遠い遠い、昔の日。俺が小学生低学年だった頃の話。
黄昏が空を覆うその下で、俺は泣いていた。胸を押さえ、苦しそうに。しかし同時に、嬉しそうに。
夕風に靡く金色の髪。そして汚れを一切知らないと感じさせる、曇りのない金の瞳。
泣きじゃくる俺とは対照的に、顔いっぱいに笑顔を浮かべたそいつは、とてもとても楽しそうに、嬉しそうに言ったんだ。
──あなた『空っぽ』なんかじゃないわ! だって心がなかったらそんなに涙なんて流れないもの。
何もないと言うボクを、正面から否定して
──辛いなら代わりに私が持ってあげるわ! だから軽くなるまで荷物を下ろしちゃいなさい! 大丈夫、私こう見えて力持ちなんだから!
冗談っぽく、しかし誰よりも真剣に
──あなたが笑顔じゃないと私も笑顔になれないじゃない! だって私とあなたは……
彼女の言葉に俺は救われた。劣等感に押しつぶされ、壊れかけていた心が軽くなった。
はっきりと覚えている。この時、この瞬間に、『ボク』は『俺』になったんだ。目標も何もなく、ただただ必死にレールの上を歩いているだけの自分から。心に譲れない大切なものを抱いた自分へ。
あいつはこの時のことを覚えているだろうか……。いや、忘れてくれているならそれでいい。こんな恥ずかしい自分を知っているのは、世界で唯一、俺だけでいい。
さて、ここらで自己紹介をしよう。俺の名前は弦巻カラダ。ちょっとした豪邸で執事をしているだけの、ごくごく普通の青年だ。
これはなんてことない日常譚。自由奔放の姉に振り回される弟の、味気など一切ない平凡な話。それでも見るっていうなら、まぁ、好きにすればいい。でも、決して面白いもんじゃないぞ?
それじゃあ始めよう。俺とあいつ、そしてその友人たちの物語を──。
⚫︎
先も言ったが俺、弦巻カラダは執事をしている。修行期間も含めなければ3年、含めると7年もの歳月をこの仕事に捧げてきた。いや、あいつに捧げてきたといた方がいいか。
俺の仕えるお嬢様は非常に自由奔放で好奇心旺盛、純真無垢と大変健やかなお方である。この間なんかはなんの前触れもなく『バンドをやりましょう!』なんて言って……。
知識も経験もなく、完全な見切り発車だったのだが。あのお嬢様、人の縁には大変恵まれており、あれよあれよという間にメンバーが集まった。本当に、奥沢様にはなんと謝罪をしたらいいやら……。
なんて直近のびっくりイベントを思い返しつつ、俺はある扉の前に立つ。ここは件のお嬢様が寝るお部屋だ。今頃は夢の中であれやこれやと楽しいことをしているのだろう。
ノックをするが当然返事はない。ドアノブに手を伸ばし、ガチャリ、という音とともに扉を開く。
「お嬢様、朝です。そろそろ起きてください」
「むにゃ……くじら……ほわほわ……」
キングサイズのベッドの中ですやすやと寝息を立てる金髪の少女。『くじら』が『ほわほわ』らしい夢を見る彼女は非常に幸せそうで、このまま起こしてしまうのが勿体ないくらいの笑顔を浮かべている。
だが俺は心を鬼にし、彼女を包む高級羽毛布団へ手を伸ばし
「起きてください!」
言葉とともに一気に引き剥がす。バサッ、と宙を舞う布団の下、可愛らしいピンクのパジャマが現れる。
「う〜ん……あ、カラダじゃない! おはよう!」
「おはようございます、お嬢様」
カッと目が開き、寝起き一発目とは思えないほど元気な声で挨拶する少女。金色の瞳が覗く目元が嬉しそうに弧を描く。
この少女の名前は弦巻こころ。苗字から察する通り、俺の姉である。
「朝食の用意は出来ております。学校の登校時間も迫ってますので、少しお急ぎを」
「それじゃあ朝食から食べましょう! カラダ、連れて行って♪」
言うや否や背後へと周り背に乗っかるこころ。ズンッ、と一人分の重さがのしかかるが、伊達に日頃から鍛えてはいない。女の子一人くらい楽に持ち上げるくらいの筋力はある。
「んふふ〜♪ やっぱりカラダの背中はおっきいわね!」
表情はわからないが声色から上機嫌だとわかる。そして背中に感じる頬ずりの感覚。
もはや慣れたことなので何も感じないが、どうかこういうことは家の中だけに止めて欲しい。まぁ言っても無駄なので心の内にしまっておくが。
「ねぇねぇカラダ!」
「はい、なんでしょう」
呼ばれ、背中へと視線を向ける。
「今日も楽しい1日になりそうね!」
ひまわりのような笑顔が咲く。そんなこころの笑顔につられてか、口元が緩む。
「はい、私もそう思います」
今日も1日、元気な姉の笑顔を守るために頑張るとしましょうか。
⚫︎
花咲川女子学園高等学校。ここが我が姉弦巻こころが通う学校だ。家が超お金持ちの彼女が通うにしては普通すぎる学校だが、まぁこっちの方がこころにとってはいいのかもしれない。
そして俺、弦巻カラダはというと……
「ねぇねぇカラダ! あそこの木、とっても登りやすそうと思わない!」
「お嬢様、さすがに登るのは危険です。というか遅刻してしまいます」
無論、こころの執事として側に仕えている。あーあー皆まで言うな。どうせ『男が女子校に入って大丈夫なのか』とか言いたいんだろ? そこらへんは弦巻家が裏から話をつけているからむ無問題。本当に、金持ちとは恐ろしいものだ。
何がいいのか、木へと向かって走りだそうとするこころを抑え、やや乱暴だが教室へと引っ張る。執事にも多少の強引さは必要なんです、そうなんです。
「みんな、おっはよー!」
「おはようございます」
こころは片手をピンと伸ばし元気に。対して俺は一礼し、静かに挨拶をして教室へ。こころの登場に一瞬クラスの時が止まるがもはや慣れたこと、各々返事を返すなり無視するなりして再開する。
そのまま教室の一番後ろにある自分の席へと移動。椅子に腰をかけると隣の席へ視線を向ける。
「おはよう美咲! 調子はどうかしら? 私は絶好調よ!」
話しかけるのは長髪の女生徒。名前は奥沢美咲といい、先に言ったこころのバンドのメンバーの一人である。
まぁ本人は非常に不本意での加入らしいが。
「朝から元気すぎ……まぁ、おはよ」
「奥沢様、おはようございます」
「あ、ああ……おはようございます」
非常に気まずそうに挨拶を返される。
「あの、やっぱりその様付けってやめてもらえませんか? 同い年だし、ちょっと……」
「申し訳ありません。しかし私は執事ですので」
ああ、そうですか──乾いた笑みを浮かべる奥沢さん。
いや本当に申し訳ない。でもさ、『執事たるもの常に一挙一動に気を配れ』っていうお師匠の言葉が体に叩きつけられてるんだよね。だからごめんなさい、無理です。
「ふぁああ〜」
珍しく大きなあくびをする奥沢さん。やった後に自分のしたことに気がついたらしく、頬を朱に染めて視線をそらす。非常に可愛らしい。
普段は人目を気にしているのにも関わらずのそれに、思わず言葉をかけてしまう。
「奥沢様、もしかして寝不足でしょうか?」
「あはは、妹への羊毛フェルトを作ってたら時間が過ぎてまして」
その言葉で妹のことをたいへん愛しているということがわかる。そんな妹思いの奥沢さんに、不肖弦巻カラダが疲労回復の一品をお裾分けさせていただこう。
「奥沢様、お疲れでしたらこれをどうぞ」
「え、と……これは?」
俺が取り出したのは、オレンジ色をした何かが入った小瓶。どこからともなく現れたそれへ、奥沢さんはいかにも警戒心を持った視線を向ける。
だが安心を、これはゲテモノなんかじゃありません。
「オレンジを使ったスムージーです。疲労回復にはビタミンが良いと聞くので、よろしかったらどうですか?」
詳しいことはよく知らないが、オレンジとかみかんには疲労回復の効果があるだとかなんとか。まぁ嘘だったとしても気が楽になってくれさえすればいい。
中身の正体を聞き、一応警戒心を解いてくれた奥沢さん。瓶を手に取り、渡したストローで中身を飲む。
「あ、美味しい……」
「お口にあってくれたようで何よりです。予備は幾つかありますので、全部飲んでいただいても構いませんよ?」
「あー……じゃあ、お言葉に甘えて」
少し申し訳なさそうにしつつ、奥沢さんは瓶の中身を飲み干す。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様です」
空になった瓶を預かりどこかへとしまう。でてきたときと同様、煙のように消えた瓶に表情を引きつらせる奥沢さん。これも執事のたしなみです。
「なんだか楽になった気がします」
「そう言っていただけて良かったです」
「ふふ〜ん、私のカラダは凄いでしょう!」
「なんであんたが得意気な顔してるの……。私はカラダさんに言ったんだから」
なぜか胸を張るこころに疲れた表情を浮かべる奥沢さん。どうやらオレンジの効果は負けてしまったようだ。
そんな奥沢さんに、こころは太陽にも負けない笑顔を浮かべ
「それはもちろん、カラダが私の弟だからよ! 弟が褒められて嬉しくない姉なんかいないわ!」
とても自慢気に、嬉しそうに言う。
そんなこころの発言に奥沢さんもお手上げ。妹がいる身としてどこか思うものがあったのだろう。小さくだが笑みを浮かべていた。
そして俺はというと、
──だって私とあなたは
あの日の言葉の続きを思い出していた。やはりどれだけ時が経ってもこころはこころのままだ。どこまでも真っ直ぐで、眩しくて、純粋で…………俺の自慢の姉だ。
心と体は一心同体。心を護るのが体の役目で、そして心が笑顔でいる限り、体は決して地を見ない。
これから先、俺はずっとこの姉に仕えるのだろう。それこそずっとずっと……