血を削る音がする。
肉を断つ音がする。
骨を砕く音がする。
そして、喉が裂けるが如く絶叫が響き渡る。
なんと、甘美な音色であろうか。常人では忌避する凄惨な激痛の狂気を嗅ぐわせる怪音を耳にして男はついその瞼を下ろしてしまう。
この狩場にあるまじき行為を平然とやってのける男は立ち尽くしたまま微睡もうとして、次の瞬間にはせせら笑いながらその手に握られた手鎌を振るう。
そして響くは血を削ぎ肉を断ち骨を砕く音色。
何事も誰か他人の手で行うよりも自らの手で行う方が達成感の様なものがある。男は自らの手でかき鳴らされた音色に喜悦の表情を露わにしてすぐにそれを消した。
背徳者を狩るのはいい。
血に酔いしれるのはいい。
狩人としての誉れに身を委ねるのはいい。
だが、自らが獣になるのはいけない。
狩人の長、ハンス・L・シャストルは狩り道具を持たぬ手で腰に下げていた銃をとり虚空に撃ち放つ。弾が装填されておらず空砲であったそれは何らかの合図となっていたのか、空砲が狩場に鳴り響いた途端に凄惨な音色は止み、場には静寂が訪れた。
大柄な身体にハットを被り斧を持った黒衣の男は狩りの終わりを悟り安堵の溜息をつく、黒い鳥の嘴を模した仮面に全体的に黒い姿から烏を思わせる性別がわからない狩人は狩りの終わりに何も感じず狩り道具を腰に下げる。
焦げ茶地味た狩装束に身を包む男は奮った身体を落ち着かせるように水筒に手を伸ばし、灰色の狩装束に身を包む男は狩りで摩耗したのか自らの身体を抱きしめ震えを止めようとしている。
皆一様に血に濡れ、足下にはその血の持ち主であった獣どもが散乱している。
銃を腰に下げ戻し、ハンスは狩りを終えた彼らに笑みを向ける。
───嗚呼、諸君。今宵の狩りは幕を下ろす……凱旋だよ
首に下げたロザリオを掲げて聖者の如き笑みを浮かべる彼に狩人たちは各々の反応を示すが彼はそれを気にせず狩場を後にする。
狩人たちはそんなハンスにただ黙してついていくのみ…………灰色の狩人は未だ嗚咽を漏らすが誰もそれを気に止めない。
獣を狩る己を恐れるのは誰もが必ず通り理解する。
灰色の狩人が未だそれを振り切れないのは彼の心がそういうものだから……狩人たちはそう断ずるのみ。
だがしかし、その真意を知るのはきっと灰色の狩人本人と彼ら狩人の長であるハンスだけなのだろう。
────────────
ハンス・ローレンス・シャストル。その名は悪魔や天使、堕天使の中でもそれなりに噂だった名前だ。
齢は先日八十を越え、今では教区を任された老狩人。嘗て多くの悪魔や堕天使を狩り殺しヴァスコ・ストラーダ司祭枢機卿に肩を並べる程の男は当時命からがら逃げ延びた悪魔らには復讐など考えさせない程の恐れを抱かせた。
さて、そんな彼だが先に述べた通り自らが任された教区、その一角にある教会の自室でゆったりと過ごしていた。
カーテンにより窓は閉ざされ薄い光が射し込む執務室。壁に飾られるのは若年に振るった狩り道具の数々。
華美なものは極端に少なく代わりに質素なものばかりの部屋の様相は部屋主の気質を感じさせる。
さて、この部屋の主はどのような者か。執務机に接する安楽椅子に背を任せる一人の壮年の男。
名をハンス・L・シャストル。蒼穹の如き青い髪にゆったりとしたローブを着込んだ齢八十を過ぎたとは思えぬほどに若い身姿の古狩人は執務机を挟んで対面に立つ知己にその鋭い眼差しを向ける。
───嗚呼、久しいな。少年
「少年か、子供二人も抱えた四十すぎの男を少年呼ばわりする人間などアンタぐらいだろうな」
大柄な身体にハットを被った黒い衣服に身を包む初老の男はハンスの言葉に苦笑いする。
男の名をガスコイン、嘗てハンスの下で狩人を務めた古狩人の一人にして神父。決して少年とは呼べぬ年齢の彼に対してハンスは昔から変わらぬ真意の読めぬ笑みを浮かべるばかりである。
───さて、何のようかね……私はこうして教区の為の執務をしているのだが
「……安楽椅子に座って何を言っているのか。何、デュラの事だ」
───ああ……聞いたよ
ガスコインが口にした名を聴き、ハンスは目を細める。デュラ、それもまたガスコインと同じくハンスの下で獣を狩り続けた古狩人の一人。そして、古狩人の中で誰よりも獣を狩る己を恐れ、苦悩に苛まれ続けている男。
他の古狩人同様に今も尚ハンスが任された教区を中心に獣を狩り続けていたデュラ…………そう、狩り続けて『いた』なのだ。
つい一、二時間ほど前に彼と共に狩りを行っていた祓魔師たちが教会へと帰還した。全身ボロボロの姿で…………彼らを迎えた彼らの上司はすぐさま彼らの治療を行わさせ彼らから事情を聴いた。
曰く、「古狩人デュラの突然の錯乱」と。
それを聴いた者はすぐさま箝口令をしき、ハンスへと知らせてきたのだ。しかし人の口には戸がたてられないと言うべきか、それとも同じ古狩人だから伝えられたのかガスコインはデュラの事でこうしてハンスの執務室を訪れた。
「聞けば、今回の狩りの対象はガキ持ちだったそうだ」
───嗚呼……彼らしいな。しかたない
ガスコインの聞いた任務の詳細からハンスはデュラが遂に狩りに堪えきれなくなったことを理解した。錯乱ではない、もはやデュラは狩人である事を拒否したのだ。
獣ではない彼らもまた人間なのだ。きっとデュラはそう言うのだろう、とハンスは考える。そして目の前の古狩人へ冷たい視線を向ける。
───古狩人ガスコイン
「ッ……」
冷徹な狩人の眼だ。獣は獣、ただ狩る対象でしかない。おのが矜恃の下に一切の慈悲なく、例え嘗ての部下であろうとも獣となれば殺す古き狩人の瞳だ。
その瞳に貫かれたガスコインはまるで自分が狩られるのでは、と反射的に腰に下げている装飾の剣柄に手を伸ばしたがすぐにその手を引いた。そして、ハンスの口から告げられる言葉を予感し頷くしかないと理解した。
───古狩人デュラを狩りたまえ
「…………本気、なのか」
───無論、本気だとも。彼は獣を匿うだろう…………古狩人故に一時の錯乱と赦すか?否だ……彼はもはや獣狩りを成せず狩人狩りを行うだろう
共に戦ってきた仲間を狩らない事にガスコインは一縷の光を望み、問うが返ってくるのは頷くしかない言葉。
いったい何年共に戦ってきたというのか。ガスコインはデュラの気質を理解していた……獣、とりわけ凡俗な獣である彼らは異形に変貌している事が多いが元々は人間であったことが多い。
彼らは獣なのだ、だが、それでも元は人間である……それ故に何度も何度も自分を抑え込み狩り続けていたデュラは人間を感じさせる親子間の絆を目の当たりにしてしまえばもはや獣狩りなど出来るはずがないのだ。
デュラは優しい男だ。故に彼は獣狩りをする狩人や祓魔師を目の前にすれば狩ろうとするだろう。己が彼を狩らねばいったい何人の祓魔師が死ぬだろうか…………ガスコインは計りたくもない天秤を計る。
───…………ガスコイン。貴公が狩らぬというのならばアイリーンかヘンリックを向かわせるが?
「……いや、いい。デュラは俺が狩る」
───よろしい
話は終わり、とガスコインは執務室を後にしようとさっさとハンスの前から扉へと移動し、そのドアノブに手をかけて────
───ガスコイン。貴公が持つ狩人の徴だが、何時でも私に返してくれて構わんよ
「何?」
ハンスの投げかけられた言葉にその手は止まった。
嘗てハンスの下で狩人となった者は皆一様に狩人の徴という誇りを与えられた。それは獣を狩る狩人の証、それを返すという事は狩人を辞めるという事そのもの。ハンスは誰よりもそれを知っているはずで、だからこそガスコインはその足を止め聞き返した。いったいどんな意図があるのか、と。
───簡単な話だよ。貴公には家族が出来た。ならばそろそろ人々を護る狩人ではなく家庭を護る父親になるべきだ……何、安心したまえ。私の教区に住まう以上、獣に襲われる事は無い
何ならば手当も出そう。
そう語るハンスにガスコインはなんとも言い難い思いを抱きながら執務室の扉を開ける。
「俺は狩人だ。人々も家族も両方護る狩人だ」
その言葉を残しガスコインは執務室を後にした。
───ガスコイン……貴公もまた血に酔いしれる狩人。獣になってくれるな…………知己を殺すのは私も心苦しい故に
安楽椅子にもたれながら古狩人は嗤う。
────────────
時は流れども安楽椅子の古狩人は変わらない。
古狩人デュラの脱落。あれから六年の月日が流れた。
教会において多くの祓魔師や戦士にとって憧れの一つでもある古狩人、その一人の脱落は大きな騒ぎとなった。
獣、はぐれ悪魔との戦闘中における一瞬のアクシデントが原因で死んだ。表向き、そう伝えられ古狩人デュラの名誉は守られた。
真実を知る者はもはや同じ古狩人しか知らぬ。そして、また一つ古狩人に事件が起きたのだ。
「ガスコインの奴が教区から姿を消したよ」
───…………娘の件だろうな
執務室に備え付けられたソファーに腰掛ける黒衣の女は茶を啜りながら安楽椅子にもたれるハンスへ語る。
それは古狩人の一人、ガスコインの出奔。
事情を知っている二人からすればガスコインの行動は当然としか言えなかった。
ガスコインの出奔、その原因は彼の二人いる娘の内妹である少女にまつわる話。
「教会の敷地に手負いの獣?都合が良すぎる」
───私の教区の外、と言ってもそう離れてはいない
「…………面倒な事になるな」
この世には神器というものがある。ハンスら教会が信仰する聖書の神が創り出し人の子に与えた魂と繋がった神秘である。一つしか存在しないモノや複数個存在するモノと多種多様であるがその中の一つに『聖母の微笑み』という神器がある。所有者の意思一つで生物の傷を癒すという破格の奇跡。
それをガスコインの愛娘であるアーシアは宿していた。きっかけは家で飼っていた犬と教会の敷地で遊んでいた時に犬が傷を負ってしまい、アーシアがそれを治したいと願った事。
念じれば傷を癒す。そんな奇跡を持って生まれたアーシアに教会は目をつけた。
アーシアを聖女として担ぎ教会の権威の為の道具とする。それ故にガスコインの元に何度も教会から懇願が舞い込んできた。無論、ガスコインの家はハンスの教区内故にアーシアの件もハンスの預かりになるべきだがあろう事か教会の総本山たるバチカンからの要請にはハンスも手を焼き、ガスコインも困惑するしかなかった。
そんな中、教会の為に戦い傷つく父や古狩人らを知っているアーシアはその心優しき魂に従いバチカンの要請に首を頷いたのだ。
教会の権威の為の道具になる事などガスコインも古狩人らも認める事は出来なかったが母親譲りの折れぬ考え故か、ついにはガスコインらはそれを認めるしか出来なかった。
狩人狩りを命じる冷徹な古狩人たるハンスもやはり孫の様な彼女に甘いのかバチカンに交渉し何とかアーシアが聖女として赴任する教会を教区外だが近い所に決めさせた。これならば家族と会えるだろう、と…………だが
「件の教会には獣との癒着がある背徳者はいないようだ」
───では、彼女やガスコインへの妬みはないか
赴任してから日々、治癒を求む者らを癒し続けた彼女の目の前にある日、それが現れた。
獣だ。教会の敷地内に手負いの獣が姿を表した。周囲に誰もいなかったその時、心優しいアーシアはその魂に従いあろう事か獣の傷を癒してしまい……そしてその姿をお付きの者とアーシアを訪ねたガスコインに見られたのだ。
狩るべき獣、神の敵対者たる悪魔を癒した彼女には教会に居場所など無く追放された。
───着飾った獣だったな
「ああ、ガスコインが言っていたよ。恐らく貴族位の獣さね」
有無を言わさぬ追放。ハンスですら止められなかったそれにガスコインは抗わんとしたがハンスはそんなガスコインに謹慎処分を下した。
頭を冷やさせねば、きっとガスコインは追放処分を下した教会の者を獣の如く狩るだろうと知っていたから。
謹慎が明け、暫く狩人としての仕事を渡さず神父として過ごさせていたある日、ガスコインは教区から出奔したのだ。
「一度バチカンに足を運んだ時に聴いた話だが聖女や信心深い修道女がここ数年、何人か姿を消しているそうだよ」
───今回の件はそれらと繋がっている可能性がある、そう言いたいのだねアイリーン
「それが妥当だろう?」
アイリーンと呼ばれた黒衣の女は茶を飲み終え、机の上に置いてあった烏の嘴を模した仮面を付ける。彼女もまた古狩人の一人であり、アーシアをややぶっきらぼうながらも可愛がっていた一人であった。
故に今回の件。彼女の付け狙う獲物はアーシアが追放される原因となった貴族位の獣である。
───好きにするといい。ガスコインの事は気にしなくてもいい…………長期任務として処理しておく
「ああ、そうしてくれ」
そう言って退室するアイリーン。残ったハンスは安楽椅子にもたれながら思考する。
アーシアの行方とガスコインの誘導を。
───まったく、親バカにも程があるんじゃないかねガスコイン……………………
ハンスは執務机の上に手を伸ばし、そこに置いてある古びた鐘を手に取る。
それは異質な聖具。
それこそが古狩人ハンスに与えられた奇跡。
鐘職人の守護聖人たる聖致命女アガフィヤの聖血を以て聖書の神が創り出した神器。
名を『聖鐘』。
その神器が起こす奇跡は祈り。天にあられる神へ祈り助力を乞うというもの。助力は状況によって様々であるがしかし、祈りを受け取るべき神は既に亡く。古狩人ハンスに宿った際にその力は変質した。
鳴らされた鐘の音は聴く者に涙させるほど静謐で、同時にそれは狩人にとって血を沸き立たせる音色。
それが呼び寄せるのは神の助力にあらず。
「────鐘の音により推参した、我が師」
虚空が歪み、執務室へと現れたのは靄の如き姿を持つ何某か。
姿の詳細が解らぬ何某にハンスは笑い、任を示す。
───古狩人ガスコインが娘アーシアの行方を追い、それをガスコインに伝えたまえ
「わかりました」
指示を出したハンスは鐘を置き、空砲を打つ。すると靄の如き何某は最初からそこにはいなかったかのようにその姿を消した。
鐘の音が齎すのは神の助力ではなく、古狩人ハンスにより狩人の徴を与えられた狩人の擬似的な召喚である。
仔細を終え、ハンスは再び安楽椅子にもたれる。
───さて、どうなるか……ああ、ひとまずは愚かな和平の嘲笑に留まるとしようか
───私が信ずるは神であり、亡くなったからといって貴公ら天使に従う理由にはならんよ
───故に狩りを。故に血を。故に…………恐れよ
安楽椅子にもたれながら嗤う古狩人。その脳裏にはいったい何があるというのか。
───我ら血によって人となり、人を超え
───また人を失う
───知らぬ者よ
───かねて血を恐れたまえ
ある日の事だ。あらゆる裏の世界を知る者らを震撼させた黙示録の獣との激闘より数週間が経ったある日の事。
変わらずハンスに任された教区、その中心たるハンスがすむ教会の大聖堂に何人もの人間が押しかけてきたのだ。
荒々しくも静かに開け放たれた大聖堂の扉。
入ってきた何人もの人間とあろう事か獣ども。
彼らの先頭に立つのは一人の老人。彼もまた教会の関係者なのか祭服を身にまとっており白髪のしわくちゃな面貌であるがその老人らしい顔の下は老人などと呼べぬもの。太い首に分厚い胸板、巨大な幹ほどある両腕に若人の腰周りよりも太い両脚という老人とはなんなのかと思わせるような二メートル程の若々しい肉体を持った戦士。
名をヴァスコ・ストラーダ。齢八十七の教会における最強の英雄にしてハンスの友人たる彼は何人もの戦士ととある件より顔見知りとなった悪魔らを連れてこの大聖堂に足を踏み入れた。
───嗚呼、なんとも匂い立つじゃないか
そんな彼らが見たのは大聖堂の最奥、祭壇の前で安楽椅子にもたれる決してヴァスコ・ストラーダと一歳違いの老人とは思えぬ壮年の男らしい姿をした古狩人ハンス・L・シャストル。
そんな彼に彼の姿を知らぬ者は動揺するがヴァスコ・ストラーダは黙然とハンスに視線をぶつける。
───私に用があるのだろう友よ
「……ハンス。我が友よ」
あれがハンス・L・シャストル?……八十代には到底見えないぞ?……とヴァスコ・ストラーダの後方の悪魔や戦士らが呟く中ヴァスコ・ストラーダは一歩前に出る。
「ハンス。君に捕縛の命令が出ている」
───ふむ、それで?その理由は何かね
「和平が結ばれ数ヶ月、黙示録の獣を異空間に封じ込める為に幾つもの神話より力あるものが協力した。失ったものは多い、されどこれから平和が訪れる……そう思っていた最中に一人の悪魔が殺された」
ヴァスコ・ストラーダが語るように多くの者がこれから訪れるであろう平和に心を沸き立たせた。しかし、そんな中一人の悪魔がとある教会関係者に殺されたのだ。
「下手人は古狩人アイリーン…………既に彼女は捕縛され事情聴取を受け、魔王の縁者ゼファードル・グラシャラボラスを君が殺せと命じた、そう言っていたよ」
───そうだとも。私がアイリーンにそう命じた
ヴァスコ・ストラーダが語った事に一切の悪びれもなくハンスは肯定の意を示し、同時に嗤ってみせた。
そんな彼に悪魔らは顔を顰める。彼らからすれば同胞を殺す命令を下しておいて全くの悪びれもしないなど認めがたいのだろう。
「何故……そんな事をした。平和を目前として何故にそのような事をしたのだ!ハンス!!」
───何故?それはこちらの質問だよ、友よ。何故に貴公はそんな質問を私にするのか
ハンスは狩人としての冷徹な視線をヴァスコ・ストラーダにぶつける。それにどれほどの意が込められていたのか、ぶつけられたわけでもない戦士や悪魔らはその身体を硬直させた。
───ヴァスコ。貴公は教会の英雄だ。戦士らにとっての憧憬だ。それだというのに何故貴公は…………
獣を狩らぬのか?そう語るハンスにヴァスコ・ストラーダは理解する。友人であったが故にハンスの真意を理解した。
目の前の狩人にとって和平など何も意味が無いのだ。ヴァスコ・ストラーダは神の死を知っている、知った時には滂沱したものだ。故に和平が神の意思ではなく神を継いだ天使らが選んだものであると分かっている。
目の前の狩人は天使などどうでもいいのだ。
神を信仰せれども天使を信仰せず。
故に和平が結ばれていようがそれが神の意思でないのならば平然と悪魔を狩るのだ。何故なら悪魔とは神の敵対者故に。
「ハンス……君は…………いや、何も言うまい。大人しく捕縛されてもらおうか。ハンス・L・シャストル」
───……その前に一つ聴いていいかね友よ
「ッ……なんだ」
冷徹な狩人の視線を解き、柔和な親愛の視線に戻したハンスはヴァスコ・ストラーダに問いかける。
───そちらの客人を紹介してくれ。獣であれども私の教区に足を踏み入れたのだ、知りたい
「…………いいだろう」
ヴァスコ・ストラーダはハンスの願いに頷き、横にずれる。そうすればヴァスコ・ストラーダの巨軀で隠れて見えなかった悪魔らの姿がよく見える。
血、というよりも苺のような紅い長髪に美貌を持つ女悪魔。
茶髪で熱血漢と初対面でありながら思わせる少年。
青い髪に翠のメッシュを入れたこれまた美しい少女。
可憐で美しい金糸の如き髪を持つハンスにとって知己である少年。
その他にも数名いるがハンスの目の止まったのはその四人。
───アーシア。そうか、君は……いや、何も言うまい
「……先生」
アーシア。アーシア・アルジェント、ハンスにとって孫の如き存在たる少女であり古狩人ガスコインの愛娘たる彼女はあろう事か悪魔へと転生していた。
思えばハンスはガスコインをアーシアの下へ誘導はせれどもその後は知らなかった。ガスコインも教区へと戻って来てから一度もアーシアについては語らなかった。故にアーシアが悪魔へ転生していた事は今こうして初めて知ったのだ。
次に見るのは青い髪の少女。嘗て教会の戦士であった少女は戦士の憧れの一人である古狩人ハンスとは初対面であった……そう、少女からすれば。
───ゼノヴィアだね?
「何故……私の名を……」
───知っているとも、君がエミーリアの胎の中にいた時からね
「は、え……?」
ハンスの口にした言葉はその場にいた全員を驚愕させた。悪魔の半分は施設で育ったというゼノヴィアの母親の関係者である事に、そしてヴァスコ・ストラーダを含む戦士や残りの悪魔らはゼノヴィアの母親に対して。
「エミーリア……灰の聖女だと?」
ハンス曰く灰の聖女エミーリアこそがゼノヴィアの母親。しかし、ヴァスコ・ストラーダは灰の聖女が子供を産んだ……いや、妊娠していた事すら知らない。それは彼女がいた場所がこのハンスに任された教区内だからか?と考え、理解した。
「ハンス。よもや彼女の父とは────」
───さて、それは後でもよかろうよ。赤き龍に紅い獣とは笑えてくるな
「なんですって」
真実に気がついたヴァスコ・ストラーダの言葉を無視しハンスは紅い髪の女悪魔であるリアス・グレモリーと赤龍帝兵藤一誠を見て嗤う。
神の死、その原因の一つたる赤き龍が魔王の血縁とともに自分の下へ来たことに。
獣呼ばわりされ顔を顰めるリアス・グレモリーなどどうでもよいのだ。
───面白い。
そう嗤って、ハンスは安楽椅子より腰を上げた。
教区長らしい祭服の彼は立ち上がって微笑む。親しみのある柔和な笑みだ。幼い頃から彼を知るアーシアは安堵する。例え自分が獣となろうともあの人は変わらぬのだ、と。
されどヴァスコ・ストラーダは警戒する。獣狩り、古狩人たるあの男が悪魔にこうも柔和な笑みを向けるのか?と。
そしてそれは正解だった。
ハンスは懐よりとあるモノを取り出し見せた。それはつい先日彼ら悪魔が見たことがあるもの。
───貴公らこれを知っているかな?
「え」
「なんで……」
「王の駒……ですって?」
血のように赤く紅く緋く染まったチェスで使う王の駒と同じ形状のそれに悪魔はただ騒然とする。冥界を騒がせたそれがいったいどうして教会の古狩人の手の内にあるのか。偽物か?そう考えるが実物を見た彼らはそれが本物だと感じた。
───これはね、私がまだ教区を任される前に狩った獣が所持していたモノでね…………すこし弄ってある
ヴァスコ・ストラーダは駆け出した。その場にいたハンス以外の誰にも気づかれないほどの刹那の瞬間に足を踏み出していた。その丸太の如き剛腕に聖なる波動を纏わせハンスへと叩き込む。
しかしハンスはそんなヴァスコ・ストラーダをせせら笑い安楽椅子を犠牲にして祭壇側へ後退した。
その際に置き土産として振るわれたヴァスコ・ストラーダの左腕に抉り傷を残して。
───嗚呼、些か好戦的ではないか友よ
「何をしようとしている!」
せせら笑うハンスと咆哮するヴァスコ・ストラーダ。その時ようやく他の彼らは二人の行動に気がついた。
そして戦える者すぐさまに戦闘の構えをするが遅い。
───ここにあるコレは三分の一だ。わかるかね、三分の一だけなのだよ
「弄った、と言ったな…………ならばそういう風にしたのだな。三分の二だけ力を取り出し悪魔にならずに肉体の時間を止めたわけか」
───それは半分程正解だ
振るわれる剛腕。蹴り弾き古狩人は祭壇側の壁に着地する。
無邪気な子供のように嗤う古狩人に戦士は憤激し、その剛腕より聖なる波動を撃ち放つ。古狩人は纏っていたローブを脱ぎ払いその波動を打ち消してみせる。
如何に強き戦士であろうが全盛期でないのならば全盛期の肉体を保持したままの古狩人にとって対処することなど容易い。そして、そんな戦いには簡単に悪魔や他の者らは入ってこれない。邪魔になるだけ故に。
───友よ。残りの分を教えようか
「いらぬ!!」
床を踏み砕き跳び上がった戦士の剛腕は容赦なく古狩人に叩き込まれるが古狩人はそれを紙一重で避けていく。
ラッシュが終わり、古狩人は大気を蹴りつけ戦士の着地点へと先回りし虚空より古狩人の愛用たる狩り道具『ノコギリ鉈』を取り出し、すぐさまそれを変形させ降りてくる戦士へと躊躇なく振るう。
嘗て最上級悪魔すらも一撃で屠って見せた獣狩りの一撃をあろう事か戦士はその聖なる波動を纏った剛腕・聖拳を以て迎え撃ってみせ更には竜の鱗すら削いでみせるノコギリ鉈を破壊してみせた。流石のそれには古狩人も目を見開き大きな隙を戦士へと差し上げてしまった。
「オオォォォォォオオオオオオオオッッッ!!!!!」
ラッシュ。ラッシュ。ラッシュ。聖拳による連撃を武器が壊れ致命的な隙を晒した古狩人へと叩き込み続ける。
年齢など忘れさせるかのようなそのラッシュに誰しもが動けぬ中、そのラッシュを食らい続けている古狩人はその剛腕を膨大な熱量を孕んだ蹴りを以て弾き飛ばした。
「ヅゥッ……!!」
───……骨が何本か逝ったか
蹴り飛ばされた故に距離を取らざるを得なくなったヴァスコ・ストラーダは蹴りを受けた腕を見て激痛に声を漏らす。見れば蹴りを受けた部分に焼け焦げた跡がある。
いったいどれほどの熱量が込められていたのだろうか。
───仕方なし。残りの三分の一を使う
そう言って古狩人はその手に握られた王の駒を掲げてみせ、それを握り砕いた。
「は」「え?」
いったい古狩人は何度彼らを驚かせるのだろうか。握り砕いた王の駒に戦士以外は驚くが戦士は距離をとってしまったことを悔いる。
もはや勝ちの目を拾うのはかなり難しくなった、と。
そして古狩人は嗤う。
───我が身を以て獣狩りの終わりを告げ凱旋する事は出来ぬことが何より口惜しい。されどもそれは我が弟子ら新しき狩人が成しえてくれる……そしていつの日か
最初に起きたのは頭部だ。
側頭部より何かが突き破るように伸び始め、次に祭服を引き裂きながら毛が生え伸びる。
それは獣の生誕だ。
それは悍ましくも麗しき聖職者の変貌。
それは獣狩りの末に血に酔いしれた狩人の末路。
王の駒。それはもはや外見だけの話。その機能は古狩人の手により悪魔ならざる獣へと血に酔いしれた狩人を変生させる最後の鍵と化した。
王の駒とはもはや呼べぬそれは機能だけでなく構成物質すらも変えている。冥界のとある浮遊島より産出された特殊な鉱物ではなく、それは聖血により成されている。
嘗てハンスが狩り殺した天使サリエルの聖血により構成された血塊。
───我ら血によって人となり、人を超え
聖血を身に取り込んだ事でハンスは自身の信仰を確固たるものと出来た。
二度目に取り込んだ時にハンスは老いる肉体の時を止めることが出来た。
───また人を失う
三度目。こうして古狩人ハンスは獣として産声を上げるのだ。
───知らぬ者よ
───かねて血を恐れたまえ
ここに獣は顕現した。
家宅の二階分以上はあろうかという二足歩行の巨軀を持つ獣。
右腕に対して数倍もの大きさの右腕を引きずり、頭部には大型哺乳類のような枝分かれした生えている。
それだけでも恐ろしいというのにこの獣の身体からは熱が吹き出しており、火の粉が舞い散るだけでなく炎が立ち上っている所が多々見える。
これこそが 獣である。
比類なき獣。
ハンス・ローレンス・シャストルが変生した聖職者の獣。
古狩人ハンスではなくシャストル神父ではなくここにいる聖職者の獣に名をつけるならばそれはきっと、教区長ローレンスが何より似合うだろう。
『ィァァァアアアアアア!!!!』
君、教区長ローレンスを狩りたまえよ
オリジナル神器
『聖鐘』
……聖致命女アガフィヤの聖血を使って造られた鐘。本来ならば聖書の神への助力を乞う祈りの音であったが神が死んでいる事とハンスという所有者により能力が変貌し、知己を擬似的に召喚するものになった。ようは狩人呼びの鐘。
灰の聖女エミーリア
……ハンスの教区内にある教会もといハンスの教会にいた聖女の号を持つ女性。ハンスの事を父として兄として慕っており、本作においてゼノヴィアの母親。
ちなみに主人公であるハンス・L・シャストルの名前の由来ですが、ハンスは当初子安ボイスで考えていた為、アンデルセンからとりました。ローレンスは言わずもがな。シャストルはジェヴォーダンの獣に出てくる狩人からです。