「ええと、記憶を取り戻す手伝いをしてやるーーというのは?」
「そのままの意味だよ。私が、君の記憶復活の手伝いをしてやろうと言っているんだ。この場合、君は素直にその好意を受けるべきだと思うけどな」
そう言うと、彼女はリビングへ行き、卓上に存在していたカードを手に取った。そのカードはブスブスと音をたてて煙を放出している。どうやら、あの臭いの臭源はこれだったようだ。しかし、彼女は素手でそれを掴んでいる。熱くないのだろうか、という疑問が頭をよぎる。
「ーー俺の為にそんなことを? ーーどうして?」
唖然としていたため数拍間隔が空いてしまったが、それでも何とか受け答えをすることはできた。疑問を投げ掛けることはできた。
彼女は「魔法の森」とやらで見ず知らずの俺を拾い、介抱をしてくれたのだろう。それを実行するのには多大な勇気が必要だろうし、その勇気の対価として何も求めないのは親切を通り越して善人という形容が適当である。
しかし、彼女はそのうえに、記憶を失っている俺の協力をすると言ってきたのだ。これは何か裏があると考えるのが普通だろう。
相変わらず俺の表情、声には一抹の警戒心が乗っている。しかし、彼女はそのことを気にかける様子もなく、あっけらかんと答えた。
「興味があるからな。面白そうなことには首を突っ込む主義だ」
俺はその言葉に、しばし唖然としていた。
「あ、もしかして、記憶なんていらない、ってタチじゃないだろうな?」
「ま、まさか」
そう言いつつ、俺は腰に着けたベルトを外し、丁寧にスポルティングのバックに入れてから彼女に向き直った。
「まあ、宜しくお願いします。記憶を取り戻すより先に、ここがどこなのか知っておきたいですけど」
「ああ、そうか。記憶喪失なんだったな。ーーここは幻想郷。全てを受け入れる非常識な世界だ」
これが何か、タチの悪い悪戯だったら、わざわざこんな手の込んだ設定は作らない。真実だ。現実だ。夢なんかじゃないのだ、今見ているものは。
「で、ここは魔法の森。一般人にとっては何もないところだよ」
一般人にとっては、という言葉に、僅かな寂寥が滲むのを俺は聞き逃さなかった。
彼女は、恐らく、過去に何かがあったのだろう。気丈に振る舞っているが。
しかし追及はしなかった。それを聞くのはデリカシーがないと思ったからだ。
「いや、何もないわけはないけどね。危険な妖怪だって出るし、長くここに居ると、霧に体をやられちまう」
「霧...?」
霧とは、あの、地表辺りにできる雲のことだろうか。しかし、霧で体をやられる、というのは一体どういうことだろうか。
「そう。この森には、魔術的な霧が周期的に立ち込める厄介な性質があって、その時、この森は視界が利かなくなる上、妖怪や特殊な人間でなければ先ず脳をやられ、いずれは体も蝕まれてしまう」
そう言うと、彼女はポケットから一本のボトルを取り出した。
「これがその霧だ。何日か解析にかけてるけど、全然捗捗しい結果が出なくてーー。そもそもこの霧は元素のどれにも当てはまらないうえに魔術的な観点から洞察しようとしてもどこかで問題に行き当たる代物で、流石に独自装置での解析は難しいかなと考えてたり...」
妙に雄弁になって喋る彼女はそこで何かを悟ったらしい。ばつが悪そうに空咳をすると、「関和休題だ。本題に戻ろう」と落ち着き払ったような声色で言った。
「でも、実際、俺の記憶の手がかりって、このバックくらいーーですよね」
「別に丁寧語なんて使わなくていいよ。同い年くらいだろ?」
「そうで、ーーそうだね。それじゃ、そうさせてもらうとして...その、アテとかあるのかなー...って。いや、多分無いと思うんだけど」
その言葉に彼女はさらりと「あるぜ」と答えた。
「知り合いに、そういうーー記憶喪失とかに詳しい奴が居るんだ。だから、アテが全くないってわけじゃない」
魔理沙は口を動かしつつ、壁に立て掛けた箒を手に取った。魔法使い然とした格好の通りに、これで飛ぼうということか。
「さて、善は急げ、だ。そいつの所に行くぞ」
「あ、うん」
外に出ると、そこには密度の低い霧が漂っていた。これが彼女の言っていた、「人体を蝕む霧」か。
「霧が出てきたな。急ぐか。じゃ、飛ぶぞ、さあ、乗れーー」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。徐に言葉を切り、俺を突き飛ばすようにしてその場から離脱する。
「ど、どうしたのさ!?」
叫んだ直後、一拍とおかず、俺がさっきまで立っていた地点に黒い液体が叩き込まれた。彼女が庇ってくれなければ、今ごろあれを受けていただろう。そう思うとゾッとする。
俺はバランスを失い、地面に倒れ込んだ。受け身を取ったのでダメージはないが。
「妖怪の敵襲だ。何もこんな時を狙わなくたって...っ!」
言いつつ、彼女は帽子から高さのあまりない八角柱を取り出した。それを7メートルほど前方の梢と梢の間に向け、警戒心の介在する目でそこを見据える。
「そ、それは...?」
「八掛炉ってやつだ。マジックアイテムの。後で詳しく説明するーー」
彼女はその体勢のまま、何やら唱え始めた。それは不明瞭だが、良く聞けば日本語であることが分かる。所々に「光」や「熱」など、聞き覚えのある単語が混じっていた。
(俺も何かしないとーー)
そんな思考に苛まれ、俺は無意識の内に、バックからベルトを取り出していた。それを素早く腰に回す。
と、刹那。ベルトが腰に定着するよりも早く、魔理沙が構えている八卦炉から閃光が迸った。閃光は一条のレーザーとなり、真っ直ぐに7メートル前方を狙う。
そこで、俺は漸くその妖怪とやらの顔を拝むことができた。
それは「妖怪」という呼称が似合う化け物だった。容貌、半裸体のその全てが、見るものを吸い込むような深淵に彩られており、唯一それをこの世の存在たらしめているのは、その体を覆う灰色のローブと人型の造形のみ。
その「モノ」に、魔理沙の放ったレーザーは糸を引くように命中し、そして、そこで止まった。否、違う。吸収されているのだ。物を啜るような奇怪かつ不快感を煽動するような音とともに、レーザーは消滅していっているのだから。
「う、嘘だろッ!」
叫び、彼女はどこからともなく取り出したカードを中段に構えた。あれで何かをするつもりなのだろう。しかし、魔理沙が何かを仕掛けるよりも早く「妖怪」は攻撃を仕掛けてきた。
なんということか。皮肉なことに、さっき彼女が打ち込んだのと同じ造形、速度のレーザーがこちらへと打ち込まれたのだ。魔理沙はそれを回避しようとしたが、サイドステップの際、下半身の引き付けが甘かったようだ。左足を焦がれ、痛みに呻きつつ地面を這い回る。
「う...ぁぁぁ...」
呻き声は弱まってきている。それは、暗に彼女の命が消滅へと近付いていることを指しているらしかった。
俺がその光景を直視した瞬間、心の中に燃えるような感情が顕現された。これは怒りだ。或いは仁、或いは、義憤と呼ばれるような存在であるかもしれない。
半ば無意識のうちに腕が動き、腰にベルトを定着させる。『
このボトルとベルト。揃って入っていたということは、無関係ではないだろう。
恐らく、両方を同時利用することができる方法があるのだ。そしてそれは、きっとーー
「このソケットにあるーー」
言いつつ、俺はそのボトルをソケットに挿入した。赤と青のボトルが挿入される度に、ベルトは『
彼女は、自分が危険に巻き込まれると知っていながら俺を助けた。そんなことをする義理はないというのに。見ず知らずの相手のために。
『
ベルトが三度啼く。
「今度は俺の番だ。ーー借りを返す...!」
俺は燃えるように赤いハンドルに手をかけ、それを回した。
『
鋳型のフレームが前後にそれぞれ顕現される。このフレーム。ここまで来ればもう後戻りはできないーーそんな警告が込められている気がした。
次の瞬間、フレームがこちらを圧殺するかのごとき速度で閉じ、俺を包み込んだ。
『
そんな音声を聞きつつ、俺は「変身」を経験した。
自分の姿は見えない。どんな格好になっているのか俺には確認する方法はない。もしかしたら、今までの派手な演出は全部誇大が過ぎるもので、本当は貧相な肉体が欠片も変容していない惨めな姿が顕現されているのではないか。たった一瞬だけ、俺はそう思った。
しかし、体に沸き上がる力は、そのふざけた妄想を否定し続ける。この力は凄まじい。一歩とて歩いていないが、それだけは分かる。
とその刹那。俺は射出された奴の液体を、上体を捻ることで回避した。
以前の俺ならば、こんなことは絶対にできなかった筈だ。戦闘のセンスを与える。それがこのベルトとボトルの力なのだろうか。
そう言えば、さっきからやけに冷静だ。頭が覚めていくのが直に感じられる。
俺は左足で地面を蹴り、7メートル近くあった奴との間合いを一気に詰めてから、右脇腹とおぼしき位置に右足を叩き込んだ。音は出なかったが、それでも、手応えは十分にあった。
そこから、動きの止まった奴に向かい、左拳を叩き込む。
ーーと、次の瞬間。
一拍置いて、奴が30メートルは後方へと、森全体を揺るがすような衝撃とともに吹き飛ばされた。