帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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第百四十五話 イケメンの屑発言の美化補正率は一五〇%位ありそう

「何をやっているのっ!!?貴方達は我が家から無駄に禄を食むだけの役立たず共ですかっ!!?どんな手段を使ってもいいから早くあの子を見つけ出しなさいっ!!」

 

 屋敷の広間で扇子のへし折れる音と共に殆ど悲鳴に近い叫び声が響いた。その場にいた使用人や警備兵達は恐怖にひきつった表情を浮かべて必死に捜索を続ける。

 

 屋敷の広間で豪奢なドレスで着飾りつつも髪形は崩れ、目を血走ったように見開く夫人が先程の叫び声を上げた事で息切れ気味に呼吸を行う。足元にはへし折られて最早使い物にならない扇子の残骸が打ち捨てられており恐る恐ると使用人達が回収する。

 

 ツェツィーリア・フォン・ティルピッツ伯爵夫人にとって状況は今にも気絶しそうなものだった。

 

 ふしだらな小娘の諍いの煽りを受けて息子が怪我をした事への衝撃で彼女は一旦は精神的に疲弊しベッドで呻く事しか出来なかった。そこに伯爵家に輿入れした時からの付き合いのある家政婦長からの知らせである。

 

 これまで殆ど死んだような状態だった彼女の精神は瞬時に活性化し、次いで発狂寸前となった。息子の婚約相手の小娘にとった行動もそうだが、そのまま場の混乱に紛れて屋敷を夜逃げ……しかもこんな天気で!……して未だに所在が掴めないのだ、こうもなろう。彼女は使えるコネと人員をフル回転させて息子を連れ戻そうと躍起になっていた。

 

 尤も、広大な敷地を捜索するにはその人手は不足しており、しかもよりによって安全とは言い難い狩猟区に逃げたとは考えてもいなかったのである意味でその努力は空振りであったのだが。

 

「奥様っ!グッデンハイム伯との御電話が繋がりましたっ!!」

「早く持ってらっしゃいっ!!」

 

 警備兵からの報告に夫人は怒鳴りつけるように命令する。すぐに台座に載せられた電話機(外見はクラシックなデザインだった)が兵士達によって運ばれてくる。ツェツィーリアは咳き込むように喉の調子を整えると受話器に耳を当てる。

 

「こほん……夜間遅くに失礼致しますわ。グッデンハイム伯エルンスト様でしょうか?」

『そのお声は……!?まさかティルピッツ伯爵夫人で御座いますか……!?』

 

 先程までの叫び声と同一人物とは思えない程の小鳥の囀ずりのような透き通った上品な声、しかしその声に受話器の向こう側の男の眠気は一瞬で吹き飛んだ。

 

『は、伯爵夫人……こ、これはまた……この時分に如何なる理由で御電話を……?』

 

 スパルタ市に設けられている第一方面軍司令部司令官宿舎で就寝していた所を無理矢理起こされ不機嫌気味になっていたエルンスト・フォン・グッデンハイム大将は室内の壁掛け時計を見た後、慌てて宮廷帝国語で挨拶を行う。時計の針は0300、午前三時を指していた。

 

「申し訳ありませんが長々とお喋りしている時間はございません、要点だけお伝えしますわ。伯爵、貴方確か首都防衛軍を含むハイネセンの部隊の命令権がありましたわね?」

『そ、そうですが……』

 

 惑星ハイネセンを含む同盟中央宙域の諸惑星と航路の安全を確保し防衛するのが第一方面軍であり、当然バーラト星系防衛を担当する首都防衛軍もまた間接的に指揮下にある部隊である。

 

「理由は詳しくは言えないのだけれど……息子がハイネセンから出国するかも知れないの。貴方の権限で今すぐ憲兵隊を動かしてあの子を保護して下さいな」 

『はいぃっ!!?』

 

 伯爵夫人のいきなり過ぎる命令に流石に大将は困惑と驚きの声を上げる。大将は詳しい説明を求め、夫人は苛立ちながらも息子の家出を多少婉曲的に伝える。

 

『し、しかし伯爵夫人!!亡命政府軍であればいざ知らず、市民軍を私的に動かすのは極めて困難で御座います!ここは警備会社や相互扶助会の人員を使った方が……』

「っ……とっくに命じていますわっ!!それだけじゃあ足りないから言っているのよっ!?そんな事も分かりませんのっ!!?」

 

 グッデンハイム大将の態度に小さく舌打ちし、次いで叱りつけるような伯爵夫人の言葉に大将は電話機越しに怖じ気づく。電話の向こう側の夫人がどれだけ怒っているのかが彼には嫌な程分かった。

 

「あの子が軍服を着て出ていった事は聞いてるわ!恐らく市民軍辺りがあの子に何か意地悪な命令でもしたに決まってるの!!あいつら私の息子の腕を奪っただけじや足りないのかしらねっ……!!!?いいからさっさと憲兵隊を動かしてあの子を保護しなさいっ!!ほかの者達にも私から電話はしているわっ!星道!空港!海港!宇宙港!軍なら交通インフラを監視する位は出来るでしょ!!?」

『ですがっ……!』

 

 確かに伯爵夫人の言う通り交通インフラの監視程度ならば然程の兵力を動かさなくとも可能ではあろう。監視カメラ等で本人の向かう方向を確認次第行先に先回りしてしまえば良い。だが………。

 

 物理的に可能としても政治的には簡単にはいかない。家出の原因が同盟軍上層部の命令と関わるのならグッデンハイム大将も易々と動けない。自身に何の連絡もないのなら恐らく命令元は統合作戦本部か国防事務総局、あるいは情報局辺りからの物であろう。民間インフラを使うのなら同盟警察や情報・交通委員会の職権にも触れる必要がある。下手にちょっかいをかけて藪蛇になるのを伯爵は避けたかった。

 

「……そう言えば来月姪子さんの結婚式でしたわね?」

『……伯爵夫人?』

 

 中々首を縦に振らない伯爵に対してふと、気付いたように伯爵夫人が低く冷たい声で尋ねる。

 

「確かヴィーンゴールヴの聖堂でマイスナー枢機卿直々に挙げてもらうそうですね?ふふ、知ってるかしら?我が家は信心深く、教会にも寄進をおりますのよ?それに夫の弟には教皇庁に勤める枢機卿もおりますのよ?マイスナー枢機卿とは修道院時代からの旧友だとか」

『……伯爵夫人、今すぐにでも憲兵隊を動かさせて頂きます』

 

 グッデンハイム大将は次の瞬間には重苦しい口調で承諾を返事をしていた。返事せざるを得ない。伯爵夫人のその言葉の意味が分からない程大将は無知な貴族ではない。

 

 宗教権威が衰微しているとは言え、決して死滅している訳ではない。特にオーディン教会においては多くの貴族が自分の子弟……特に平民や下級貴族の妾腹の子を……を一族の目や耳として送り込んでいる。皇帝が教皇を従える事実は変わらないものの、安全な結婚や葬式の主催、家督争いや決闘、諸侯同士の私戦の仲裁や帝位争いから遠ざかるための出家先としての価値から、彼らは帝国と宮廷の傀儡ではあっても決して無力ではない。

 

 伯爵夫人の言に逆らえばほぼ間違いなく姪の結婚式は悪い意味で忘れられないものになるだろう。典型的な門閥貴族の思考回路を持つ伯爵にとって姪の一世一代の大舞台に恥をかかせる事だけは自身の社会的地位に危険が及ぼうとも出来なかった。

 

 望み通りの言葉を聞けたために、受話器の向こう側で困り果てているだろう伯爵を完全に無視してツェツィーリアは優美な声で一礼をしてから一方的に切る。

 

「ひっ……!?」

 

 同時に電話機を運んで来た兵士達が小さな悲鳴を上げる。受話器を置いた後豹変したような夫人の、その炎のように燃える怒りを近くで見せ付けられたせいだ。表情こそ微笑みを浮かべているがその実、側仕えの侍女達すら視線を逸らす程の怒りが烈火の如く滲み出ていた。

 

「さて、これで主だった関連各所への連絡は終わったかしら?後は……」

 

 にこにこと引き攣った微笑みを浮かべながらツェツィーリアは踵を返して屋敷の廊下を進んでいく。途中出くわす使用人達は小さな悲鳴を上げながら頭を下げる。彼ら彼女らは一目で自身の主人の内で煮え滾る激情を察知していた。

 

 伯爵夫人の向かう先は可愛い可愛い娘の部屋だ。慌てて侍女の一人が先行して部屋の扉を開く。本来ならば部屋の主人は暗くした部屋の中で夢の国に旅立っている筈であるが……。

 

「ナーシャ、少し貴女の侍女を借りていいかしら?」

 

 にこり、と笑みを浮かべてお願いするツェツィーリアに、しかし寝間着姿のままベッドの上で起きていた娘は恐怖に顔を引き攣らせる。そしてすぐにやるべき事を思い出したように傍に控えるお気に入りの侍女の手を握り、庇うように立ち上がる。

 

「え、えっとね……!ずっとね?りゅーにはね?えほんよんでもらってたの!だからもうつかれてるからね?きょうはもうおそいしねっ!あしたっ!あしたならいいよっ!!」

 

 必死な表情でアナスターシアは母に言い訳をする。彼女は予め兄から事について密かに聞いていた。その上で幾つかお願いされており、ダンネマン大佐の娘であるリューディアの保護もまたその一つであった。

 

 より正確には今回の騒動の後始末を頼まれたある人物が来るまでの間、という前頭詞が付くその仕事をアナスターシアは母と侍女に迷惑をかけるために可愛らしく怒り、ぺちぺちと自分よりも遥かに大きな兄の頬を叩いて『お仕置き』をしてから仕方無く聞いて上げた。元々リューディアは彼女の最も親しい侍女の一人だ、そのために彼女は必死で母親に立ちはだかる。

 

 尤も、ツェツィーリアからすれば息子の食客として雇われ現在行方不明のダンネマン大佐の娘がいるのだから今すぐ髪を掴んで引き摺ってでも尋問したくもなる。それ故に娘の行動は不愉快であった。

 

「ナーシャ、少しの間借りるだけよ?代わりの侍女ならお母さんのを幾らでもあげるから。ね?お願い?」

「やっ」

 

 優しく、身体を屈めてお願いする母親に額から緊張の余り汗を流しつつも首をぷるぷる振って拒否する娘。その姿に背後にいるリューディアに冷たい、家畜を見るような視線を向けるツェツィーリア。ひっ、と侍女は小さな悲鳴をあげて身体を震えさせる。

 

 伯爵夫人は内心で凍えるような冷たい口調で呟く。

 

(本当、どいつもこいつも私の可愛い子供達をたぶらかして………!!)

 

 どうして我が子ばかりが周囲にこう都合良く利用されてしまうのか、とツェツィーリアは苛立ち、頭に血が上っていた。

 

 本来ならばもう少し穏当な手段もあったのだが、彼女の最も嫌う金髪の従士は謹慎中であり、二番目に嫌いな息子の婚約者は今や自室に引き籠り入口は警戒する使用人達のせいで近付く事も出来ない。故にツェツィーリアは一層、目の前の侍女に半ば八つ当たり気味になっていた。

 

 女帝のような冷酷な態度で、ツェツィーリアは兵士達に命じる。

 

「お前達!ティルピッツ伯爵家当主代理のツェツィーリアが命じるわ。今すぐナーシャをたぶらかすその小娘を引っ捕らえなさい!その後、私が来るまでに息子の事で知っている事を尋も……」

「あら、孫の事で何をしようと言うのかしら?」

 

 伯爵夫人の命令に被せるような老婆の声が響き渡った。

 

 そして……その声にツェツィーリアはかつて妖精とも、天使とも称された美貌を恐怖で引き攣らせた。

 

 そう、恐怖で引き攣っているのである。怯えるように伯爵夫人はゆっくりと振り向いていく。それだけ声の主は彼女にとって恐怖の対象であり、逆らう事の出来ない相手であったのだ。その場にいた使用人達や警備兵も凍ったように声の主の方を見つめる。

 

 彼女がここまで怯える相手なぞそういないだろう。いたとすれば今は亡き皇帝グスタフ三世の皇后か。あるいは実の母か母方の幾人かの伯母、そして……。

 

「義母……様……?」

 

 ツェツィーリアは黒い喪服姿に幾人もの御付きを引き連れた鋭い目つきの老貴婦人を視界に収める。

 

 震える声で、怯えるような声で呟くツェツィーリアの態度に鋭い視線を細める老婦人は、これまた年齢に似合わず上品で、しかし鋭い口調で糾弾する。

 

「あらあら、随分騒がしい事ですこと。私が訪れても出迎えひとつ無いなんて、随分と伯爵夫人が板についたようですわね、ツェツィーリア?」

「それは……!?」

 

 明らかに嫌味であり、いちゃもんの類の言葉であった。実際、彼女は乗って来た地上車に家紋のエンブレムも旗も掲げず、しかも事前連絡も無しに夜中の屋敷に押し入り、中の警備兵や使用人達に報告をせぬよう命令しながらここに来たのだ。それ故、ツェツィーリアが屋敷の入り口で恭しい持て成しの挨拶を出来なかったのは当然ではあった。

 

 ……尤も、そのような言い訳が通る訳もないのも確かではあったが。

 

「あらあら、そこにいるのはナーシャかしら?うふふ、随分と大きくなったわねぇ?」

 

 とっくの昔に荘園での隠遁生活に興じていた前ティルピッツ伯爵家当主ルードヴィヒの妻でありツェツィーリアにとって義母に当たるゲルトルート、ゲルトルート・フォン・ティルピッツ伯爵夫人は義理の娘に嬲るような視線を向けた後、優し気な表情を浮かべて孫娘に呼びかける。

 

「おばーさま?」

 

 普段荘園に隠遁しているため然程面識のないアナスターシアは一瞬戸惑いの表情を浮かべるが、背後にいたリューディアの耳打ちで相手が自身の祖母であると教えられて改めて老貴婦人の顔を見つめる。そして幼くあやふやな記憶から祖母の姿を見出すと本能的に荒れている母親から避難するように祖母に駆け寄る。

 

「あっ……!」

 

 引き留めようと手を伸ばすツェツィーリアは、しかしすぐに義母からの冷たい視線に再度凍り付く。

 

「おばーさまっ!」

「あらあらナーシャちゃん、本当に愛らしく成長した事!小さい頃の子供達そっくりねぇ」

 

 手を伸ばして抱き着く孫娘に対して膝を折り、老婆はそれを迎え入れる。愛情たっぷりの抱擁を交わした後、にこにこと孫娘を自らの侍女に任せてリューディアにも手招きをする。

 

「話には聞いていますわ。貴女はナーシャのお気に入りだそうね?侍女でしたら責任を持って常に傍にいるものですよ?」

「義母様!いけませんっ!それは……!」

「お黙りなさい、いつ私が貴女の発言を認めました?」

 

 義母のその冷たい問いかけにあぅ、と小さな悲鳴を上げるだけで黙り込む現伯爵夫人。

 

「さぁ、貴女も早くいらっしゃい」

「えっ?あ、はぃ……!」

 

 猫なで声のような、しかし有無を言わさぬ迫力を持ってゲルトルートはリューディアを呼び寄せる。ちらり、と一瞬侍女は伯爵夫人を見やる。伯爵夫人の方は口を開いたまま何か言いたげにするだけでそれ以上の事は出来なかった。

 

 リューディアがアナスターシアの元に駆け寄ったのを見届けた後、老貴婦人は改めて義娘に視線を向ける。微笑を湛えた冷たい視線だった。

 

「さてさて、この部屋に来る傍ら使用人共に問い詰めたのだけれど……色々と面倒な事が起きているらしいわね?ケッテラー家のご令嬢さんとか、家出した孫の事とか、ね?」

 

 御淑やかなに放たれたその言葉に、しかしツェツィーリアの背筋は凍り付く。その尋ね方は彼女が輿入れしたばかりの頃に何度も向けられたそれと同じであったから。

 

「折角我が家を任せられるようになったと思ったのだけど………この分だと少しお話しなければならないようねぇ」

 

 頬に手を添えて、目を細めながら老貴婦人は嘯く。

 

「あ……ぅ………」

 

 ツェツィーリアはこれから始まるであろう追及の嵐に激しい立ち眩みを覚えたのだった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 温かい微睡の中、私は何とも言えない充足感と共に鈍い倦怠感を全身に感じとっていた。

 

 そして少しずつ混濁した意識は覚醒し、気づけば私は薄っすらと瞼を開いていた。

 

 寒い……それが殆ど思考の利かない私が最初に感じた感覚だった。今になって思えばストーブに汲んだ薪が全て焼けてしまったからであろう。外では何時間も冷たい雨が降っていたと記憶している。冷たい空気が小屋の隙間から入り込み、中はそれなりに冷え込んでいる筈だ。まして私は毛布しか被ってなかっただろうから尚更であった。

 

「うぅ…さむい………あったかい………」

 

 それ故に私は暖を求めて一層『それ』に抱き着く。柔らかく、じんわりと優しい温もりを称えるそれを抱き枕のように抱きしめると再度睡魔が襲い掛かって来た。

 

「わかさま………」

 

 優しく、労わるように『それ』に抱きしめ返され、頭を母親が子供にそうするように撫でられる感覚がした。私はそれに甘えるように一層強く抱き締め返し、同時にそのまま心地好さに抱かれたまま、睡眠欲に従い瞼を閉じて夢の国へと旅立っていく。

 

(……?そういえば……昔も…こんな事があった……か………?)

 

 僅かに脳裏に浮かぶその疑問も、すぐにあやふやに霧散していく。次の瞬間には、私はヒュピノスの導くままにその意識を完全に手放した………。

 

 

 

 

 

 

「………?」

 

 次に目覚めたのは一人固いベッドの上だった。

 

「あっ………」

 

 一瞬、私はここは何処であったか思い出せずに茫然とする。窓からは未だ少し暗いが朝焼けの光が注ぎ込んでいた。傍らには少し前からつけられたのだろう薪ストーブの火が燃える。私自身は毛布一枚の姿で傍らには丁寧にたたまれた衣服があった。きちんと整えられているがやや湿っており、泥と血で少し汚れている。

 

 そこで漸く私はここが何処かを思い出し、次いで今まで何があったかを思い出した。思い出して……血の気が引いた。

 

 そうだ、私はあの時……付き人をベッドに押し倒したのだ。よりによって私を必死に慰めようと健気に寄り添おうとした幼馴染みを!そして……そして…………!!

 

「うっ……!?」

 

 胃液を吐き出しそうになるのを寸前で堪える事が出来たのは幸いだった。いや、寧ろあんな記憶を思い出したのに吐かずに済んだのは良くない事かも知れない。罪悪感や後ろめたさがある振りをして実の所何の良心の呵責がないのを誤魔化しているだけなんじゃないかと思えてしまった。

 

 ………いや、今はそんな事はどうでもいい。私個人の感情なぞどうでもいい!それよりも………!!

 

「ベアトっ……!?」

 

 私はこの場にいない幼馴染でもある部下を必死に探す。

 

「はい、何でしょうか?」

「えっ……?」

 

 返事はあっさりと戻って来た。いつの間にか小屋の玄関が開いていた。入口に軍服を着こなして髪を整えた従士が此方を見つめていた。

 

「ベアト……?」

「席を外して申し訳御座いません。出立の準備と外の様子を見ておく必要がありましたので先に起きておりました。此方濡らしたタオルです、身体をお拭き下さい。洗面器に水も入れております」

 

 淡々と、従士はそう報告する。昨夜の事なぞ何も無かったかのようにいつものように、平然とタオルを私に差し出す。

 

「出立前に軽食の準備をしております。着替えは其方に置いております」

「ああ、知っている。その……」

「何でしょうか?」

 

 薪ストーブの前で軽食の準備をする従士が反応する。その義務的な口調と表情の前に私は口にするべき言葉を失う。その態度はまるで昨日の夜の出来事なぞ夢でしかなかったかのようにすら思えた。

 

「……いや、何でもない。御苦労だ」

 

 暫くの逡巡の後、私は追及をする事を止めた。これからやるべき事を思い出しここで話題にする事による悪影響を懸念して……というのは言い訳で実際はベアトが何を考えているのか判断出来ず怖くなって逃げたのだ。

 

「いえ、お構いなく」

 

 ちらりと此方を見た従士は視線を薪ストーブの火に戻す。私は重苦しい空気の中、出来る限り距離を取って濡らしてから水気を絞ったタオルで身体を拭き取っていく。乾いた体液で汚れた身体を……。

 

(………いや、汚したのは私だろうが)

 

 ベッドを良く見れば毛布やシーツが新しいものに交換されていたのに気付く。どうやら私が寝ている間に為されていたらしい。

 

 洗面器で顔を洗い、口を漱ぐ。自身の髪を少し整え、残った獣の血と泥が乾いてこびりついた衣服を着こんだ私が振り向けば時間を計っていたのかのように軽い朝食が用意されていた。

 

(情けないな……)

 

 自分自身が紐男のように思えた。いや、これ位常日頃から使用人にして貰っている事ではあるが……何故か今日に限って自分が他者に甘えて世話されるだけの紐男だと強く思えていた。

 

 気付け用に砂糖入りの珈琲に昨日と同じスープにはパンと干ビーフジャーキーが浮かんでいた。缶詰の桃がデザートという量も質も昨日には及ばぬものではあるがどの道朝からがつがつ食える訳で無ければ時間もない。小屋を出れば山歩きの再開なので余りキツい食事も出来ないとなればこんなものであろう。

 

「………取り敢えずは食べないと、か」

 

 豊穣神に簡単に祈りを捧げた後、必要に迫られているために義務的に朝食を腹に収める。その後、最低限必要な荷物を手にシェーンコップ達と合流を図る訳だが……。

 

「御待ち下さいませ、耳のガーゼの交換を」

 

 ベアトが恭しく申し出る。昨日の耳の怪我を応急処置はしたものの、物が物である。包帯とガーゼは染みが出来るように少し赤黒く汚れていた。どうやら傷が少し開いているようだ。まぁ、昨日の夜の所業を考えれば自業自得でしかないが。

 

「いや、今は合流を急ごう。時間がない」

「ですが……」

「行くぞ」

「……了解しました」

 

 私が強く命じるといつもに比べてどこかしおらしく従士は命令に従う。彼女なりに昨日の事に思う事があったのだろうか……?残念ながら私は思春期の少年のような気恥ずかしさを感じ、指摘する勇気を持てなかった。

 

 尤も、私としても昨日の事を考えるとベアトがすぐ顔の近くまで来てほしく無かったので彼女がすぐに従ってくれたのは好都合であった。もし目と鼻の先で視線が合えば私自身どのような反応をするのか分からなかった。

 

 重苦しい足取りで私達は小屋を出た。天気予報通り梅雨が降り止んだまだ薄暗い赤紫色の空の下、私達は歩き始める。そろそろ御婆様が屋敷に到着している頃であろうが一応上空に注意する。梅雨が明けた今なら空中ドローンの視界も良好ですぐに私達を見つけてしまうだろう。出来る限り木陰を歩く。

 

 一時間余りかけてフェンス沿いに歩いて私達は漸くそれを見つけた。

 

「着いたぞ……!待ち合わせ場所だ……!!」

 

 どこか能面で、あるいは険しい表情のままでいた私はそこで漸く喜色を浮かべていた。

 

 フェンスのすぐ向こう側はアスファルトで舗装された星道であった。そして星道の傍らには一台の地上車……トラックが停車している。その型式は私が予め借り上げていたものと同一だった。

 

 フェンスをペンチで千切り穴を作ってそこから敷地の外に私は抜け出す。それとほぼ同時の事だった。正面から飛び掛かった人影が私の目の前に来ていたのは。

 

「あっ!若様っ!漸く来られましたかっ!!ぐへへっ!衣服が汚れて半濡れな若様も中々に乙なんですなぁ!」

「げっ……ぐほっ!?」

 

 衝撃に一瞬私は噎せる。星道に停車していた地上車から這いずるような気持ち悪い動きで飛び出して来たレーヴェンハルト中尉が涎を垂らしながら抱き付いて来たようだった(避けたかったが疲労のせいで出来なかった)。

 

「や、止めてくれないか?気持ち悪い」

「嫌ですよぅ!!はふはふはふ!!ペロペロ!!ぐへへぇ!!濃厚な若様の体臭!!!興奮しますなぁ……ってんんん??」

 

 引き離す体力も気力もない私を抱き締めながらすはすはと軍服を嗅ぐレーヴェンハルト中尉は、しかし急に入念に鼻を押し付けて、首を傾げて怪訝な表情を浮かべる。

 

「ど、どうした……?」

 

 軍服を嗅ぎ、次いで胸元、首元、顔へと場所を変えていく中尉。

 

「何か若様……獣臭い、いや牡臭いような牝臭いような?」

「………」

 

 その発言に私は一瞬凍り付く。決して誉められた行為でない事は理解しているが、それでも私自身の名誉と信頼のためにもこの場で昨夜の事を勘繰られる訳にはいかなかった。

 

 私が言い訳の内容を考えて脳を回転させようとした所で傍らに控えていた付き人が口を開く。

 

「今この場では時間が惜しいため詳しくは後ほどとなりますが、若様は獣の血を浴びて汚れておられました。タオルで拭ってはおりますが、臭いが落ちきっていないのでしょう。それに此方に来るのにまた汗をかかれてしまったようです」

 

 昨夜の事をおくびにも出さず、淡々とベアトが答えた。双方共に嘘ではないが……。

 

「はぁ、成る程って……若様、耳にお怪我を?」

 

 何とも言えない表情で納得する中尉は、そこで私の耳の包帯に気付き表情を硬くする。次いで視線をいつの間にか私の傍に控えていたベアトに向けていた。

 

「……ちょっとした怪我だ、問題ない」

 

 付き人を庇い立てる意味もあるが、実際問題生命に危険がある程緊急性がある訳でもないので私は気にしないように命じる。私としてはさっさと車に乗ってこの場を去りたかった。祖母がそろそろ屋敷に乗り込んでくれている筈だが私を追跡している者はまだいるだろう。さっさと逃げるべきだった。

 

「中尉殿、時間がありませんのでそろそろ……」

「えっ?は、はいはい了解しましたよぅ!」

 

 催促するように背後から現れたシェーンコップ中佐。その催促にどこか釈然としない表情を浮かべつつ、レーヴェンハルト中尉は地上車の運転席に戻る。

 

「若様も、色々おありでしょうが取り敢えず荷台にお乗り下さい」

 

 目を細め、此方を探るような口調で催促する不良士官。私を見て、次いで従士を観察する。そしてどこか納得したような表情を浮かべる。

 

 その姿に私は自分の秘密を見透かされたのではないかと勘繰る。いや、十中八九バレただろう。面倒な……。

 

「あ、あぁ……」

 

 私はどこか居たたまれない気分になりながらもその勧めに応じる。後方から黙々とベアトは付き従う。

 

「随分と派手な冒険をしてきたようですな。耳が千切れておりますな。また家族と喧嘩を?」

「いや、庭先でヘマしてね」

「何をどうヘマすれば庭先で耳が千切れるのですかな……?」

「ケーキ作りに失敗でもしたんじゃないか?」

「我が家の嫁だと有り得なくもないですが……」

「マジかよ……」

 

 護衛役としてずっと残っていたらしい不良騎士とそんな下らない会話をしつつ、私は荷台に乗ってぐったりと座り込む。地上車の発車と共に騎士殿は医療キットを持ってくる。

 

「それでは失礼します。……中々痛々しいですな。本当、一体何があったのだか………」

 

 化膿しないように改めて消毒しつつ麻酔をかけていく騎士。彼としても耳が千切れるなんて事例は戦場でいくらか見てきただろうが、流石にアオアシラのアイアンクローを貰うなんて経験は聞いた事なかろう。

 

「中佐、私が代わりますので……」

「いや、私がしましょう。少佐も少しでも疲労回復した方が良いでしょう?」

「ですが……」

「いや、シェーンコップの言う通りだ。お前には世話になった、少し休め」

「……了解しました」

 

 私はシェーンコップの意見に賛同してベアトに休憩するように命じる。それは単純に彼女の疲労を気遣った事も理由だが……分かりきった事であろうがそれ以上に臆病な私の保身が理由だ。

 

「………大体予想はつきますが、中々に初初しいものですな?まるで思春期の学生のようです」

 

 暫くして、毛布を被り横になったベアトから小さな寝息が聞こえ始めてから 、シェーンコップは私の傍に来て小さな声で尋ねる。

 

「行動や年齢は初らしさから千光年位離れてそうだけどな」

 

 主従関係から色々段階を飛び越えすぎな気がしない訳でもない。というよりもそもそも、私が望めばベアトはどれだけ嫌がろうとも拒否する事が出来ない立場だ。そんな中でその場における感情の処理のためだけに『使った』ともなれば純愛も糞もない。自分の行った事であるが今更になって後悔ばかりしている。

 

「そうは言いますが二十年来の付き合いなのでしょう?それこそ今更では?」

「ライクとラブは違う事位言わなくても分かるだろう?」

 

 彼女は優秀だ。優秀な軍人であり、護衛だ。だがそれだけだ。常人のように恋愛に関心を持った事も興じた事も、学んだ事すらない。その方面でいえば初心な学生以下かも知れない。献身的で、純情で、忠実で、都合が良くて、扱いやすい愚かな女性である事を私は彼女以上に良く理解していた。彼女の昨夜の行動もそうだ、あれは、あの発言は私には忠誠心からのものに見えた。

 

「それは貴方の思い込みでは?人の好意を無碍にするものではありませんぞ?」

「だとすればベアトが混同しているんだろうさ。面倒見が良いからな」

 

 元より植え付けられ、仕込まれた忠誠心だ。立場的に恋愛経験なぞある訳ないし、許されない。愛情と親愛の区別がついているかも怪しい。元々世話好きな性格だし、忠誠心から私を慰める事を愛情と思い込んでいたとしても可笑しくない。はっ!だとすれば私は人の純粋な好意と善意に付け込んだ屑男って訳か!

 

「……やれやれ、ここまで落ち込むとは思ってませんでしたなぁ」

 

 陰鬱で、自虐気味な私を見て呆れ気味に肩を竦めるシェーンコップである。

 

「何だよ?ハイにでもなっとけば良かったか?」

「悲劇のヒーローのように落ち込まれるよりはマシでしょうよ。少なくとも相手をした方からすれば落ち込まれるのはそれはそれで複雑な心境でしょうな。自分を提供したのにそんな態度をされたらショックですよ」

「それは違いない」

 

 愛妻家になってもどうやら女性の扱いが上手なのは変わらないらしい。この帝国騎士は妙に女心の機敏に聡い。

 

「それにこう言っては何ですがね、仮に貴方の言う通りとしても、植え付けられた価値観とは言えそれを捨てるのは中々難儀なものですよ。腐っても自分を形作って来たものですからな。一度捨ててしまえば案外大したものではないのでしょうが覚悟を決めて捨てるまでが難しい」

 

 その口調は自身の経験を語っているようにも見える。

 

「どの道、もう時計の針は戻らないのですよ。貴方が誰それ構わず唾をつけるような人物ではない事位は理解してますよ。少佐殿との関係を、ここで一旦はっきりさせるべきでは?」

「はっ、他人事と思って言ってくれるな。私はお前程女受けする人間じゃない」

 

 私は詰るように不良騎士の発言を切って捨てる。

 

「おやおや、もう少し自分に自信を持ったらどうですかな?そりゃあ性格は兎も角として貴方も顔はそれなりに見栄えは良いでしょう?金銭面は言わずもがな。普通に考えれば優良物件ですよ?門閥貴族の立場を考えれば正妻でない方が逆に気楽ですしね」

 

 手のかかる子供に数式を説明する数学教師のような表情を浮かべながらそう嘯くシェーンコップ中佐である。

 

「そういう打算をする女を蔑む積もりはないがね。……ベアトはそういう性格じゃない」

 

 私の付き人にならなければ……恐らく彼女の性格だと身分や家柄が釣り合うかを気にするだろうがそれ以外だとそういう俗な物に然程拘らないように思えた。少なくともちゃんと相手の性格を見て人生を添い遂げる相手を見つけるだろう。

 

「だから不安だと?」

「……」

 

 シェーンコップ中佐はここで漸く私の核心を突いた。いや、狙いすましたのだろう、彼は私の瞳を見据える。私はその言葉に胸を突き刺されたような感触を受け、黙り込んでいた。

 

「だから怖いと?」

「……」

 

 追撃するようにシェーンコップ中佐は続ける。私は教師に悪だくみを暴かれた子供のように彼から向けられ続ける視線を逸らす。

 

「だから拘束するのですな?相手の好意が忠誠心からのものだけだと思えて、いつか自分なんかよりも余程人間として出来た男の元に行ってしまわないか怖いと?ならば自分の手元に縛り付けて他の者を見ていられなくすると?いやはや、貴方も中々貴族らしく、御人が悪い」

「……あぁ、その通りだ」

 

 にやり、と不敵な笑みを浮かべる中佐。私は深く深呼吸をして……恥の上塗りを承知で小さく頷いた。

 

 不良騎士殿の言う通りだ。色々言い訳を口にしているが……結局は怖いだけなのだろう。今でこそ、私は彼女に忠誠という『好意』を捧げられている。だから昨日のような事も『家臣として』恭しく受け入れてもらった。

 

 だが……仮に将来、彼女が本当に誰かに恋した時はどうなのだろう?彼女が本当に誰かに『好意』を向けた時、私は素直に受け入れる事が出来るのか?あんな事があった後に、いや昨日の事が無かったとして、私はそれを受け入れられるのか?

 

「無理だろう、そんなの………」

 

 私はすぐに答えを導き出す。無理だ。どうやら自分が思っている以上に私の性格は執着的で、独占欲が強く、嫉妬深いらしい。

 

 ベアトが本当の恋をしたとしても、まず周囲が許さないだろう。

 

 そして……きっとそれを言い訳にして私はベアトが恋した相手を処断してしまうだろう。いや、少なくともそうしようとするほかの家臣の動きを見て見ぬ振りをしても可笑しくはなかった。

 

 だって……っ!彼女は私の味方だから!幼い私の醜い醜態と独白を受け入れてくれたから!私を何度も助けてくれたから!手放したくなんかない!ずっと手元から放したくない!ずっと傍に居て欲しい……!!

 

 だから私は怖い。普段は気にしないで良いと思っているのに一皮剥けば私から出てくる本音はこんな醜悪なのだ。ベアトが私の事を主家の一人息子ではなく一個人として、一人の男性としてどう見ているのか……それを知りたくて、同時に怖くて知るのを先延ばししたくなる。

 

 彼女が植え付けられた私への好意なんて捨てて本当に誰かを愛するようになったら?もしかしたら深層心理ではその事を理解していて、それが怖くて私は二十年もあやふやなままで彼女を手元に置いたのではないか?

 

「堂々と正面から告白する勇気もない。だから取り敢えず手元に置いておく、という訳ですな。優秀だからというのも嘘ではないのでしょうが……それ以上に手元に置いてお気に入りだと周囲に見せておけば余程の愚か者か思い人でない限り少佐には近寄りませんからな」

 

 不良騎士は私の代わりに説明する。私自身決して意識して行っていた訳ではない。だが無意識のうちにそういう考えがあったのは間違い無かった。そうでなければこんな罪悪感に圧し潰されそうな気持ちなんかになる訳が無かった。

 

「中佐……私は……」

「別に責めている訳ではありませんよ。人は得手不得手がありますからな。私の人生とてそう褒められたものではありません。偉そうに講釈をたれるべき身ではないでしょう」

 

 ですが、と接続詞を繋げて、不良騎士は続ける。

 

「貴方がそこまで人を蔑ろに出来る程割り切れた人間でない事は理解しています。ですから助言位はしましょう。貴方が本当に従士の事を思うなら優柔不断な態度で決断を引き延ばすのだけは止めた方が良いでしょうよ」

 

 その言に私は気まずく俯く。中佐の言う事は余りに正論だったからだ。

 

「貴方にも色々と言いたい事があるでしょうが、二十年も好き勝手に引き摺り回して来たのです。挙句に今回の出来事、そろそろツケの清算をするべきでしょうな。引き摺り回した分慰謝料を支払うか、思いを伝えて責任を持つか、あるいは貴族の権力に物を言わせて監禁してしまうか」

「最後の選択を選んだらお前さん、離反しそうだよな?」

「当たり前でしょう?女性を紳士的に扱えないような悪漢は騎士として打倒せねば」

 

 平然と私をぶっ殺す宣言を宣う食客である。最悪権力を使えば妻子がどうなるか自覚しているのだろうか?

 

「態々バッドエンドルートを教えてやっているのですよ。余り失望させないで下さい。これでも貴方には恩があるのでね、貴方に戦斧を向けるような事態は『楽しくない』のは確かですよ。それに……」

 

 ちらり、とシェーンコップ中佐は毛布に包まり、丸まるように熟睡するベアトを一瞥する。

 

「私としては健全な形で貴方達に幸せになってもらう方が労働環境的に好ましいのですよ」

 

 不良騎士は出来の悪い弟を見るような表情を向けてそう言葉を紡いだ。

 

「……やっぱり他人事だっ!」

 

 私は逃げるようにそう吐き捨て、視線を反らし、黙りこむ。シェーンコップも言うべき事は言ったとばかりにそれ以降口を開く事はなかった。トラックが星道を走る走行音だけが聞こえる。

 

「………」

 

 ふと、私は複雑な表情を浮かべてベアトの寝姿を見つめた。無垢で幼げな寝顔だ。愛らしくて、可愛らしくて、どこか子供らしい笑顔。見た者は彼女を可愛がりたくて、愛でたくて、優しくしたくて、笑顔にさせたいと思うだろう。私も同様だ。

 

 そして……そして同時に、昨夜の事を思い返す。私がそんな彼女にどんな所業を行って来たのかを思い出す。

 

 私は欲深い、傲慢だ、身勝手だ、だから昨日のような事をしてきたし、これまでのように彼女の自由を奪い続けて来た。そんな私が彼女に告白を?

 

「本当に、私にそんな資格はあると思うか………?」

 

 私の小さな独白に答えてくれる者はいなかった………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハイネセンポリス港湾部から全長一キロの鉄橋を通り抜けた人工島にあるのがハイネセン民間宇宙港だ。一日一〇〇〇隻の民間宇宙船舶が出入港し、利用客は八〇万人を超えるサジタリウス腕最大の宇宙港であり惑星ハイネセンの宇宙の玄関である。

 

「さっさと着替えるぞ……!」

 

 流石に今の軍服で民間宇宙港に行く訳には行かなかった。駐車場に予め置かれていた地上車の中にあった民間の衣服に着替え、身分証明書、IDカードを懐に入れる。流石情報局、用意周到だ。途中着替える私に襲いかかろうとした中尉は気絶させてトラックの荷台に投げ込んでおく。

 

「それでは私は失礼致します」

「ああ世話になったな、銀行口座に給金は振り込んでいるから好きにしてくれ。今回の事で何かあればリューネブルク伯爵か御婆様に頼んでくれ、味方してくれる筈だ」

「承知しました。いやぁ、太っ腹ですな、若様の用意した装備、回収の余裕なかったので放棄したのに報酬減額無しとは!流石大貴族、懐が深いですなぁ!」

「えっ!何それ聞いてない!?」

 

 笑顔の帝国騎士は地上車に乗り込むと全速フルスロットルで逃げ出す。おいこらテメェ!!給料振り込まれたのを確認してから暴露しやがったな!!?

 

「若様っ!御気持ちは分かりますがお待ち下さい!!あれを……!!」

「っ……!?」

 

 トラックに追い縋ろうとした私は、私服姿に着替えたベアトに左腕を掴まれて止められる。一瞬その行動に動揺するが、すぐに彼女の言葉の意味を理解する。

 

「ちっ!!流石憲兵隊、仕事が早いな糞ったれ!!」

 

 私は視線を鉄橋に向け、舌打ちする。

 

 視線の先には既に鉄橋を走る第一方面軍憲兵隊の装甲車両の隊列が見えていた。

 

「母上もやり過ぎでしょうに……!」

 

 私は何とも言えない気分になる。恐らくは同盟軍に所属している帝国系軍人に電話でも掛けまくって無理矢理動かしたのだろう。流石にここまでするとは思ってなかった。

 

 私的な軍隊たる帝国軍や貴族の私兵軍なら兎も角、同盟軍は国家と市民の軍隊だ。一部の緊急事態を除き、上層部への報告や認可無しに部隊を動かすのは至難の技である。それをここまで……どのような理由をこじつけたか知らないが結局は私達を連れ戻す事が目的だ。この事実が知られれば同盟市民からすれば発狂ものだろう。全体の極々一部とは言え、自分達の軍隊を軍人ですらない貴族が独断かつ私的な目的で動かしたのだから。

 

「御婆様が荒れるな、これは……」

 

 序でに帰ったら私もかなり厳しく叱られそうだ。憂鬱になってくるね……!

 

 多くの利用客でごった返す宇宙港の入口に人の波を掻き分けながら私達は向かう。

 

「っ……!?押し流されそうになるなっ……!!」

 

 首都圏全域の市民が利用するほか、物流面でもハイネセンポリスの玄関である。極東のスクランブル交差点なぞ比較にならぬ人が出入りしていた。一歩進む事に人や荷物に当たりそうになる。

 

 その様子を見ていたのだろうか……ふと、左手に温かな感覚を覚える。

 

「……ベアト?」

「離れ離れになる危険があります、御容赦下さいませ」

「あ、あぁ……」

 

 私の左手を掴み先導しながら義務的に答えるベアトに私は狼狽え気味に承諾する。同時に昨日の事をまたもや思い出してしまい複雑な気持ちとなる。

 

(……今更に恥ずかしくなるな)

 

 公衆の面前なのもあるが、ただ手を繋ぐだけの行為にまるで恋人の出来た学生のような似合わない緊張をしていた。

 

 自分でも馬鹿馬鹿しく思えた。これまでも手を握りあったり握手したり何ていくらでもしてきたのに、あんなに絡み合った後に今更こんな行為が恥ずかしくなるなんて、自分の価値観が分からなくなりそうだった。

 

 いや、それも当然かも知れない。糞っ!これも不良騎士のせいだっ!!

 

(呆れるな、これでは到底告白なんて出来んぞ……。寧ろベアトの方が私よりもずっと男らしくて果敢だ……な………?)

 

 ふと、私は自分の腕を引っ張るそのか細い手が震えているのに気付いた。

 

「………」

 

 私は唖然として正面を見つめる。私を引っ張りながら人の波を掻き分けて進む幼馴染みのの表情が僅かに震え、その顔がほんのりと赤くなっている事に気付いた。

 

 同時に彼女が度々私の耳の怪我を治療しようと進言していた事を思い返す。それは怪我を心配したがためである事は間違いない。しかし……。

 

 私はそこで漸く彼女が普段よりも義務的だったのかを理解した。私と同じなのだ。ただ私が接触を避けていたのではなく付き人の殻を被り意識していないようにしていたのだろう。そして、同時にきっと彼女もきっとその内に………。

 

 私は彼女の掴む手を強く、絡ませるように握り返した。小さな、温かな手だった。

 

 答えるように彼女の手がより強く握り返したように私には思えた。

 

 

 

 

 

 

「あっ……」

 

 その人物が視界に入ったと同時に私は繋がっていた手を手放す事になった。その事に一抹の寂しさを覚えるが、だからといって駆け寄ってくる部下に八つ当たりするのは道理に合わない。私は努めて笑みを作りもう一人の付き人を迎える。

 

「若様!お待ちしておりました!!」

「……あぁ、待たせたな」

 

 宇宙港のターミナルにはファッション雑誌のお手本のような私服姿のテレジアが待っていた。恐らく衣服を準備する役だった情報局のお役人が雑誌の例通りそのまま購入したのだろう。

 

 とは言え、元々テレジアも美貌でいえばかなりのものだ。そのため他人が碌に顔も合わせずに買い揃えたとは思えない位その出で立ちは調和が取れていた。こんな時でなければ少し位は見惚れていただろう。

 

 ……まぁ、こんな時に目立つ衣服なのはどうかとも思うが。

 

 私がそんな詰まらない事を考えている一方、テレジアの方は私の出で立ちに息を飲む。まぁ、右腕がなくて片耳を包帯を巻いていればそうもなろう。顔を青くする従士に私は声をかける。何で私の方が冷静なんだろうな………。

 

「腕の方は話は聞いているだろう?気にする事じゃあるまい。それに耳の方はお前とは一切関係ないし大した傷じゃない。余り動揺するな、今は目の前の仕事だ」

「いえ、しかし………了解致しました」

 

 僅かに思い悩むテレジアは、しかし傍らで落ち着いた態度で控えるベアトを一瞥した後、私の言った通り今は目前の仕事を優先する事に決めたらしかった。表情を固くして頷く。

 

 私はその姿に緊張するな、と一言言ってターミナル内部を進み始める。憲兵隊がやって来るまでに乗船すれば此方の勝ちだ。急がないとな……。

 

 すぐ横を宇宙港の警備員と武装警察が通り抜けていった。恐らくヤングブラッド大佐かその派閥が動かしたのだろう。流石に無断で憲兵隊が民間宇宙港にやって来たとは言え、常ならいきなり完全武装の対テロ警察部隊が前面に出てゆくとは思えなかった。

 

(動きが早いな。公安畑出の奴が動かしたのか?いやはや、学年首席も顔が広いものだな)

 

 宇宙港のターミナル出入口では遠目で見る限り防盾を構えた警察が憲兵隊と睨み合いとなっていた。民間人は慌ててその場を離れ、あるいは野次馬となって携帯端末でその様子を撮ろうとする。宇宙港職員がそんな客を危険と称してその場からひっぱたいて退去させていた。怪我人が出ないと良いが……まぁ、その辺りはヤングブラッド大佐かその上のご老人方の仕事だ。

 

 我々は利用客に紛れる形で関係者以外立ち入り禁止の札が掲げられた宇宙港の裏口に入る。途中幾つかのセキュリティと警備員に見つかるがIDカードを認証させればすぐに通された。

 

「若様、これは……」

 

 ターミナルを進むに連れてその船に近づき、テレジアは私達の向かう先、引いてはその任務について何事かを気付いたようだった。

 

「悪いが説明は乗り込んでからだ。今は黙ってついて来い」

 

 私はテレジアの質問に、しかし説明の時間も惜しかったので少し乱暴にそう話を打ち切る。悪いな、時間が結構余裕がないんだよ。

 

「済まん、少し遅れたな?」

 

 ハイネセン宇宙港最南端のターミナルビルに辿り着く。そこでは既にヤングブラッド大佐達の息のかかった憲兵総監部直轄の中央憲兵隊が幾人かの政府職員や宇宙港職員と何やら相談していた。ほかに一般の利用客は一人もいない。そこに私の姿を見つけた中央憲兵が慌てて私の傍に駆け寄る。

 

「大佐、もうすぐ出発致します。えっとお連れの方は……」

「予定通りだ。護衛二名、必要なら生体認証すれば良い」

 

 私の背後にいた付き人二名について中央憲兵達に機先を制して説明する。彼らには彼女達の姿がどう見えているのだろうか……?

 

 しかし、中央憲兵は私と付き人を何度か見比べると暫く逡巡し、最低限の個人認証を行うとすぐに乗船するように勧める。議員や軍部高官の護衛や監視等を行う中央憲兵達はどうやら藪を突くような事はしない事にしたらしい。半分位は間違っていないから言い訳出来ないな。

 

 こうして私達はタラップを通じて政府所有の公用クルーザーに乗り込んだのだった。

 

 

 

 

 

 自由惑星同盟政府所有の公用クルーザーは帝国や亡命政府のクラシックなそれと違いモダンな内装であった。

 

「ティルピッツ大佐で御座いますね?お待ちしておりました」

 

 クルーザーの通路に控えていた黒服のシークレット・サービスがそう一礼した後、真新しい軍服を差し出して来た。サイズもぴったりだ、素晴らしい位の用意周到ぶりだ。

 

「怪我の治療が必要とは存じますが、どうかその前にお召し替えの上、応接間に足を御運び下さい」

 

 宮廷帝国語で丁寧にシークレット・サービスが連絡する。

 

「……ああ、構わんよ」

 

 私は同盟公用語で答えてやる。シークレット・サービスが黒いサングラスの奥で少しだけ目を見開いた気がした。

 

 そのままシークレット・サービスの脇を抜けて奥の着替え室に入室する。

 

「テレジア、先に着替えてくれ。ベアト、今後の事で少しだけ相談したい事がある。ここで待機してくれ」

「了解しました」

「……?承知致しました」

 

 少し訝し気な表情を浮かべるが私が機密に触れる話だ、と指示すればテレジアは恭しく頭を下げて命令に従う。

 

 そしてテレジアが通路を去り、その奥の着替え室に入ったのを確認すると共に………。

 

「っ……ベアトっ!!」

「んっ……わか…さま……」

 

 何方が先に動いたのか分からなかった。ほぼ同時に動いていたと思う。いつの間にか私は目の前の幼馴染を抱きしめて、壁に彼女の身体を押し付けながら口元を貪っていたし、彼女の方は私の腰に手を回し従順に獣のように盛っていた私を迎え入れていた。

 

 本当に短い時間だったと思う。数十秒も無かっただろう。昨夜の夜に比べれば私はずっと理性的であったから引際を弁えていた。

 

 まぁ、公務中にいつ誰に見られるか分からないのにこんな事している時点で理性が蒸発していると言われるかも知れないが。

 

「若様……はぁ、駄目です……今は……」

「分かってる……こんな時に済まない」

 

 私は顔をどうにか引き離す。離した口元から銀糸が伸びたのが一瞬見えた。それに刹那の時間注目してから、彼女の目を見据え、小さな声で先程までの行為について謝罪する。

 

 とは言え、本心では自分がなぜ謝罪しないといけないのかと思えてしまうのも事実だった。

 

 そもそも本来ならば普通に会話を切り出す積もりだったのだ。それがターミナルで手を握り合ってから彼女は執着的な視線を断続的に私に向け、私もまたそれに応えて何度も何度も互いを密かに見つめ合い続けていた結果だ。

 

 そうでなくても先程の短い時間の間に窒息しそうな程私の口内を蹂躙したのが誰なのか、目の前で髪を乱し頬を上気させながら色香に満ちた表情を浮かべているのは誰なのか、ましてや麻薬中毒者の如くどこか夢見心地な視線を向ける姿を見てしまえば自身の考えが唯の責任転嫁に過ぎない事を承知で彼女の方こそこの事態の責任があるのではないかと言いたくなってしまう。

 

 本当に短い時間でマラソンでもしたかのように息を切らし、顔を赤らめる幼馴染の従士に、私はこれから人生初めての告白をしようとする青年のように口を開く。いや、実際それは半分程間違ってはいなかった。

 

「その……昨日の事は……世話になったな」

 

 済まなかった、というのも失礼だが有難うというのも気恥ずかしく思えて私はそう表現する。

 

「いえ……私の方こそ……昨日は粗相を致しました。申し訳ありません」

 

 私の発言に昨日の夜の事を思い出したのか、赤面した表情で彼女は答える。その姿は彼女が二十台半ばの軍人であるとは到底思えなかった。まるでハイスクールに通う女学生のようにも思える初々しさ……それは彼女の恋愛経験が余りに少ない事が理由だと思われた。

 

 その純情さに見惚れてこのままもう一度目の前の女性を抱きしめたくなる欲望に駆られるが流石にそれは理性で無理矢理捻じ伏せる。今はそんな事をしている場合ではないのだから。

 

 ……そして覚悟を決めて私は本題に入る。

 

「……その、何だ。お前も色々理解しているとは思う。身分やら家の決まりとかな」

「……はい」

 

 私の発言に幼馴染は重苦しく答えた。先程までの彼女の内にあった熱は瞬時に数度程下がったように感じられた。だがそれは失望した、というよりも髪を引き摺り回されて強制的に夢から現実に引き戻されたような面持ちだった。

 

「………本当ならここで何もかも捨て去って君と生きる、なんて言えたら格好いいのだろうけどなぁ」

 

 私は情けない笑みを浮かべて自嘲する。ドラマティックで素晴らしいが、そんな事は現実には不可能だ。これまでの立場を全て捨てて生きるなんて簡単な事じゃない。私もベアトも貴族社会の常識にどっぷり漬かった世間知らずのボンボンだ。

 

 どうせすぐに尻尾を出して家の追っ手にベアトが始末され、私は引き摺られて家に戻る事になるのがオチだ。そもそも私自身両親や妹、ほかの家臣を見捨てて一人安穏と出来る程神経は太くなかった。そんな神経ならば元々小さい頃に一人で逃げている。

 

 ……とは言え、彼女と人生を添い遂げるなんて事も出来る訳もない。身分の差は亡命政府の中でも未だ根強い。シャフハウゼン子爵のような行動は宮廷では無謀とも狂気とも言える行いだ。いや本当、あの子爵絶対温厚に見せかけてヤクザ並みに肝が据わっているよ、あいつどうやって親族や家臣黙らせたんだ?

 

「若様……その、昨日の事については忘れて頂いて結構ですので。その……余り深くお考え為さらないで下さいませ」

 

 被害者は彼女の方なのに、此方に対して済まなそうに、労るように、下手に出る従士。長年の付き合いからその態度が決して同情を引こうとする悪女の演技ではなく、本心からのものである事が分かってしまうから私の胸は罪悪感で締め付けられる。

 

 だから……せめて言い訳のように私は彼女に伝える。

 

「……今は公務もある。それに立場があるのも分かってる。だから……せめて今は待ってくれ」

 

 キープする、なんて言葉が脳裏に過る。自分がとんでもないド屑貴族なのだと改めて自覚させられた。だが今更過去の出来事は消せないし、彼女を手放す事も出来なかった。

 

「結婚は出来ない。分かっていると思うが……それは危険過ぎて出来ない。……だが、出来るだけ責任は取る!その……私が出来る限りの事は何でもする!望むものがあれば私がどうにか手に入れる!周囲の陰口なんかあれば私が対処する!だから……だから私から離れないでくれっ!!」

 

 多分、端から見たら屑の上にストーカー気質の弱虫野郎に見えた事だろう。執着的な上、権力で相手を靡かせようとする癖に、最後の方は声が震えきって怯えていた。御先祖様からの遺伝で顔が良くなければドン引きものだったと思う。

 

「若様……私にそこまでの価値は………」

「そんな事は無い!!」

 

 思わず私は声を荒げてしまった。その声にベアトがびくりと怯えて私は自分が平静を失っている事に気付き、感情の高ぶりを落ち着かせるように深呼吸をして続ける。

 

「……お前に本当に価値が無ければ、態々この腕を犠牲になんかしない」

 

 少し卑怯だが私は失った右腕を出汁にする。私が右肩に左手を触れれば今にも泣きそうな表情でベアトは私の失われた右腕を見つめる。

 

「若様……私は………」

「言わないでくれ。卑下する言葉は聞くだけ悲しくなる」

 

 そう言って私はベアトの逃げ場を潰していく。身分と罪悪感を盾とした酷い話術だがこの際手段は選べなかった。私もまた彼女に拒絶されるのが怖かったから。

 

「私にとってはお前は公私双方にそれだけ大事な存在だと思っている。お前や周囲の意見は問題じゃない。私がそう思っているんだ。右腕と引き換えにしても失いたくないとな。そしてそれは今も変わっていない」

「………」

 

 ベアトは私を上目遣いで見つめるだけだ。私にその先の言葉を求めているのだろう。そう思いたい。私は彼女の目を見て、覚悟を決めた表情で告げる。

 

「……お願いだ。私の傍にいてくれ。小さい頃そうしてくれたように私を傍で支えてくれ。私の右腕代わりになって欲しいんだ……!!」

 

 言葉だけ見ればある意味ロマンティックかも知れないが結婚出来ないと言ってしまっている事を考えれば只の屑発言だった。今の発言を簡単に訳せば「僕と契約して愛人になってよ!」である。完全に淫獣の台詞であった。もし私と彼女がただの同盟市民なら私は今頃彼女の親兄弟に銃殺されていた事だろう。

 

 まして本来ならせめてデートに指輪を差し出しながら告白という順序を通してから肉体関係に至るべきなのに先にそれらを飛ばして関係を持ってから言い訳染みた告白である。客観的に言えば唯の糞野郎なのは明らかだった。

 

 それでも……それでもベアトは息を飲みながら私を見つめていた。その震える紅色の瞳が緊張に強張る私の顔を映し出していた。

 

 そして次の瞬間、その頬を一筋の涙が伝っていた。

 

「あっ………」

「えっ?……いえ、申し訳ありません。その……どうか……どうか少しだけ……御待ちください」

 

 一瞬、私は彼女の涙に怯えた。彼女が泣く姿なぞ殆んど見た事がなく、その大半が私が死にかけている時の事だったからだ。

 

 彼女もまた驚いたようにぽたぽたと零れ落ちる雫を掌で、腕で拭き取っていく。だが拭き取っても拭き取っても涙の雫は溢れていく。

 

「わ、若様……そのっ……あっ………」

 

 彼女が望む事を言語化されなくとも私は直感的に感じ取っていた(あるいはそう思い込んでいた)。

 

 だから私は殆んど極自然に彼女を抱き寄せていた。それは先程の情欲に溢れた強いものではなく、そっと寄り添うそれに近かった。

 

「その……これで……いいか?」

 

 私が不安げに尋ねる。これで私の行動が勘違いで彼女の要望が全く別の物であれば私は自意識過剰の恥晒しであったろう。

 

「……はい」

 

 彼女は小さくそう答え、私の胸に顔を埋める。幸運な事に私は正解を答える事が出来たらしい。

 

「若…様……少し……少しだけお待ち下さい……すぐに落ち着きますので……」

 

 付き人は小さく嗚咽を漏らしつつも、息を殺しながら啜り泣く。私は……こんな時に気が利けば良いのだが余りに想定外の事のために声もかけられなかった。只、そっと背中から抱き寄せて頭を撫でるように触れるのみだった。

 

 何分経ったのだろうか?いや、そんなに時間は経っていなかっただろう。彼女は迅速に自身の感情を宥めて、俯きながら私の元から離れる。

 

 そして、震える、若干涙声となりながら言葉を絞り出し、紡ぎ出す。

 

「私は……先程申した通り、若様が思う程の価値なぞありませんし、そこまで多くの物なぞ望んでません。私は従士で……付き人です。先祖代々伯爵家に、私個人も若様の御厚意に与り続けていた身の上です。若様が御望みになれば私はこの命でも喜んで差し出させて頂きます。そこまでの好意を向けられても困惑してしまいます」

 

 その言葉は彼女にとっては、ベアトにとって好意も献身も主人に、私に差し出すものであり受け取るものではない事を意味していた。寧ろ私の発言にどうしてそのような事を言うのか、と戸惑いの感情が見てとれた。

 

「ベアト………」

 

 その態度に私は小さなショックを受け、同時に怯えた。彼女がこれからどのような言葉を紡ぎ出すのか怖くなったのだ。

 

 ……尤も、彼女が私の事を考えない言葉を口にする筈もなかった。ベアトは不安げな表情を浮かべる私の左手を両手で握り締めた。そしてその俯かせていた顔を上げる。

 

 涙の後の残る顔はしかし、優しい、慈しむような微笑みを浮かべていた。きっと、彼女は私が何を恐れているのか理解していたのだろう。

 

「ですが……そこまで私なぞを慮って下さっている事はとても嬉しく思います。その……今は立て込んでおりますのではっきりと言う事は出来ません。ですが……その…非才の身で失態も多くはありますが、……望んで頂けるのならば……私も若様の御側におりたいと考えております」

 

 そこで彼女は私の目を見つめた。普段の家臣としての表情でも、軍人としての表情でもない、年相応の物腰の柔らかい女性のそれであった。

 

「ですから……若様が御望みにならない限り決して御側を離れる事は御座いません。その事だけは……どうか御信じ下さいませ」

 

 潤んだ瞳に、気恥ずかしげにそのような事を口にする彼女を、私は初めて目撃した。

 

 その笑顔はこれまで見る事が出来なかったのが悔しく思える位魅力的なものであり、その言葉は私がずっと望んで止まないものであった……。

 

 

 

 

 

 

 

 少しだけ長引いた着替えの後、同盟軍の士官軍装に着替えた私は待たせていたシークレット・サービスの先導に従いクルーザーの応接間の前に辿り着いた。

 

 片腕の私に配慮し、シークレット・サービスが部屋の扉を開く。

 

 公務である。私は先刻までの内心の私的な歓喜と興奮を押さえつけ、平静を装いながら敬礼し、官姓名を口にする。だが……返事がない?

 

「……どうぞご入室なさってください」

「……あぁ」

 

 怪訝な表情を浮かべつつも、シークレット・サービスに促されて私は応接間に入室した。

 

 応接間は極めて未来的なデザインをしていた。帝国の時代錯誤なものとは異なる、文字通り宇宙暦と言える機能美溢れたデザインの間取りと家具。しかし……人の気配はない?

 

 私が応接間に入ると同時の事だった。背後から誰かが入室した気配を感じる。咄嗟に私は警戒を強めて踵を返す。そして同時に目を見開く。

 

「ははは、気付かれてしまったようだね?背後から驚かそうと思ったのだが……経験のお陰かな?流石に勘が良さそうだね」

 

 その人物は人好きのする笑い声を上げた。どうやら私が入室した後に部屋に入り、背後から驚かせようとでもしていたのだろう。彼は不躾とも言える笑い声をあげ続けた後、私が無反応だった事に気づいて口元を僅かに歪め、笑いを止める。

 

「……君が私の護衛兼補佐役だね?噂は聞いているよ。色々と、ね」

 

 私はその特徴的な声、次いで話者の顔立ちを視認し、同時に苦笑いを浮かべる。成る程、宇宙港の警察があれほど迅速に動ける訳だよ!

 

「話には聞いておりましたが……まさか貴方程の人の補佐をする事になるとは。光栄の至りで御座います」

 

 私は表情を僅かにひきつらせながら身体を相手に向ける。同時に心の中でヤングブラッドを罵倒する。おい、確かに話は聞いていたがよりによってこいつとは、本当に笑えない!

 

「君とは出港前に話しておきたくてね、医務室に行きたいかも知れないが少しだけ話に付き合って欲しい」

「いえ、私の方こそ一大佐の身の上で議員とこのような形で対面出来た事、身に余る幸運で御座います」

 

 私のすぐ傍を通り過ぎた後、内情を窺い知れない笑みと共に室内のソファーに彼は腰かける。対して私は頭を下げてそうお世辞を口にし、背筋を伸ばす。

 

「改めて御報告致します、ヴォルター・フォン・ティルピッツ宇宙軍大佐、宇宙暦790年8月8日1300時をもって使節団代表護衛兼特別補佐官として着任致します!」

 

 姿勢を正し、左手でその人物に敬礼した。軍における階級も軍功も私が遥かに上であるが、そんな物役に立たない程絶対的な立場の壁がその人物にはあった。何よりも原作を知っていれば少なくとも彼を必要もなく敵に回さない方が良いと誰もが思うだろう。それ故に私は最大限の礼節を持って応対する。

 

「ほぅ、若いながらに殊勝な心構えだね。……その姿を見るにどうやらここに来るまでにすら色々あったようだ。立っているのも疲れるだろう?さぁ、心置き無く座るといい」

 

 私の態度と行動に僅かな驚きとそれ以上の満足を含んだ声を出す。そして、その人物は張り付けたような、それでいて観察するような笑みを浮かべる。

 

「さて、先程は少しふざけて失礼したね。……私からも改めて挨拶をさせてもらおうか。君も良く知っていると思うが国防委員会に所属している自由共和党のヨブ・トリューニヒト上院議員だ。今回のフェザーン極秘使節団の代表役を務める事になっている。……彼方では色々と頼りにさせてもらうよ?」

 

 不敵に、賑やかに、そして底の知れない不気味な笑顔と共に原作における同盟最大の妖怪は私に自己紹介をしたのだった。

 


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