暗い廊下には冷たい空気が満ちている。電力の節約のため、夜間は最低限の空調しか稼働していないのだ。
「さっっっぶ……」
こんな夜は熱いココアに限る。濃いめに作った幸せでマグカップを満たし、ついでにマシュマロを少々拝借して食堂を出た。
廊下に人影。柱に背中を預け、素足を投げ出す少女が見えた。
「なにしてんの茨木」
「マスターか……」
いつになくローテンション。
「なに、月をな、見ていたのだ」
茨木の目を追う。白い雪原と所々に見える黒い岩肌、それら全てを柔らかく照らす乳白色の満月。山奥のカルデアにしては珍しく吹雪が止み、夜空には砕けた硝子の星々が見えていた。
「大江の山で見上げた夜空とは違うが、これはこれで良いものよ」
隣に腰を下ろし、鬼と同じように夜空を見上げる。あれらのひとつひとつが生きて光を放っているというのだから驚きだ。もしかすると地球と同じように他の星にも神様がいて、あの光を送っているのかもしれない。
いつか見た紀元前三千年の星々。今なお彼方にあるそれらは、永久に変わらぬ輝きを湛えていた。
「なんだ、汝にしては気が利くではないか」
そんな茨木はというと、バリバリとマシュマロの袋を開き、三つ四つ口へと放り込んでいた。
「まかろんも美味いがこのましゅまろというやつも中々どうして……」
「ココアもあるぞ」
「にゃにぃ!?」
静かに、いつも通りに鬼と人の時間が流れる。
「……実に懐かしい。酒呑や配下の鬼たちと疲れ果てるまで都を荒らし回り、飲み食い騒ぎ! ふとした時に天を仰ぎ、目に入った月の美しさ! やはりあの時、あの瞬間は何物にも代え難いものよ」
最近、茨木は昔の話をしてくれるようになった。
酒呑と京を襲った時のこと、酒呑と夜毎語り合ったこと、酒呑と毎日宴を開き、面白おかしく生きていたこと。人間の自分からしてみれば羨ましいとは言えないが、それら全てが新鮮に聞こえ、何より楽しげに語る茨木の笑顔が好きだった。
「だからな、いつの日か、汝と酒呑と吾の3人で大江の山に暮らしたいのだ」
空のマグカップの縁を朱い指でなぞりながら静かに語る茨木。その横顔は少し寂しげに見えた。
「……色々片付いたらね。今はまだ、忙しい」
人理は修復されたとは言え、未だ人理は揺らいでいる。特異点もどきはこれからも増え続け、世界を脅かすだろう。
「まったく……汝はいつもそうだ。吾の誘いをのらりくらりと躱し続け、人理とやらに殉じようとする。少しは同胞の気持ちを汲んでみても良いのではないか?ん?」
真剣な表情。
「如何なる相手にも一歩も引かぬ汝の図太さが吾は好きだ。しかし、頑なすぎるのは良くないと思うぞ?」
「そんなに真面目だったらこんな時間に出歩いてないよ」
「大方、いくさの記録でも付けていたのだろう?」
「……そうだけどさ」
「ふん、汝のやりそうな事など御見通しよ。大江山の首魁を舐めるでない」
「茨木には敵わないなぁ」
「当たり前であろう、どれだけ長い付き合いだと思っている? 鼻垂れ小僧がよくぞここまで成長したものよ」
「恥ずかしいから思い出させないでくださいお願いします」
くっくっ、と笑いながら昔話を始めようとする茨木を慌てて押し留める。流石に冬木でのへっぴり腰は思い出したくない。
「思えば遠くまで来たものよ」
立ち上がった茨木が月を眺めながら述懐する。
「万が一、逃げ出したくなったら直ぐに言うがいい。吾と酒呑と汝で遠い時代の大江山へ籠ろうぞ。何時でも待っておる」
ただし、と彼女は付け加える。
「汝が戦い続ける限り……立ち上がる限り。吾は何処までも隣に在り続けよう。降りかかる火の粉を払い続けよう。吾が汝を、鬼が同胞を見限る事など断じて無い。それだけは覚えておくがいい」
半月の笑みを浮かべ、反転。金の髪を揺らし、小さな背中が遠ざかっていった。
「ありがとう、茨木」
そう零れた言葉は、届く前に夜闇へ溶けた。