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「あれ、指揮官?」
何てことはない、休日の午後だった。
共用の小さな寮舎へ足を踏み入れようとしたとき、入れ違いだったのか、開いた扉を挟んで、瑞鶴が俺へそんな声をかけてきた。見るにこれからどこかへ出かけるらしく、いつもの白い着物を羽織ったまま、彼女は俺へと不思議そうな視線を向けていた。
「どうしたの?」
「少し翔鶴に用が」
「あー……そっか。うん、翔鶴姉なら縁側で休んでるよ」
「助かる」
扉の向こうに広がる和風の休憩室の、さらに奥の方を親指で示しながら瑞鶴はそう答えてくれた。けれどその声色はどこか弱いもので、彼女の訝しげな視線は俺へと向けられたまま、しばらく動くことはなかった。
寮舎から出てくる彼女へ道を譲りながら、どちらも語らないことしばらく。じとっとした視線を浴びせ続けてくる彼女は、やがてしびれを切らしたように肩を落とし、重い息を吐きながら俺へと語り掛けてきた。
「その、さ。指揮官」
「何だ」
「……いろいろと、頼むよ」
聴くと、瑞鶴はやきもきしたような雰囲気で頭を軽く掻いた。
「……それは」
「みんなはもう前線の方に行っちゃってるじゃない。それこそこんな小さな基地、いつ用無しになって解体されるかも分かんないし。そうなったら私だって、もっと前の方の基地に行っちゃうかもしれないでしょ?」
「そうだな。よく分かってるじゃないか」
「……だから、頼れるのは指揮官だけ。あなたしか、翔鶴姉にはいないんだから」
そんな瑞鶴は、まるで何かに縋るような、何かが来ることを恐れているような、そんな弱々しい表情を浮かべていた。
「……姉ちゃんはさ、ああ見えてとっても意地っ張りなんだ」
「ああ」
「いっつも赤城先輩や加賀先輩の背中を追って、そのくせして自分のことは後回しで。よく口が悪かったり、腹黒いとか言われるけど、本当は優しいお姉ちゃんなんだよ?」
「知ってるさ。これだけ長く一緒に居たんだ」
「だから……こんな今みたいな状況になったのも、本当は私のせいなのに……私が、間に合ってれば……なん、で……! 翔鶴姉は、ずっと笑ったままで……どう、して……!」
「……違う。お前のせいじゃない」
「違わない! 私が付いていれば……っ、私が翔鶴姉を守ってあげられた! なのに、どうして!? どうして、私たちは……また同じことを繰り返すの!? もう、嫌だ……翔鶴姉だけが傷つくのは、もう、見たくない……私は、私は……!」
「――――瑞鶴」
両肩をしっかりとつかむと、彼女は震えた眼で、俺のことを見上げてくれた。
頬を伝う涙が、地面へと落ちてゆく。空になった瞳が、彼女の心の空虚を映し出しているようで。そんな彼女は、俺も、翔鶴も望んではいなかった。
「お前が気負うことじゃない。翔鶴もそう言っていた」
「……それでも、私は自分が許せない」
「けれど、お前がそうでは……彼女のほうが、悲しんでしまう。俺だって、彼女が悲しむ姿はもう見たくない。瑞鶴だって、それは分かってるだろ」
自らの全てである青い海を失ったとして、他に彼女に何が残るだろうか。戦いの中でしか生きられない彼女は、果たして何を希望にして生きてゆけばいいのだろうか。
白い鶴が、夢の様に儚く映っていた。
「……ごめん。そっか、そうだよね。翔鶴姉の分も、私が頑張らないと」
「それでいい。それなら、彼女も笑ってくれるはずだから」
「でも、指揮官も……あまり、無理はしないでね。それこそ指揮官がいなくなったら、翔鶴姉、何するか分かんないんだから」
「……肝に銘じておく」
「お願いよ。だって、翔鶴姉は――」
こつん、こつん、と。
俺と瑞鶴の会話を遮るようにして、そんな地面を鉄で叩くような音が、扉の向こうから俺の耳へと入ってくる。まだ慣れていないのだろう、断続的に響き渡るその音は瑞鶴の言葉を遮り、その顔に再び虚ろを思い出させていた。
開いた口を、瑞鶴はつぐむ。そうして、彼女は一瞬だけ、灰色めいた表情のままで、俺の方へ向き直り、
「呼び止めちゃってごめんね、指揮官。私、もう行くから」
「……ああ」
「姉ちゃんのこと、幸せにしてあげて」
――私には、できなかったから。
小さく動く唇は、そんな言葉を紡いでいるような気がした。
「あら、指揮官?」
扉の向こうから姿を現したのは、壁に体を寄せながらこちらを覗く翔鶴であった。
白い髪は寂れた羽のように透き通り、ふらついた体は今にもどこかへ飛んで行ってしまいそうで。壁にもたれかかりながらこちらを見上げる翔鶴の足先には、彼女の細い両足――ではなく、
こつ、こつ、と固い音を立てながら、翔鶴が壁を伝ってこちらへ歩み寄る。
「瑞鶴と会いましたか?」
「……ああ。さっき、少しすれ違ったよ」
「そうなんですね」
くすくす、と翔鶴はどこかおかしそうに笑っていた。
「あの子、忙しいはずなのに、ああやって会いに来てくれるんです。私の事なんか放っておいて、もっと前線に出て行けばいいのに」
「……そう、思うのか?」
「はい。瑞鶴はもっと出来る子なんですよ? だってこんな私なんかより、もっと――ぁ」
ふらり、と。
倒れてしまいそうな、どこかへ行ってしまいそうな彼女へ、思わず手を差し伸べた。
「……翔鶴?」
「すみません、まだ慣れていなくて」
俺の腕の中で、恥ずかしそうに笑みを浮かべる彼女の体は、まるで鳥の羽のように軽く感じられた。それが、彼女と言う存在そのものを表しているようにも思えた。
「立てるか?」
「はい……大丈夫、です」
こつ、こつ、と。
無骨で、とても軽い金属音を鳴らしながら、翔鶴は壁へ体を寄せた。
「ありがとうございます」
「別に気にするような事でもない。それより、中で少し話でもしよう。その方が君にとっても落ち着くだろう?」
「そう、ですね。丁度、おいしいお茶を貰ったんです。指揮官さえ良ければ、二人で……」
そうやって笑う彼女の左目には――決して開けることのない漆黒が、映っていた。
□
縁側に座って、海を眺めるのがここ最近の彼女の日課であった。
「翔鶴」
「…………指揮官? どちらに?」
「こっちだ」
動かない左目を向けたまま、翔鶴は首を動かして俺の方を見上げていた。
そんな彼女の隣に座りながら、盆にのせた湯気の立つ湯呑みを彼女へ。暖かい、けれど少し苦いような香りを感じながら、俺も湯呑みを手にとって、その中の熱い液体を一つ口に含んだ。
「お茶まで運ばせてしまって、すみません」
「気にしなくてもいい。その体じゃ不便だろう」
「ありがとうございます……それで、どうでしょうか」
「……美味いな。重桜のか」
「はい。赤城先輩が送ってくれたんです。そんなに気を使わなくてもいいのに」
どうしてでしょう、とため息を吐きながら、翔鶴も同じようにして湯呑みを傾ける。初夏の日差しが、彼女の透き通る様な髪を照らしつけていた。
「それで、指揮官」
柔らかな呼びかけに、ふと顔をそちらへ向ける。
「こんな不出来な艦に、今更どのような用事ですか?」
いつも変わらない、毒舌というか、少し皮肉めいた言い回しが、今ではとても脆いものに感じた。そんなことを言う彼女が今まさに何処かに行ってしまわないか、とても不安に感じた。
「別にこれと言ってない。ただ、ヒマだから話をしに来ただけだ」
「あら、それは意外です。てっきり解体の通知かと思いましたから」
「そんな事は、決してない」
「ふふっ、指揮官はそう言って下さるのですね」
呆れたような、けれどおかしいように、翔鶴は彼女らしい笑みを浮かべていた。
「こんな
「俺ができると思うか?」
「いいえ、全く。だって、
まるで、悪戯が上手くいったような、そんな子供らしい笑みであった。
「私のような、何もできない艦船と話してくれるような人ですもの。今更、そんなことをする度胸があるかどうか」
「……まあ、事実だな。けれど、度胸がない、って意味じゃない」
無責任な励ましの言葉を掛けるわけでもない。けれど、彼女自身を否定するわけでもない。
ただ俺が求めているのは、そのままの彼女であって。
「お前と、一緒に居たいから」
「…………」
暗い左目からは、何も感じられなかった。
「……損な人ですね、指揮官も」
「お前と一緒に居て、損だと思った事は無い」
「こんな欠陥船と一緒に居て、ですか?」
「ああ。お前とここまで居られたことを、とても嬉しい、と思っている。幸せだとも」
曇りの無い、本心からの言葉であった。彼女と共にいられるなら、全てを投げ出せる覚悟があった。
そして――彼女と添い遂げる覚悟も。
「……指揮官?」
上着の懐から取り出した箱を見つめて、翔鶴が不思議そうに首を傾げる。
「それは?」
「……何、と言って良いのかは分からないが……指輪だ」
「指輪? どうしてですか?」
……本当に、理解していなかったのか。
「結婚、と言えば分かるか?」
「結婚……ですか? 指揮官と」
「お前が、だ」
「私が、ですか」
いまいち、どうしてか雰囲気がぎこちない。晴れない雰囲気に箱を弄りながらどうしたものか、と思索に耽っていると、翔鶴はくすくす、と小さく笑い始めた。
「お前なあ」
「ふふっ、だって、おかしいんですもの。艦船と結婚するなんて言い出す人、初めて見ましたから」
すぅ、と笑みを消して、翔鶴は自らの足先を見つめていた。
「こんな、人にすらも足りえない欠陥品に、そんな事を言うなんて」
「違う。お前だから、この選択をしたんだ」
「……ずるい人。本気にしてしまいますよ?」
「俺は元々そのつもりだ」
「そう、ですか。それなら――」
また、彼女の身体がふらつくのが、視界の端で見える。
そうして次に感じたのは、肩に優しく寄りかかる、暖かな感触だった。
「……ねえ、指揮官」
「どうした?」
「これからも、翔鶴を傍に置いてくれますか?」
崩れ落ちてしまいそうな彼女の肩を抱いて。
「ああ。お前が朽ちるまで、ずっと」
――鈍い銀の光は、あっけなく彼女の指で輝きを取り戻した。
左の薬指に嵌められたそれを、翔鶴はただじっと見つめていた。その表情には曇りも、ましてや喜びもなく、ただ目の前の事象を捕らえるので精いっぱいのような、そんな不慣れなものが浮かんでいた。
やがて、どうにかして絞り出したように、翔鶴が小さく唇を動かす。
「――……不思議な感覚、ですね」
「嫌だったか?」
「いえ、そうではないですけど……とても、嬉しく感じます。それと、満たされたような」
言葉を聴くことはできなかったけれど、彼女の笑顔はとても眩しかった。
「それで」
「……それで?」
「どこまで、されるんですか?」
含みのある深い笑みで、彼女がこちらへ問いかける。その答えにはとても迷ったけれど、やがて口にした言葉は、俺の心からの思いであった。
「……共に、行けるところまで。一緒に」
「はい。それなら、私はあなたの側に」
――やがて朽ちる、その時まで。
お互いの瞳を見つめ合いながら、二人で向き直る。
「私には、あなたしかいませんから」
そう薄く、儚いような笑みを浮かべている彼女の唇を、俺は――
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