればソースの香ばしい匂いが漂う。ビーフ・ジャーキーは即席のツヴァーベル・ズッペ(オニオンスープ)に含めればスープ自体にも旨味が染み出て肉も柔らかくなるだろう。デザートはドライ・フルーツがある。即席の珈琲も豆は厳選された品種だ。

 

 生粋の軍用戦闘糧食に比べればコストはかかるし匂いが強くて居場所がばれやすい。しかも火を使う等手間暇がかかるし消費期限も短い。前線だと味だけは好評だろうが大半の兵士は嫌がるだろう代物だった。

 

「ふぅ………」

 

 ある程度の準備をして後は湯が出来るのを待つだけ、という状態になると私は毛布に包まりながら当てもなく薪ストーブの火をぼんやりと見つめ続けていた。

 

「………震えるな」

 

 小刻みに震えている左腕を見つめ、自嘲気味に小さく呟いた。その震えは寒さによるものではない事は知っていたが、同時に情けないといって止める術も無かった。カプチェランカの時と違い抑えるべきもう片方の手は存在しない。唯ひたすらに震えが自然に止まるのを待つしかなかった。

 

「……っ!」

 

 フラッシュ・バックしてくるのはほんのついさっきまで殺し合いを演じていた獰猛な畜生の姿だった。同時にそれと重なるように思い出されるのは同じ位に、いやそれ以上に野生的な蛮人の戦斧を振り下ろす光景だ。

 

「……はっ、あれを素手で締め殺すとかマジかよ?」

 

 私が相対したアオアシラは小柄で痩せていたが、あの石器時代の勇者は信じがたい事に赤い大物を素手で殺して剥製にしたという。命中すればまず四肢が引き千切れる爪の一撃を避けて懐に入り込みそのまま腹を連打、厚い毛皮と脂肪を貫いて内臓に食らった衝撃で苦しんでいる所を脇腹から背後に回り込み、背骨が砕けそうな程の握力で首を締め上げて窒息死させたのだとか。うん、何言ってるか分かんない。

 

「……結構、辛いものだなぁ」

 

 ひたひたと懐かしい、そして出来れば二度と感じなくなかった『あの』感覚と感情が広がっていくのを私は感じ取っていた。

 

「イゼルローンで遭難して以来か?いや……」

 

 実の所、オフレッサーに右腕を斬り落とされた時から私は『あの』感覚を感じてはいた。唯、私が誤魔化していただけだ。目前の目標に集中する事で自分自身、この感覚を見て見ぬ振りをしていただけだ。自覚したら気が狂いそうになってしまうから。

 

 ……尤も、糞熊公のお陰で意識させられてしまったがね?

 

「………若様?」

 

 その不安げな声に反応して私は肩を震わせて声の方向に振り向く。だが、ある意味ではそれは失敗だったかも知れない。

 

 ……流石に濡れたカッターシャツ一枚に毛布を被る女性の姿はなかなか反応に困った。

 

「あっ……いや、拭き終わったのか?」

 

 一瞬言葉に詰まったがすぐに当然の事だと理解する。

 

 頭から吐き出された血液を被った訳ではないにしろ、泥水で相当衣服も汚れていた筈で、しかも濡れたまま着ていれば当然風邪も引くだろう。比較的すぐに乾くカッターシャツは兎も角それ以外は脱いで乾かした方が良かっただろう。

 

 とは言え、絞ってはいるだろうが濡れて若干透けているカッターシャツ一枚に毛布を被っている姿は少し倒錯的ではあったが。

 

(いや待て、この程度今更だろうが)

 

 頭を振って意識を切り替える。この程度の露出なぞ今更気恥ずかしく思う程ではない。下着一枚位までなら何だかんだあっても見慣れている。全く問題ないではないか。

 

 ……いや、それはそれで問題な気もするが。

 

「若様……?」

 

 先程と同じように怪訝そうに従士は呼び掛けた。いや、先程よりもより不安そうに、そして疑念を浮かべるような尋ね方だった。

 

「あー、気にしないでくれ。……少し考え事をしていてな?」

「そう……でしたか。その……何というべきでしょうか……若様がどこか別の宇宙にでも思いを馳せているような目付きでしたので」

「はは、何だそりゃあ?」

 

 歯切れが悪そうにそう答える従士に私は乾いた笑い声をあげる。実際、彼女も自身の表現力が今一つであると理解しているのか何も口にはしない。

 

「……湯が沸騰してきたな。もう少し待っておいてくれ。そこのベッドかソファーに座って休憩してくれれば良い」

「……了解しました」

 

 恭しく礼をした後ベアトはベッドの方に座り身に纏う毛布を一層深く着込む。どうやら彼女も相当に疲労が溜まり寒さに耐えているらしかった。出来るだけ早く温かい物が必要だろう。

 

「……即席の珈琲だが先に飲んでおけ。疲れているだろうから砂糖は多めに入れておいたぞ?」

「はい、申し訳ありません……」

 

 湯気立つコーヒーカップを食事の前に差し出す。恭しくベアトは受けとるが口にはせずただコーヒーカップを両手で持ち見つめ続けるだけだった。

 

 暗闇の中、コーヒーカップを見つめ続ける金髪の美女の姿が薪ストーブの灯影に照らし出される。長い金色の髪と紅玉の瞳が輝く姿は中々幻想的だった。

 

「………」

 

 その姿にほんの少しの間だけ見惚れた私は、しかしすぐに作業に戻る。数分後には調理を終えた料理を銀皿と椀に乗せてベアトに差し出していた。私は対面のソファーに腰かける。

 

「大した内容ではないが仕方ない。取り敢えず豊穣神達に祈ってから頂くとしようか?」

「はい」

 

 頂きます、と殆ど同レベルに形式的な食前の祈りの後に私達は漸く食事に手をつけた。より正確にはまずは砂糖を多めに注いだ珈琲を頂いた。

 

「甘いが酸味もあるな。まぁ、こんなものだろうな」

 

 即席珈琲の酸味はやはりどうしようもない。エリューセラ産の激安官給珈琲よりはマシではあるが、ここ暫くロースト仕立ての高級豆ばかり頂いて舌が高級品に慣らされてしまっている私にはそれなりに苦痛な味ではあった。舌が馬鹿になるので余りやりたくないが誤魔化すために更に砂糖を追加しておく。

 

「……若様、大分遅れてしまいましたが先日の……いえ、此度の事に関しまして謝罪申し上げます。私は……」

 

 暫く食事をしているとスープを掬っていたスプーンを止めて、ベアトが震える声で口を開こうとする。

 

「本当に今更だな」

 

 私が被せるようにそう続ければ肩を震わせて従士は顔を青くする。その姿を見つめ久し振りに見るな、等と考えてしまい、そんな意地悪な自身に嫌悪感を感じた。

 

「……別に構わんさ。熊公の事なら寧ろ助かった。戦わずに済ませる術は無かったし、私一人だとぶっ殺せてもその後に圧死していただろうからな。エル・ファシルの事なら……」

 

 ふと、特に理由もなく私は自身の肘までしかない右腕に触れる。

 

「……あれこそ不可抗力ってものだよ。誰があの場にいても大して運命は変わらなかったろうさ。いや、お前の代わりに一個分隊いてもより悪い状況だったかも知れない」

 

 嘘ではない。最低限あの野蛮人を相手にするならばシェーンコップにリューネブルク伯爵がいなければどうにもならないだろう。それですら時間稼ぎ出来れば幸い、といった所が私の見立てだ。寧ろあの場で私の付き人は咄嗟の内に身を張って最善の判断をしてくれた。

 

「ですが……!!」

 

 悲壮な表情を浮かべて此方を見つめる従士に、しかし私は疲れた表情でそれを見つめ続けるだけであった。

 

「いいから、この話はしたくない。しても互いに辛いだけだ。それに……お前も去る積もりは無かろう?」

 

 石器時代の勇者にまつわる話なんてするだけ苦痛でしかない。誰が好き好んで腕を斬り落とされた話をしたいのか?それにベアトも色々と覚悟して合流した筈だ。ならば今更議題にするべき話とは思えなかった。

 

「………了解しました」

 

 私の右腕を見つめ、顔を辛そうに歪ませる従士。それだけで彼女の忠誠心の高さは理解出来る。私としてはそれだけで十分に思えた。自分でいうのも何だが無駄に彼女の罪悪感に付け込むような事はしたくない。

 

「……食事を続けよう」

 

 そこからの食事は重苦しい沈黙の内に過ぎていった。互いに疲労と思う所があったためにそれなりに美味しい食事を義務的に摂取し続ける。

 

「若様……」

「先に寝ておいてくれ。まだ眠りたくない」

 

 淡々と食事を終えた後、就寝しようとする従士に私は静かに命じた。静かだが、有無を言わさぬ口調だったように思う。

 

「……了解致しました。何かあれば直ぐに起こして下さいませ」

 

 そう言って私のすぐ傍にハンドブラスターを置き、まだ若干濡れた髪のまま付き人は毛布に包まり眠りに落ちる。一瞬彼女の丸みのある太股、次いで項に視線が向かうがすぐに私はそれを止める。

 

 暫くして小さな小鳥の囀りのような吐息が響いてきた。

 

「………」

 

 私は物音も立てずに食事の支度中のようにストーブの中で燃えながら崩れていく薪を見つめ続けていた。外は激しい風と雷雨が未だ止まない。

 

 ふと、背筋が凍るような寒さに肩を震わせた私は小さく呟く。

 

「……生きているんだよな?」

 

 その主語が自身と従士を指している事は言うまでもない。

 

「………っ!」

 

 私は蹲り、震える左手で目元を押さえる。今更のように溢れ出そうになる感情の奔流を抑えるためにそれが必要だった。深く、深く深呼吸をして息切れするように途切れ途切れになりそうになる呼吸を落ち着かせようとするがそれは困難だった。当然だ熊公のせいで思い出したくもない記憶を思い出してしまった。

 

 あの大熊に遭った時、私はオフレッサーと遭遇した時と同じように恐怖していた。絶望していた。トラウマになっていた。

 

 あの野性的で狂暴な風貌と死臭、圧倒的な迫力は見る者をそれだけで怯えさせる。一対一ではまず助からない。狙われたら十中八九殺されるだろう。

 

 実際、私はあの時遅かれ早かれ殺されている筈だった。まさに瓜二つだ。それぞれ腕一本と右耳で済んだのは僥倖過ぎる。

 

「はは、久々に思い出して来たなこの感覚……」

 

 ベアトが寝入ってしまい、先程まで感じていた感覚が再度私に這い寄って来る。

 

 小さい頃に良く感じていた感覚だ。想像していた感覚だ。覚悟していた感覚だ。恐れていた感覚だ。

 

 冷たくて、苦しくて、辛くて、痛い……死ぬ前に感じるであろう攻め苦を幻痛のように感じ取り、孤独感と絶望と不安感に苛まれていく感覚……いや、実際何度も死にかけてその感覚はある意味幼少期よりも遥かにリアリティを持って私の五感を侵して来る。犯してくる。冒してくる。

 

 仄暗い絶望が、常人には理解出来ないであろう孤独感と恐怖が私を苛む。

 

「……いや、それだけじゃあない。そんな事じゃない」

 

 死の恐怖がすぐ目の前にあった、それは私に幼少期の苦しみを思い出させる一因にはなっただろう。だがそれだけじゃない。それだけならまだ耐えられた。我慢出来た。本当の苦しみはそれだけではない。

 

「ベアト……」

 

 私は小さく自分の苦しみを共有してくれたあの子供の名前を呟いていた。

 

 そうだ、本当の苦しみは痛い事でも、寒い事でも、辛い事でも、苦しい事でもない。それらを共有出来ない事だ。理解して貰えない事だ。吐き出せない事だ。孤独な事だ。

 

 人は一人では生きていけないし、孤独には耐えられない生き物だ。喜びも悲しみも、幸福も不幸も誰かと分かち合わなければ生きていけない生き物なのだ。

 

 そして、私は二重の意味でそれが出来なかった。一つは貴族として、今一つは転生者として。

 

 孤独で孤高な存在が門閥貴族だ。誰かの後をついていく事は出来ないが故に、貴族は臣民を導き、先導する。だから弱みを見せられないし、弱音を吐けない。だからと言って諦める事も、投げ出す事も許されない。彼らが心を許せるとすれば同じ一族位のものだろう。だから貴族は身内を重視し、大切にする。

 

 恐らく私が前世の記憶なぞなく、唯の帝国貴族であればそれでどうにか耐えられただろう。だが……私にはそれが出来ない。

 

 転生した事を周囲に伝えるなぞ論外であるし、まして未来に来るであろう破滅なぞ信じてもらえないだろう。訳の分からない妄言を言い続ければ周囲の顰蹙を買うだけでなく一族にまで迷惑がかかる。だから私は自身の苦しみも絶望も口に出来ないし、それを共有も出来ない。

 

 そうだ……あの時、寒くて小さな小屋の中で毛布に包まって泣いていた糞餓鬼の訳の分からない、要領を得なければ具体性もない苦しみを優し気な笑みを浮かべ受け止めてくれた少女、みっともなく喚く糞餓鬼を抱きしめてあやしてくれた少女だけが私の孤独な心を癒してくれたのだ。理解はしていなくても、完全に分かり合えてはいなくても、それでも私の惨めな弱さを受け入れてくれたから、傍で守ってくれたから私は今日まで自暴自棄にならずに済んだのだ。それを……。

 

 あの石器時代の勇者の一撃が盾になった彼女の背中に振るわれた時、私は恐怖した。そして……。

 

「また、同じ失敗をしちまった………」

 

 そして、あの獣の鋭い爪が彼女の背中を切り裂いた時、私は同じ失敗を繰り返した事を悟り、同時にどれだけ絶望しただろうか?そして……そして………。

 

「うっ……うぅ………」

 

 激情により私の平静は決壊寸前だった。目元は熱くなり、目元は潤み、視界はぼやける。頬が紅潮するのを自覚した。表情がひしゃげたように歪むのを感じた。様々な感情が頭の中で入り組んでぐちゃぐちゃになり纏まった思考は出来そうに無かった。

 

「こわい……いたい……さむい………もういやだ……もうがんばりたくない………」

 

 薪ストーブに近寄って毛布に包まっていても私は寒さに苦しんでいた。身体が寒いのもあるだろうが、多分それ以上に心が寒かった。寒さに震えていた。孤独に震えていた。

 

 私は死への恐怖と孤独への恐怖から明らかに平静を欠いていた。どうして自分ばかりがこんな目に合わないといけないのか?苦しまないといけないのか?そんな詰まらない事ばかりが頭に浮かぶ。

 

 非生産的な現実逃避だった。只の甘えだった。完全に私は正気を失っていた。

 

 だからきっと、その責任は私一人に帰するべきなのだろう。全て私の責任だった。

 

「若様……?」

 

 不安げな、どこか幼げなその声に反応して私は振り向いていた。いつの間にか起きていた彼女は泣きはらした私の顔を見て目を見開く。

 

 同時に私の心の中に目覚めさせてはいけない欲望の灯火がついた事に気付いた。そうだ、目の前の少女は誰だ?従士だ、私の従士だ。分かっている。それは分かっている。だが………。

 

「な、何か御座いましたでしょうか……?」

 

 毛布にくるまり震える私の姿に小動物のような怯えた表情を向けて立ち上がる。毛布を被ってはいるがうっすらと曲線を描いた身体の輪郭が浮かび上がる。

 

「い、いや……何もない。気にするな………」

 

 その肉体美に一瞬見惚れた私は、しかしすぐに邪な感情を無視するように視線をストーブに移して吐き捨てた。

 

 だが、それは失敗だった。動揺しながら吐き捨てた言葉は震えていて寧ろ彼女の疑念を強めただけであった。

 

 此方に寄り添うように来る従士に私は仰け反るが、そんな事は気にせずに彼女は私の左腕に両手を添えた。

 

「御無理はいけません、御要望が御座いましたらどのような事でも何なりとお申し付け下さいませ」

 

 優しげでいて不安げな、母性と幼さと純情さを感じさせる表情に真摯で、そして誠実な口調で彼女は語りかけた。

 

 ……だが、それはある意味では悪手だった。

 

「えっ……?」

 

 彼女の小さな驚きの声が聴こえた気がした。残念ながら後々の私のその時の記憶は曖昧で実際の所は声を上げていたのかは分からない。しかし、恐らく彼女はすぐにこれから自身に降りかかる不本意で身勝手な未来を理解した事だろう。

 

 小柄な人影が固いベッドの上に押し倒されていた。身を包んでいた毛布ははだけ、半乾きの薄いカッターシャツ一枚のみを着ている均整の取れた肢体は半ば無理矢理ベッドの上に寝かしつけられていた。

 

 私は不躾にこの幼馴染みの家臣の身体に視線を這わせていた。女性特有の曲線の目立つ柔らかそうで、しかし軍人らしく引き締まった身体だった。腰は括れ、胸元は程好い大きさの張りがあり、手足は細く、衣服から出ている範囲だけでも染み一つない白い肌だ。まず世間一般で魅力的と言える体つきであると言えた。

 

 ベッドの上で広がる金髪が暗闇の中で仄かに照らされる。この時点で私は彼女が薄いシャツの下に下着も着こんでいない事に気付いた。

 

「ベアト……」

 

 私は熱に浮かされたように従士の名を呼び、おどおどしく、しかし厚かましく彼女のカッターシャツの釦に左腕を伸ばそうとする。

 

「若…様………」

 

 無表情を装っていた表情が強張り、紅玉色の瞳が震えている事に気付いた。それが僅かに私の獣染みた思考を正気に戻した。

 

「………」

 

 首元の第一釦に伸ばされていた私の腕が止まる。私達は互いを見つめ合う。尤も、私は兎も角彼女の瞳に映るのは十中八九恐怖の感情であっただろうが。

 

「あっ……」

 

 私はどうにか溢れかえりそうになる欲望を押さえつけて、伸ばしていた腕を彼女の頭の上に乗せた。そして小さく撫で回し、その金糸の髪を弄ぶように触れる。

 

「済まん……タガが外れる所だった。すぐに……すぐにどくから……少しだけ……少しだけ赦してくれ……」

 

 頭を撫でながら私は震える声で懇願し、哀願する。それが身勝手なものだと言う事は理解していた。それでも、嫌悪の視線を向けられたとしても今の私は人肌の温かさが欲しかった。孤独と恐怖を誤魔化すためにどうしてもそれが不可欠だった。

 

「若様………」

 

 震えた、そして怯えた瞳が私を射抜く。私はその視線に身動ぎし彼女の頭に触れる手が止まる。

 

 私は彼女に向けられていると思える感情を想像し、顔を青ざめさせていた。きっと失望されているだろう。覚悟はしているがそれは辛くて怖いものだった。

 

 醜い欲望を見られてしまったのだ、もう以前の関係に戻れない……私の脳裏に後悔と恐怖の感情が宿る。だが………。

 

 次の瞬間、か細い腕が私に伸ばされた。そして冷たくて、しかし温かな白い手が私の頬に触れる。

 

「大…丈夫……です………」

 

 優しく、壊れ物を扱うように頬を撫でながら、ベアトは私を見つめる。

 

「私は…大丈夫……です…から……」

 

 絞り出すような、悲しげで儚い声で彼女は囁いた。そして私は薄幸そうで、寂しげな幼なじみのその言葉の意味を正確に理解していた。

 

「ですから……一人で我慢なさらないで下さいませ」

 

 耐えるような、堪えるようなそれでいて慈しむような笑みを浮かべて彼女は私にそう申し出た。彼女も子供ではない。その言葉の意味位理解している筈だった。つまり………。

 

「済まん……済まない……済まない………ごめん………ごめん…………」

 

 私は優しげに微笑む従士に何度も、何度も何度も謝罪の言葉を口にする。目元からは溢れんばかりに涙が流れていた。それは自身の自制心の無さと情けなさに対する嫌悪感であり、彼女の献身に対する償いであった。

 

 だが……だが、その言葉とは裏腹に私は己の内にある残酷な嗜虐心と汚れた情欲を自覚していた。目の前の付き人が一時の私の心の安らぎのために自らを捧げる姿に明らかな満足感と優越感を抱いていた。

 

 それは恐らくどこぞの金髪の皇帝が最も嫌悪するものに違いなかった。余りに高慢で、傲慢な腐敗した特権階級の持つ無分別で無遠慮な欲望そのものだった。

 

(多分……碌な死に方しないんだろうな………)

 

 多くの命を殺しておいて今更ではあるが、私は自身の運命についてそのような事を心の中で考えていた。

 

 そして……そうやって言い訳をしながら、そうやって自己正当化しながら、私は従順で献身的な少女を無理矢理に組伏せていたのだった。

 

 

 

 

 

 古代の言葉に『藁にもすがる』と言う言い回しがあると言います。文字通り藁のような頼り無く、すぐに切れてしまうような存在ですら苦し紛れに頼り、すがってしまう事を意味します。

 

 今更のように私はその言葉を脳裏で反芻し、自嘲します。何と今の私にぴったりの言葉なのだろうか?と。

 

 ……そうだ、私は藁だ。追い詰められた人間が、絶望に溺れる人間が少しでも心の安寧を求めてすがり付く、波間に漂う金色の頼りない細い細い、藁の糸だ。

 

 だからきっと私の存在価値は本当にその場限りの、いらなくなれば捨てられ、忘れ去られしまう藁のような存在なのだろう。

 

 それでも……そうであるとしても…………。

 

「構いません。それでも……それでも『今だけ』でも私の居場所があるのなら、私の存在価値があるのなら、私を傍に置いて下さるのなら……私はそれで……それで…………」

 

 欲望と衝動のままに貪られ、食い荒らされ、なぶられ続ける金髪の少女が……それでも濁った瞳で愛しげにその頭を見つめ、抱き寄せ、愛撫しながら囁いたその言葉を、しかし彼女の主人は聴きとる事は無かった………。




ひょっとしなくても婚約者に色々フラグ立てた小屋で夜戦始める主人公は普通に道徳的にドクズ。腐敗した門閥貴族は族滅しなきゃ(使命感)




・御報告

作者「ふぅ、投稿完了だな。ではそろそろこの書き上げた夜戦回(二万字)を投稿予約するか。けっ!何がらいとすたっふルールだよ、お高く留まりやがって!んなもん怖かねぇ!訴えられようがブッ飛ばしてやんよ!」
らいとすたっふルール=サン「ドーモ鉄鋼怪人=サン。らいとすたっふルールです」
作者「アイエェェェェ!!?」
らいとすたっふルール=サン「アナタ、会社の二次創作のルール破った。ケジメしてもらう、いいね?」
作者「ザッケンナコラー!スッゾコラー!」
らいとすたっふルール=サン「ハイクを詠め!」
作者「サヨナラ!」

 意訳
本番(約二万字)は訴訟の可能性もあるから作者のパソコンの中で永久封印ですわ、すまんな


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