───2017年12月25日深夜。その部屋は薄暗く、小さなスタンドライトだけが明かりを灯していた。橙色の暖かな光が、椅子に座る青年を淡く照らしている。
彼の手にはマグカップ。熱く黒い珈琲が、その水面を揺らしていた。
「ああそうだ、俺はカルデアを出て日本へ帰る。元々数合わせのために呼ばれたんだ、別に構やしないさ」
言葉を紡ぐ青年を、寝台に腰掛けた黄金の少女が見つめている。左手に盃。右腕に抱えた大きな瓢箪から透明な液体を注ぐ。
「もう世界は平和になった。俺がマスターを続ける理由も、カルデアに残る理由も無い」
平静を装ってはいるが、その声からは寂寥が滲む。理屈の上ではわかっていても今までの思い出があるが故に寂しく、辛いのだ。
彼はマグカップを傾け、迷いを共に飲み干すように嚥下した。金の鬼が呼応するように盃を傾けた。淡い酒の香りが漂う。
やがて、沈黙を断ち切るように少女が口を開く。
「立香よ、汝は本当に全てが片付いたと思っておるのか? 世界の脅威は去った? 吾には全く以ってそうは思えぬがなぁ」
空の盃を背後へ放り投げ、少女の唇が皮肉に歪む。瓢箪と盃が光の粒となり、消えた。
「……たとえそうだったとしても、世界に未だ人理を脅かす何かが潜んでいたとしても。それは俺じゃない誰かが立ち向かう話だよ。マスターとしての俺は明日で終わるんだ」
立香が吐き捨てる。声色は暗いままだった。
「吾にはわかる。汝は再び戦禍へと身を投ずることとなる」
「……根拠はあるのか」
「勘だ」
「勘って」
「同胞に迫る危機を察することもできずに鬼の首魁が務まるわけもなかろう」
「はぁ……」
だがしかし、黄金色の瞳に冗談の要素は微塵も含まれていない。
「汝は生きる為に抗い、生きる為に戦う人間だ。戦が始まったとして、汝がその生命尽きるまで足掻き続けるのは目に見えておる」
少しだけ翳った微笑みには彼の身を案ずるような成分が含まれていた。だが、それも直ぐに元の笑みへ溶けた。
「未来を勝ち取る、あるいは敗れ去り、死ぬまで。諦めない限りはいつまでも戦い続ける……鬼と友になろうとするような大馬鹿者にはふさわしい末路よな」
朱い指が癖のある黒髪を撫でる。慈しむように緩やかな軌跡を描き、そのまま下へ。温かな朱い手のひらが、僅かに紅を差した頬へ添えられる。
「人と、鬼。およそ共通項なぞ見つからぬ、相容れぬ。などと思っていたが」
少女の口許に微笑。悪鬼のそれではなく、同胞へ向ける優しさに満ちたものだった。
青年は彼女を見つめ返す。透徹した蒼は揺らがない。その瞳は静かに金の鬼を映していた。
「これまでの旅路で確信した。生き汚いのだ。吾も、汝も」
「……俺は茨木みたいに強いわけじゃない。マシュや茨木、周りのみんなに生かされてきただけだ」
「そうだな、確かに汝は弱い。これでもかと言うほど弱い。だが、それは肉体の話だ」
鬼の掌が首筋を撫で、さらに下へと向かう。やさしい熱が彼の胸へ、ゆっくりと染み込んで行く。脈打つ心臓が少しだけ足を早めた。
「だが。生きることを諦めなかったのは、どれだけ傷つこうとも進み続けると決めたのは汝自身だ。立香、それは汝も理解しておるであろう」
「───そう、かもしれない」
ようやく絞り出した声は微かに震えていた。
少女の両腕が慎重に、それでいて力強く青年を抱きしめる。礼装に埋もれた唇から胸腔へ微かな声が響く。
「その強さの起源は人一倍の生への執着か。あるいは今まで取り零した命に対する責任、あるいは呪いかもしれぬ」
茨木は想っている。大江の山で鬼を纏め上げる首魁として在ったことを。人との戦いに傷つき、倒れ、その生命を散らした無二の同胞のことを。
立香は想っている。人類史を巡る旅の途中、確かに勝ち取ったものと、手のひらから零れ落ちたものを。自分たちに未来を託して旅立った彼のことを。
たとえ人と鬼が相容れぬ存在だったとしても。大切な誰かに置いていかれた彼らは、ほんの少しだけ似ていた。
「俺は、さ」
強張る舌を必死に動かし、言葉を紡ぐ。同じように少女の背中へ腕を回す。矮躯が両の腕へすっぽりと収まり、互いの鼓動を感じる。
「茨木に出会えて、本当に良かったと思う。キミと友達になれたことを、俺は誇りに思う」
「……そうか」
右頰を雫が伝った。肩が微かに震え、左の頬にも涙の橋が架かる。無理に笑顔を作ろうとした少女の顔が悲痛に歪み、泣き笑いの表情となっていた。結局彼女は立香に顔を見せられず、背中に回した両腕へ力を込めるだけだった。
「それは……嬉しいな。ああ、本当に嬉しいぞ……」
青年の背中へ回された腕がより強く、宝物を抱え込むように締まり、青年もそれに応ずるように少女を抱き寄せた。
礼装の布地へ涙が吸い込まれて行く。立香は茨木の震える肩が落ち着くまで、優しく背中を撫でていた。
▽
「また、会えるかな」
「会えるとも。吾は何度でも汝の為に駆けつけよう」
泣き腫らした目。だがしかし、既に涙は拭われている。同胞の門出には悲しみに濡れた顔は必要無いのだろう。
彼女は生まれて初めての人間の友達へ、祝福するように笑顔を向けた。
「たとえこの想いが座に在る吾に刻まれぬとしても、『次』の吾が汝を知らぬとしても。同じように歩み寄れば同じように心を開くだろうよ」
少女は満足そうに笑う。自分の抱えた想いが虚空へ溶けると知りながら。それでも尚、次の自分が同じように愛しき同胞へ力を貸すよう願いながら。再会を祈りながら。
「頼むぞ、立香」
───2017年12月25日。それが、最後に見た鬼の笑顔だった。