ざあざあ、ざあざあ。
どうどう、どうどう。
雨の音が聞こえる。
遠くから海鳴りも聞こえる。
彼女の躰は既に冷たく、己の躰も同様に冷たくなってしまっている。
そっと彼女の頬に触れた己の指はいつの間にか昏く翳っていた。
此岸には既に彼女の気配は無く、同じ道を追いかけても間に合いそうにない。
ならばこのまま捜しに行くしかない。
死の臭いを纏ったまま立ち上がった。
そのせいか足元にふわりと彼岸花が咲いた。
◆◇◇◇
妹はあまり身体が強くなかった。村の御堂に住むおばば様は、妹は半分しかないからだろうと言っていた。何が半分しかないのかはよくわからなかったが、妹は静かに微笑んでいた。
ある強い風が渡る日、床にいる妹はお気に入りの赤い組紐を手元で遊ばせながら、枝の揺れる音に呟いた。
──まるで波の音みたい。
ここは山の麓の村で海は遠い。海に行ったことのない妹が何故波の音を知っているのだろうか。
問えば妹は秘密だと言って、どこか大人びた上品な笑い声を立てた。
それから少しだけこっそりと内緒話をした。
海の近くで暮らすとしたら、そんなもしものごっこ遊びのような話だ。旅人に海の話を聞くより面白くて、気がつけば妹が海に行ったことないという事実も忘れていた。思い出したのは次の日に風が通った後を片付けしていた時だった。
覚えています。
深く深く愛したことを。
同じ愛を返されたことを。
姿はもう朧げで、はっきりとは思い出せないけれど。
申し訳なさそうに寄せられた眉は覚えています。
強く握られた手の感触は覚えています。
痛い程に抱き締められた温もりは覚えています。
重ねた言葉を紡ぐ貴方の声は覚えています。
だから泡の弾けるような深い海の囁きが忍び寄ったとしても、何も問題は無いのです。
逢えば必ずすぐに貴方だと分かるでしょう。
どれだけ離れても、きっと貴方だけに。
妹は夏が終わる前にこの世を去った。
夏風邪が治らず、そのまま息が出来なくなったのだ。
もしあの人が来たら──。
最期の息で小さな囁きをひとつ残していった。
妹の知り合いは同じく兄である自分も知り合いで、その中に妹がそう呼ぶような相手は居なかった。
なんとなく、わかっていた。
きっとあの時の海の話と関係しているのだろう。
三十五日目の夕暮れ時、お坊様が帰るのを見送って村外れまで出て、墓地の方に人影を見た。その人は遠目にも見慣れない服装だった。村の人では無く、旅人のようだ。
放って家まで戻りたいが妹のお墓の前だった。少し悩んで、墓地まで歩いて声をかけた。
「あの、旅人さんですか」
微かに振り向いた顔は夕影もあってはっきりとしない。ただ、視線を向けられて、胸の奥が底冷えするような心地がした。旅人の腰の刀には手も添えられていない。それなのに何故か喉元に突き付けられているような圧迫感があった。
「『また待たせてしまいます』──、その、妹が、変なことごめんなさ、っ」
思わず言葉を絞り出した途端、ぶわりと影が膨らんだ。斬られると思ってぎゅっと目を瞑った。
何か冷たいものが首を通り抜けて息が途切れた。そのまま圧迫感もなくなって目を開けた。
旅人は忽然と消えていた。周りを見渡しても誰も居ない。ただ彼岸花だけが、村の外れから目の前までぽつりぽつりと咲いていた。
怖くなって畦道をつまづきながら走って帰った。
自分の顔をひと目見たおばば様はすぐに厳しい顔をして誰にあったのかと訊いてきたが、無事家にたどり着いた安堵で意識を失って、なんと答えたかは覚えていない。
◇◆◇◇
怖がりな娘でした。少し体が弱くて心が優しくて、怖がりで。
酷く怯えて泣いた夜はお気に入りの赤い組紐を縋るように握りしめて眠っていました。
強い風や雨も怖がって、野分の日なんかはくっついて離れませんでした。
常にびくびくと怯えていたわけではありません。庭で春の花が咲けばとても嬉しそうに笑って、隣近所にまで話しに行くほどでした。無邪気に小さい出来事も楽しめる娘でしたので、近所の人や親戚も皆 、娘を気にかけて花が咲けば花を、初物が出来れば初物を届けてくださったりしていました。
初めて貴方に会ったのは、貴方が怪我で運ばれてきた時でした。
その怪我は村の方を助けた時の怪我だと聞きました。助けられたのは兄のように慕う私の幼馴染だったとも。
貴方を気のいいやつだと笑っていた幼馴染は何故今鉈を手にして追ってきているのでしょう。他の彼らも社に顔を出していた村人や近くの方でした。顔を隠すような見慣れない服装をしていましたけれど、私には分かってしまいました。
彼らは私たちを殺す気でした。
何故ですか、と問うた声に応えはありませんでした。
ただ手に持った鈍色をこちらに向けて、貴方に向けて、貴方は私を庇って。
優しかった皆様は何故冷たい目で私達を見ているのでしょう。
楽しげに肩を叩きあった貴方に何故憎らしげな目を向けているのでしょう。
冷たい雨の中で、冷たくなる貴方に恐怖しました。
地面が真っ赤で、貴方の手も赤くなって。私は必死に声をかけてくる幼馴染ではなく、貴方の手を掴みました。
逃げた先には何も無くて、それでも貴方と共に村を出たことに後悔は無くて。
ただ責めるように吹き荒ぶ風雨と、遠く轟く海鳴りが、貴方を連れ去ってしまうのが恐ろしくて。
私は。
仏壇に線香を立てて手を合わせました。
娘は体が弱くも元気だったので、なんとか大人になるくらいまでは生きられるだろうというのが、町のお医者様の見立てでした。
ですがその前に娘は天国に旅立ってしまいました。
家に強盗が押し入り、抵抗する夫を殺そうとしたのです。私は動けませんでした。それでも娘だけはと必死で抱きしめていました。娘は不思議なことにそこからするりと抜け出て、夫に振るわれた刃の前に身を投げ出しました。そしてそのまま命を落としてしまったのです。夫を守れたからなのか、どこか安心したような顔でした。その後すぐに騒ぎを聞きつけて近所が騒がしくなり、強盗は縄につきました。
こうして思い返せるようになるまで随分かかってしまいました。
そういえばひとつ不思議なことがありました。娘がいつからか気に入って持ち歩いていた赤い組紐を棺に納めようとしたのですが、どこにも見当たらなくなっていました。
◇◇◆◇
いつも赤い組紐を腕に巻いていた親友は、明るくてちょっと不思議な雰囲気があった。
その親友に会ったのはちょっと風邪を拗らせて通うことになった病院。
少し体が弱いせいで小さい時からずっと病院に暮らしているのだと、朗らかに笑って言っていた。
本当は少しどころじゃなくて、いつ体調を崩して死んでもおかしくないくらいだと知ったのは次に病院に行った時だったけど。
親友は病院に慣れすぎていて、目を離せばすぐに待合室で患者と話していたり、ナースセンターの椅子に座っていたりしていて、看護師さんたちが頭を抱えていた。子供のすることよってそれはたぶんあたしやあなたが言う言葉じゃないと思うの。
寝たきりというわけではなく、時折発作を起こす以外は平気で病院内をうろちょろしていて、あたしが仲良くなってからは病院の先生に、親友が病室に留まるように協力して欲しいと言われたほどだった。
──運命の出会いを探しているの。
何故病室から抜け出すのか、尋ねた時の答えだ。親友は内緒話をするかのように楽しそうだった。
そんな親友は海へも並々ならぬ興味を持っていて、病室には海の写真を並べて、あたしにも海水浴とかの話を聞きたがって、まるで海に恋してるみたいだった。幼い頃から病院にいて、海を見たことも無いって言ってたから、きっと憧れてたんじゃないだろうか。
一度くらいは海に、と話が持ち上がって。
形になる前に消えることになった。
頬に触れた感覚が残っているようでした。
誰かが触れたのでしょうか。
(潮風が擽ったのかもしれません)
私の頬を触れるようなひとなんて、幼い頃に死に別れた両親くらいでした。
耳に馴染む声がどこかにあるようでした。
誰の声なのでしょうか。
(波の砕ける音だったかもしれません)
いつも村の喧騒から離れて、誰かの声なんて聞いていませんでした。
誰と話していたというのでしょう。
お祭りの時だって、私は役目がありましたので、誰とも話したりはしていないはずです。
(それ以外で社の中に入る人などいません)
そうです。私はいつも海神様と一緒に居ました。
だから海神様が、望むのであれば。
──……会いたい誰かが、居るようでした。
幾度巡っても手放せない大切な宝物があります。
これは、海の物では。
(貴女は私のモノなのです)
……無い、はず、で。
空にのぼった親友の代わりに海まで行こうと、四十九日も過ぎぬ間に親友の写真を持って出奔した。
あたしたちの住む街からは少し遠かったから列車に乗って、あとひと駅で海辺の町だというところで足止めをされた。どうやら前方の線路上に事故があったらしく、しばらく動かせないとのことだった。
そろそろお昼時だ。駅内であればいつ列車が動くか分かるだろうと、列車を降りてお店を探した。
ふと、親友の声に呼ばれた気がした。なんとなくの感覚に逆らえなくて駅の外に出る。駅の敷地の端っこ、視線を引かれた先で、おじいさんがヒナソウの咲く小さな塚に手を合わせていた。問えばこの塚はお墓だという。
「わしのじいさんが若い頃かのう、まだ年若い恋人が駆け落ちしたのか着の身着のままで行き倒れておったらしい。盗賊に襲われたのか男の方は酷い傷で、女の方は綺麗だったが雨で凍えたのだろうて」
「その、恋人ふたりが一緒にここに……?」
「海辺の若いもんが怖い顔しておったから、死んでしまったとはいえ駆け落ちしたなら匿うもんじゃと、ここで弔ったそうな。じいさんも駆け落ちしてばあさんと結ばれたそうで放っとれんったて言うておったなあ」
話を聞いてあたしも塚に手を合わせた。どうしてか他人事だとは思えなかったのだ。海を慕う彼女がずっと誰かを探していたのを見ていたからだろうか。
──どうか、このふたりが来世でも巡り逢いますように。
落石事故だったらしく今日中には列車は復旧しないということで、あたしは海に行かずに引き返すことになった。
◇◇◇◆
私は今日、巫女として海神様の下へ行くことが決まっています。
父方の遠縁が代々海神様の巫女を務めているそうですが、長らく女の子が生まれず、ようやく生まれ育った私へ話が回ってきたとのことでした。
この話を聞いて確かな懐かしさを感じました。物心が着いた時から耳を澄ませば遠く潮騒が聞こえます。私はいつかどこかで海神様の下へ行けずに命を落としたのでしょう。魂の縁故に私は体が弱いそうですので、きっとずっと昔から海に還らなければいけない決まりだったのです。
(今回こそ黄泉の鬼が迎えに来る前に向かわなければなりません)
生まれた時から感じている恋しさも、誰かが足りない寂しさも、海に行けば解決するはずです。
そんな思いを伝えた私に、父様と母様は泣き出してしまいました。兄様も怒ったような顔をしてます。
聞けば、私が選ばれてしまう可能性は産まれる前からあって、だから父様と母様は海から離れたこの街に引っ越してきたという話でした。ともあれ、そうなってしまったからには逃げられませんし、私は拒否をする気もありません。
ですから別れの挨拶にと、幼馴染に会いに来たのですが。私を愛していると幼馴染は言いました。首を横に振った私の腕を痛いほどの力で掴みました。彼はまた、や、何故、というようなことを呟いて。私の中に浮かぶのは、困惑と恐怖と、既視感と。この様子のおかしい彼のことが、私はとても恐ろしい。必死になって手を振りほどこうとしていると、慌てた顔で友人と兄が助けに来てくれました。どうやらこうなることを予想していたそうでした。
兄が幼馴染を力づくで宥めてくれて、私と友人の頭を撫でてくれました。
友人も兄も、諦めたような、寂しそうな顔をしていました。
友人は本当にそれでいいのかと、私の手を握りしめました。
私は首を一度だけ縦に動かしました。
雲ひとつない初夏の日のことでした。
出立前の出来事を思い出しながら、私は海神様の社にほど近い川の中へ、清めのために歩を進めます。夏ですが水の冷たさが体を縛るようです。
祓いの詞を紡いでいると余計なものが全て消え去っていくような心地がしました。
そうして紡ぎ終わって、岸に戻ろうとして。
(決して振り向いてはいけま……──)
──……。
聞いたことの無い声で、呼ばれたことの無い名前を呼ばれました。
それでもその瞬間、胸の奥がつかえて、熱いものが込み上げてきました。
川の冷たさが原因ではない震えで上手く動けません。
恐る恐る、私は振り返りました。
対岸で彼岸花が咲き乱れています。
燃え盛るようにも見えるその中に誰かが立っていました。
顔は分かりません。でも解ります。
私を呼んだのは貴方です。
私を待っていたのは貴方です。
私が捜していたのは、貴方です。
衝動で思わず踏み出した足は川底を滑って。
◆◆◆◆
思わず跳ね起きた。
心臓がばくばくと音を立てている。
利き腕の怪我が痛んだ。
ここは借りた家の中で、体が本調子でない僕は寝ていたのだ。
ひとつずつ目を覚ましたことを、寝ていたことを確認して、ようやく今のが夢だったのだと思えた。
「あなた、大丈夫ですか?」
近くで作業をしていた妻が寄り添って背中をさすってくれる。
僕は彼女をすがりつくようにして抱きしめた。
──悪い夢を見たんだ。
日が高いうちにひとに話せば悪い夢は現実にならないという。まだ夕暮れには少しばかりある。
優しく相槌を打つ妻に、僕は絞り出すように話した。
僕と貴女が離れ離れになってしまう夢だった。
僕は昏い翳になっていて、貴女に触れることも出来ないんだ。そして貴女は何度も姿を変えて、僕から遠ざかって行ってしまう。追いかけようにも、貴女の声を潮騒が隠して、貴女の足跡を波が消して、僕は貴女を見失ってしまった。
それでも貴女が僕を待っていると、聞いた言葉を信じて僕はただ貴女を捜した。時々視界の端に揺れる、その組紐を追いかけた。だけど僕が翳になってしまっているからか、出会った誰もが僕を阻むんだ。そして何度も昏い場所に閉じ込められてしまった。僕はただ、貴女の行方を尋ねたかっただけなのに。
貴女に逢いたくて、それだけしか分からなくなった時、誰かの声が聞こえたんだ。そしてふと気づけば僕は川縁に立っていた。
川面に映る僕の姿は翳に滲んで、どんな顔かも分からなかった。そもそもどんな顔だったのか思い出せもしない。自分の名前すら、思い出せない。
急に不安になった。
貴女のことは覚えている。貴女と交わした言葉も、過ごした日々も、全て。
だけどもし、波のせいでなく、呼ばれた名前に気づけなくて、貴女に逢えないのだとしたら。
ぞっとした。
凍りついたようにそこから動けなくなった。
どれくらいそのままだったのか。
ちゃぷん、と流れ以外の波紋が水鏡を揺らして、その向こうに貴女の姿が見えた気がして。
僕は貴女の名前を叫んだ。
そこで目を覚ました。
本当に貴女だったのかは分からなかった。
妻はほとんど何も言わずに聞いてくれた。その腕には夢で目印にしたのと同じ赤い組紐が揺れている。いや、夢の中のよりは色が褪せているか。出会った頃、看病のお礼を口実に贈ったものだ。それ以来ずっと身につけてくれている。
「──きっと、夢の中の私は、あなたをとても待たせてしまったのですね」
彼女の言葉に首を傾げる。捜してはいたが待っていたのとは違うと思う。
「だってずっと、川の向こうで私を待っていてくださったのでしょう?」
確かに最後はそうだったかもしれない。
「それに、いえ、そうですね……。待っていてくださって、ありがとうございます」
彼女が笑って僕の名前を呼ぶ。それだけで心が擽ったい。
夢を見たせいか、とても懐かしく感じる気がする。
僕が彼女の名前を呼べば彼女も嬉しそうにしてくれた。
二人で名前を呼びあいながら抱きしめあって、少し恥ずかしくなって頬を染めた。
都合よく悲劇に合うとか陰謀めいてるよなっていうのと、どこかで耳にした村ごと盗賊してたような話が混ざりあって人的悲劇を解釈したという
彼岸花より、思うはあなた一人
雛草より、会える幸せ
──それに。あなたを思い出すまで待たせてしまいました。