ONCE AGAIN 作:晃甫
満開だった桜が、徐々にその花びらを散らし始める。流れる風はどこか暖かく、燻っていたこの気持ちすらも穏やかにしてくれそうな、そんな四月のある日のことだった。
今でもハッキリと、明確に思い出すことが出来る。
友人に勧められた携帯ゲームについ熱中してしまい、夜更かしをしてしまったあの日。
確かに、世界は終わったのだ――――。
1
少年、小室孝の朝は早い。
六時にセットされた目覚まし時計のアラームが鳴るよりも早く目を覚まし、手早く軽装に着替えて洗面台へ。最低限の身だしなみを整えると、予め前日のうちに用意しておいたバナナを二口で食べ終えてそのまま真っすぐに玄関へと向かう。
既に馴染んだ運動靴を履き玄関を出る。まだ完全には昇り切っていない太陽を眺めながらストレッチをしていると、向かいの玄関が開く音がした。
「やあ、おはよう小室君」
「おはようございます、希里さん」
現れたのはTシャツ姿の男性と、もう一人。
「おはよーお兄ちゃん!」
「おはようありすちゃん。朝から元気だね」
男性の後ろから可愛らしいトレーニングウェアを着て出てきた小さな女の子に挨拶を返して、その頭を優しく撫でる。
希里ありす。今月から小学校二年生になった、笑顔の愛らしい女の子だ。
孝がありすに初めて出会ったのは一年ほど前のこと。希里家がありすの小学校入学を期に学校の近い場所に家を建て、それが小室家の真向かいだったのだ。なんでも以前に住んでいたアパートは学区内ぎりぎりの立地で、通学に片道一時間かかってしまうとのこと。成程確かに小学校に入学したての女の子がランドセルを背負って歩くには些か酷な距離である。
そんな理由から出会った孝とありすであるが、どういうわけかこの小さな少女は最初から孝に懐いているようであった。そういった警戒心がまだ無いのかもしれないが、初対面でいきなり抱き着かれたのには流石に驚いた。如何に高校生といえど動揺する。
「勉強の方はどうだい、ありすちゃん」
「ちょっとつまんない。簡単すぎるんだもん」
脚の筋を伸ばしながらそんな会話をする。
今の会話からも分かるようにこの少女、かなり聡明である。なんでも昨年の引っ越しを打診したのもありす本人であるらしい。父親である誠三さんから聞いた情報なので信憑性に関しては間違いない。まったく大したものだと舌を巻かざるを得ない。自身が同じ小学二年生だったときはどうだったかと思い出しかけて、孝はそこで考えるのを止めた。泥塗れになって勉強そっちのけで遊んでいた記憶しか出てこなかったのだ。
「お兄ちゃんは? 勉強どう?」
「はは……、なんとか落第せずに済んでるよ」
「そっかー」
ありすの興味は高校の勉強にまで及んでいるのか、瞳を輝かせて尋ねてくる。
生憎孝の学力は平均を下回って赤点を掠めるレベルのため、彼女に何かを偉そうに教えてやることなど出来ない。現実とは時として残酷なものだ。
「よし、行くか」
「うん!」
ストレッチを終えた孝とありすが二人揃って走り出し、その後ろを誠三が付いてくる。日によってはありすはマウンテンバイクを持ち出してくることもあるが、今日は彼女もランニングだ。
半年程前から始まったこの三人でのランニングも、今となっては毎朝の欠かせない日課となっていた。基本的に雨の降る日以外はずっと続けられているこのランニングは、自宅を起点としてぐるりと町内を一周。おおよそ十キロの距離を一時間十五分ほどかけて走る。
そもそもの発端はありすが父のメタボ腹を懸念したこと、そして帰宅部故に体育以外に運動をしていなかった孝の運動不足を危ぶんだことだ。加えてありす自身の体力づくりという理由の元、このランニングが開始された次第である。
当初は息も絶え絶えといった様子の孝と誠三であったが、半年も走り続ければ身体もそれに順応する。今となっては息が切れることもなく、軽快な走りを見せるようになっていた。無駄な脂肪が落とされ、見た目は宛らアスリートである。
他愛もない会話をしながら約一時間のランニングを終えた孝とありすたちは、一旦それぞれの家に戻って汗を流す。濡れた髪の毛をバスタオルでごしごしと拭きながらリビングに来た孝が、テレビの左上に表示された時刻を確認する。七時二十分、問題なさそうだ。
「おはよう孝、トースト置いておくわよ」
「ありがとう母さん」
テーブルに置かれた二枚のトーストにバターを塗って、牛乳と一緒に流し込んでいく。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「性分なんだよ」
「せっかちな子ねえ」
「母さんの子だからね」
母親の言葉にそう軽く返して、孝は最後の一口を飲み込んだ。隣の椅子に置いてあった学生鞄を手に取り、キッチンに立つ母の後ろ姿を横目にリビングを出る。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
いつものようにそう声を掛けてから玄関を出ると、外には既に真っ赤なランドセルを背負ったありすが立っていた。
一度向井の家に視線を向ければ、扉の前で誠三と子犬(ジークというらしい)の姿が見えた。優し気な笑みを浮かべて手を振る誠三に目礼を返して、孝はありすの視線にまで腰を落とした。
「待たせちゃったかな」
「ううん! ありすも今出てきたところだから!」
「そっか。よし、行こうか」
孝の通う藤美学園とありすの通う新床第三小学校は同じ方向にあり、ありすの入学当初から二人で通学するのがお決まりの事となっていた。ありすの両親としてもまだ年端のいかない娘を一人で通わせるのは不安で、孝の存在は渡りに船だったに違いない。この床主市は首都近辺に比べれば治安は良い方だろうが、それでもいつ何が起こるのか分からないのが現代である。
高校生男子と小学生の女児が並んで登校している様は傍から見れば好奇の対象なのだが、近隣住民たちは今ではすっかり日常の光景として受け入れていたし、孝の友人たちからもロリコンのレッテルを貼られるだけで済んでいる。いや、孝からしてみれば甚大な被害を受けているのだろうが、ありすに対して邪な思いを抱いたことなど一度もないことだけはここで明言しておく。どちらかと言えば孝は巨乳のお姉さん系が好きだ。間違ってもロリコンではない。
「よう小室リコン、今日も精が出るねェ」
「よう森田、ぶっ殺される覚悟は出来てるんだろうな?」
後ろから自転車に乗って颯爽と現れた金髪刈上げの不良の言葉に、孝の蟀谷に青筋が浮かぶ。
なにがしか不名誉なあだ名が聞こえたような気がしたが、孝はそこには一切触れない、触れてはいけない。
突如として現れた不良少年だが、どうやらありすとも顔見知りらしい。
「あ、森田のおじちゃん! おはよう!」
「なんで小室はお兄ちゃんで俺はおじちゃんなんだよ……」
「顔だろ」
「ぶっ殺すぞ筋トレマニア」
「上等だその金髪毟り取ってやる」
いつもの日常。何気ない一コマ。後になって振り返れば確かに楽しいと思える、そんな有り触れた世界が、そこには確かに存在していた。
2
孝の通う藤美学園高等学校は、県内でも有数の進学校としてその名を知られている。毎年東京大学への進学者を複数人輩出していることからもそれは明らかで、加えて部活動にも積極的ときたものだから藤美学園の受験合格者倍率は県下有数の数字を誇る。
よくもまあ自分が受かったものだと、孝は二年へ進級した今となっても思う。合格だと親に知らせた際に失神しかける程だったのだから、絶対受かるなどと思っていなかったのだろう。教職者としてそれはどうなんだと思わなくもないが、実際孝の頭脳は勉強方面はさっぱりだ。
ではどうやって孝は藤美学園の筆記試験を突破したのか。
答えは簡単で、身近にいた優秀な家庭教師に勉強の面倒を見てもらったのだ。
「小室、アンタまた授業中寝てたでしょ」
「よく見てるなぁ、先生にはバレないようにしてたつもりだったけど」
休み時間になって孝の座る席にやってきたのは、桃色のツインテールが特徴的な少女だった。そしてこの少女こそが、孝の受験勉強をバックアップしていた家庭教師である。
高城沙耶。学年一の頭脳を持つ天才。孝とは幼稚園からの付き合いで、その縁もあってか何かと世話を焼いてくれる少女だ。
「そんなんじゃまたテストで赤点取るわよ」
「はは……。その時はまた勉強教えてくれよ、高城」
孝の言葉に、沙耶は大きな溜息を吐き出した。
そしてずいっと顔を寄せて。
「アンタねぇ、勉強がすべてとは言わないけど、無知は時として身を滅ぼすわよ?」
「ぜ、善処します……」
沙耶の言葉そのものよりも、彼女の顔が目の前にまで迫ってきたことに動揺を見せる孝。何やら自分のものではない良い匂いがするし、視線を僅かに下にずらせば高校生らしからぬバストが飛び込んでくるし、不意に鼻の奥がむずむずしてくるのがはっきりと分かった。
「お、なんだ孝。高城に勉強教えてもらうのか、だったら俺も教えてもらいたいな」
色々と限界が近かった孝に助け船を出したのは、これまた幼い頃からの付き合いがある親友だった。
「井豪、アンタは別に成績良いじゃない」
「そうだぜ永。俺より五十点も平均点が上じゃないか」
確かに沙耶には劣るものの、永も十分に成績優秀である。その上空手部のエース、おまけに顔も良いときたら、女子生徒からモテない理由など無かった。おのれ神様。天は二物を与えないのではなかったのか。歯噛みする孝を他所に、沙耶はつまらなそうに永の申し出を断る。
「地頭のイイ連中に教えたってやりがいがないのよ」
「高城にそう言ってもらえるのは嬉しいけど、俺も分からないところがあってさ」
「アンタなら参考書でも読んでればすぐに理解するわよ」
「おいおい、別に一緒に勉強するくらい……」
「おだまり小室。アタシはね、無意味なことに時間を浪費する趣味は無いのよ」
断るにしてももう少しオブラートに包むことは出来ないのかと孝は思案して、ああ高城はこういう性格だったなと思い直す。
「あー、悪い永。今回は諦めてくれ」
「そうだな。出直すよ」
沙耶の言い分に特段腹を立てることなく、永は自分の席へと戻っていく。出来た男である。これが森田なら間違いなく逆上していることだろう。
「…………」
「な、なんだよ」
じっと見つめられていたことに気が付いて、孝は気まずそうに眉を顰める。
「なんでもないわ」
一言だけそう告げて、沙耶も自身の席へと戻って次の授業の準備を始めた。
なんだったんだと疑問に思う孝だったが、程なくしてチャイムが鳴り、慌てて数学の教科書を引っ張り出すのだった。
3
「とまあ、そんな話を高城としてたんだよ」
昼休み。校舎の屋上で焼きそばパンを頬張りながら、孝は先程の休み時間のやり取りを友人たちに報告していた。
「あー、そりゃあれだな」
「そうだな、間違いねえ」
訝る孝を他所に、うんうんと頷く二人の男子生徒。一人は朝遭遇した金髪不良の森田。もう一人はこれまた髪の毛を赤く染めた不良、今村である。
孝は成績不良とはいえ、決して素行が悪いわけではない。そんな彼と森田たちは一見すると共通点など無さそうに見えるのだが。
「そりゃあれだ、高城は小室と二人っきりで過ごしたかったんだよ」
「間違いねえな。いいなあ小室、あのナイスバディと密室で二人っきりなんて」
「馬鹿言うな。僕と高城はそんなんじゃない。それに僕は年上好きだ」
何のことは無い。男の秘密を共有し合えば、その時から男たちは親友なのだ。
いつだったか今村が校内に持ち込んだエロ本を体育教官に没収された際、三人で結託して奪還に向かったときから、三人は戦友なのだ。奪い返したエロ本が熟女モノだったことでその後戦争が起こったが、戦友には違いないのである。
「高城なー、ツラとスタイルはいいんだが、如何せんあの高飛車な性格がなぁ」
コーヒー牛乳を飲みながら晴れ渡った空を見上げ、今村が呟く。
「やっぱ女は年上なんだよ、鞠川先生とかさ」
うんうんと頷く小室の傍らで、森田が吐き捨てるように反論した。
「分かってねえなぁ今村も小室も、年齢なんか関係ねえんだよ。守ってやりたくような愛らしさがあるかないかだ。その点で言えば最高なのはC組の遠藤だな。あの小柄な体格に無邪気な笑顔、あれだけで白飯三杯はいけるぜ」
「こいつ犯罪臭がするんだが」
「もうお前ありすちゃんに近づくなよ」
ゴミを見る目で森田を見る孝と今村。厳密に言えば二人もストライクゾーンはそれぞれ違うのだが、森田が特殊すぎるせいで結託することが多い。ロリコン死すべし、慈悲は無い。
「そういえばさ、最近面白いゲーム見つけたんだよ」
言いながら今村はポケットから携帯電話を取り出す。教師に見つかれば問答無用で没収案件なのだが、不良の彼にそんな事は関係なかった。
「バイオ・ブラザーズ無双っつうアクションゲーなんだけど、意外と作り込まれてて面白いのよこれが」
「うげっ、ゾンビモノかよ。俺そういうのダメなの知ってんだろ?」
楽しそうにゲームを始める今村と、携帯の画面を見てから嫌そうに離れる森田。孝はそういったスリルホラーの要素に忌避感は無いので、言われるがまま自分の携帯にもダウンロードをした。流石に授業中にプレイするわけにもいかないので、手をつけるのは家に帰ってからになるだろうが。
ゲームが特別好きなわけではない孝は、どうせすぐに飽きてアンインストールしてしまうんだろうなと顔には出さず思った。今村は今もこのゲームの面白ポイントを捲し立ててくるが、完全に右から左へ状態だ。
とりあえず適当に相槌を打って、孝はゲームをダウンロードした携帯電話をポケットに滑り込ませたのだった。
「…………何だこれ、めちゃくちゃ面白いじゃんか」
その日の夜。孝は携帯電話を両手で握りしめながら呟いた。画面ではエンディング後の映像が流れている。結論、ド嵌まりした。
携帯電話でのプレイなので、当然のことながら画質などはお察しだ。だがストーリーが深い、ただのホラゲーだと高を括っていた数時間前の自分を殴り倒してやりたいくらいである。
エンディング前の最終決戦でヒロインが息を引き取った時など、孝は時と場所も考えずに叫んでしまった程だ。当然階下からやってきた母に拳骨を落とされたが。
「っと、もう三時じゃないか。そろそろ寝ないと起きられないな」
脇に置かれた目覚まし時計はあと三時間もすればその役目を果たすべく騒音を撒き散らすだろう。ありすとのランニングを始めてから寝坊することは無くなったが、それでも身体が辛いときはある。
きっと起きるのが辛いだろうなと確信めいた予感を覚えつつ、孝は携帯電話を充電器に繋いで部屋の明かりを落とした。
4
当然、寝起きは辛いものとなった。
ありすには顔を合わせた途端に心配され、母からは夜更かしをし過ぎるなとありがたいお話を頂戴する羽目になった。しかし後悔はない、あのゲームはこれだけの犠牲を払うに値する神ゲーだった。
尚も重たい瞼を持ち上げ必死の抵抗を試みるも、孝は襲い掛かる睡魔にあっけなく敗北。一、二時限目を夢の中で過ごすこととなった。
更に三時限目終了後、ようやく意識が覚醒してきたのかのそのそと机から身体を持ち上げる孝に掛けられる声があった。
「涎垂れてるよ小室」
「っと、サンキュー平野」
孝の元までやってきたのは、ぽっちゃりとした体型の眼鏡をかけた少年だった。孝としては特に親しかった覚えはないが、いつの間にやら彼と話す機会が増え、今では互いの趣味の話までするほどになっている。
平野コータ。おそらくは学園屈指のミリタリーオタクである。何でもアメリカへ行った際に実銃の訓練までしたことがあるらしい。
「小室が夜更かしなんて珍しいね、あんなに朝早くに走ってるのに」
「昨日勧められたゲームが思いのほか面白くてつい、ね」
「ゲーム? 小室が? なんてやつ?」
問われて作品名を告げると、コータはポンと手を打った。
「ああ、あの続編が来週出るやつね」
なんということだ。これはまた来週も夜更かしコース決定じゃないか。孝は嬉しい悲鳴を殺し、両手で顔を押さえて天を仰いだ。
一応意識は覚醒したが、やはりまだ眠さは残っている。これは次の時間も睡眠授業に宛がう必要があるだろうか。そんな事をぼんやりと考えていると、コータが肩に手を置いて。
「だったらいっそ、さぼっちまおうぜ」
そう、いい笑顔で言ったのだった。
「まさか平野がサボリに誘うなんて思わなかったよ」
「いつもじゃないさ、今日くらいはね」
所変わって非常階段。その二階と三階を繋ぐ踊場に二人は立っていた。校舎の端に設置されているこの非常階段は年に一度の避難訓練の時にしか使用されず、あとはもっぱら不良たちの溜まり場となっていた。幸いにしてこの時間帯は上級生の不良たちの姿は見当たらず、孝とコータ二人だけである。
時間は既に四時限目も半ばに差し掛かる十一時五十分、運動部の連中なんかは空腹に耐えかねて早弁、購買部ダッシュの準備運動を始めている頃だろう。
「ねえ小室」
互いに視線は非常階段から見える学外の桜に向けたまま、コータがぽつりと呟いた。
藤美学園は丘の上に建造されており、正門から市街地へ降りるまでの坂道の脇を満開の桜が埋め尽くしているのだ。
「今、楽しい?」
「なんだよそれ、唐突だな」
ざっくりとしたその問いかけに孝は苦笑する。
「ま、楽しいんじゃないか。勉強は嫌いだけど周りの奴らは良い奴らばっかりだし、ここ最近は充実してるよ」
「……そっか」
孝の答えに何を思ったのだろうか。コータは正面を向いたまま、それ以降何も言わなかった。
そのまま十分程が経過しただろうか。
風が強くなったこともあり一旦校舎に入ろうとした時、孝は奇妙なモノを発見した。
「……なんだ、あれ」
鉄に何かがぶつかる鈍い衝突音。それが断続的に、一定のリズムで響き渡る。
その衝突音の出処は藤美学園の正門で、固く閉ざされたその門に一人の男がぶつかっている音のようだった。
「何をしてるんだ……? 不審者か……?」
「…………」
孝の思わず口に出た疑問に、コータは返さない。ただじっと、その不審者らしき男を凝視していた。
正門から孝とコータの居る非常階段はそれなりに距離がある。にも拘わらず音が聞こえてくるということは、当然非常階段よりも近い位置にある職員室にも聞こえているということだ。
孝がその音を聞いて数分後、職員室から教員が三名出てきた。その中の一人の体育教師が正門の外にいる男の胸倉を掴み、乱暴に手繰り寄せる。不審者に対する対応としてはどうかと思うが、体育教師の通称は「ゴリラ」である。その強面も相まって、そこらの男を震え上がらせることは造作もないだろう。
ゴリラが出てきたことによってこの騒動も終息する。
そう孝は思っていた。少なくとも、この時は。
それは唐突に、何の前触れもなく起こった。
不審者の男が、胸倉を掴んでいた体育教師の腕を喰い千切ったのだ。
「な……!」
その光景を目の当たりにして、孝は絶句する。それと同時に蟀谷のあたりに鋭い痛みが走る。
正門のあたりからは体育教師の名を呼ぶ他の教員たちの声が響く。腕から血を流す体育教師はそのまま仰向けに倒れ、やがて動かなくなってしまった。痛みはまだ治まらない、どころか、より鋭さを増していく。
地獄のような光景は、まだ終わらないようだった。
動かなくなってしまった男の心拍を確かめようとした女教師が、突然動き出した体育教師に首元をごっそり喰われた。動脈部分にまで及んでいたのか、噴水のように鮮血が飛び散る。
とうとう立っていられなくなった孝は、側頭部を押さえて踊場に片膝を着いた。コータは未だ、口を開こうとはしない。
正門から聞こえる悲鳴が、やけに遠くに感じた。
パニックになりそうなものだが、不思議とそんな感情の昂ぶりは感じない。頭の痛みはますます強くなる。眉間に皺を寄せて瞼を閉じる。孝の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
痛い。いたい。イタイ。
その痛みが極限にまで達し、そこで孝の意識は落とされた。
5
靄が掛かっていたような意識が、急速に覚醒していく。
うっすらと瞼を持ち上げて見れば、目の前には先ほどの踊場の床があった。どうやら意識を失っていたのは数秒、あるいは数十秒のことらしい。正門では尚も惨劇が続いているようで、あと一時間もしないうちに校内がパニックに陥ることだろう。
孝はゆっくりと立ち上がり、目の前に立っていた少年の顔を見据える。
そんな視線を向けられたコータは、どこか懐かしさを滲ませる声音でこう言った。
「――――お帰り、小室」
この間久しぶりにアニメを見て再燃した結果。