ONCE AGAIN 作:晃甫
――――奴ら、と呼ばれる存在が居た。
常識ではまず考えられないが、死んだ人間が蘇ったかのように動き出すのである。どこのB級パニックホラーだと一笑に付すかもしれないが、純然たる事実としてそうなってしまっているのだから仕方がない。「ゾンビ」などと安易に呼称しないのは、ゲームと現実との区別を付けるための苦肉の策だった。
奴らに噛まれた人間は例外なく死に至る。例え傷が浅くとも、極端な話かすり傷程度であっても、死という結末は覆らない。噛まれたが最後、その数分後には死に至り、そしてしばらくして奴らと成る。
奴らを倒すには頭部を破壊するしかない。腕や脚を吹飛ばしても、頭部が胴体と繋がっている限り動き続ける。
それは奴らの運動命令が頭部から伝達されていることの証左であり、逆を言えば脳さえ破壊してしまえば奴らはただの屍へと還る。
人間には常時リミッターが掛けられていることは周知だが、奴らは死んでいるからなのかそのリミッターが存在しないようだ。信じられない程の握力を有し、一度掴まれてしまえば逃れるのは困難。幸いにしてその動きは緩慢のため、先手必勝で頭部を破壊することが至上命題と言えよう。
奴らの五感は、聴覚以外基本的に死んでいる。
故に音に対して過剰な反応を示すが、それを利用したトラップが有効だ。防犯ブザーなどが良い例で、音を発しながら投げてしまえばそれだけで奴らの大多数を引き付けることが出来る。
しかし時折、聴覚以外の五感が死んでいない個体が現れる。それは視覚であったり嗅覚であったりと様々だが、どの個体も通常の奴らより獰猛で、戦闘を避けることが何よりも優先される。初めてその個体に出会ったのは富士の麓だったか。視覚を持つその個体は、僕らを完全に捉え襲い掛かってきた。聴覚の他に視覚が合わさるだけでこんなにも追い詰められてしまうのかと、絶望にも似た感情を抱いたことが思い起こされる。その時はコータの遠距離ヘッドショットが炸裂し事なきを得たが、以後独自個体への警戒度を一層引き上げることとなった。
正門で学園最初の被害者が出た後。
――――永と麗の三人で教室を抜け出し、屋上へと避難した。
その途中で永が奴らと化した教師に噛まれ、その命を落とした。
――――沙耶の悲鳴を聞いて、職員室へと駆けた。
そこで後の行動を共にする仲間たちと出会い、学園からの脱出に乗り出した。
――――バスに乗り込んできた一行と麗が衝突し、別行動をすることとなった。
ガソリンスタンドで、生まれて初めて銃で人を撃った。
――――己の小ささを知り、それでも目の前の命を助けたいと思った。
こんな自分であっても守れる命があるのだと、そう思いたかったのかもしれない。結果として、一人と一匹の命を守ることが出来た。
――――大人と子供というくだらない線引きがあることを知った。
ある意味では奴らよりも思考の凝り固まった大人たちの方が恐ろしいと痛感した。集団心理になど全く興味が無かったが、少しだけ気になってあとで沙耶に聞いたのを覚えている。
奴らが突如として発生してから数週間。日本を含む各国の機能が、次第に停止していった。
その皮切りとなった
これまで人間生活の根幹を担ってきた電力がほぼ死んだのだ。当時の人間たちのパニックの大きさは押して図るべし。テレビやラジオ、携帯電話といった情報伝達媒体が機能しなくなったことにより、いよいよ以て国の中枢機関はその役目を放棄することとなった。
そんな中で生き残った大多数の人々は、最低限のコミュニティを形成し、安全と思える場所に立て籠ることを選んだ。
例えばそれは食品や寝具の揃うショッピングモール。
例えばそれは武器防具が保管された警察署。
例えばそれは絶対に見つかることの無い地下シェルター。
床主市で、あるいはその近隣都市で。様々なコミュニティに属する人たちを見てきた。以前からの知り合いばかりじゃない、たまたま逃げ込んだ先が同じ建造物だった人もいる。性別も年齢も考え方もバラバラで当たり前。しかしそんなコミュニティが、いつまでも安全であるはずがない。
他愛もない会話から小さな亀裂が生じ、やがて埋めようのない大きな歪みとなる。そしてそれは、最悪の結末となって襲い掛かるのだ。
人間とは、こんなにも醜く在れるものなのかと愕然とした。
「馬鹿ね、人間なんてそんなもんなのよ実際。性善説なんて真っ赤な嘘。蓋を開けてみればご覧の有様じゃない」
天才を自認する聡明な女性は、青年の言葉にやれやれと溜息を吐き出した。
「まあまあ、こういうところが小室らしいじゃないですか沙耶さん」
「あんまり甘やかすんじゃないわよデブチン。こんな腑抜けたリーダーは御免だわ」
何年も新調できていない眼鏡を持ち上げつつ、やや太り気味の青年が苦笑を漏らす。
「ふむ、では気分が滅入っているリーダー殿は今晩私の所で寝るといい。こういうのは人肌の温もりで癒してやるのがいいと聞いた」
「ちょっと待ちなさいよ今日はわたしの番でしょ!? 連続なんて認めないわよ!」
「何よそんなに宮本は盛ってるわけ? 中学生男子じゃあるまいし」
「孝とコータを行き来してるアナタに言われたくないわよ!!」
目の前で口論を始める仲間たちを見て、わずかに重たい感情が軽くなるのを感じる。
隣に座っていた少女の頭を優しく撫でて、小さく口角を持ち上げて見せた。
こんな世界で、自分に出来ることなんて限られている。
だからせめて自分の手の届く範囲に居る仲間たちは守ろうと決めた。
出来ることを出来るだけやろう、そう決めたのだ。
1
「……悪い冗談だな、全く」
それが意識を取り戻した孝の第一声であった。
全てが終わってしまった日、忘れようにも忘れられない終わりが始まった日に、どういうわけか戻ってきている。
何か悪いものを食べて幻覚を見ているわけではなさそうだが、如何せん頭がはっきりとしない。未来の自分が精神だけ過去に戻るなど果たして本当に有り得るのだろうか。
「小室」
思考に耽る孝に一言、声が掛かる。声の出処に孝が視線を向けると、そこにはやや幼さを残す懐かしい顔があった。
そして先ほど目の前の少年は「お帰り」と言った。ということは、つまり。
「お前もなのか……?」
「冷静だね、流石僕らのリーダーだ」
明言はせずとも、今の言葉が答えのようなものだった。
昨晩見た顔よりも幾分幼い顔をしたコータは、一度だけ正門に視線を向けた後校舎内へと歩き出す。
「付いてきて。まだ混乱してるだろうけど、始まってしまったからにはそんなに猶予が無い」
どうして、などと野暮なことを聞いたりはしなかった。この後に起こるであろう混乱のことを、はっきりと覚えていたからだ。
孝はコータに言われるがまま、後ろをぴったりと付いていく。向かっているのは、どうやら屋上のようだ。授業中ということもあって、廊下には二人以外の姿はない。よくよく耳を澄ませば教室の中から教師が話す声が聞こえてきた。
「コータ」
「懐かしいね。こっちじゃずっと平野って呼ばれてたから、なんだか新鮮な気持ちだ」
こんな事態だというのに、コータの声音は僅かに喜色を含んでいた。
過去の記憶が正しければ、あと数分で校内放送が流れるだろう。そうなればこの静かな空間は瞬く間に崩壊する。思い出すのも悍ましいが、それと同時に教室内にはまだ幼馴染が残っていることに思い当たる。
「そういえば麗は!」
「問題ないよ。みんな教室からはもう離れてる。この日が来たらそうしようって、事前に決めてたんだ」
大切な少女の事を思い出して声を上げる孝だったが、それにコータが即座に答えた。今の口ぶりからするにある程度前の段階からこの日のために準備を進めてきたようだが、一体いつからこの世界に戻ってきていたのだろうか。
歩きながらも疑問に思った孝は、前を歩くコータの背中に向かって問いかけた。
「僕は一年の春だよ。さっきの小室みたいに一度意識を失って、気が付いたら戻ってきてた」
「な、一年も前からかよ」
「もっと前に戻ってきてる人もいる。どうやらみんなが一斉に戻ってくるって訳じゃないらしい。似たようなタイミングで戻ってきた人たちもいるけど、小室みたいにギリギリのタイミングで戻ってきたりもしてるしね」
リノリウムの床を鳴らしながら、二人は屋上へ続く階段へと差し掛かる。
「ほんと言うとちょっと不安だったんだ。昨日まで全然戻ってくる気配が無かったし、このまま始まったらどうしようって」
でも、とコータは続ける。
「やっぱり小室は戻ってきた。知ってたけどさ、リーダーが僕らを置いていくはずないってね!」
階段を駆け上がり、施錠されていないドアを勢いよく開け放つ。
先んじて屋上に躍り出たコータに続いて、孝も小走りで屋上へと足を踏み入れる。
果たしてそこには、数多くの修羅場を共に潜り抜けてきた戦友たちの姿があった。
2
「さて、始めましょうか」
開口一番にそう端を発したのは沙耶だった。
奇妙な感覚の中再会を果たした孝たちは、屋上の一角に建てられた天文台へと移動していた。この天文台は屋上よりも更に高い位置にあるが、当然その入り口となる階段はテーブルとアクリル板で塞いでいる。十年ほど前までは確かに存在していた天文部が部室も兼ねて使用していたが、一度廃部となってからは物置小屋同然の扱いとなり、現在は使われずに放置されていたのがこの建物である。
にも拘わらず、部屋の内部は隅々まで清掃が行き届いていた。埃っぽさも全く感じない。地面にはどこから持ち込んだのか畳が敷かれ、ご丁寧にちゃぶ台とお茶請けまで置かれている。孝たちはそのちゃぶ台を囲うように腰を下ろし、湯飲み片手にお茶請けを頬張っていた。小屋の外は正に地獄絵図と化しているはずだが、室内にはそんな空気は皆無である。
「しかし間に合って良かったよ、孝」
堂に入った所作で湯飲みを傾けてた少女が、薄く微笑んだ。
「何だか幼く感じるな、冴子」
「昨日まで君が接していた私は二十二だったからな。五つも若返れば幼くも見えるさ」
毒島冴子。藤美学園の三年生にして全国有数の剣道の腕を持つ彼女は、終わってしまったあの世界でも前線で戦うアタッカーとしてその実力を遺憾なく発揮していた。彼女が動くたびに舞う濃紺の長髪は斯くも美しく、立ち振る舞いは正に大和撫子。
「ほんと、一時はどうなることかと思ったわよ」
「小室君、全然戻ってくる気配無かったものねぇ」
冴子の言葉に呼応するように、二人が口を開いた。
宮本麗。槍術部のエースにして、未来では冴子と並んで最前線で戦うメインアタッカー。孝の初恋の少女であり、それは今でも変わらない。
その隣で呑気にバナナをぱくついているのは鞠川静香。この藤美学園の保健医であり、幾度となく孝らの窮地を救ってくれたこのパーティの核とも言える女性だ。育ちすぎたその身体は、度々孝とコータを苦しめることとなった。
「はいはい、世間話は置いておいて。そろそろ本筋の話を始めるわよ」
和み切っていた空気が、沙耶の一言で瞬時に張り詰める。
外の世界がどうなっているのか、忘れたわけではないのだ。数分前に校舎中に放送された教師の叫び声が発端となって、学園内は未曽有のパニックに陥った。今のところ屋上にまで被害は広がっていないようだが、それも時間のだろう。安全を求めて人間が逃げる場所など限られている。立て籠もるか、外へ逃げるか。日本人という消極的な人種であれば、大抵の場合は前者を選ぶ。そうなった場合に学園内で隠れられそうな場所などそう多くない。普段は鍵がかかっていることなどお構いなしに、この天文台へも殺到するだろう。そうなる前に行動を始めなければならない。
「こむ……孝が戻ってきたから、もう一度認識を合わせておくわよ」
ピンと細い人差し指を立てて、沙耶はぐるりと集まった面々を見る。
「私たちはどういう理屈か未来の世界から戻ってきた。記憶だけがすっぽりと入れ替わったみたいにね。実際、こうして戻ってきてしまえば今の世界の以前の記憶は思い出せない」
言われて孝はハッとした。確かに孝の昨日の記憶はこちらの世界のものではなく、既に終わってしまった世界のものだった。廃墟となったビルの一角で、見張りを行っていたのを覚えている。
「この世界に戻ってくるタイミングは全員がバラバラ、でも未来の記憶は全員が似たような所まで持ち合わせてる。その詳細のすり合わせを本当は孝ともしたいところだけど……」
朧気ながらも記憶の綱を手繰っていく。
そうして思い出す、最後に孝が見たのは。
自分の胴体に大きな穴が開き、止めどなく血が流れ出す光景だった。
「……殺されたんだ、多分だけど」
「やっぱりね、なら奴らの情報についてはアタシたちと共有できているものとするわ」
宮本たちにはもう言ったけれど、と前置きをして。
「こっちの時間軸に一番はじめに飛ばされたのはアタシよ。そうね、確か五歳のときだったわ」
「五歳!? 十年以上前じゃないか!」
先に聞いたコータの一年前にも驚きを見せた孝である。沙耶の言葉に驚愕しない筈もなく、思わず口を突いて出ていた。
「確かに驚きはしたけど死ぬほどじゃなかったわ。まあ実際一度は死んだんだけど。あんな世界を経験してきたんだもの。それに好都合だとも思えた。もし本当にこの時間軸でも
「そりゃそうかもしれないけど、十年だぞ……」
孝は額に手を当て天井を見上げた。小学生からの再スタートなど、おそらく自分は耐えられない。
「時間なんて大した問題じゃないのよ。重要なのは本当に同じことが起こるのか、そう仮定した場合にどんな準備、対策を講じる必要があるのかってこと。そういう意味じゃ、鞠川先生が早めにこっちに来てくれたのは僥倖だったわ」
そう言って、沙耶は徐に床に敷かれた畳の一部分に手を掛ける。目を凝らして見てみれば、畳からは円形のリングが飛び出しており、沙耶はそれに指を引っ掛けると勢い良く上に引っ張り上げた。
沙耶が引き上げたリングと共に、正方形に切り取られていたらしい畳が引き剥がされる。その下から現れたのは、鍵のついた五十センチ大の収納部屋。これまたどこからか取り出した鍵を差し込んで扉を開ければ。
「……まじかよ」
そこから現れたのは、鈍い黒の輝きを放つ今となっては馴染み深いものとなってしまった武器。
「そ、それはベレッタ92! イタリアが造った最高傑作のひとつ! アメリカやフランスの軍隊でも使われてる9mm口径至高の一挺!!」
「コータが相変わらずで安心したよ……」
拳銃を前にしてテンションが上がっているコータと苦笑を浮かべる孝。そんな二人を横目に、沙耶は別の畳に移動し、同じように引っぺがして下から現れた扉を開ける。
「ほら、アンタはこれ使いなさい」
沙耶から何の気なしに放られたものを、孝は両手で受け取った。
「あー! シグザウエル230!! 日本の警察でも正式採用されてる優れモノ!!」
「さっきのベレッタもそのシグも、どっちも同じ弾丸を使用できるようにカスタムしてあるわ。量だけ揃えるならパパの力があれば出来るだろうけど、個別にカスタマイズを加えていくとなると素人じゃ無理」
「そこでリカの出番だったってわけねぇ」
沙耶の言葉を引き継いで、静香がニッコリと微笑んだ。
「リカ……って南さんのことか」
「ええ、アタシが鞠川先生もコッチに来たことを確信してから接触してあの人に取り次いでもらったのよ。半信半疑みたいだったけど、鞠川先生の説得もあってカスタムした武器を用意できた」
「カスタムって?」
「いくつかあるけど真っ先に挙げるならさっきも言った弾薬の共有ね。流石にショットガンとかライフルは無理だけど、ある程度のサイズまでなら同じ弾を使用できる。あとはそれぞれの身体的特徴に合わせてグリップとか銃身とかいじってあるけど、殆どはメゾネットに保管してあるからここには無いわ。それに、」
「ここで銃を使うのは得策じゃない」
言葉を引き継ぐように述べた孝に、沙耶は口角を持ち上げる。
「分かってるならいいわ、その銃もあくまで使うのは最後の手段。高校生がそんなものを持ってれば怪しまれるに決まってる。極力校内の備品を使いなさい。バットならそこに入ってるわ」
「準備がいいな、全く」
「当たり前じゃない。何年準備したと思ってんのよ」
戸棚の奥から取り出された金属バットに孝は苦笑を漏らす。いつのまにやら各人の手元には懐かしい武器が置かれており木刀に先端を壊したモップ、釘打ち機。最初の時と全く同じ顔ぶれである。
「それで、ここからが本題。立て籠もるか、脱出するか」
沙耶の問い掛けを受け、孝は顎に手を添えた。
「ここを単純に過去の時間軸だと断ずるのは危険だわ。もしかすると別の世界線の過去かもしれない。今のところはほぼ同じ出来事が起こっているけど、この先も同じである保証なんてない。事実アタシや麗がこっちに来たことで、以前とは違う流れになっている部分もある」
「具体的に、前と違う出来事ってなんだ」
「こうして訪れるかも分からなかった災害に備えていること、麗が井豪と付き合っていないこと、アンタが帰宅部のくせにそれなりに鍛えられていることかしら」
「は、え? そうなのか? 麗」
さらりと告げられた事実に孝は目を白黒させた。麗は無言で頷いたあと、ニコリと微笑む。
ということはつまり、麗も少なくとも数か月前にはこの時間軸にやってきていたということだ。
「わたしが戻ってきたのは少し前で、春休みの終わり頃だったわ。留年は免れなかったけど、それを切っ掛けにして永と付き合うことにはならなかったわね。孝がいるし」
「ま、そういうことよ。以前とは違う事が起こりうる世界な訳。安易に過去の出来事をなぞって踏襲するのは愚策だわ」
「……その上で、俺に決めろって言うんだな? 今日戻ってきたばかりの俺に」
その言葉には沙耶だけでなく、室内に居る面々の全員が当然だと告げた。
「アンタがアタシたちのリーダーなのよ孝。まさか、そんなことも忘れたわけじゃないでしょうね」
完璧な信頼を向けられてしまっては、言い逃れことなど出来る筈もない。それ以前に頼られることは男の本懐だ、胸の内からじわりと嬉しさがこみ上げる。
「脱出する。学園に残っていてもジリ貧だ、まずは武器の揃ったリカさんのメゾネットを目指す」
「了解よ、リーダー」
「ま、こうなるとは思ってたけどね」
「教員用の駐車場のすみっこにハンヴィーを着けてあるわぁ、上からはシートを被せて三重に鍵を付けてあるから盗まれてるってことは無いと思う」
鍵はここに、と静香が胸の間からキーを取り出す。思わず目を逸らす孝とコータ。高校生男子という生き物だからなのか、血の巡りがすこぶる良好なようだ。思わず下腹部に両手を宛がった。
「……そろそろここも危ないようだ」
股間と鼻を押さえる男二人に向かって、冴子が外へと意識を向けて告げた。先ほどまでは聞こえなかったガリガリろアクリル板をひっかく音と、鈍い衝突音が時折聞こえてくる。どうやら屋上にまで奴らの手が伸びてきたようだ。
談笑している時間はない。孝は即座に思考を切り替え、金属バットに手を伸ばした。
孝を先頭に両の隣に冴子と麗。その後ろには鞠川と沙耶が位置取り、最後尾にコータが構える。
「孝、」
「これより状況を開始する。目的は学園からの脱出、教員駐車場に保管されているハンヴィーを使用する。屋上から二階まで降りて渡り廊下を経由し東校舎へ、途中非常扉を閉めることを忘れるな」
これが今孝たちのいる天文台からハンヴィーまでの最短ルートである。
一気に一階まで下りてから外を経由して西校舎へ向かわないのは、そちらに職員室と放送室があるからだ。過去の記憶の通りなら職員室には大多数の生徒が殺到し通り道が塞がれてしまう可能性があり、放送室は既に奴らの手に落ちている。今となってはどこも大差ないかもしれないが、外へ出て収集のつかなくなった奴らの群れに四方を囲まれることを避けることも狙いの一つにあった。
「油断はするなよ、奴らの中に特異体が居ないとも限らない」
「了解」
ドアノブを回し、勢い良く外へと飛び出す。
やはりというべきか、外の世界は先ほどまでと一変してしまっていた。朝に舞っていた桜の花びらの代わりに各地から上がる仄暗い煙。あちこちで悲鳴と呻き声が飛び交い、この世の地獄を再現せんとしている。
校舎の中からは誰が押したのか非常ベルが鳴り響いている。
それはまるで、この世界での再スタートを示しているかのようで。
「行くぞ」
言葉少なに、孝は踏み出す。周囲のメンバーにとっては、それだけで十分だった。
五年。孝たちがあの世界で生き延びてきた年月である。全てが砂上の楼閣と化して消え去った世界で、五年もの間彼らは戦い続けてきたのだ。
覚悟など、とうに出来ていた。
もう一度、何があろうとも。
全てが終わってしまった世界で、生き残る――――。
一度目の世界での出来事については所々で書いていきます。
え、ありすちゃんがいない? 幼女は強いので大丈夫です()