帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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やべぇ、自宅と職場のある町両方でコロナ感染者出てるやんけ……これは駄目かも分らんね




第百七十四話 お前ら、今日からのノイエ再放送見逃すなよ!

「げっ、おいおいマジかよ……。まさか、こんな場所でフロイラインと鉢合わせするとは………」

 

 洋灯に照らし出された青年貴族は眼前の一団を、その先頭の少女の姿を認めると目を丸め、驚いたような口調でぼやいた。

 

 一方、グラティアもまた唖然としていた。それはそうであろう。ホテルの庭先を散歩していれば、いきなり響狼が……オルガロンが飛び出して来て、しかもその上からへとへと顔の婚約者が降りて来て、そのまま雪の上に座りこんだのだから。周囲の女中や護衛達すらあんぐりと口を開き、一瞬茫然としてしまっていた。

 

「……!!い、今すぐに旦那様の介護を!!誰か上着を!それと……温かい飲み物を用意して下さい!!旦那様、大丈夫で御座いますか!?」

 

 真っ先に介抱する、という発想に辿り着いたのは何の因果かグラティアであった。命令を受けた女中や護衛が我に返ったように慌てて動き出す。グラティアはそんな彼らを一瞥するとオルガロンに凭れるように倒れる婚約者の元に駆け寄ろうとして、次の瞬間足を竦めた。

 

 それは別に貴族令嬢にあるまじき行いだからと思った訳でもないし、婚約者への意趣返しでもなかった。もっと単純な事だ。傍らの狼犬が唸り声を上げてグラティアを威嚇したからだ。尤も、狼犬からすればいきなり飛び掛かるかのように走り出した人間を警戒するのは当然であったのだが。

 

「ひっ……!?」

 

 人質にされる等修羅場を経験した事のあるグラティアでも、流石により野性的で根元的な恐怖を思わせる獣の威嚇を相手にすれば足が竦むのも仕方のない事であった。寧ろ、下手に悲鳴を上げたりしなかっただけ胆力があったと誉めてやるべきであろう。

 

「お嬢様、危険です!御下がり下さい!!」

 

 慌てて護衛達が安全装置を解除したハンドブラスターを構えて前に出る。その指は引き金をいつでも引ける状態であった。

 

「駄目です!!旦那様に当たりますっ……!!」

 

 しかしグラティアは半分程悲鳴に近い声で発砲しようとした護衛達を制止した。狼犬の直ぐ傍らには彼女の婚約者がいるのだ。流れ弾が当たりかねない。それだけはあってはならなかった。

 

「……大丈夫だ。落ち着け……落ち着け………」

 

 ぐったりとした青い顔の同盟宇宙軍准将は、唸り声を上げるオルガロンを宥める。その声にグゥ、と若干不機嫌そうにする狼犬であるが、鋭い視線で婚約者が睨めば残念そうにお座りの姿勢を取りフリフリと不満げに尻尾を揺らす。

 

「……大丈夫だ、噛みやしない。ほれ、これでも食って機嫌を直せ」

 

 傍らの青年貴族が懐から幾つかの干し肉を見せつける。オルガロンはそれを凝視し、鼻息を荒くする。数回程揺らして狼犬の注意を完全に惹き、ぴょいと投げれば途端にご機嫌そうにオルガロンは雪の絨毯に落ちたそれに飛び掛かり、食らいついた。

 

「………!旦那様!!身体が冷えております!!此方を……!!」

 

 大人二人分のサイズはあろうオルガロンの、その飼い犬のような態度に暫し瞠目して、しかしグラティアは直ぐに思い出したように自身の着込んでいたコートを脱いで婚約者の肩に被せる。とてもではないが凍てつくようなこの野外を出歩くには彼女の婚約者の姿は薄着に過ぎて、実際身体中が一歩間違えれば凍傷になりかねない程に冷え切っていた。その顔も若干赤い。

 

「ははは、寒冷地での訓練も実戦もしているのですがね……やっぱり装備不足だとキツイみたいだ」

「ご冗談はおよし下さいませ……!!今ホテルの方にお連れ致します!!電気は動きませんが雪と風は防げますから、どうぞ……!!」

 

 婚約者の態度に若干怒るような態度でグラティアは叫ぶ。青年貴族はそんなグラティアの態度に若干驚愕し、しかしすぐに慌てる護衛に肩を貸されてホテルに向かう。

 

「お嬢様もお冷えになっては行けません。どうぞ此方を……」

「えっ……?あ、有り難う」

 

 声を荒げて気分が高ぶったのかホテルに移送される婚約者の後ろ姿を見つめ震えながら呼吸をしていたグラティアに、女中の一人が進言しつつ着こんだコートを差し出す。ほんの少し前まで全ての理不尽を虚無的に受け入れていたのに、気がつけば淑女らしくもない慌てた態度をしていたと今更ながらに気付いたグラティアは少し気まずそうに礼の言葉を言うと、視線を逸らした。

 

「……」

 

 そして、極々自然に彼女はどうして自分がここまで興奮していたのかと、今更のように疑問を浮かべていた。いや、寧ろその疑念はどちらかと言えば………

 

「どうして………」

 

 来る筈のない人物がどうしてここに来たのか、とまでは言わなかった。ただ、彼女は自身の婚約者が寒さに打ち震え、弱る中で自身の目の前に現れたという事実に歓喜し、安堵し、安心していた。してしまっていた。

 

 無論、その事はおくびにも出さないし、口にする事は無かったが………。

 

 

 

 

 

 

 半ば連行されるような形で私は急いでホテル二階の空き部屋に通された。ホテルの電気は使えないので木炭ストーブで慌てて部屋を暖めて、毛布を何枚も集めて最低限の暖を取る。女中達は電気もガスも通らない中で、急いで温かい紅茶を私に用意してくれた。

 

「此方、ロシアンティーでございます」

「あぁ……有り難う。頂こう」

 

 私は凍死一歩手前な身体を震わせながら女中に礼を言う。そして銀スプーンでジャムを一口含んで紅茶を飲む。暖を取ると共に糖分も補給出来るロシアンティーはこのように冷えきった身体には丁度良かった。

 

「……!!これ、旨いな」

「……それは宜しゅう御座いました」

 

 思わず、と言った体でぽつりと呟いた私の感想に、彼の対面のソファーに座った伯爵令嬢は安堵したような表情を浮かべた。

 

 ……後に知った事なのだか、紅茶と共に用意されていたマーマレードと林檎ジャムは元々私の訪問時のために用意されていたものだったらしい。私が婚約者の元に訪問の際の持て成しのためにケッテラー伯爵家が領地の果樹園で採れた林檎や柑橘類で作った高級ジャムである。家が用意出来る最高質のそれを仮に私が不味いと言ったらかなりショックを受けた事であっただろう。

 

 ……まぁ、(無意識に)マウント取られてばかりだから不安になるのも分かるけどさぁ!

 

「ふぅ………」

 

 暫しの間部屋の中は沈黙が支配していた。婚約者はちらちらと此方に視線を向けて何か話したそうにしているが、その度に強く口を結んでいた。恐らくは私の体調を考えての事だろう。冷えきった人間に色々と追及する積もりはないらしかった。

 

 ……数分程してからだろうか、紅茶を飲みきって漸く体力と気力が戻って来た所で私は口を開いた。

 

「あー、まぁ……色々語らないといけない事はあるが、まずは有り難う。お陰様で凍死せずに済んだよ」

「いえ、当然の事をしたまでの事で御座います。それよりも……その………何故、此方に?」

 

 婚約者は、少し迷いつつもそう尋ねた。その口調は……恐らく彼女自身は意識していなかったが……期待半分不安半分と言ったものであった。何処かいじらしく、しかし震える声音。

 

「そりゃあ当然、約束しましたからね。一度は兎も角、流石に二度まで約束を違えるような無礼をする訳には行きませんよ。ですので多少無理してもここに参上した次第です。……まぁ、それはそれで御迷惑をおかけしたようですが」

 

 私は僅かに苦笑いを浮かべて、しかし当然の事のように答えた。尚、実際に見通しが甘くて凍傷を負いかけたので糞迷惑過ぎるのだが。

 

「そう……ですか。御厚意には感謝致しますが……出征が近い中でこの騒動、態態お足をお運び頂くなど御迷惑では御座いませんでしたか?もし、時間がないのでしたら一旦この話は置いておいて、出征が終わってから改めてお会いしても構いませんが………」 

 

 婚約者は私の方を窺うように尋ねた。それは何処か義務的で、内心の不満を我慢しながらの提案に見えた。まず間違いなく私に配慮しての発言である。とは言え、そうも行かない。

 

「いえ、それでは時間が足りません。出征から帰ればもう直ぐに式でしょう?私としてはその前に話す事だから意味があるので……」

「そ、そうですか……」

 

 私は気まずげに、しかし言い訳をしたくないためにそう答える。一方、婚約者は私の言葉に歯切れが悪そうに、若干苦し気な表情で応じた。そして私と視線が合うと一瞬見つめて、逃げるようにそれを逸らした。

 

「………」

「………」

 

 互いに一分程沈黙して、互いをちらちらと見やる。たまに視線が合うと、グラティアは気まずげに視線を逸らす。私も何とも言えない感覚に囚われ、同じように黙り続ける。

 

(はは、これではまるでミドルスクールの学生じゃないかよ)

 

 それはまるで初で、初心な、互いを嫌いではない学生の男女の距離感であった。いや、未だ二十歳にもなっていない婚約者の方ならまだそれでも良かろうが……私まで同様というのはある意味無様だった。

 

「………ふぅ、それでは少しお付き合い下さい」

 

 私は深く深呼吸した後、覚悟を決めてそう語り始める。

 

「……その、グラティア嬢。私が今回貴女に顔を見せに来た理由は謝罪と弁明のためでして………」

「弁…明……ですか?」

「その……この前出迎えに来てくれた時の事でして……」

「出迎えの時……ナウガルト家のご令嬢の事でしょうか?」

 

 私は婚約者の……グラティアの指摘に気まずそうに、しかし目を見て頷く。ここで視線を逸らしても仕方無い。

 

「恐らくは御理解はしているでしょうが、あの戯言はただの悪ふざけでして……いえ、確かに配慮は足りませんでした。それは私の落ち度です。申し訳御座いません。私の浅慮で貴女に無用な心労をおかけしました。まずその事について謝罪致します」

 

 私は胸に手をやり、頭を下げる。私なりに誠意を込めてはいるが、もしかしたら第三者から見ると叱られて謝る子供のように情けなく映ったかも知れない。

 

「それについて謝罪するためにお越しに……?」

「………無論、先日のお約束を違えた事についても、貴女の名誉と信頼を傷つけたと理解しております。出来るのならば、この場を借りてその謝罪もしたいと考えております」

「そう、ですか………」

 

 何処か神妙そうに、唇を噛み締めるように強く結ぶ伯爵令嬢であった。その姿は何処か葛藤しているようにも見える。

 

(やべ、少し大仰に言い過ぎたか?)

 

 あのような謝罪をしてしまえば、立場上は下になるケッテラー伯爵家としては私に余り強く追及は出来まい。婚約者の態度は怒りがありながらそれを耐えているようにも見える。

 

「うっ……その、貴女のお気持ちは分かります。毎回毎回貴女への御迷惑ばかりおかけしているのですから。嫌われるのは仕方ありません」

「い、いえ……決してそんな事は………」

 

 婚約者は無理矢理気味に笑みを浮かべて否定するが、それを真に受ける訳には行かなかった。私もそんな楽観主義者ではない。やはり、より分かりやすい形で『誠意』を見せるべきであろう。

 

「無論、口ばかりでは信用して貰えないのは理解しています。かといって、流石に私の一存で貴女に便宜を図る事も出来ません……」

 

そこまで口にして、一旦私は口を止める。それは、これから要望する内容が私が行ってきた所業を思えば余りに厚かましいものであったためだ。とは言え……。

 

 私が苦い表情で視線を其方に向けると、目の前の伯爵令嬢は此方の要望を即座に理解したらしかった。彼女は小鳥の囀りのような声音で室内に控える女中達に命令した。

 

「……貴女達、少しの間この部屋から退室を」

「お嬢様……!?」

「流石にそれは危険です……!!」

 

 女中達は主人の言葉に、しかし直ぐに了承は出来ず、声を荒げる。

 

(当然だよな……)

 

 何せ相手は公衆の面前で自分達の主人を傷物にしたような男だ。二人きりなぞにすれば今度はどうなるか知れたものではない。当の私も女中達の心情は良く理解出来る。下手すれば彼女達の責任問題だ。承諾出来ない。

 

 だが、同時に拒否出来るかと言えばそれもまた難しいものであった。

 

「大丈夫です。何かあれば直ぐに声をかけます」

「ですが……!!」

「お願いします」

「っ……!?……し、承知致しました」

 

 食い下がろうとする女中達は、しかし婚約者が念を入れるように頼みこむと、渋々と従う。従わざるを得ない。主人の命令に他所の家の者がいるにも関わらず公然と、かついつまでも逆らう訳には行かないのだから。ケッテラー伯爵家の使用人達からすれば婚約者の言葉に逆らう事もまた出来なかった。

 

「お嬢様……お声さえ上げてくれれば直ぐに駆けつけます。どうぞご注意を」

「はい。分かっていますよ」

 

 女中達は労るようにグラティアに声をかけ、次いで私を警戒するように一瞥し、退室する。……うん、前科犯の身としては無礼な態度だななんて言えねぇな。

 

「……自業自得ですが、やはり警戒されますね」

 

 苦笑しつつ、私は目の前のソファーに小さく座り込む伯爵令嬢を見据える。

 

「御迷惑ばかりかけてきた立場で態態このような場面の用意までさせてしまい申し訳御座いません」

「いえ、この程度の事は……以前に申し上げた通り、私は武門貴族の妻となる身で御座います。故に、最後の唯一人となろうとも旦那様を信じ、その望みに答えるのが私の当然の務めで御座います」

 

 グラティアは以前、川遊びの後に小屋で伝えた言葉を繰り返して答える。その言い様は当然の事を当然のように答えているようにも見える。

 

(まぁ、流石に言葉通りには受け取れんがね……)

 

 凛々しい態度で答える少女の、しかしその重ね合わせて膝に置かれた手は、かすかに震えていた。部屋は確かに少し寒いが、当然それだけが理由でないのは自明の事である。

 

「そう……ですか………」

「私の事はお気になさらず、それよりも何のためでしょうか?」

「え、えぇ……その、ある意味詰まらない理由ではあるんでしょうが……」

 

 私は若干迷い、緊張し、気負つつも、深呼吸をしてから………私は姿勢を正して彼女を、グラティアを見つめた。さて、覚悟を決めるかね?

 

「グラティア嬢、人払いをして頂き申し訳御座いません。流石にこれを贈るとなると気恥ずかしく……」

 

 私がそう前置きしてから懐から取り出したのは藍色の小さな箱であった。グラティア嬢は一瞬訝し気に首を傾げ、しかしそれが何なのかを理解すると思わず息を呑み、目を驚きに見開く。

 

 私はゆっくりとリングケースを開く。その中に納められたのは指輪だった。指輪本体は白金製で、中央に大粒の金剛石が嵌め込まれたソリティア・リング………。

 

「だ、旦那様……これは………」

 

 グラティアは震える声で呟く。私は気恥ずかしさと緊張感を圧し潰しながら説明する。

 

「正直、安物だって不満だと思う。その……伯爵家から毎週もっと良い贈り物が届いているからこんなもの、と思うだろう。一応、弁明するならばこれは伯爵家からじゃなくて私からのものなんだ」

 

 伯爵家の財力ならばこれよりずっと高級な指輪を贈れるだろう。指輪だけではない。ネックレスも、ジュエリーも、ティアラだって贈れる筈だ。但し、この指輪は伯爵家からではなく、目の前の婚約者からの贈り物なのだ。

 

「元々、金には困っていないから必要な時以外軍の給与はそのまま塩漬けでね。不満はあるとは思うが……私が働いて稼いだ貯金をほぼ全額費やして購入させて貰った。伯爵家じゃなくて、私個人として、婚約指輪をとね」

 

 不良騎士と相談を重ねて、最終的に私が誠意として用意したのはオーダーメイドの婚約指輪であった。軍人としての給与の入った預金口座、その中にあった残額の八割を注ぎ込み拵えたのがこの大粒の天然金剛石を使い、フェザーンの有名宝石店がプロの研師に依頼してデザインした五万五〇〇〇ディナールの婚約指輪であった。

 

 当然ながら、一般の同盟人が婚約者に差し出すものとしては破格の値段であるが、逆に門閥貴族の基準としては特別に高級という訳でもない。

 

(寧ろ名門伯爵家の嫡男としては少し安い位なんだよなぁ……)

 

 正直な話、私も相談して提案された際には喜ばれるか怪しいと考えたのだが……最終的には食客からの強い押しもあり、この指輪を贈る事を誠意とする事に決めた。ただ、こんな安物を差し出す事を婚約者の周囲の家臣達に見られたくはなかった。それ故の人払いだった。

 

「感傷的と思われるかも知れないが……私が危険な軍務で得た給与で買ったこの婚約指輪だ。これで少しだけでも良いから、貴女に対する私の誠意を示せるのなら、どうか受け取ってくれないか……?」

 

 そして、再度深呼吸して私は宣う。

 

「フロイライン……グラティア、この婚約指輪は私の誠意です。どうか御受取下さいませ」

 

 膝を屈して、捧げるように私は指輪を差し出す。私の言葉の最後は緊張で少し震えていた。そんな情けない態度ではあるものの、私は……少なくとも自分としては……主君に仕える執事のように、あるいは貴婦人に忠誠を誓う騎士のように恭しく頭を下げて目の前の婚約者の反応を待った。

 

 何秒か、あるいは十数秒か、数十秒か……ホテルの壁に掛けられた針時計のカチカチという音が妙に室内に響いていた。

 

 伯爵令嬢からの言葉はない。しかし、私は何も口にせず、微動だにせず、限りなく永遠に思える時間を不動の姿勢で待ち続ける。

 

(やっぱり、駄目かねぇ………?)

 

 ……体感時間で数分程、不良騎士からロマンチックで誠意の分かる贈り物なら喜ばれる、等と口車に乗せられたのを私は後悔し始めていた。顔を打たれるか、花瓶を頭に投げつけられる事位は覚悟しよう、と心に決める。

 

「旦那様……お顔を……お上げ下さいませ」

 

 震える伯爵令嬢の声、それがどのような感情を意味しているのか悩みつつ、私は最悪の事態を覚悟して緊張しながらゆっくりと顔を上げた。

 

 そして顔を上げきった所で……私は思わず驚きに息を呑んだ。

 

 だが、それもある意味当然の事だった。

 

 目の前にいた女性は……泣いていた。美しい美貌を歪めて、目に涙を浮かべて、泣いていた。そして、許しを乞うように小さく、しかし妙にはっきりとした発音でこう呟いたのだ。

 

「ご免なさい………」

 

 それは、余りに気弱で、内気で、優しく、そして憐れな少女の慟哭だった………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その謝罪の言葉を聞いていたグラティアは、その実相手の青年貴族に対する怒りは殆どなく、寧ろ罪悪感を感じた。

 

 彼女自身、確かに幾度も自身の立場を嘲られるような仕打ちの数々を受けて来た事に思う所があったのは事実である。

 

 しかし、同時にそれは別に婚約者である目の前の青年貴族に対してばかりではない。元より彼女は祖父や多くの貴族からそのような酷い仕打ちを受け、軽蔑される事が少なくなかった。そのため、必ずしも自身の夫となる予定の者に殊更憎しみを抱いている訳ではなかった。

 

 そして、彼女は捕虜収容所とハイネセンの別荘、その双方で目の前の青年貴族に助けられた事実を理解していた。寧ろ、生来の彼女の気弱で自罰的な内向的性格と、この雪の中来る筈がないと決めつけていた事による負い目、凍傷を負いかけてまでこの場に来た誠意、そして理由自体には一定の妥当性があるがために彼女は怒る処か、却って同情に近い感情すら少し抱いていた程だ。

 

 それらの要因が複雑に絡み合った結果、グラティアは自分が一方的に相手を責める事の出来る立場ではない事を自覚していた。そして、その事実を目の前の婚約者の姿を見ると一層強く突きつけられているように感じられた程だ。故に彼女は数多くの仕打ちを受けたにもかかわらず不満を抱かなかった。

 

(いえ。そもそも不満を言う資格も………)

 

 そして、グラティアは目の前の青年貴族に対して自身が犯している最大の裏切り行為を思い出して自覚もなく沈痛な表情を浮かべていた。この時点で相対する婚約者は彼女の渋い表情を不満と怒りの表れと認識するが、当の彼女はその事に気付く事は無かった。

 

 そして、婚約者たる青年貴族が改まった態度を浮かべた時、ふと彼女はその精神を軽く揺さぶられる。

 

(あっ……)

 

 一瞬子供のように気恥ずかしげに顔を背け、次いで深呼吸をしてから………目の前の伯世子が自身を見つめている事に彼女は気付いた。そしてグラティアは思わず息を呑んだ。此方を強く見つめるその顔立ちは元の出来が良い事もあるがその背筋を伸ばした堂々たる姿勢も相まって、その風貌がとても凛々しく、魅力的に映ったからだ。

 

 そして差し出されるリングケースを視界に収めた時、彼女は驚愕した。それが何なのか彼女は直感で理解したが、同時に卑屈な彼女の理性がそれを否定する。期待しないと決めたばかりだというのに……だが、直ぐに彼女は自身の直感が正しかった事を知る。

 

 リングケースの中から現れた大粒の金剛石の輝きにグラティアは思わず見惚れた。彼女は強欲でなければ守銭奴でもないが、世の中にいる大多数の女性同様に素朴に宝石を貴ぶ価値観を有していたし、同時に物を見る目も持っていた。

 

 その色合いと輝きは大多数の同盟人が婚約時に贈る人造金剛石ではなく、天然物のそれである事を彼女は正確に見抜いていたし、同時にそのデザインがプロの研磨士によるものである事も把握していた。強いて言えば名門貴族の子息が贈るものとすれば少し格が落ちるものである事であるが……そのかすかな不満は直ぐに払拭される。

 

(自分の給与で……?)

 

 彼女はその事実に打ち震える。これまで彼女も形だけの贈り物ならば幾らでも貰った事はある。同時にどれも形式的で、本人が選んだ訳でない事も、何の心も籠っていない事もまた分かっていた。どれもこれも形ばかり、所詮は「ケッテラー伯爵家の長女」か「ティルピッツ伯爵家次期当主の婚約者」に向けてのものであり、「グラティア・フォン・ケッテラー」という一個人に向けてのものなぞ皆無。その事について彼女は理解していたし、また仕方ないと諦念し、期待もしていなかった。

 

 それがどうだ?この指輪は一族の資産も使わなければ家臣に選ばせた訳でもない。文字通り、目の前の婚約者が自分自身の金銭で、そして自分自身の意思で購入したものなのである。

 

(旦那様自身がっ………!!)

 

 何とも言えない衝撃と高揚感がグラティアの身体を駆け巡った。感動とも言えるかも知れない。

 

 彼女にとって目の前の婚約者の行動は想定の外のものであった。確かに指輪は伯爵家次期当主が贈るものとしては決して高価なものとは言い切れない。だが、それは問題ではないのだ。そんな事は問題ではないのだ。

 

 自分のために!自分の事を考え、悩み、思索、時間を費やしながら考えた贈り物!ましてや自身の血肉を糧に得た資金を持って取り揃えた贈り物!!それは唯高価である以上の付加価値を与えていたし、特にグラティアのような性格の少女にとっては一層象徴的なものであっただろう。

 

 それ故に彼女は感動する。歓喜する。狂喜する。そして同時に……自身の立場を思い出して絶望したのだった。

 

「あぁ……」

 

 嘆息するように彼女は息を吐いた。いつの間にか彼女の瞳は潤んでいた。極自然に、当然のようにその白い頬から涙が流れる。

 

 そして、そしてあまりにも自然に、そして悲痛に満ちた声で彼女はその言葉を口にしていた。

 

「ご免なさい……」

 

 

 

 

 

「ご免なさい……。御許し下さいませ。私に……私は……それを受け取れる立場ではないのです」

 

 震える、怯え切った、絶望し切った声音で目の前の少女は震えた声音で言葉を紡いだ。それは今にも死にそうな位弱弱しく、悲し気な返事であった。無論、その表情は声以上に深刻で、顔面蒼白の婚約者の姿は一瞬私を絶句させた。

 

 正直、最悪駄目かと覚悟していたが……殴られるんじゃなくて泣かれるのは少しだけ想定外だった。いや、性格的に復讐するより一人で泣いてしまうタイプなんだろうが………。

 

「その……申し訳御座いません。どうやら私の独り善がりな行いでした。このような形で謝罪なぞ……」

「違います……!!」

 

 私が指輪を机の上に置いて謝罪しようとした瞬間、それを鋭く、悲痛な泣き声が阻止する。目の前の婚約者は身体を震わせて、涙を流しながら私を見つめる。その表情は明確に怯えていた。

 

「ぐ、グラティア嬢……?」

「ち、違うんです。違うんです……違うんです……。旦那様が悪い訳じゃないんです……!!嬉しいんです……嬉しいんですよ……?けど……けど受け取れないんです!私は、私は受け取れないんです。……受けとる資格が無いのです……!!」

 

 嘆くように、悲嘆するように、絶望するように彼女は、グラティアは私にその事を告げた。

 

「私は……ずっと嘘をついて来たのです」

 

 グラティアが嗚咽交じりに語り出したのは彼女の、いやケッテラー伯爵家側の仕出かした細やかな小細工についての事だった。

 

「………成る程」

 

 半ば錯乱気味の彼女の途切れ途切れの話からおおよその内容を理解した私は、静かに頷く。

 

 彼女の話によれば、私の従士の髪の色から私が金髪趣味なのだと噂されているとか。

 

 そして婚約話が提案される過程で、どうしても婚約にこぎ着けるように祖父に髪を染色させられたのだという。

 

 ………恐らくはそれ自体は限りなく婚約に影響を与えた訳ではないと思う。父も祖母も、たかが髪の色で私の相手を決めるような人物ではない。グラティア嬢の祖父ルーカスの行いはやらないよりはマシ程度の殆ど徒労に近いものであっただろう。問題は、既に婚約してしまって今更その事を言えなくなってしまった事だ。

 

 これも恐らくは今更言った所で婚約解消する訳にも行かない。そもそも政治的な理由からの婚姻なので私の好みなぞ介在する余地もない。極論すれば最悪愛さえいらないのだ。宮廷からすればただ結婚したという事実と、跡取りが出来ればそれだけで良いのだ。

 

 無論、それは此方だから言える事である。ケッテラー伯爵家からすれば染色がバレたらどうなる事か分からないという恐怖があろう。婚約者はずっとその秘密を隠し続けて精神的に苦悩していたらしい。まぁ、結婚した後バレたらと思うと怖いよね……。

 

(しかし、問題は何故今頃そんな事を……?)

 

 秘密を暴露するにも、タイミングというものがある。幾ら秘密にしていても一度結婚さえしてしまえば取り消し出来ないのだからその後に言えば良いのだ。今このタイミングで言った所で彼女に何の得があるのだろうか?

 

「……私には、これ以上旦那様に嘘がつけません」

 

 ぽろぽろと涙を流しながら、苦しそうに彼女は私の疑問に答えてくれた。

 

「旦那様は私を何度も助けて下さいました。その上、こんな贈り物をして頂けるなんて……なのに……なのにこんな嘘を………」

 

 グスグスと、嗚咽を漏らしながら彼女は私に助けられた恩義を、そして今回私の用意した贈り物に衝撃を受けた事を語る。その上で良心の呵責からこれ以上偽る事が出来ないのだと伝える。

 

「特にこの指輪は……旦那様が御一人で選ばれたのでしょう?恐らくとても長く悩んで選ばれた筈です」

「ま、まぁな……」

 

 ハンカチで涙を拭きながらの質問に私は気恥ずかしさもあり、歯切れ悪く答える。何せ貯金の大半を叩いたのだ。当然一度きりの機会である。失敗出来ない。婚約者の好みや流行を考えて、身分を偽り宝石商や職人からも何時間も意見を聞いて最終的に注文したのが目の前の婚約指輪だ。

 

「そうでしょう。婚約指輪とて、実際に自分で選んで頂ける方は滅多にいないと聞きます。殆ど家臣に任せてしまうと。……その、非礼ながら私などのために御忙しい時間の合間を割いてお選び頂いた指輪、それだけで旦那様の誠意はありありと分かります」

 

 グラティア嬢は顔を赤らめ答える。そして……直ぐにその表情を暗くする。

 

「私も恥というものは知っております。ここまでして頂いて、今更騙し続けるなぞ良心が許せません」

「だから、暴露したと?」

「……今更だとは思われるでしょうが」

 

 ソファーに座るグラティア嬢は顔を強張らせ、苦悩の表情を浮かべる。それは全てを諦めた顔だった。

 

「………」

 

 その彼女の告白はかなりの覚悟を持ってのものである事を私は理解していた。彼女にとっては一切のメリットなぞないのだから当然だ。私の実家は勿論、彼女自身の実家すら敵に回す行為だった。仮に私がこの会話を暴露したら………。

 

(……ここで見捨てるのもなぁ)

 

 仮にこれを基に私が破談を要求したら母辺りが賛同して成功するだろう。しかし、そうなるとグラティア嬢の立場があるまい。最悪、命すら危ないだろう。

 

 私からすれば彼女に敵意も殺意もさらさらないのだ、そのような寝覚めの悪い事は御免である。

 

(そもそも髪の色に拘りがある訳でもなし……。それに……)

 

 少なくとも、私に対して誠実な彼女を嫌いにはなれなかった。

 

「……フロイライン、貴女の地毛の色は亜麻色ですね?」

「っ……!!」

 

 私の質問に顔を更に青くし、打ち震える婚約者。打ち震えつつも、小さく頷く。

 

(母親や弟の髪の色から適当に尋ねてみたが、どうやら正解らしい。成る程………)

 

 そして私は観察するように彼女を見つめる。恐怖に怯える少女は私が何をしようとしているのか分からずに、此方の様子を窺い続ける。

 

「グラティア嬢」

「は、はい………」

 

 私が鋭い視線を向けて彼女の名を呼べば、グラティア嬢が顔面蒼白で答える。同時に全てを覚悟した表情を浮かべる。婚約の破棄か、そうでなくても私の不興を買ったと思っているのだろう。健気な事である。

 

 故に、私は宣う。この先の言葉を。

 

「でしたら少しウェディングドレスの手直しが必要ですね。髪の色が違えばドレスの映え方が違いますから」

 

 屈託のない笑顔で私が口にした言葉に、目の前の少女は今日一番の驚きに目を見開いた。

  

「えっ……それは………」

 

 私の言葉の意味を咀嚼し、理解し、しかし困惑するような表情を浮かべる少女。不謹慎ではあるが、それは私が彼女と初めて顔を合わせてから一番感情豊かで、人間味のあるように思えた。

 

「少し手間がかかりますが……まぁ、仕方ありませんね。お互い一世一代の晴れ舞台ですから、職人方には徹夜して貰いましょう。追加料金を請求されそうですが」

 

 私は半分からかうように苦笑する。目の前の婚約者はその態度に更に困惑して何とも言えない表情となる。その姿が一層私の笑いを誘った。

 

「その……」

「貴女自身がどれ程お悩みか、どれ程苦悩したかは残念ながら私には想像出来ません」

 

 グラティア嬢が何か言おうとする前に、悪いが私自身の意見を先に言わせて貰う。

 

「ですが、少なくとも私にとって貴女は六年間も交流を続けて来た間柄です。今更この婚姻を取り消しするには情が有り過ぎますよ」

「ですが、御家族は………」

「それこそ、私が抑えましょう。私は伯爵家の次期当主です。その程度の事出来なければ立つ瀬がありませんよ」

 

 私がそう申し出れば目の前の婚約者は悲しげな表情を浮かべて反対する。

 

「そ、そのような事はお止め下さい……!!私なぞのために旦那様のお立場が悪くなります!!」

「無論、言葉は選びますよ。ですが同時にこの婚姻に反対する事も許しません」

「何故……何故そのような………」

 

 理由が分からない、という表情でグラティア嬢は私の顔を見やる。童顔な所があるためか、彼女のその表情は怯える子供のようにも思えて可愛らしくも思えた。

 

 私は跪いたまま、相手を安心させるように微笑む。

 

「難しく考えるまでもありません。私だって結婚するなら良く知る相手の方が良いですし、皇帝陛下や宮廷の意向には配慮したい」

 

 それに、と私は冗談めかした口調で続ける。

 

「亜麻色髪の貴女も、随分と御美しいでしょうからね。折角の優良物件、性格が悪いと思われるかも知れませんが誰にも渡したくありませんよ」

 

 私の意地悪そうな、身勝手で我欲丸出しの言い様に、婚約者は泣きながらも呆れるように笑ったのだった。

 

 

 

 

「旦那様、折角足を御運び頂き、贈り物も頂戴したのです。本来ならばもっとおもてなしさせて頂きたいとは思うのですが……」

 

 ホテルカプリコーン・ハイネセンポリスの正面入口にて、厚着した婚約者は恐縮そうに語る。彼女は今の状況を良く理解していた。

 

「いえ、新しい足を頂けただけで幸いですよ。このままでは宇宙港に間に合うのか怪しい所でしたから」

 

 庭先では用意された数台の軽雪上車が並んでいた。三人乗りのそれらには既に複数人の人員が乗り込んでいる。運転手と護衛役であろう。

 

「具体的な話は帰って来てからですが……お婆様や父には手紙で話を通しておきますので余り不安にならないで下さい」

「はい。数々の御配慮、痛み入ります」

 

 心底済まなそうに答えるグラティア。いやまぁ、配慮と言えば私こそ色々アレな事してきた立場だからね………。

 

「その……恐らく宇宙港まで時間がかかりますので、もし御不満がなければ此方をお受け取り下さいませ」

 

 若干不安そうに、そしてよそよそしそうに差し出されるそれ。私はそれを受け取り、広げればそれが何なのかに気付く。

 

「マフラー、ですか」

「御寒いでしょうから。職人ではなく私なんかの手作りで申し訳御座いませんが………」

「手作り!?」

 

 婚約者の言葉に私は若干変な声を上げてしまう。その声に驚いて婚約者はびくっと身体を震えさせた。あ、いや別に怒っている訳じゃないんだけどね………?

 

「あ……す、済まない。別に不快感がある訳じゃなくてな。寧ろ少し驚いてしまって。はぁ、これを………」

 

 私はマフラーを広げて、感嘆するように息を吐く。

 

 編み物自体は別に貴族令嬢として問題がある訳ではない。寧ろ、驚いたのはその刺繍であった。

 

「良くもまぁ、これだけ緻密にしたものですね………」

 

 金糸や銀糸、絹糸等、多種多様な種類と色の糸を使用したのだろうマフラーに縫われた刺繍は、到底アマチュアのレベルではなく、職人の芸術品のように思われた。多種多様な唐草文様に植物や鳥をモチーフにした絵柄が鮮やかに縫われ、それは到底人の手で行われたとは信じがたいものだった。特に中央に置かれた鷲獅子は明確に私の実家の家紋がそのモデルである事に間違いはないだろう。全てを縫うのに相当な時間を要した筈だ。

 

「……有り難く受け取りましょう。今使っても?」

「勿論です」

 

 その了解の返事を受けて私はコートの釦を少し外して首元にマフラーを巻き付ける。その肌触りは良く、マフラーとしての機能を十全に果たしていた。  

 

「……良い着心地ですね。有り難う御座います」

「いえ、これほどの物を贈り頂いておきながらそのような物しか用意出来ず、申し訳御座いません」

 

 本当に恐縮するように両手を胸元に重ねて憂うような表情を浮かべる少女であった。その利き手の人差し指には私が贈ったばかりの指輪が光っている。うん、やはりモデルのレベルが高いから良く似合うね。

 

「いえ、寧ろ有難い事ですよ。私のは職人にやらせたものですからね。貴女の誠意には叶いません」

 

 苦笑するように私はフォローする。実際、これだけ緻密な刺繍を施したマフラーを作るのには相当時間が必要だっただろう。

 

「もし良ろしければ、これからも私のために色々作ってくれますか?」

「は、はい。その……今すぐには出来ませんが………」

「ええ、構いませんよ。時間ならこれから幾らでもありますから。そうでしょう?」

「あっ……そう、ですね」

 

 私がそう答えれば、漸く緊張気味の表情を和らげて小さな、そして柔らかい笑みを浮かべる婚約者。

 

「伯世子様、大変恐縮ですがそろそろ……」

 

 背後より、ケッテラー伯爵家の私兵が催促の言葉をかけて来る。うん、ごめんね。いきなり時間に余裕のない仕事命令した癖にだらだらと本人がしていたら駄目だよね。

 

「では、そろそろ」

「はい。その……武運長久を……いえ、どうかご無事にお帰り頂ければそれ以上望むものは御座いません。どうか……どうかご壮健である事を御祈り致します」

 

 少し憂いを秘めた表情で、心配そうに、しかし気丈にグラティア嬢は私にそう最後の声をかける。その姿は実にいじらしく、健気なものであった。

 

「………えぇ、分かりました。私もこのマフラーを見て、貴女の事を思い続けさせて頂きますよ。我が花嫁(マイン・ブラウト)?」

 

 そう言った私は彼女の指輪を嵌めた手を引っ張り、当然のようにその手の甲に軽い口付けをする。実に芝居がかった行いであった。

 

「あっ……あ………」

 

 私の行為に少女はぱっ、と顔を赤らめて、そのまま手を引き戻してしまう。そして、その手を優しく擦り、恥ずかしげに、しかし愛しげに此方を見つめて来た。

 

(あ、やべ。ミスった)

 

 ……うん、実の所半分冗談めかした行いであり、笑いながら言い返されるか、打たれるか辺りを想定していたのでこの反応は想定外だった。これまでの所業からして指輪一つでガチでデレるなんてウッソだろお前!?

 

「そ、それでは………」

 

 私は居たたまれなくなり視線を逸らし、次いで踵を返して軽雪上車の方へと急いで行ってしまう。何か背後からあっ、とか言う寂しげな声が聞こえたが私の自惚れによる幻聴だと信じたい。

 

「……遅くなったな。出してくれ」

 

 軽雪上車の後部座席に押し入るように座りこみ、私は逃げるように運転手に命令する。その命令に従い軽雪上車のエンジンが唸るように始動した。

 

「早く出してくれ」

「はっ、しかし……」

 

 運転手が横目に何かを見て、神妙な表情を浮かべる。私が嫌な予感と共にそちらを見れば小さく手を振る少女の姿……。

 

「………」

 

 私は精一杯の笑みを浮かべて手を振り返せば、彼女はそれだけで満足してくれたように安心した表情となる。

 

「……早く出せ、命令だ」

「はっ!」

 

 二度目の私の命令に従い、軽雪上車が発車する。私の乗り込む物に、護衛が数台、闇夜の街にヘッドライトを照らしながら雪の上を駆け始めた。

 

「……取り敢えず、寝るか」

 

 宇宙港到着まで一時間はかからないだろうが……私は寒さを耐える事と、疲れの解消、そして心の整理のために椅子に凭れると瞼を閉じ静かに身体を睡魔に委ねた。  

 

 ……宇宙港に着いた時、私を待っていた従士達を見て、ケッテラー伯爵家の護衛達からの鋭い視線を背後から受けて個人的に気まずい空気であった事はここに明記しておく。

 

 

 

 

 宇宙暦792年四月八日2130時、自由惑星同盟軍第五次イゼルローン要塞遠征軍は幾つかに別れた形で未だに混乱の渦中にあるハイネセンより出立した。総戦力は宇宙艦隊にして支援艦艇含めて六万二二〇〇隻、兵員にして八八六万七九〇〇名、過去最大の戦力を動員してのイゼルローン行軍は、しかしその航海計画と運用を司る各部署もまた最高クラスの人材を惜しみなく導入した事により計画通りに、かつ隠密の内にイゼルローン回廊同盟側出入り口に展開する事を可能とした。

 

 尚、遠征軍総司令部の公式記録によればこの行軍中、遠征軍総司令部航海部の副部長の一人が宇宙酔いと風邪により、その行軍期間の大半をベッドの上で呻きながら過ごしていた事が記されている……。




本話のまとめ

・屑貴族がチョロインな婚約者を安物の指輪で適当に宥めすかしてからそいつに用意させた足で愛人と合流して宇宙旅行に行ったって話

………主人公、容赦無さすぎない?

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