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『たとえ、あなたが見えなくても――』
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潮騒の音が、遠くで響いていた。
かつて戦場だったあの海は、もう二度と戻ることはない。水平線を超えて轟く鉄の号砲も、海を染める緋色の血も、あの日の向こう側へと消えていく。
ただ残っているのは、戦火の果てにある、静かな平和であった。いつも彼女らの声で賑やかであった学園も、絶え間なく騒音が響いていた倉庫も、今はもう誰もいない。
執務室で一人、彼は遠くに見える水平線を見つめていた。
時計の音が聞こえる。波の音が聞こえる。
海を眺めるその瞳に映っているのは、決して開けることのない暗闇であった。
「指揮官さーん、お手紙だよー」
そんな間延びするような声と共に、かちゃ、とドアの開く音がした。
「……ロングアイランド、か」
「んー、そう――……って、今、ここには私しかいないよ?」
こてん、と首を傾げながら、彼女は背中を向けたままの指揮官へ問いかける。
「いや……一人のことを、考えていたから。そうだな、ここにはまだ……君が、いる」
「むー、なにそれ。私は指揮官が心配だから引きこもってるんだよー?」
「あはは、そうか……それはとても、嬉しく、思う」
途切れ途切れの声で、指揮官が答えた。
戦争が終わって訪れたのは、慣れるのに時間のかかる平和であった。かつて海の上で共に戦っていた彼女たちは日々の中へと姿を消し、道を違え、牙を向け合った彼女たちもまた、知らない何処かへと消えていく。
果てに訪れた日常は彼女たちを連れていった。戦火の火は、もう灯されることはない。
そんな中、彼女――ロングアイランドは、ただ一人だけ、鎮守府に残る事を選んでいた。
「それで、手紙っていうのは?」
「また偉い人からのやつ。戻ってこい、だってさー」
「……捨てておいてくれ」
ふてくされたように呟いたロングアイランドが、手に持った封書を机の上に放り投げる。それに一瞥することも能わず、指揮官は彼女の声のする方へと振り向いた。
「戻る気、ないの?」
「まだ、何も終わっていない。全てまだ、残ったままだから」
虚ろな瞳は、遠くのどこかを見つめているようだった。
「……ここには、皆の生きた証がある」
そうして、指揮官が自らの足元へと目を向ける。
床を埋め尽くすほどに散らばっているのは、いくつもの書類であり、そこに刻まれているのは、血と硝煙の染みついた、かつての灰色の記憶――『大戦』の歴史であった。
もう見えなくなってしまったその爪痕に目を馳せながら、指揮官は重く呟く。
「俺は、皆の記憶を守らなければならない。彼女たちの生きた証を、残さなくてはならない」
忘れ去られてしまうのだろう。語られぬ禁忌の歴史になるのだろう。
けれどその灰色の瞳には、彼女たちの生きた「かたち」が克明に残っている。それを残すためには、相応の時間と覚悟が必要であった。
「そして、もう二度とこのような争いが起こらぬように、しなければならない。あの赤い海ではなく、かつて見たあの景色を――碧藍の、あの地平線を」
人と人とが争うのではなく、人と人とが手を取り合うために。
創り上げねば。二度と、彼女たちが失われないように。
「終わらせた俺達には、その使命があるはずだ」
――青い海を、思い出した。
目を伏せ、まるで眠ってしまっているかのように地面を見つめる彼に、ロングアイランドが静かに寄り添った。決して短くない年月を経て細くなった肩へと手を添えると、その上から、折れてしまいそうな指が重ねられる。
「君もまだ、ここにいるのか?」
「うん」
虚ろな瞳を覗きながら、ロングアイランドは頷いた。
「指揮官さんは一人じゃ大変でしょ? それに、ここにはゲームもマンガもいっぱいあるし! 理由をつけて引きこもるにはこれ以上ないくらいに快適なの!」
「ははは……君は変わらないな」
「ふふん、ロングアイランドは、いつまでも指揮官さんに憑りついてる幽霊さんなの! だから、見えなくても……見えなくて、も…………」
崩れ落ちるように、彼女が指揮官へと体を寄せる。
「――見えなくても、ずっとそばに、いるからね」
その呟きは、静かだった。
細い指が、彼女の頬を伝う。その温もりを確かめるように、何度も、何度も。
「皆は、もう消えてしまった」
過ぎ去った時は、彼の見る世界を大きく変えた。
「俺には、何も見えない。今を生きている彼女たちも、未来の彼女も――君のことも、全て」
滑り落ちてしまいそうな手を、ロングアイランドは握りしめた。冷たい指先が、彼女の柔らかな温もりに包まれる。それは指揮官が感じられた、最後の暖かさでもあった。
彼女の吐息が聞こえる。彼女の香りを感じる。彼女の鼓動が伝わる。
「けれど君は、ここにいる」
ゆっくりと。
彼女を確かに感じながら、指揮官は呟いた。
「ロングアイランド」
「…………うん。どうしたの?」
「渡したいものが、あるんだ」
覚束ない指が、執務室の机を彷徨する。さまよう指は引き出しの小さな取っ手を弱くつかみ、その中から一つの小さな箱を取り出した。
手のひらに収まるほどのそれを開くと、そこに指揮官が冷たい銀の感触を覚える。
「……いつ渡そうか、迷っていた」
「いつでもいいよ。だって私は、指揮官さんと離れるつもりなかったもん」
「そう、か」
震える指先が、彼女の手を取る。
「長い旅になる。それでも、もしも君が、俺と一緒に居てくれるのなら」
虚ろな瞳が、透色の彼女を映す。
「どうか、受け取ってほしい」
静かなその問いかけに、ロングアイランドは指揮官の手を強く握った。
銀の輪が通される。あまりにも簡単に指を包み込んだそれは、彼女の手の中で眩しすぎるほどに輝いていた。
たとえそれが灰色の瞳に映らなくても、その輝きは煌々と。
「似合うかな?」
「ああ……君によく、似合っている」
たとえ見えなくても、輝きを添えた君はとても綺麗で。
彼女は、とても透き通るように――笑っていた
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「うーん……」
何てことは無い昼下がり、倉庫の片隅で、ロングアイランドは小さく声を上げた。
「……何してるにゃ、ロングアイランド」
「いやー、どう考えても不思議だなー、って思って」
つんつん、と彼女の指先がつつく先には、透明めいた青い箱の形があった。
一般にメンタルキューブと呼ばれるそれは、ロングアイランドを含めた艦を建造するために必要不可欠なものである。それはそれによって作り出された彼女自身も良く分かっているけれど、しかし彼女はどうしても腑に落ちないものがあった。
「こんな小さな箱から私たちができるの? だって私、このちっちゃな箱よりも大きいのに」
「にゃー……それはまた、少し専門的な話になるにゃ」
倉庫の整理も終え、ヒマになった明石は彼女に付き合うことにした。
「そもそもその中に入ってるのはただの記憶にゃ」
「記憶?」
「にゃ。どこかの戦場で残された、誰かの生きた証。その記憶……まあ、言ってしまえばデータにゃんだけど、それをもとにして私たちは造られるのにゃ」
「じゃあ私たちはコピーで大量生産されてる、ってこと?」
「そう言う訳でもないにゃ。保持されるのはあくまで記憶。言うなれば下地だけにゃ。建造された後は、それぞれ個人個人の記憶がその記憶に上書きされるのにゃ」
「そうなんだー」
「ま、それくらいしか今のところは分かってないにゃ。まだまだソレには謎が多いにゃ」
「ふーん」
珍しく物憂げな表情をしながら、ロングアイランドはそれに触れ続ける。微かに光を放つそれを見ると、彼女は見たことも無い記憶を思い描くのであった。
証。
記憶。
彼女はまだ、生きている。
それは長い旅で、ずっと一緒に。
見えない。確かな、銀の光。時計の音。青い海。
灰色と平和。碧藍の地平線。輝きを添えて、笑って。けれど君はここにいる。たとえ、あなたが見えなくても――
――――透色。
「大丈夫」
頭より溢れるような奔流から手を離し、ロングアイランドが虚空を見つめて、
「どこにいても、ずっと一緒だよ」
今まで感じたことのない、銀色の感触を思い出しながら、そう呟いた。
「ロングアイランド?」
「…………え?」
「いきなりどうしたんだにゃ。今すっごい乙女な顔してたにゃ」
「む、なによそれー。私はちゃんと乙女なのー」
ぷくー、と頬を膨らませながら、ロングアイランドが眉を顰める。先程まで頭を支配していたあの灰色の景色は、その残滓だけを残してどこかへ消えてしまっていた。
そうして再び、ロングアイランドが目の下の小さな箱へと視線を向ける。
「でもさー、どうしてこの人は私たちの記憶を残したんだろうね?」
「にゃ?」
「これに記憶が入ってる、ってことは、誰かが何かの為にのこした、ってわけでしょ? それなら、なんでその人はこれを残そうと思ったんだろう? こんな大変なこと、よくやる気になったよね」
「にゃぁ……それは明石には分からないにゃ……ただ」
「ただー?」
「それが、成すべきことだったから、じゃないかにゃ?」
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