「本日はこれにてお了いとさせていただきます」
昼下がりの喫茶店の一角、吟遊詩人が最後の音を弾くと、周囲からぱらぱらと拍手が返る。
三々五々に散る観客を見送って、詩人はカウンター席でサービスに出してもらったコーヒーを口にした。
「今年はまた、大変ですね」
「これも風物詩ですよ」
見やった窓の外では、武器を持ってリア獣を追いかける幻獣がいたり、どこからともなく流出した惚れ薬を持ってイケメンを追いかける女性がいたり、凄い騒ぎだ。
もう毎年のことだが、今年はパーティ会場があったりとさらに凄い。詩人はカフェのマスターと苦笑しあった。
「詩人さんもチョコをたくさん貰うのでは?」
「そうですね……、ありがたいことに申し出はいただくのですが、すべてお断りしてます……」
マスターの質問に困ったような顔で応える詩人。その背中にどんっと衝撃がかかる。
「えぇ〜? 今年ももらってくれないの? 私からのチョコレート♡」
甘ったるい明るい声と共に顔を覗かせたのはリリスだった。彼女のチョコを食べた者は彼女の豚になる。文字通り。
「何が入ってるかわからない食べ物は永遠にお断りです」
「ただの惚れ薬なのにぃ」
「……なんでただの惚れ薬で豚になるんですか」
「そりゃあもちろん愛よ。あ、マスター、私にもコーヒーを寄越しなさい」
「ええ、どうぞ」
腰に手を当てて自信満々に言い放つ。ついでに付け足された注文に、マスターは快く応じた。
リリスは詩人の隣に座って、綺麗な足をゆらゆらと動かす。どこからか変な声が聞こえたが気のせいだろう。
「バレンタインにチョコを貰わないなんて、男としてどうなのよ、詩人くん」
「まあ、根無し草ですし」
街から街へ。どこかに留まることはなく。それが吟遊詩人だ。
そう言えば、リリスはきょとんとした表示を浮かべた。
「え、最近は一所に落ち着いたって聞いたけど?」
「誰からですか」
誰ともそんな話はしていない。最近は兄や妹にも手紙を出していないのに。
「鬼灯提灯ちゃんが、最近詩人さんは森の中によくいるんですよー、って」
予想外の人物だった。
鬼灯提灯はあの世とこの世を行き来する。その際、山の道を使うことが多いので、確かに何度も遭遇していた。世間話をしたのも一度や二度じゃない。だがそれだけでは一所に落ち着いていると判断するには弱いはず。
思考を巡らせる詩人を横目で見ながら、リリスは言葉を続ける。
「一緒にいるっていうとっても綺麗なひとにも会いました、なーんて聞いたけど、どんなひとと同棲中なのよ」
「どうせぃ……!? そんなんじゃないです、ただ僕が彼の場所に居候してるだけですっ」
「へぇー、詩人くんから押しかけたんだ。意外とやるのねぇ」
「だから、違います! そういうのじゃないです!」
詩人の反応に、リリスはにまにまと楽しそうに笑う。
「ふぅ〜ん? まあいいけど、そ・れ・で、どんなイケメンなの?」
「……綺麗なひとですよ。世間のことに疎くて子供みたいに無邪気なところがあって、大人みたいにずるいところがあるひとです」
何かを続けようと口を動かして、結局何も言わずにコーヒーを一口飲んだ。
「うん。ベタ惚れなのはわかったわ」
「……何がわかったんですか」
「折角だし、バレンタインのプレゼントでもしてみたらどうかしら」
「……何もわかってないですよね。あと、前後の脈絡って知ってます?」
なんというかやはりあの兄の友というか。思わず昔を思い出して気が重くなる。
「でもほら、世間のことに疎いっていうなら、バレンタインのことも知らないんじゃない? 感謝の日でもあるんだし、本来のバレンタインを教えてあげたら?」
ねえ、とリリスが同意を求めたのはマスターだ。聞くともなしに聞いていたマスターも同意する。
「本来の、と言ってしまうとまた違うものになりますが、そうですね。少なくともリア獣を討伐することがバレンタインとは思いたくありませんね……。プレゼントと一緒に気持ちを伝えることこそバレンタインでしょう」
詩人も知っている。何せ吟遊詩人なのだ。バレンタインの由来くらいちゃんと知っている。
だがここで頷くとリリスの口車に乗せられたようで釈然としない。
「詩人さん、バレンタイン用のお菓子はここでも取り扱ってるんですよ。おひとついかがですか?」
サンプルを並べるマスターの姿を見て、詩人は頭を机に打ち付けた。
「いや、あの、どうしてそうなりますか」
「折角ですから、買ってもらおうと思いまして」
答えるマスターは効果音が付きそうなほどいい笑顔で。
「……流石マスター、商魂たくましいわね。好きよ、私の豚にならない?」
「ははは、それは勘弁してください。豚の手足ではコーヒーの味が変わってしまいます」
「ただいま」
結局買ってしまったチョコレートを手に、詩人は玄関を潜った。とはいえ買ったのは既製品ではなく板チョコだ。火を扱わない彼には、温かいものを用意したいと思ったからだった。
森の奥にひっそりと建つこの家はさほど大きいものではない。朽ちかけていた山小屋を住めるように手入れしただけのものだ。なので部屋というものがなく衝立で仕切っている。その玄関前の衝立の向こうから、同居人の彼が顔を覗かせた。
「おかえり。……なんだか甘い匂いがする」
世間で常磐の旧主と呼ばれる彼は首を傾げた。
「ああ、チョコレートを持っているからでしょうか」
「チョコレートというとカカオから作るというあれか。以前、祠にお供えされていたことがあるな」
「食べたんですか?」
「いや、ポロウタリが持って行った」
ポロウタリは森伝いに旅する薬売りだ。詩人も何度かお世話になった。
「確かそれも、こんな頃だったような……」
「この頃、如月はチョコレートの時期ですからね」
「そうなのか?」
玄関を抜けてキッチンに向かう詩人の後を、旧主はついてくる。
「バレンタインデーといって、チョコレートを渡す日があるんです。由来や意味は諸説ありますが、最近では親しいひとやお世話になったひとにチョコレートなどのお菓子を渡す日、という認識がおおよそかと」
「よく知ってるんだな。街が騒がしくなるのは何も関係がないのか?」
「えー……っと、あれは知らなくてもいい世界です。大丈夫です。この時期の風物詩みたいなものではありますが、あなたは汚れないでください。ぜひとも」
「ん? うん?」
旧主の肩を掴んでまで真剣に念を押す詩人に、旧主はよくわからないまま頷いた。詩人はしばらくじっと見つめてから、旧主を解放する。
「わからないなりに納得していただけたなら嬉しいです」
惚れ薬なんて闇は知らなくていい。本当に。
詩人が買い物袋の中から買ってきた牛乳とチョコレートを取り出すと、旧主は目を輝かせた。料理をするなら手伝いたいということだろう。今まで見たことすらほとんどなかったかららしく、彼はとても手伝いたがる。
「……チョコレートを小さく砕いてもらってもいいですか?」
「ああ!」
詩人の言葉に満面の笑顔で頷く旧主。つられて詩人も笑みをこぼした。
少し手本を見せれば楽しそうに砕き始める。その横でコンロを使って牛乳を温めた。
沸騰したのを確認して火を止めて。
「チョコを少しづつこの中に入れてください」
「少しづつだな!」
嬉しそうに作業をする旧主に、ほっこりと胸が温まる。
チョコレートを入れてしっかりと混ぜて溶かしたら、もう一度火をかけて温める。沸騰しかけたら止めて、マグカップに注げば。
「これでホットチョコレートの完成です」
「おお……!」
手招きしてソファに腰掛ける。
素直に並んで座った旧主に、詩人はホットチョコレートを渡した。
「いつも、お世話になってます」
「こっちの方が世話になってると思うぞ。飲んでもいいのか?」
「ええ、もちろん」
言って詩人も口をつける。
一口飲んで、ふふっ、と旧主が嬉しそうな笑い声を漏らした。
「甘くて美味しい。ありがとう」
飲み物でなくて食べ物みたいだともぐもぐと噛むようにして飲む様子が、なんとも見た目に似合わず可愛らしい。
そうして彼は詩人に肩を寄せて、しあわせそうに笑うもので。
「それは良かったです」
ゆるりと笑みを返した詩人は、そっと息を吐いた。
果たして、チョコレートはこんなにも甘かっただろうか。
ゆっくりと夕明かりを残して、太陽は今日も沈んだ。