アハーンジュルジュルレロレロレーン   作:宇宮 祐樹

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『檻』

 

 夕陽に暮れる執務室に、水音だけが響き渡る。

 

「…………ん、ぅ…………っ…………」

 

 艶めかしく舌が絡み合い、息遣いはだんだんと荒くなってゆく。流れるのは苦い珈琲の香りで、けれどその確かな感覚が、少女――ジャン・バールのことを限りなく満たしていた。

 唾液と唾液とが混じりあって、こくん、と小さく喉が鳴る。通りすぎた熱い感覚は彼女の体を火照らせて、一度離れた瞳は、じっとりと濡れていた。

 

「む……ん、ぁ……ぷは、…………あ、っ……ん……」

 

 ソファーへと押し倒されて、動きはより一層の激しさを増していく。白く細長い腕は覆いかぶさる彼の首へと回されて、求めるその指がそこに紅い爪痕を残した。

 やがて唇が離れ、とろんとした銀の糸が夕陽の中で輝いている。

 

「まだ、するか?」

「……もう少し」

 

 答えたその薄い唇が、再び塞がれた。

 ジャン・バール。かの大戦において、未完成のままで戦火に曝された悲運の艦――だと、この体は知っている。癒えることのない傷も、拭うことのできない屈辱も、この体は全て知っている。

 けれど――否、だからこそ彼女は、この体で感じられることの全てに、代えがたい快感のようなものを覚えていた。

 

「んく…………ぷ、ぁ、……はぅ……ん、ぅ…………」

 

 まどろみにも似たその快楽へと身を任せ、求めるがままに欲へと呑みこまれていく。ただ彼女の頭を埋め尽くすのは灼けつくような快感で、それは彼女をより深く、どこか光の見えない闇へと沈ませていった。

 

「っ…………む、……んぅ…………っ……!」

 

 ぷは、と息を吸う音が洩れる。

 

「……もう、いい」

「そうか」

 

 嫌がるでもなく、口惜しむでもなく、彼はそれだけ残して離れてくれる。そうして首元へと感じる痛みへと手を伸ばすと、その指の先に小さく紅い液体が滲んでいるのを見た。

 

「悪い」

「いや、いいんだ。お前が楽になるなら、それで」

 

 彼はそう、微笑んでいた。

 溺れているのだろう。本懐の半ばで沈んでいく彼女を受け入れ、そして国の映し身でもなく、できそこないの艦船少女でもなく、たった一人の少女として見てくれた彼に、ジャン・バールはそんな感情を抱いていた。

 いつからこうなったのかは、もう思い出せない。愛とは少し違う。けれどそれはとても近しい位置にあって、いつかそちらへと倒れてしまってもおかしくはなかった。

 だんだんと沈んでゆく。昨日のことでさえも、既に取り戻せないものになる。けれど、そうして堕ちていくことすら、彼女にとっては代えがたく、満たされたものに思えた。

 唇にはまだ熱が籠っている。

 

「バール?」

「…………、すまない。仕事、まだだったな」

「大丈夫か? さっきからぼうっとしてるけど」

「いや、少し考え事をしていただけだ。何も……何も、ない」

 

 不安そうにこちらを覗き込む彼に、ジャン・バールはそう嘘を吐いた。

 隣に座る彼の腕へと寄りかかりながら、机の上へと広げられた書類の中のひとつへと目を通す。並べられた数列を眺めると、その上にある一つの名前へと目がいった。

 

「計画艦?」

「ああ、それか。正直眉唾物だがな」

 

 ぽつりとつぶやくと、指揮官はそう溜め息を吐いた。

 

「建造されるはずのなかった艦を、人の認識によって作り上げよう、っていう計画だ。その実験にウチが選ばれてな。クリーブランドを筆頭にして今戦闘データを集めてるところ」

「……アイリス教国所属、サン・ルイか」

「知ってるのか?」

「…………」

 

 紅の瞳の中に、無数に散りばめられた数列が映る。そしてその向こうには、かつての戦火の中にある、ひどく廃れたような自分の背中が見えた気がした。

 ジャン・バール――正確には、その記憶の中の自分は、大戦の中で最後に建造された艦であった。未完のままで戦火に曝されたのも、それが原因なのだろう。そのせいで負った痛みも、深い海の底へと沈んでゆく孤独も、全て過去の記憶が鮮明に教えてくれた。

 いつのまにか閉じた瞳を開けて、彼女が薄く口を開く。

 

「……繰り返すな」

「なに?」

「私と同じようには、なるな。たとえそれが偶像だとしても、きちんと全てを受け入れろ。そうでないと……私のようになるから」

 

 言えることは、それだけだった。

 

「……分かったよ。他でもないお前の頼みだ。何としてもやり遂げるさ」

「ならいい」

 

 伸ばされた手が、頭を優しく撫でる。ベージュの髪が揺れ、さらさらと音を鳴らすけれど、ジャン・バールはその感覚をどうしてか好んでいた。無言のまま伝わってくるその優しさに、身体を委ねていた。

 そうして彼の手が離れていく。失った暖かさに、紅い瞳がいじらしく濡れる。

 

「どうした?」

「……何も」

 

 ぐい、とより強く彼へ自らの身体を押し付ける。けれど彼は、それを拒むことは無かった。

 受け入れられたのだ。彼はジャン・バールという存在そのものを、真正面から受け要れて――否、そのまま落ちて行ったのだった。たとえ彼女が寂しく思う時でも、誰かに寄り添いたいと思う時でも、全てを彼は受け入れてくれた。それこそ、溺れるような感覚であった。

 浸りたい。また、その温もりを感じていたい。

 身体が疼く。残った唇の暖かさが、彼女の脳裏をどろどろに灼いていく。

 

「なあ」

 

 気が付けば、ジャン・バールは仕事を続けている彼の首元へと、手を伸ばしていた。

 

「あー…………さっきので終わりじゃなかったのか?」

「気が変わった。寂しい」

「……そうか」

 

 書きかけの書類を机の上に置いて、彼はジャン・バールへと向き直る。

 そしてまた唇が触れ合い、水音を立て始めた。

 

「……っ、ぁむ…………ふ、ぅ…………」

 

 暖かかった。溶けあっていくようで、爛れ堕ちていく。この感覚にあらがう事は、できるはずもなかった。

 最初は手を繋ぐだけだった、と微かに思い出せる。指と指とが絡み合う感覚が、確かな温もりを感じさせてくれて、それを拒むことはできなかった。そうして今も、手のひらとを合わせながら、また深くまで堕ちていく。

 次は側で寝させてくれることだった。彼の側はどうしてか暖かくて、大戦の記憶によって荒んでいた心も、そこでだけは安らげるように感じた。だから今も、こうして彼の側で崩れていく。

 接吻がいくらか重たい事だというのも、知っている。一定の信頼関係を築き上げた上にあることも、それがとても甘くて、これ以上になく彼女の心を満たしてくれることも。

 だからこそ、こうして、蕩けてしまいそうに――

 

「んぅ…………ぷ、ぁ、んむ…………っ」

 

 戻ることは諦めた。否、それすらもできないほどに、堕ち果ててしまった。

 何も考えられず、ただただ彼と一緒に快楽へ身を委ねていく。それがとても心地よくて、どこか欠けていた彼女の心を満たし、そしてとろんと溶かしていった。

 逃れることはもうできない。もう昨日の自分さえも、ずっと遠いものになる。

 

「もっと……もっ、と……!」

 

 それはまるで、抜け出すことのできない檻のようで。

 その中でもなお、ジャン・バールという存在は、それを求め続けた。

 

「……っ、ぅ………………ぷ、ぁ……!」

 

 押し倒し、そして――吸いつくす。

 跨ったままのけぞるように天上を仰ぎ、どろどろに混じり合ったそれを喉へと下す。身体を巡る熱いものへと身を委ねると、頭はもう、それ以上を考えることができなかった。

 ふらり、と身体が揺れる。

 

「おい、バール? 大丈夫か?」

 

 大丈夫なわけがない。正気でいられるはずがない。

 こんな快楽を知ってしまった時点で、もう既に狂ってしまったのだから。

 

「っ…………もっ、と……」

「けどお前、もう疲れて……」

「もっとだ、もっとお前がほしい……ぜんぶだ……ぜんぶ、私にくれよ……!」

 

 寂しさはどこかへ消えてしまって、また別の何かが心へ大きな穴を開ける。

 深く、底を知らないそれは、もう彼でしか埋められなかった。

 

「私にはもう、あなたしかいないんだ……あなたがいなくなったら、私は……おかしくなって、……耐えられなくなるかも、しれないから……」

 

 呪いの言葉のようだった。それが彼を縛り付けることも、自分をさらに深くへと沈めていく言葉だとも、理解できていた。けれどそれに抗うことなんてできなくて、ただただ深くへ落ちていく。

 

「もう、いい。あなたと一緒に居られるのなら、何も怖くない。あなたがこうしてそばにいてくれるのなら、どこまでだって行ける。だから――」

 

 指先を絡ませて、囁くように。

 

「あなたの、ぜんぶを奪って……ぜんぶ、私のものに、したい」

 

 さざ波の音だけが、遠くで聞こえている。交錯する視線の中には蕩けるような熱が篭っていて、お互いの吐息すらも、混ざり合っていた。

 鼓動が伝わる。高鳴りは速さを増してゆき、彼女の芯をとくんと熱くさせる。正しさなんて、倫理なんて、もうどうでもよかった。彼と共にいられるのなら、全てを捨てられる覚悟だった。

 やがて。

 

「……いいさ」

「なに?」

「お前がそう望むのなら、それでいい。俺の全てなんて、くれてやる」

 

 頬に手が添えられる。伝う指先は優しくて、けれどその温もりに、ジャン・バールは一瞬だけ崩れ落ちてしまいそうな、そんな儚げな表情を浮かべていた。

 受け入れられた。確かにそれを望んだはずなのに、どうしてか彼女の心にあったのは、恐怖のような、怯えのような何かであった。

 

「……どう、して?」

 

 やがて口にされたのは、疑問の言葉で。

 

「どうしてお前は、そう答えられるんだ?」

 

 堰き止めれられていた感情が、零れ落ちていく。

 

「……縛って、しまうかもしれない。共にそのまま、果ててしまうかもしれないのに、お前は……お前はそれを、受け入れてくれるのか? こうして崩れていく私のことを、否定しないのか? ……共に、堕ちてくれるのか?」

 

 吐き出されるそれは懺悔のようにも思えて、身体がどうしようもなく震えてしまう。握る手はとても強くなっていて、けれどそれに返されるのは、おだやかな彼の瞳だった。

 

「応えられるさ。お前の望む全てを差し出すと、そう決めたから」

 

 解放、なのだと感じた。透き通るような感覚だった。

 あれだけ強張っていた身体からはするりと力が抜けて行って、そのままふわりと腕の中へ抱き寄せられる。

 

「ぁ」

「怖がらなくても良い。お前が望む限り、ずっと一緒にいるから」

「…………後悔、するなよ」

「ここまで来たんだ、するはずないだろ」

 

 寄せる体からは確かな温もりとやさしさが伝わって来て、このまま溶け合ってしまいそうだった。熱く、蕩けてしまいそうで、身体がじんじんと疼く。

 解放と惑溺、そして堕ちていくその隙間に、嬉しさを感じていた。

 

「…………なあ」

「ああ」

 

 唇が触れ合って、すぐにそれは離される。

 今までのどれよりも短いそれは、今までのどれよりも甘いものだった。

 

「――――ぁ」

 

 途端に身体から熱が抜けて行って、視界がぐらりと揺れる。そのままソファーへと倒れ込むと、次にジャン・バールが見たのはこちらを覗く心配そうな瞳だった。

 

「大丈夫か?」

「少し、その……疲れた、だけだから」

「無理しなくていい。少し休んでろ」

 

 かけられる言葉は優しくて、やはりそれに甘えてしまう。

 いつまで続くのだろうか。あるときにはたと終わってしまうのかもしれないし、どちらかが死ぬまでかもしれない。それでも、今にこうしていられるのなら、それはとても素晴らしいことに思えた。

 寄り添う彼の輪郭がおぼろげに揺れる。気が付けば頭はもう働いていなくて、無意識に彼の腕を微かな力で握っていた。

 

「……少し、寝る」

「ああ」

「…………離れ、ないで」

 

 ぽつりとつぶやいた直後に、強いまどろみのなかに落ちていく。眠りはだんだんと深さを増していって、ぼやけた意識は深淵へと堕ちてゆく。 

 暗闇の中には誰もいない。温かさも、優しさも、声も、何も届くことはない。誰の光も届かない闇の中へと、たった一人で沈んでゆく。

 

 けれどもう、怖くない。

 

 


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