「成程、状況は理解したよ。災難だったね」
自由惑星同盟、フェザーン高等弁務官事務所の一室で、アレクセイ・フォン・ゴールデンバウム銀河帝国亡命政府軍准将は少々困り気味の顔で労いの言葉をかける。問題はその言葉を受け取る側であった。
「た、大公殿下……か、可能で御座いましたら我々も今すぐ若様の捜索に参加をさせて頂けませんでしょうか……?」
顔を青くして、震える声で申し出るテレジア・フォン・ノルドグレーン同盟宇宙軍中尉に、しかしシュヴェリーン大公は首を横に振る。
「余り今回の事は大事にしたくない。君達は曲りなりにも使節団に同行する武官だ、下手に動いて事態が注目されたら困る。……まぁ、もう随分と注目されているようだけどね」
苦笑いを浮かべてシュヴェリーン大公は手元のフェザーン主要新聞社の朝刊を見やる。コーベルク街はマスコミもほぼ侵入不可能の筈であるのだが……流石フェザーンのマスコミという所か、朝刊一面に事件についてデカデカと記事が出されていた。まだ断片的内容であり、重要な部分については発覚していないが、それも時間の問題であろう。
「ブラウンシュヴァイク男爵の行方も分からないのは困ったね。万一の事があればかなり苦しい事になるけど……そこはヴォルターに任せるしかないかな?男爵の家臣方は独自に捜索をしているらしいけど現場で行き違いが起こらないようにしないとね」
フェザーン大手新聞社の一つが発行する『コメルサント・プラウダ』の一面の内容を一瞥し、次いで控える旧友の臣下を見つめて退出と待機を命じる。敬礼と共に退室しようとする二人を見て、ふと思い出したように大公は言葉を加える。
「ああ、そうだ。ゴトフリート少佐、君は少し残ってくれ」
「……了解致しました」
ベアトリクス・フォン・ゴトフリート同盟宇宙軍少佐はその言葉に応じて退室するのを止めてその場に留まる。
若干怪訝な表情を浮かべるもう一人の従士は、しかし命令が出ている以上はその場に留まる訳にもいかないために僅かに後ろ髪を引かれる思いをしながら退室した。
厚い防音扉が閉まり切った後、椅子に深く座り込んだシュヴェリーン大公……いやアレクセイは私人として目の前の幼馴染みに声をかける。
「ヴォルターの事は残念だったね。安心して欲しい、この事は私が出来る限り伯爵家に伝わらないようにしておくよ。ヴォルターにとってもその方が都合が良いだろうしね」
只でさえ旧友はかなり無理矢理に伯爵家を出て来たのだ。しかも従士の方も連れ出すのに相応に騒動があったのもこの皇族は知っていた。これまでの事も含めて何も知らせない方が目の前の従士の、ひいては旧友のためになる事を彼は理解していた。
「……大公殿下の御配慮、感謝致します」
ゴトフリート少佐はアレクセイの言葉に深々と頭を下げて謝意を伝える。
「そう畏まる必要もないさ。君達と私の仲じゃないか」
「ですが……」
「そのために人払いもしたんだ。もう少し柔らかく対応してくれると私も嬉しいんだけどね?」
苦笑しながらも若干強い声でアレクセイは頼み込む。
「……御容赦下さいませ、アレクセイ様」
ここまでが譲歩出来るラインであると従士は子供時代の呼び方を口にする事で暗に示した。アレクセイは頷いてそれを承諾する。
「無理言って済まないね。残念ながら私が余り気兼ねせず気楽に話せる相手は少なくて、ついこういう時に我が儘を言ってしまう」
アレクセイはそう言って肩を竦める。同時に自嘲するような複雑な表情を浮かべる。
「ベアトリクスも、ヴォルターも、それにホラントも市民軍だからね。皆一緒で一人除け者では正直寂しい所だよ」
「私は若様の付き人で御座います。どうぞ御許し下さいませ」
「分かっているよ。その点に思う所が無いわけではないけれど仕方無い事さ。お陰でヴォルターも何度も助かったって言っていたしね。いやはや、本当昔から色々と巻き込まれるものだよね」
小さな、半分程呆れたような笑い声を上げるアレクセイ。ゴトフリート少佐の方は困ったような表情を浮かべるしかない。目の前の人物の発言は主人の名誉を傷つけこそしていないが笑っている。しかし同時に発言自体は事実であり、何よりも主人よりも目上、そして決して悪意のある発言ではなかったためだ。
「……無責任な言い様だけれど、ベアトリクスも余り気にしない事だよ。ヴォルターの事だからそう簡単に死ぬ事はないだろうからね」
「……理解はしております」
「納得は出来ない、と?」
「………」
俯きながら黙りきり、小さく頷くゴトフリート少佐。その表情はどことなく物悲しげであった。
「ベアトリクス、分かっていると思うが『裏街』を探しに行くのは駄目だよ?彼処は治安が悪すぎる。軍人とは言え、地理に不案内な女性一人で彷徨くのは余りに無謀だ」
「分かっております。現地の諜報員と『アセット』に捜索を命じた方が効率的である事は承知しております。それに万が一私に何かあれば発見された若様が再度危険な行動を取る可能性もあります。今は大人しく待機させてもらいます」
若干の葛藤はあったものの、付き人はそう答えた。彼女もそれ位の分別はあったし、学習もしている。それに………。
「少し落ち着いたかな?」
「はい?」
皇族軍人のその言葉に従士は首を捻って答えた。何を言っているのか良く分かっていないようだった。アレクセイは再度苦笑する。
「いやね、昔は結構余裕の無さそうな性格だったじゃないかベアトリクスは。けど今回はこんな騒動でも落ち着いているし、素直だなって思ってね」
「それは………」
ゴトフリート少佐は言い淀む。その理由は何となしに彼女も理解していた。はっきり断言出来る事ではないが、とある一件以来彼女は主君に対する信頼が増しているのを自覚していた。少なくとも彼女はそう認識していた。互いに好意をはっきり口にした事が一因であろうと彼女は当たりをつけており、それは少なくとも間違いではない。
より客観的に言えば彼女の潜在的なストレスの軽減が理由と言えた。主君の明け透けな思いを知り、同時に自身が必要とされている事、自身の忠誠が独り善がりでない事を知る事が出来たのが心の余裕に繋がっていた。だからこそきっとこのような状況でも主君が自身に失望している筈がないと理解出来、それが軽率な行動を取る事に歯止めをかけていた。無論、それでも心配ではあるのだが。
「ふぅん、随分と『仲良く』なったみたいだね。……友人としては喜ぶべきなんだろうね。ヴォルターに直接言ったら怒るだろうけど」
興味深そうな表情でアレクセイが言えば目の前の従士は何から来る感情か、ほんのりと頬を高潮させていた。そのどこか子供のように初初しい態度にアレクセイは思わず目を見開く。
「……君のそんな顔初めて見たな。悪い悪い、意地悪しようって訳ではなかったんだよ。君なら涼しげな表情で答えそうだと思ったんだけど……あー、少しデリカシーが無かったね」
相手の想定外の態度を前に、若干言いにくそうにアレクセイはそう謝罪の言葉を口にする。今更になって自身の言葉がセクハラの類にあたる事に思い至ったらしい。
「いえ、そのような御言葉は必要御座いません。その……若様からご寵愛頂いております事自体は恥じ入るような事ではありませんので……」
彼女の声はそう言いつつも、どこか小さく辿々しい声であった。無論の事、ここでの寵愛は主従としての事を含んでいるがそれのみを指して言っている訳ではない。
……とは言え、実際の所もう一つの意味で寵愛されたのは未だ一回だけの事なのだが。
「あー、藪蛇だったかなぁ?」
目の前の幼馴染みの姿に何とも言えない表情を浮かべて小さく呟くアレクセイ。時たま抜けていたりズレていたりする所がある生真面目な彼女がここまで女性的な態度を取るのは流石に予測してはいなかった。
「も、申し訳御座いません。その……少し緊張しておりまして………」
「うん、分かってる」
渋い表情を浮かべる幼馴染みの内心は恐らくかなり緊張で混乱しているのだろうとアレクセイは想像していた。大人らしく凛々しい所がある彼女も男女の事になると意外(?)な程耐性が低いようだった。
「長く引き留めてしまって済まなかったね。疲れているだろう?退室して構わないよ」
落ち着かせて、かつ慰めの言葉を幾つかかけてからアレクセイはゴトフリート少佐を退室させた。
そしてゴトフリート少佐が退室した事で静かで人気のなくなった室内を見渡した後に皇族軍人はふぅ、と溜め息をつく。その後、暫し物思いに耽り思い出したように懐に手をやってそれを取り出した。
純金製のロケットの表面には黄金樹が刻まれ、その上には王冠を被り王杓と剣を握る双頭の鷲が君臨していた。その瞳は小さな金剛石で出来ており、それ以外にも紅石や藍石で鮮やかに装飾されている。それは帝室の紋章と帝国の国章を合わせた意匠であった。裏側には贈り主の家紋である盾を支える鷲獅子の紋章が象られている事であろう。
小さい頃に誕生日に贈呈されたそれは、毎年家族や諸侯から大量に贈られる品々の中でも特にお気に入りの品であった。中を開けばそこには僅かに古ぼけた写真が収まっており、十歳にも満たない三人の男女の姿がある。その屈託のない笑顔から一目で三人の仲はとても深いものだと分かる事だろう。それは四半世紀の間生きて来た皇族の青年にとって最良の時代の思い出だった。
「やれやれ、本当に昔からトラブルばかり引き起こすね、ヴォルターは。少し位は尻拭いする此方の立場も考えて欲しいんだけどねぇ。まぁ、ヴォルターの事だからそれが出来るなら苦労しない!とでも言いそうだけれど」
そう言って苦笑してからロケットに嵌め込まれた写真に写る幼い旧友の姿をアレクセイは目を細めて見つめる。その瞳には憧憬と羨望と嫉妬と好意が複雑に交錯していた。
「確か専制主義は主従を作り、民主主義は対等の友人を作る思想……だったかな?」
幼い頃に、まだ旧友がグレていた頃の言葉を反芻するように呟く。きっとこの発言をした本人は当時の事を心底後悔している事であろうが、アレクセイには大した問題ではなかった。寧ろ、感謝している位だ。今の旧友ならばこんな言葉、口にしてくれないだろう。
「ヴォルター……私はまだ友人だよね?」
主従ではなくて、とは口にしなかった。それを口にするのは少し怖かったから。
「早く帰っておいでよ。……まぁ、どうせまだトラブルの渦中なんだろうけどね?」
最後に僅かに冗談めかして、しかし心の底からアレクセイは友人の無事を祈ったのだった。
悪臭と有害物質の渦巻く塵山での仕事も三日目になれば慣れるものだ。
塵拾いもとい廃品回収の際に必要な装備はまず籠にトング、次いで有毒物質や悪臭対策のために手袋、マスク、ゴーグルである。それらで完全防備した上で日除けのスカーフと上着で直射日光を防ぐ。砂漠に近い『裏街』では黄砂が来るためにその対策という面もある。
ぞろぞろと塵拾いに向かう人々がスラム街から郊外の投棄所へと列を作って向かう。その集団を武装した柄の悪い集団が監視する。この辺り一帯をシマとする中規模マフィアグループ『カラブリア・スピリット』の構成員であるである。
約一〇億人にも及ぶ人口が集まる『裏街』は主に海岸線に連なる『表街』に沿う形で分散して広がっている。銀河中から多種多様な不法移民が寄り集まるためにその内情は混沌の一言だ。言語だけでも帝国語フェザーン方言・帝国公用語・同盟公用語の三大公用語だけでなく、帝国・同盟の地方方言、帝国自治領の独自言語、外縁宙域のマイナー言語が飛び交う。宗教・民族・人種・イデオロギー・出身地・価値観の異なる集団が過密で劣悪な環境で混在し、衝突やいざこざが絶えない。
そんな中で特に勢力を強めるのはマフィアやギャング、ヤクザ、黒社会、麻薬カルテル、密輸団等の犯罪組織だ。利益、あるいは宗教や民族、イデオロギー、出身地等々をバックボーンにして纏まる彼らはフェザーン・帝国・同盟の大企業、あるいは自治領主府、帝国諸侯、諜報機関、外縁宙域や外宇宙の中小国、他の犯罪組織の後ろ盾を得ながら数千に及ぶ組織に分かれて広大な『裏街』を仕切る。それぞれのシマで住民からみかじめ料を徴収し、外部との取引を独占し、暫定的な警察・司法機関としての役割も兼務する彼らはこの『裏街』という社会構造の寄生虫と言えた。
我々の潜む『裏街』の一角を支配する『カラブリア・スピリット』はそんな数ある犯罪組織の一つである。構成員は数百人余り、話によれば武器と麻薬密輸に人身売買、シマでの店や公共設備でのみかじめ料の徴収を主な収入源としている組織で、帝国の諸侯や外縁宙域の宇宙海賊等ともビジネス上の繋がりがあるらしい。
最近、彼らの行動に微妙な変化が現れた。明らかに人探しをしていたのだ。これまで半分無視してきた塵山を漁る女子供相手にいちいち顔を見せるように要求する。それが私達の存在と無縁であると思える程私もお気楽ではない。バグダッシュ少佐によればこの辺りの組織は同盟政府や同盟軍の諜報機関との繋がりがなく、また行方不明の友軍を捜索する際の特徴も皆無だと言う。つまりはそういう事なのだろう。
「おい、お前。スカーフとマスク、ゴーグルを脱いで顔を見せろ」
煙草を吸いながら詰まらなそうに二十歳前であろう『カラブリア・スピリット』の構成員らしい青年は命令した。顔を隠し厚着で体形を誤魔化す私を怪しんでの事ではないだろう。本当に狙っているのなら一人二人ではなくもっと大勢で囲んでいる筈だ。少なくともその点は幸運と言えた。……それ以外では最悪だが。
「………」
当然ながら私は口を開く事は出来ない。そう厳命されていた事もあるし、そもそも口を開けば男だとバレる。そうなればより一層怪しまれる事になる。というか詰む。
「………」
故に黙り続けるしかないのだが当然そうなるとそれはそれで怪しまれる。
「ああ?お前耳聞こえているのかぁ?それとも舐めてるのか?えぇ?」
舌打ちしながらマフィアの青年は此方にガンを飛ばす。うん、確かに迫力はあるんだがそこまで恐怖はない。恐らくこの街のならず者だから人の二、三人位は殺しているかも知れないが、当然ながらその程度の人間なら今まで何人も見ている。銃を腰に備えているようだが、その場所も体勢も、軍人として見た場合素人同然だった。正規の戦闘訓練を受けていないたかが「武装した人間」程度でしかない。石器時代の勇者やら森の熊さんを見た後だとぶっちゃけ余り危険を感じられなかった。
……それはそれで不感症で問題がありそうな気がするが気にしてはいけない。
(って、現実逃避だな。さてさて……どうするべきか………)
ゆっくりと近づいて来る青年マフィアに対して私はどうするべきか悩んでいた。顔を見せるのも声を上げるのも論外。となれば一撃で反撃や味方を呼ばれる前に殺すか気絶させるか……。
「あっ!ヘラルド!?ここにいたの!?良かった!!」
次の瞬間、その可愛らしい声と共に死角から誰かが私に抱き着いたのが衝撃で分かった。首を動かせば視界の端に印象的な群青色の髪が映り込む。
「おい、お嬢ちゃん。そいつはお前さんの知り合いかって……アイリスか?」
剣呑に脅すような口調で、しかし途中から目を見開き驚いた表情を浮かべる青年マフィア。その顔は目の前の存在が信じられないようだった。
「ええ、そうだけど……私のヘラルドに何の用かしら?」
私の腕に抱き着き棘のある、警戒する表情を浮かべるアイリス嬢。その態度に青年マフィアは少し後ろに下がって臆しながら答える。
「い、いや……そいつの顔を見せるように言おうと思ったんだが……お前の知り合いなのか?」
恐る恐ると尋ねる青年マフィアに対してアイリス嬢は無言の私に体重を乗せ、腕に抱き着き屈託なき笑顔で答える。
「私の『良い人』ですが、何か?」
『ヘラルド』はアイリス嬢の子供時代の幼馴染であった。大人になったら結婚すると指切りした程の深い仲であるが、その後彼は外出中に出稼ぎ(誘拐)でとある鉱山で『苦力』として何年も苦しい重労働を強制される事になった。契約の満期は十年、劣悪な環境での苦しい仕事を、彼は記憶に残る恋人の姿だけを頼りに耐え続けた。しかしその契約終了間際に鉱山での事故で彼は顔を含めた全身に火傷を負い、右手を失い、喉と肺のダメージで口を聞けなくなり、しかも聴覚にすら障害が残ってしまった。残念ながら、そして当然のように保険料は殆ど支払われず、契約満期の報奨金と共に労働者として使えなくなった彼は鉱山を追い出された。失意にくれた彼は故郷たるフェザーンの『裏街』に帰って来る。そして打ち捨てられたかつての自分の家を見つめていると背後から声がした。自身の名を呼ぶ、その懐かしい声は……。
「いや、恋愛小説かよその設定」
『ヘラルド』役こと、ヴォルター・フォン・ティルピッツ大佐……つまり私は痛い設定に突っ込みを入れる。内容が出来過ぎな上にロマン主義過ぎるな。現実的に考えて男の方は非現実的な位不幸過ぎるし、女の方も子供時代の約束なんか覚えている訳ねぇだろうバーカ!
「はいはい、『ヘラルド』は口聞けないので話したら駄目だからね?」
「ぐばっ……!?」
腹部にキツイ一撃を食らい私は塵山の一角で蹲る。うぐぐ……咄嗟に腹筋に力を入れて防御した筈、しかも厚着でこのダメージだとぅ……?化物め……!
青年マフィアからの追及を先程の設定とアイリス嬢の話術でどうにか誤魔化した我々である。私に仕事を手伝わせ、尚且つ彼女の金回りが良くなった理由とついでに彼女の家に人が上がり込んでいる理由付け、及び私自身も情報収集に出歩くために先程の設定に従い口も聞けず、耳も聴こえない、顔も見せられない『ヘラルド』になり切っている訳だが……流石に限界が来ているように思われる。顔を見せろと言われたのは今回が初めてだがそう長く誤魔化すのは無理だろう。
「うぐっ………それにしても随分と面倒な設定だな。そこまで拘る必要もないだろうに」
「あら、それは違うわよ。あんたには最後、私に内緒でプレゼントを贈るお金を貯めるために塵漁りしていて野生のドスガレオスかダイミョウザザミ辺りに食い殺されてもらうんだから。で、十年来の恋人と再開出来たのに今度は永久の別れを強いられた私は一人号泣するの」
「女優かよ。どんだけ悲劇のヒロインしたいんだよ。嘘臭え」
「そうでもないわよ?大それた嘘程案外上手くいくものなの。それに周囲も触れにくくなるから後になって掘り返さなくて済むから都合が良いわ」
鼻を鳴らして冷笑するアイリス嬢である。何こいつ、計算高過ぎて怖っ!
「それにあんたらとの契約が終われば私も『裏街』でももう少し治安の良い場所に移住しようと思ってるし。それまでの魔除けにもなるわ」
「魔除け、ね」
その言葉に私は彼女の現状でのこの街での立ち位置について思い出す。本人から然程詳しく聞いた訳でもないが、周囲の会話、それに独自に変装して街中で味方のエージェントとの接触を図り次いでに情報収集もしているバグダッシュ少佐の言とを合わせれば、彼女の立場が決して単純なものでも、まして安定的なものでもない事が分かる。
断片的な内容ではあるが話を総合する限り、どうやら既に死んでいる彼女の父親の方がこの辺りをシマにしているマフィアから借金をしたらしい。笑える事にトイチである。それで母方の方はその返済のために仕事に追われ、しかし法外な利息の前に最後は金を借りていたマフィアのボスと愛人契約を結んでいたそうだ。
そして母親の死亡後もまだまだ借金は残っている訳でその取り立てが彼女に来そうだったのを、しかしとある自治領主府勤務の高官が後ろ盾になったために阻止されてしまったらしい。借金自体は利息を停止し即座の支払いが中止されただけらしいが……そのマフィアのボスと自治領主府の高官の暗闘の間をこの小娘は現状上手く泳いで甘い汁を吸っているらしい。
「いや、そいつらロリコンかよ」
「ん?何か言った?」
「独り言だよ」
アイリス嬢が此方に振りかえって怪訝な表情を浮かべるが、すぐにどうでもよくなったのか塵拾いに戻る。背中に自身と同じ位の大きさの籠を背負いその中には金属片等で埋まっている。その姿を見て小さく溜息をつく。
現一六歳、母親が死んだのが二年前らしいので当時一四歳である。一四歳の小娘を巡って良い大人が相争うというのも見るに堪えない惨状だろう。尤も、顔だけが理由と考えるのは早計かも知れない。
(群青色の髪か……)
その髪の色、そしてその身体能力から見ると案外顔だけが理由ではないかも知れない。確かに一般的に美形と言えるものではあるがベアト達と比べて隔絶している、という程ではない。マフィア組織のトップや自治領主府高官ならば同レベルの上物を手に入れるのは手段さえ問わなければ不可能ではあるまい。少なくとも争う程のものとは思えない。となればそれ以外の理由がある筈だ。考えられる可能性は二つ、いや三つか……?
「にしても少し火遊びが過ぎないか?幼馴染みとは言え男泊めてるなんて聞けばスポンサー様方がお怒りになるんじゃないのか?」
「誰がスポンサーよ。彼方が勝手にやっているだけの事よ。流石にあんたらの存在を無かった事には出来ないから仕方無いでしょ?買い物だけでも足がつきかねないんだから、だったら最初から同棲している設定の方が変な憶測が出ないだけマシよ」
「恋人でなくても良いだろう?」
「だったらどうなるのよ、ヒモ?そっちの方が嫌よ。女泊めてる設定はそれはそれで嫌だけど、それ以上にあの生意気な男爵様が手放さないから外で見せられないでしょ?」
ブラウンシュヴァイク男爵の御気に入りを使って宿泊者を偽装しようという案もなくは無かったが、体力がなくて無口過ぎ、しかも男爵自身が頑なに手元から手放したがらなかったのでその計画は頓挫した。糞、こんな時にまで我が儘言いやがって放蕩貴族めっ!!
「となると結局この設定が一番ベターな訳か」
「そういう事ね。さぁ、仕事に戻りなさいな。それと余り離れないでよ?さっきみたいに声かけられたら困るでしょ?」
そういって黙々と塵拾いを再開する家主様である。私はその言に従い黙々と仕事に戻る。塵山の向こう側から幾人か人影が来た事も理由だ。
「あら、アイリスちゃん。どう仕事の調子は?」
「ハロルドさんはお身体大丈夫かしら?」
声調からして中年位だろう、井戸端会議でもしてそうなおばちゃんのノリの婦人の集団が我々に声をかける。口調はハイネセンポリスの住宅街にいそうなのに、身なりは塵拾いのために完全装備なのがシュールだ。
「ええ、結構溜まりましたので、それにハロルドも手伝ってくれてますから」
柔らかい声で愛想笑いを浮かべる家主様である。おい、猫被りかこの野郎。
「本当、ハロルドさん良い人ねぇ」
「出稼ぎのお金貯めてたんでしょ?それに仕事の手伝いも。本当に真面目な方よねぇ」
「ウチの人も見習って欲しいわよねぇ、朝からお金もないに安酒飲みながらギャンブルばかり。本当穀潰しなんだから」
あーだこーだと語る婦人方である。スラム街で稼げる仕事は多くはない。特別な技能を持たない大多数の内、男の場合は度胸のある者なら犯罪組織に加わるのだろうが、そんな覚悟のある奴なぞそうそういない。『表街』の工場や出稼ぎは過酷過ぎる重労働、屋台類を開くのは大多数が女性ともなれば、一日中働かない無気力な者もそれなりの数いるようだった。
(それにしても………)
設定通りだんまりを決め込みながらちらりと家主達の方を見やる。
「本当、この前はごめんねぇ。解熱剤高かったでしょう?」
「井戸水もねぇ、融通してもらって心苦しいわ」
「別に構いませんよ、それ位。どうせ私の物じゃありませんし」
心から済まなそうにする婦人達に対してあっけらかんとした表情でアイリス嬢は答える。どうやら立場を利用して薬や水を近所の者に融通しているらしい。この強かでがめつい小娘にしては意外な事だ。思えばここ数日塵拾いしている際も年下の子供に金になる塵を分けたり集め方のコツを偉そうに指導していたのを幾度か遠目で見た。
「……何?ジロジロ横目で見ないでくれる厭らしい」
おばちゃん達に笑顔で手を振り別れた後、此方の視線に気付いたようで警戒と不信感に満ち満ちた声で私を詰るアイリス嬢。
「厭らしいって……その出で立ちのどこに色気を感じろってんだ?流石に言い掛かりを言われると辛いものがあるんだが……」
目と喉を保護するゴーグルとマスク、日差し対策のスカーフを頭に被り手を保護する手袋、厚く汚れても構わない上着を羽織り身体の輪郭所か素肌も殆ど見えない。これで色目で見る事が出来れば上級者だ。
「そんな事言って、家に戻ってから縄で縛ってマワそうかとか考えたりしないでしょうね?」
「お前さんを力づくとか無理だろ。下手しなくても肩の骨位外せそうだ」
今小娘の背負っている籠は恐らく重量にして三、四〇キロはあるだろう。二十歳にもなっていない細い身体で完全装備を身に纏い、そんな重量の塵を背負っていながら汗一つかいていない。相当な体力だ。そんな奴を縄だけでどうにか出来るなんて考えるのは見通しが甘過ぎる。
「理解していたら結構。さて、この辺りは金になりそうな物はないわねぇ。まぁ、一日で回収出来そうな物なんてこんなものね。あんたの方は……あら、そっちもぼちぼちね。どうするの?もう帰る?」
「……いや、まだもう少し拾っておこう。稼げる時に稼いだ方が良いからな。お前さんの方もその方が都合が良いだろう?」
「……ええ、まぁね」
私の質問に奇妙そうな表情で肯定し、少しして再度彼女は此方を向く。
「初日から思ったけど、真面目に塵拾いするのね。……貴方、帝国の貴族か何かでしょうに。馬鹿馬鹿しくない訳?」
黙々と作業をする私を観察しながら家主は尋ねる。
「……どうして帝国の貴族と思った?」
「別に特別な理由はないわよ。あんたの渡して来たライターにシガレットケースは帝国の意匠の結構な値打ち物でしょ?まぁあれ自体はあんたの私有物とは限らないかも知れないけど、少なくとも同盟人があんなものは持たないわ。それにあのニートみたいな性格の男爵と軽い口調で会話していたでしょう?普通の男爵様なら平民相手にそんな事許さないわ。後は大佐って呼ばれていたけど、コネと家柄でもなければあんたの歳と性格で大佐なんて無理よ」
ここまで証拠を提示した上で、どこか得意げな口調で彼女は結論を口にする。
「つまり考えられる可能性は爵位持ちなら精々男爵、あるいは下級貴族って所。同盟軍の少佐?と一緒にいてダストシュートから飛び出て来た事と隠れたがる所から考えると追われていると考えられるわね。となると私の見立てだと同盟に亡命でもしようとしてミスった、と言う所かしら?違う?」
彼女の導き出した答えは正解ではなかったが、それを嘲笑うのは酷というものだろう。状況証拠からの推測は真っ当な内容だった。寧ろこの場合答えを導きだせる方が異常だろう。現実は小説より奇なり、という事だ。まともに考えて私達の境遇を導き出せる訳がない。
「さてね。ノーコメントと言わせて貰おうかな?というか私は男爵以下確定なのか?」
「あら違うの?貴族ってだけで変にプライドの高い馬鹿って多いのよ。まぁ大体こんな街でオーディンに住んでいた頃みたいなノリをしてもすぐ死ぬけど。流石に大貴族様が塵拾いなんてプライド的に有り得ないでしょ?」
「せやな」
私を除けばな、とは言わなかった。言っても戯れ言扱いされそうだし、そこまで情報を教えてやる義理もない。
「まぁ、そんな訳であんたらを下級の貴族辺りと考えたのだけれど……話を戻すけど、気分的にどうなの?塵拾いなんてしていて」
どこか興味深げに家主様は尋ねる。
「どう、って言われてもな。食うためとお前さんの機嫌を取るためにはやらざるを得ないだろう?それとも餓鬼みたいに駄々を捏ねたらいいのか?」
「残念ながらこの街の子供は強かよ。駄々捏ねるなんて子供以下ね」
ここ数日の記憶を掘り返して見る。この街の糞餓鬼達は逞しい。物心ついた時から日銭稼ぎのための仕事をしている。塵拾いは定番だし、何なら命懸けでスリや泥棒だってして見せる。確かに駄々を捏ねるなぞ餓鬼以下だ。
「それは結構。私も餓鬼以下のメンタルしかないなんて思われたくないのでね。どうせ顔見知りが見てる訳でもあるまい。これ位我慢するさ。匿って貰ってる義理もあるしな」
半分位家主様を煽てるようにそう私は口を開く。まぁ、戦闘で腕もげたり頭皮捲れたりするよりは百倍マシだしね。
「……そう。あんた結構変人ね?」
一方、アイリス嬢は私の言葉に怪訝そうで、意外そうな表情を浮かべた。彼女の言から見るにこれまでこの街で馬鹿やって死んだ御貴族様を何人か見ているのだろう。それ故にプライド処か誇りも矜持も無さそうな私の発言と行動で珍獣を見ているような気分になっていると思われた。
「……そう言われたら私としてももう少し頑張るしかないわね」
塵拾いを続ける私を見、次いで自身の籠を見てから彼女は答える。彼女の籠ももう少しだけ入りそうだった。この街の住民のプライドとしてはスラムライフ三日目の御貴族様よりも先に上がる事にどこか敗北感を感じるようで、若干不満げに彼女もまた仕事に戻る。
結局、我々がこの塵山から去ったのはそれから更に一時間程後の事であった。
諜報員、あるいはスパイと呼ばれる者に必要な技能は何であろうか?戦闘能力?言語能力?それとも人々を魅了する美貌?
部分的にはそれは合っているだろう。可能な限り戦闘は避けるべきではあるが、緊急時には単独で敵中を突破する必要もあるだろうし、多種多様な言語、特に同盟軍の対帝国諜報員には宮廷帝国語の読み書きは必須だ。顔立ちも時として整形してでも取り入る相手の好みに合わせる事だってあろう。
しかしそれ以上に、何よりも諜報員にとって必要な技能、それは目立たぬ事である。正確には対象以外の周囲の者達の注目を浴びないようにする技能というべきか。
無論、敢えて注目を浴び目立つ事が必要な場合もあるが、基本的に諜報活動は地味な情報収集が基本だ。現地の新聞やニュースのチェック、廃棄処理された書類の回収と再生、様々な物品の価格の変動や株式のチャート推移、一般市民や企業人といった末端から高級士官や官僚、貴族の立ち話に直接聞き耳を立て、あるいは盗聴器で盗聴する。そういった地道な作業の繰り返しだ。
この手の活動は案外馬鹿に出来ない。運輸会社の日雇い労働者や街中の婦人方の会話から逆算して敵軍の大規模な出征の兆候を掴む事だってあるのだ。無駄な情報なぞない。一つでも多くの情報を集め、そこからノイズを取り払い、統計化したそれから表面からは見えない国家規模の蠢きを見つけ出す作業が諜報活動なのだ。
それ故に諜報員は極々自然な振る舞いで市井に溶け込む。違和感を感じられないように、当たり前といった素振りで人々の中に入り込む。そしてより有益な、より多くの情報を有していると見込んだ者達に声をかけ、瞬く間に十年来の友人のように相手の警戒心を解き解しその知りうる全ての情報を吐き出させ、それが終われば再度目立たぬように、霧のように消え失せる。
食用蛙や食用虫の串焼き、あるいは砂丘で捕らえたゲネポスのモツ煮にガレオス骨ラーメン、廃油を再利用したデルクスのから揚げ……不衛生かつ半分程腐っていそうな食材を熱と塩と酢と香辛料で誤魔化した濃いめの味付けで提供する露店の数々が『裏街』の一角に軒を連ねていた。多くの住民が朝っぱらからこれまた安くて若干怪しいアルコールと共にそれらの料理を食し、不正受信した『表街』のテレビ番組を見て、あるいは一部の趣味人達によってゲリラ放送されるラジオを聞きながらボードゲームやカードゲームに興じ、分煙なんぞ気にせず煙草を吹かしながら政治や社会、職場や家庭に対する無責任極まりない不平を漏らす。時には酔った勢いで喧嘩が起こり周囲が勝敗に対して賭け事を行い、あるいはヒートアップして銃声が鳴り響く。
多くの同盟市民がその光景を見たら眉を顰めるだろう。街の匂いは酷いし、料理も不味く、住民の知性と良識と品格は最低だった。
尤も、多くの住民はそんな事は気にしない。まるで銀河連邦末期の暗黒街のような惨状ではあるが、それでもこの街の住民、あるいはその先祖が住んでいた外縁宙域と比べれば、『裏街』の繁華街は遥かに豊かで安全な場所であるのだから。
(まぁ、市民には信じられないでしょうがね)
変装して目立ちにくい出で立ちとなったバグダッシュ少佐は、繁華街の一角で比較的安全そうな安酒(『表街』で異物混入の疑いで自主回収された上で二束三文で『裏街』に放出されたものだった)にこれまた比較的安全そうな養殖された食用蛙の串焼きを手に現地の日雇い労働者達の雑談交じりのゲームに付き合っていた。
「それにしてもよぅ、困ったもんだぜ。この前から警備が急に厳しくなりやがってよ。これまでおざなりだった下水道の抜け道すら傭兵共がうようよいるんだぜ?お陰様で商売上がったりよ」
百足の串焼きを食べながら『裏街』と『表街』との間で商品を密輸する運送屋の男が文句を垂れる。両街間の日用品や雑貨、その他非合法商品の往き来は本来元締めの犯罪組織や治安機関に利益の一部を上納しなければならない。それ故にそれを抜ける密輸はそれなりの儲けがあった。当然ながら見つかって捕まれば即射殺されるが。どうやら急に『表街』の警備が強化されたらしく、商売は一時停止してこの居酒屋で暇を潰しているらしい。
「困ったものだなぁ。警察の方も宇宙港や軌道エレベーターの方で抜き打ち調査してるって聞いたぞ?密出国者がいないか探してるらしい。お陰様で卸していた薬やら密航者が次々と煽りを受けて見つかっちまった」
薬の売人も片手に持った安酒を飲み、麻雀を嗜みながら愚痴る。調査がいつ終わるかも知れず、仕入れたサイオキシン麻薬が宇宙港の倉庫で見つかり焼却処分されまくるせいで彼の元締め組織は在庫の販売を価格吊り上げ目的もあって売り渋っていた。そのため彼もまた今日は仕事もせず朝からここで飲んで、遊んでいる。
「本当困ったもんだぜ。酒も飯も日用品も薬も銃も入って来なくなった。これまでみたいな振りじゃねぇ。お上の奴らガチだぞ」
「一体誰を探しているですかねぇ」
「この前『表街』で馬鹿やった奴らだろう?」
「卸している組合や組織はどこも売値を値上げする積もりらしいぞ?いつこの騒動が終わるか分からんからな」
「買い溜め防止のためだろうが……金ある奴はするからな。で、餓えるのは俺らって訳だな」
「一週間二週間なら兎も角……一月以上続いたらマジで厳しいな」
食料や日用品、医薬品すらその殆どを『表街』からの取引で仕入れている『裏街』にとって一月以上物流が滞るのは文字通り住民の死活問題であった。
「その時はどうします?」
極々自然に麻雀と雑談に交ざっていた諜報員は尋ねる。
「へっ、そんときは仕方ねぇ。一暴れするしかないだろ?」
「まぁ十中八九鎮圧されるだろうがな」
「まぁ、ガス抜きにはなるだろうし口減らしにはなるからな。どうせお上が雇っている傭兵共相手には勝てねぇからなぁ」
ブツブツと文句を言いながらギャンブルと酒で彼らは現実から逃げる。元より全ては彼らの関知し得ぬ遥か上の権力者達によって決定される事、彼らが何を考えようとも何の影響も与えられやしない。それ故に彼らはそのような不愉快な現実から目を反らし、刹那的にひたすら目の前の娯楽に熱中しているようだった。
「成る程」
バグダッシュ少佐は聞く事は聞いたとばかりに手元の料理と酒を残してトイレを理由にその場から退席する。ゲームに熱中している住民はその事に殆ど注意を払わない。
店主に金を払い、バグダッシュ少佐は繁華街を歩き出す。道行く住民の視線に入らず、注意を引かないように巧みに大通りを進むため、恐らくすれ違った者達は少佐の存在に気づいてすらいなかった事であろう。街並みを観察しながら、同時に四方八方で交じ合わされる会話にも聞き耳を立てつつ彼は進む。ふと、バグダッシュ少佐は視界の端にその集まりを確認した。
「炊き出しか」
スラムの大通りに出来る惨めで無気力な貧者の列を上着と風船帽の隙間から見やりながらバグダッシュ少佐は小さく呟く。宗教団体は古来より無知な民草を搾取してきたと同時に社会的なセーフティーネットの役割を果たして来たのも事実だ。
『裏街』は最低限の慣習と掟こそあるがそれは法治国家のそれとは基準が別物である。それ故に合法・非合法、様々な宗教団体が教義に従い、あるいは信者獲得のための手段としてその日暮らしの人々に糧を授ける。輪廻教は肉のないベジタリアン料理を、月光教は禁忌食物を抜き福音を与えた料理を、飛翔せし偉大なるスパゲッティ・ウィズ・ミートボールモンスター教は聖技によって調理された大量のミートソーススパゲッティを皿に盛りつけ提供する。帝国・同盟双方でカルト教団として弾圧される救世教終末派にベーコンエッグ教の信者が炊き出しをしている姿も見える。
「あれは……地球教か」
栄養バランスを考えたオーガニック食材でのみ作られたと分かるカレー料理を人々に提供していたのは地球教の一団であった。二〇代であろうか、純白の衣服を着こんだ細身の若々しい司祭が子供達に温かい笑顔を浮かべながらルーをたっぷり注いだカレーを授けていた。
地球教は特に貧者救済に対する取り組みで有名な宗教団体だ。銀河連邦末期から帝政初期にかけて主要な親帝国伝統宗教団体が『十字軍』を派遣した中、彼らは戦地や被災地での食料の配給や医療支援に徹しており、それは現在も変わらない。今目の前で働いている司祭……ゴドウィン司祭はこのスラム街で炊き出しだけでなく医療支援、悩み相談にミサ、無償で臨終の告解と葬儀等も手掛けており、その献身的姿勢から住民の評判も高かった。
「……どの道、今はそんな余裕はありませんね」
一瞬、脳裏に彼の現在の臨時上司の言葉がよぎるが、バグダッシュ少佐は深い調査を行うのは避ける事にした。僅かに気になりはするが所詮一大佐の証拠もない戯言、しかも今はそんな脇道に逸れた事をする暇はなかった。
………そう、背後をつけ回す輩がいるような今は。
その二人組が露店や居酒屋を梯子する男に注意を向けたのには幾つか理由がある。単に見慣れない顔であったのもあるし、その巧みな話術で瞬く間に無警戒な住民から話を聞き出す能力、更には周囲の視線や注意を逸らす身振り手振りの所作が余りにも優秀であった事が挙げられる。無警戒な有象無象の住民なら兎も角、元から怪し気な余所者を探している彼らにはその優秀さが逆に注意を惹いてしまったのだ。
唯でさえ『表街』では面倒な騒動が起きているのだ。そこに見慣れぬ異様に潜入工作に秀でていそうな男の存在である。どこの諜報機関か、あるいは組織の者かは知らないが、それを放置するなぞ有り得なかった。ボスが組織の構成員達に人探しの命令をしていた事もある。どうやら商売先から要請されているらしく、生け捕りすればかなりの報奨金を支払う事を約束されたらしい。もしその関係者なら自分達にもそれなりのおこぼれが支払われる事だろう。
様々な出で立ちの人々でごった返すスラムの繁華街を二人の人影が尾行する。対象の人物は流れる人の波を巧みに影にしつつ、時に道を曲がり、時に足を速めて進む。それは潜入工作員の基本的な尾行の撒き方であった。
次第に速まる対象の足音。尾行する二人組もまた歩みを速める。次第に対象は入り組んだ、人気のない区画に入り込む。
「糞っ、撒かれた!」
尾行の一人が吐き捨てる。狭い路地裏を曲がった対象を追いかけていた二人が同じように街角を曲がった時には既にその人物の姿は影も形もなかった。周囲のバラック小屋の住民を何件か銃で脅して探すが問題の人物は見つからない。
「糞ったれ。折角の報奨金がパーじゃねぇかよ!」
「まだ遠くには行ってねぇ筈だ。探すぞ……!」
追跡者二人は二手に分かれて走り出す。どうやらまだ報奨金を諦めていないようだった。そのがめつさはある意味賞賛するべきであっただろうが、ある意味では単なる無謀であっただろう。何せ……。
「あぐっ!?」
次の瞬間、人気のないバラック小屋の一つから伸びた腕が追跡者の一人を助けを呼ぶ暇すら与えずに内部に引きずり込んだ。
「て、てめぇ……あぎぃ……!?」
取り敢えず自由惑星同盟軍制式採用の近接格闘戦技によって床に組み敷いた後即座に利き手の腕の肩を外し、その口元に声を上げられないようにハンカチを捻じ込む。惚れ惚れするような手際だった。
追跡者の腰元からナイフと拳銃を奪い取りその戦闘能力を無力化するバグダッシュ少佐。
「さて、どうやら唯の怪しさではなく報奨金目当てのご様子。これは聞き捨てなりませんね」
そう言って自身の懐から潜入工作員用万能ナイフを取り出す。所謂アーミーナイフともツールナイフとも言われるそれは、本来戦闘ではなく工作用等に使われる物である。しかし、専門の訓練を受けた諜報員にとっては同時に多種多様な尋問に使える『拷問道具』に変貌し得た。
「さて、余り時間を浪費するも人を苦しめるのも好みでもない。スマートに、迅速にいくとしましょうか?」
万能ナイフから鉤爪のような針を抜き出して男の左手の指の爪と肉の間に触れさせ、バグダッシュ少佐は事務的に尋ねる。その瞳は職務中の諜報員らしく冷淡で、感情の窺い知れない仄暗い闇に染まっていた。