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あなたは、瞳に焔を映した。
「…………は?」
湧き上がる黒煙と、くすんだ鉄の匂いが、あなたの鼻孔を貫く。胸にずん、と響くような轟音は鳴りやむことを知らず、突き抜けるような初夏の青空だけが、いつもと同じ顔であなたの事を見下ろしていた。
あなたは、海の上に立っていた。それはあなたにとっては見飽きた日常で、こうして戦いの中へ身を置くことすらも、あなたにとっては至極当然のことだった。あなたの知る全ては、この海の上だけに存在していた。
「……ここ、は?」
あなたは、何かを確かめるようにして、自らの両手へと視線を下ろす。いつのまにか血が滲み、最早感覚すらも消え去ったその手は、けれどいつものように、あなたの意のままに動いていた。
砲撃の音がどこか遠くに聞こえる。まるで、あなただけが置き去りにされているようにして、その世界は存在している。そこは誰かが見た灰色の世界で、あなたの知らない世界だった。
そして――証は、灼きつけられる。
「あ、がぁ……っ!? う、ぁ……ぐぅ……っ……!」
頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されるような、喉の奥から全てを吐き出すような、そんな全身が粟立つ感覚だった。急激に襲ってきたその感覚に、あなたは崩れるようにして、深い海へと体を斃した。
喚くような響きが聞こえる。誰かの慟哭があなたを貫く。もう二度と手の届かないとこへ行く彼女たちが、あなたの心を空白で満たしていく。
視界が歪む。脳内を、灰色の奔流が駆け巡る。
そうして導き出された答えは、誰かの記憶の中にあった。
「…………ね、え、さま?」
それは、既に海へ消えた名だった。
「赤城先輩……? 加賀先輩……!?」
それは、既に海へ消えた名だった。
「……皆、沈んだのか……? ぼくが――飛龍だけが、残っ、て……」
それは、今ここに在る、あなたの名だった。
「そんな、ッ! どうして!? 姉様!? 先輩!?」
吐き出された叫びに返って来るのは、鐵の砲弾だった。
倒れているあなたの身体を掠めてゆく黒い鉄は、あなたの身体を吹き飛ばし、内蔵が揺れる感覚と、全身に千切れるような痛みを感じさせた。
「が、はッ……ご、ぼ……」
口から溢れる赤い液体を手でとどめながら、あなたは困惑の中で立ち上がった。それはまるで、定められた末路のような、そんな意志を感じさせた。
戻ることは許されない。逃れることも、許されない。
かつての同胞は深い海の底へと帰し、二度と見えることも許されない。
残ったのはたった一人だけ。いずれ海に消える、あなただけ。
そう、あなたの記憶が――誰かの証が、告げていた。
「沈む――の、か? 僕は、こんな、こんなところで……」
既に頬が破れていることも、視界が既に半分潰れていることも、その記憶は全て知っている。もう彼女たちと会うことが出来ないことも、その先に待つ結末も、全てあなたに刻み込まれている。
足元に見える海は昏きを増し、まるであなたを誘わんとして、波の向こうで揺らめいていた。
「……ぼくは、ここで、沈む…………今、ここで……」
水面に映るあなたは、まるでこちらへ手を差し伸べるようで。
飛龍は、ここで尽き果てる――と。
記憶の中で、あなたはそれを知っていて。
「…………いや、だ」
あなたは、それを受け入れ――
「嫌だッ!」
――追憶の果て、あなたは運命に抗った。
「艦載機、発艦始め!
叫ぶ言葉と同時に、轟音があなたを支配する。舞い上がる艦載機たちは、まるで死にかけた鳥の様に、けれどその勢いは銃弾のようにして、舞う黒煙へと向けられる。
既に半身は動かず、頭もどこか夢の様にぼうっとしていて、視界もほとんど灰色へと塗り替えられる。ここで戦ったとしても、いずれ沈んでしまう運命なのだろう。
けれど。
「まだだ! まだ終わりなんかじゃない! ぼくはまだ、ここにいるんだ!」
あなたの果ては、ここにある。あなたの望みは、ここで尽きる。
「それ、でも! それでも、ぼくはッ!」
ひゅん、と風を切る音が、ひとつ。
飛んでゆく札は迫り来る鐵を切り裂き、あなたの背後に二つの水飛沫を上げた。
「ぼくはまだ、沈まない! たとえ一人でも、誰もいなくても、ぼくは――
「
□
▽
■
「――――、ッ!?」
がばり、と布団を翻す音が、寮の一室で響く。
窓から差し込む月明かりが、額の汗を映し出す。夜の冷たい風は昂った飛龍の身体へ叩きつけられて、今ここに体があることを実感させた。
「はぁ……っ、が……ぁ、あ…………ぅ、ぐぁ、っ……」
胸の鼓動は止むことを知らず、どくん、どくんと体を熱くさせる。胸元の肌着を乱暴に握りしめながら、何度も確かめるように、飛龍がもう片方の手のひらへと視線を下ろす。自らの意志どおりに動くそれは、何かに怯えるように小刻みに震えていた。
「夢……? いや、違う……夢、なんかじゃない。これ、は――」
――証。
忘れられぬようように灼きつけられた、誰かの生きた証であった。
「一体、何が……」
理解の追い付いていない頭を押さえつけようとしたところで、飛龍はその先に妙な感触を覚えた。
「……耳?」
それは、白い兎の耳であった。飛龍の頭の上でぴょこんと跳ねているそれは、いつも通り飛龍の上で、けれど感じたこともない不気味な感触を飛龍へと伝えていた。
「なんで、艤装も付けてないのに……」
重桜の艦の特徴として、動物の特徴の一部が身体に顕現する、といったものがある。
大まかな理由は不明であり、発端も艤装を装備すると何か生えてきた、という適当なもの。けれどそれはいつしか普遍的なものになって、戦いの中に生きている艦にとっては、強さを与えられるのであれば何ら不都合のないことであった。
「どうして?」
ただ、このときばかりは、飛龍はその疑問を振り払うことができなかった。
目元の上あたりまで垂れてくる白い毛並みをつまみながら、飛龍は首を傾げたまま。けれどそれに返す者は誰もおらず、ただ頭の中には、さっきまで見ていた夢――否、誰かの証が灼きついていた。
喪失。孤独。そして、昏い海。
「……少し、風でも浴びてくるか」
敷かれた布団から這い出て、夜風の吹く方へ。静まり返った寮の中は、飛龍に一人ということを感じさせる。ぼう、と光を放つ、廊下にいくつも並んだ窓の向こうには、それぞれぼんやりと光る満月が海の上で浮いていた。
そして、暗闇に隠れた時計は、六月六日を過ぎた頃を指していた。
■
月明かりは冷たく、潮騒の音は飛龍の耳へと確かに伝えられる。鎮守府から突き出したような堤防へ腰を据えると、飛龍は履いてきた下駄をそばに置いて、その海面へと自らの素足を滑らせた。
ちゃぷちゃぷ、と静かな水音と共に、飛龍の足に冷えた感覚が走る。夜の海はまるでひとりぼっちになったように冷たく、けれど心地いい感覚を飛龍へと教えてくれた。
――暗闇へと、心が沈んでゆく。
その覚悟が無いという訳では無かった。あのときの誰かの記憶は、それを受け入れていた。飛龍にはそれが、どこか満たされたもののようにも思えた。
けれど、飛龍は孤独になる事を望んだ。先征く者の後を追うのでは無く、ただ前へ前へと突き進む事を。あの時に飛龍ができることは、ただそれだけのようにも思えた。
後を追う事は許されない。そして、二度と戻る事も許されない。
飛龍はただ一人、赤い海の上で果てるのだろう。
「それでもぼくは……それを、選んだんだ」
そんな、感じたことのある孤独を思い出して――
「――飛龍?」
「わぁっ!?」
唐突に聞こえたその声に、飛龍は体をびくん、と震わせた。
「し、指揮官? なんでこんなところに……」
「それはこっちのセリフだ。とっくに消灯時間は過ぎてるぞ?」
呆れたように息を吐きながら、指揮官は飛龍へと訝しげな視線を向けた。
「……ちょうどさっき仕事を終わらせてな。そろそろ俺も寝ようと思ったら、寮からお前が出て行くところが見えた」
「それで、ぼくのことを追ってきたんですか?」
「そりゃそうだ。規律違反は違反だし、それに……お前がこんなところへ一人で来るなんて、絶対に何かあるに違いない。そう思って」
長い時間は、二人のことを強く繋ぎ止めていた。
「まあ、無理に話せとは言わないさ。でも何か、俺に出来ることがあるなら、力を貸そう」
「……少し、難しいです……ああいや、指揮官が力になれないって言う訳じゃなくて、何と言うか、その……」
「ゆっくりでいい。良ければ聞かせてくれ」
「…………時間を、ください」
優しく微笑みかける指揮官に、飛龍が一瞬だけこくりと黙り込む。足元で揺れる水面は、飛龍の心にできた空白を現しているようで、その向こうに映る飛龍の顔は深い昏きに染まっているようだった。
踏み出すのが、少しだけ怖い。それは怯えではなく、未知へ対する畏怖で、逃れられることはできなかった。
やがて。
「――夢を見たんです」
恐る恐る、飛龍は語り始めた。
「夢? それは、どんな?」
「姉様と、赤城先輩と、加賀先輩が沈む夢。それと、ぼくも。でも、それはぼくじゃなくて……いや、違う、あれは
「分からないなら、それでいい。話すことで落ち着くなら」
「……よく、分かりません。夢の中の景色をぼくは見たことが無かったんですけど、でも夢の中のぼくはそれを覚えていたんです。決して忘れないように」
思い出されるのは、紅の海の記憶。朧げなそれは、けれど飛龍の心に忘れることのできない何かを灼き付けていった
「それで、どうしてか知らないけれど、夢の中のぼくは、それを――沈むことを、受け入れていたんです」
「受け入れる?」
「はい。もう、どうにもならない、って思ってて。自分も、姉様たちと同じところで沈むのか、って。それ以外に選択肢なんてなかったんです」
「……お前らしくは、ないな」
励ますように口にする指揮官に、飛龍はうっすらと儚げな笑みを浮かべた。
「そうでしょう? だから、ぼくは嫌だ、って言ったんです。こんなところで沈まない……沈むわけにはいかない、って」
「……それで?」
「分かりません。気が付いたら、目が覚めてましたから」
あはは、とおどけたように笑う飛龍に、指揮官がふむ、と顎に手を当てる。
「まあ、夢だな。現実味がない。お前が沈むなんて思ってもいないし」
「もちろんぼくも、そのつもりですよ。ただ……」
「ただ?」
「……とても、怖かったんです」
普段は見せない弱々しい表情の飛龍に、指揮官が思わず目を見開いた。
「怖い?」
「はい。ぼくは一度、そこで沈むことを受け入れたんです。もう、誰にも会えない……たった一人で、沈んでいくんだって、思って。それが、ぼくの……いや、飛龍の運命で……! あの日、初夏の空……姉さまたちは、沈んで、ぼく、だけが……っ!」
「……飛龍?」
「ああ、ぃ、嫌だ! 嫌だッ! まだ、ぼくは沈みたくない! まだ、ぼくはやれるんだ! 戦えるんだ! 一人でもまだ戦える! 姉様たちも、先輩たちも沈んだんだ! もう、ぼくだけしかいないんだ! ま、だ! まだ、沈まない……ぼくは、まだ――」
「飛龍ッ!」
灰色の奔流から、あなたを呼ぶ声がした。
「……し、き、かん」
掴んだ肩は少し力を入れてしまえば折れそうで、おぼろげな瞳のまま呟く彼女の声は、風に吹き飛ばされそうなほどに儚いものだった。
そんな彼女を強く見つめながら、指揮官が口を開く。
「お前はここにいる」
飛龍の心に、空白ではない何かが映り込んだ。
「暗い海の底でも、誰かの記憶の中でもない。お前は今、俺の腕の中で――泣いているんだから」
「……ぇ?」
小さく漏らした飛龍の瞳から、雫がはらりと舞い落ちる。その輝きを指ですくうと、指揮官はゆっくりと飛龍の身体を抱き寄せた。
優しい感触だった。夜空を見上げる飛龍の瞳に、暖かな色が戻っていた。
「あ、れ? なん、で……ぼ、く……」
「……いい。好きなだけ泣け。こんな夜だ、誰も見る奴なんていない」
その言葉に、包み込まれて。
「う……ぁ、ああ、…………――っ!」
頬を伝う涙が、月明かりに照らされる。
夜の海に、縋るような慟哭が鳴り響いた。
■
「落ち着いたか?」
「……すみません。見苦しい様を」
「いいんだ。それで飛龍の悩みが晴れるなら」
薄暗い鎮守府の中を二人で歩みながら、飛龍が申し訳なさそうに目を伏せる。涙の痕は既にどこかへと消えさり、飛龍に残っているのは穴があったら入ってしまいたいほどの恥ずかしさだった。
「それで、どうだ? もう寝れそうか?」
「はい。本当にありがとうございます。こんな所まで付いてきてもらって……」
「別にいい。お前の力になれたのなら、何よりだ。それよりも」
と、指揮官が、ぺこりと頭を下げる飛龍に指を指して。
「さっきからずっと気になっていたが、その耳は?」
「え? あ、これですか? それが、ぼくにも分からなくて」
自らの頭の上で跳ねている白い耳へと手をやって、飛龍がおかしそうに首を傾げた。
「艤装はもちろん外しました。他の人がこうなった、って言うのは聴いたことが無いですから……こんな時間に明石の所へは行けませんし」
「ふむ……何か、心当たりとかは?」
「あったらとっくに言って……」
そう言いかけた途端、飛龍は全身を覆うような、気味の悪い感覚を覚えた。
「……夢」
「え?」
「夢を、見ました。夢を見た後に、気が付いたら、これが生えていたんです。いや、逆? 夢を見たから、これが生えて……?」
「ふむ……」
そう考えこむ指揮官をよそに、飛龍はまた、どこか遠くへ行ってしまいそうな、空くような孤独を感じていた。喪失にも似た、そんな空白が、彼女の心を満たしていた。
ふらふらと体が揺れる。それはまるで、どこか深くに落ちてしまいそうで――
「……違う」
「飛龍?」
ぽつりと呟いたその言葉に、指揮官が首を傾げた。
「付き合っていただいて、すみません。ぼく、もう寝ますね」
「……ああ。また、明日の朝」
「はい、また。おやすみなさい」
未だ不安が残った顔の指揮官を後に、飛龍がくるりと踵を返す。そうして自らの寝室へと歩いていく最中、飛龍の背中でまた、静かな足音が鳴り響いた。
月明かりだけ残る廊下は先が見えないほどに暗く、夜闇から現れた孤独が、再び飛龍を包み込む。それはどこかで感じたことのあるもので、飛龍の頭の中に、紅の海と灰色の空が浮かび上がった。
「……また……っ」
灼きついた記憶が、再びこちらへと手を差し伸べる。
迫る運命を、飛龍はまっすぐと受け止めて――
「――――ぼくは、君とは、違うッ!」
誰かの記憶が、崩れ落ちた。
「沈まない……たとえそれが運命だとしても、諦めたりしない!」
空白は消え、そこに光が灯る。それは誰も見たことのない、目がくらむほどの明るみで、そこから差し込む輝きが、飛龍の胸をだんだんと満たしていた。
受け入れることも、それから逃げることもしない。
ただ一つ、彼女が選んだのは、それに抗う道だった。
「君が成し遂げなかったことを、ぼくがやってみせる。君が望んだ道を、ぼくが進む」
孤独はどこか背中を押すものに変わって。
「ぼくは、今ここにいる。だから――」
「ぼくはまた、あの人の所へ帰るんだ」
暖かな感触を、思い出した。
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