「提督。もう頑張らなくていいんですよ?」
とても優しい声色で艦娘の少女たちは言う。
思わず身をゆだねてしまいそうな慈愛に満ちた囁き。
しかし、それは甘い毒である。
「いや、だが俺は提督として使命を果たさなければ……」
「いいえ、あなたはもう充分、使命を全うしました」
頭を撫でられる。
子どもの頃でも滅多にしてもらったことがない行為。
それを、いい大人になった歳でされる日が来ようとは。
いけない、情けない、と思いつつも抗えない。
とても気持ちがいいから。
「大丈夫です。提督のことは、私たちが守ります。何があっても」
艦娘たちに抱きしめられる。
とても柔らかい感触。とてもいい香り。優しい優しい声。
何もかもが心地いい。
このまま心が幼児に戻ってしまいそうだ。
どうして、こうなった。
俺は提督として深海棲艦から海の平和を取り戻さなければならないのに。
このままでは……
「提督。私たちに、いっぱい甘えていいんですよ♪」
艦娘たちにダメにされてしまいそうだ。
──────
提督である俺は一度、生死の境を
深海棲艦の猛攻が本拠地である鎮守府まで及んだのだ。
幾度にも渡る大規模作戦で常に勝利を手にしてきた我が艦隊。
だが敵のチカラは激戦を繰り返すたび凶悪さを増している。
艦娘たちが日々死に物狂いの訓練で練度と装備の強化をしても、まるで努力を嘲笑うかのように敵は予想を越える進化を果たしている。
それでも海の平和を取り戻すという大義がある以上、自分たちに敗北は許されなかった。
何より、今度の大規模作戦は「かつてない戦いになるかもしれない……」と大本営が戦慄するほどの大決戦だったのだ。
ならば一層、気を強く持たなければならない。俺も艦娘たちも、そう覚悟していた筈だった。
……だが、まさか鎮守府に侵攻を許してしまうほどまでにチカラの差を見せつけられるとは。俺たちも、そして大本営すら予想していなかった。
鎮守府は瞬く間に地獄と化した。
もちろん艦娘たちは鎮守府を守るために必死に戦ってくれた。
だが敵が繰り出す破壊の一撃は、一瞬で鎮守府を半壊させるほどの威力を秘めていた。
艦娘たちは俺に「避難して」と言った。せめて、あなただけでも生き延びてと。
だが艦娘の皆が命がけで戦っている中で自分だけ尻尾を巻いて逃げるなんて……そんなことをしたら、男が廃るってものだ!
「俺は提督だ! お前たちの上官だ! 何があろうと、この鎮守府で指揮を続けるぞ!」
彼女たちを見捨てて生きるぐらいなら、いっそ腹を切ったほうがマシだった。ならばこの命は生死をかけて戦う艦娘たちのために捧げよう。
軍人として、そして男としての誇りを貫くため、俺は最後まで艦娘と共に戦った。
なにより、艦娘たちのチカラは提督が指揮することによってその真価を十全に発揮できるのだ。
比喩ではない。妖精を視認できる特殊な才を持つ人間との強い絆が艦娘の中に眠る超常のチカラを引き出すのである。
その条件として、提督が鎮守府という土地に『着任』している必要があった。だから俺が鎮守府を離れてしまうと、艦娘たちは弱体化し、満足に戦えなくなってしまう。
俺は、己に与えられたこの使命を死力を尽くして発揮した。
意識が朦朧とする中、すべての艦娘たちを思い、指揮を執り続けた。
肉体はひどく負傷していた筈なのに、もはや痛みすら感じなかった。
自分が相当危険な域にあるのはわかっていたが、それでも意識だけは手放すまいと闘志を燃やし続けた。
あの戦いは艦娘たちとの絆が最も強く結びついた瞬間だったと確信している。
だからこそ──勝てた。
敵軍のボスである深海棲艦が、おぞましい断末魔を上げて消滅するのを確かに見届けてから……俺の意識は闇に落ちた。
目が覚めると、俺は『英雄』として称えられていた。
──鎮守府陥落ノ危機ヲ覆ス、皇国一ノ名将!
などと御大層な新聞記事まで書かれていた。
気恥ずかしさを覚えつつも、その記事からどうやら作戦が無事成功したことを知り深く安堵した。
後から見舞いにやってきた軍の報告によると、艦娘たちも全員無事とのことだった。何事もなくて、なによりだった。
担当医師は俺の回復に心底驚いていた。
「さすがは提督の素質を持つ選ばれた武人ですな。正直に申し上げますと、意識が戻られる確率は限りなくゼロに近かったのです。いやはや、とても強い生命力をお持ちだ」
昔からカラダが丈夫なのが自慢だったが、確かに今回ばかりは助かったのが不思議なぐらいの重傷を負った。
それでも無事目覚められたのは……きっと艦娘たちのおかげだろう。
何となく覚えている。意識が落ちた闇の中で、艦娘たちが必死に俺に呼び掛けてくれていたのを。
死なないで提督!
私たちにはあなたが必要なの!
お願い生きて!
帰ってきて、提督!
そんな痛切な祈りが奇跡を生んだのかもしれない。
艦娘たちの超常能力が提督との『絆』に深く関わっているというのなら、ありえない話ではない。
そう話すと、医師と、そして軍の人間たちはホロリと涙を流した。
「なるほど。そういうことも、あるかもしれませんな。貴方ほど艦娘たちと信頼関係を結んだ人間ならば」
こういうスピリチュアルな話は日本人特有の感性を刺激する。
いい大人でありながら彼らはすっかり涙腺を刺激されてしまい、オイオイと泣き出した。
俺も
だがしかし……。
実を言うと俺を現世に繋ぎ止めたのはもちろん艦娘のおかげもあるが、根本的な部分はもっと別の要因があったのだ。
それは、消えかけていた命の火を再燃させるほどのものだった。
人は死に向かう間際、やり残したことが走馬灯のように浮かぶ。
俺にもひとつの未練があった。それを果たすまでは死ねないと思った。
暗闇の淵で、俺はひたすらひとつのことを考えていた。
それは……
「
その執念が俺を生き返らせた。
我ながら「しょうもねえ……」とは思った。
だが本当に嫌だったのだ。
一度も女性を知らずにポックリ逝ってしまうだなんて。
そんな人生あんまりではないか。
男の一生は闘い。名誉ある死を遂げられたのなら本懐──という精神は確かにカッコイイし、男として頷けるものがあるが……
やっぱり一回くらいスケベなことは経験しておきたい。
そりゃ偉人の中には生涯童貞を貫いて逝ってしまった者が何人もいるが、彼らだって立派な格言の裏の本心では『女とエロイことしてぇな~俺もな~』と涙目で思っていた筈だ。
そんな偉人たちの無念は後世の人間が果たさなければならないのではないか!?
……と思ってはいるものの、俺も長らく軍人として生きてきたから、これまで出会いがまったくなかったわけですが。とほほ。
艦娘がいるじゃないかって?
たわけ。彼女たちはあくまで大切な部下だ。
そりゃ皆アイドル顔負けの美人だし、スタイル抜群な娘ばかりで正直イケナイ気持ちになったことは数えきれないほどあるが……艦娘たちには艦娘なりの人生や未来があるのだ。
仮にこの戦いが終わった後、彼女たちがどんな道を歩むのか。それはまだ想像もできないが、世界のために戦ってくれた彼女たちは誰よりも報われて幸せになる権利がある。それは間違いない。
ならば尚のこと、俺のいっときの性衝動で彼女たちの将来に影響を及ぼすわけにはいかない。
信頼関係を崩さないためにも、俺は常に誠実な提督を貫いてきたつもりだ。
種族の壁を越えた恋愛というのは、それはそれでロマンがあると思うが……やはり嫁を貰うなら、ちゃんと人間の女性から選んだほうが順当だと思うのだ。
……そう。俺には、その夢がある。
美人な嫁さんと結ばれて、毎日幸せにそしてエッッッッッロいことをして暮らすという夢だ。
そのために必要なのは、深海棲艦に脅かされない平和な世界!
子どもたちが安心して育つことができる穏やかな未来!
それを作ることだ!
だから自分が提督の素質を持った人間と判明したときは天命だと思った。
俺は誓った。
必ずやこの世界の平和を取り戻し、未来の嫁さんと幸せになってみせると! 子作りしまくると!
それを果たすまでは、俺は絶対に死ねないのだ!
……なんてことを力説して、しんみりした場の空気を壊す勇気は当然なかった。
よもや「意識の中で艦娘たちの声が聞こえてきたときですね、なぜか彼女たち皆全裸で現れたんですよ~」という雑談もできそうにない雰囲気だった。
ほら、アニメーションとか漫画でよく見るあの演出である。しかも謎の光なし。
率直に言おう。最高の光景だった。
そのおかげで生命力(意味深)がたんまりと満ち溢れて「嫌童貞死!(嫌だ童貞のまま死にとうないの略)」と息を吹き返せたのだ。
だがそんなこと、口が裂けたって言えやしない。「台無し! 感動エピソード台無し!」にも程がある。
なので、俺も周りに合わせて感慨に浸った態度を取りながら口が滑らないよう注意した。
途中から入って来た記者が「イイハナシダナー」と号泣しながら記事を書き始めたので、尚のこと慎重に口を噤んだ。
──英雄、童貞ヲ捨テルタメ、生還果タス!
なんて書かれたら、たまったもんじゃない。
まあ、なにはともあれ。
こうして無事に生き延びた。
作戦も成功した。
万々歳である。
あとは一日でも早く完治して、艦娘たちを安心させなければ。
きっと、こうしている今も心配してくれていることだろうからな。
……俺のその予測は間違ってはいなかった。
信頼で結ばれた艦娘たちは、このとき確かに俺のことを心配してくれていたのだ。
提督冥利に尽きる話だ。
しかし俺は舐めていた。
艦娘たちの想いの度合いというものを。
俺のこの負傷が、まさか彼女たちを、あそこまで追い詰めてしまうだなんて……。