「ふんふん、ふふーん」
何処かで聞いたことのある邦楽のリズムを鼻歌で刻む女の子の声。
鼻歌の発生源は他所様の台所。
其処にはスタジアムジャンパーの上にエプロンを付けた女の子の後ろ姿が僕から見えた。
じゅうじゅう、とフライパンに熱せられたサラダ油が肉を焼く音色。
肉の全体に焼き色が付いたのが確認できると、女の子はそれをまな板へ移し、てきぱきとラップで肉を包んでいく。
その手際は実に鮮やかで女の子が日常的に料理をしていることが見受けられた。
僕は女の子──土岐綾乃が動くたびにふわふわ、と揺れるボブカットを、ソファーで寛ぎながら見ていた。
ダイニングのレースカーテンからは既に朱色の光が差し込み、時刻が夕暮れ時だという事を表している。
「にひひ、小太郎。もうちょっとまっててね、この綾乃ちゃんが絶品鹿料理を振る舞ってあげるから」
得意げに笑いながらも腕まくりをした細腕は淀み無く動く。
ラップに包んだ肉達をジップロックに包み、空気抜き。
そして、それを沸騰したお湯に菜箸で沈めて煮る。
一連の手順を見るに綾乃が作っている料理は鹿肉のローストだと当たりをつける。
普段からユニセックスなファッションをしている綾乃だが、手際良く料理をしている後ろ姿を見ると女の子なんだな、と改めて実感できた。
さて。
なぜ僕が今現在、土岐家にお邪魔しているのかと説明すると、理由は簡単である。
鹿肉のお裾分けだ。
なでしこと桜さんに鹿肉を渡した後、僕の頭にもう一人の幼馴染み殿の姿が思い浮かんだ。
そして、思い立ったが吉日。
山梨と静岡をテレポで移動した後、土岐家のチャイムを鳴らしたのであった。
ひょっこり、と玄関から顔を出したのは思い描いていた少女。
訪問の理由を話すと共に処理した鹿肉のブロックを渡すと、綾乃が折角だから家に上がっていけと鶴の一声を発した。
そしてあれよあれよという間に夕飯をご相伴に預かることになってしまっていた。
「こたろー、近頃どうなの。なでしこも同じ高校になったんでしょ?」
「んー、なでしこがキャンプに興味を持ったことは知ってる?」
「知ってるよー、最近よくラインでそれっぽい話題出してくるから」
綾乃は料理へ、僕はそんな綾乃の背中へ視線を向けての会話。
鹿肉を湯煎しながら、綾乃は手作りソースの製作へと手を動かす。
玉葱、にんにくをおろし金ですりおろし、ボウルへと投入。
そこへお酢、砂糖、醤油、酒、塩こしょう、レモン汁、そしてオリーブオイルを入れてスプーンで混ぜ合わせる。
「今日は富士山の麓キャンプ場に行ってるよ。なでしこのキャンプデビューの日なんだ。といってもテント泊じゃなくて桜さんの車での車中泊みたいだけど」
「早速行ってるんだ。本格的にやるつもりなのかな?」
「それはわからないけど、傍から見てても近年稀に見る熱の入れようだったよ」
「ふーん、冬にキャンプねぇ……」
なでしこの近況を話題にするも綾乃は冬キャンプには興味が無い模様。
背中越しに気のない反応が返ってくる。
「小太郎はどうなのさ」
「僕?」
「そ、小太郎はキャンプしようとは思わないの?」
「実はちょっと興味が出ているかも。ここに来る前に本屋でキャンプの雑誌を買ってきちゃったし」
僕は綾乃の質問に答えながら、買ってきたキャンプ雑誌『BIVOUAC』を紙袋から取り出し、ソファーで広げる。
すると目に飛び込んでくる見出しは『ブッシュクラフト』。
見慣れない単語だが、ページをよくよく見てみると必要最低限の道具で行うキャンプらしい。
玄人になってくると火起こしも原始的な手法を取るようになり、食糧も現地調達。
雑誌には落ちている木を使って簡易的なベッドを作っている写真が載せられていた。
はて、果たして僕がこの『ブッシュクラフト』を行った場合、道具は何が必要であろうか。
ナイフ。
気を刃状に形状変化させれば生半可な刃物より切れ味が良いので必要無し。
クッカー。
適当な岩を加工し、鍋等の作成が可能なため必要無し。
メタルマッチ。
メラ系統またはファイア系統の魔法で事足り過ぎるので必要無し。
考えれば考えるほどに魔法が便利すぎて裸一貫でブッシュクラフトを敢行しても大丈夫なような気がしてきた。
やってみようかな、と気持ちが傾きかけた時、雑誌のとある一文が目に飛び込んできた。
『不便を楽しもう』。
この一文に、僕はなるほど、と目から鱗が落ちるような気分になった。
便利の頂点がシティライフだとすれば、都会の喧騒から離れたキャンプは確かに不便だと言える。
しかし、不便だからこそ料理や寝床の設営などの目的が達成したときの感動も一入なのだろう。
貰った能力が便利すぎるというのも些か考え物なのかもしれない。
だが、能力をわざわざ縛るような行為も趣味ではない。
となると僕が不便だと思えるような環境下でキャンプを行えば、不便の中での楽しさを享受できるのだろう。
──北極とかはどうだろうか。
脳裏に浮かんだ選択肢に僕はよくよく考えて首を傾げる。
果たしてそこまで行き着いてしまうとキャンプではなく、それはサバイバルの域では無いだろうか。
キャンプとサバイバルの境界線が頭で入り混じり始めた瞬間、背中に軽い衝撃を受けた。
「はいどーんっ。その雑誌面白いの?」
女の子一人分の衝撃。
その下手人は料理をしていた筈の綾乃だった。
綾乃はソファーに座る僕の背後から首に手を回し、顔の横からひょっこり、とその花のかんばせを覗かせる。
「中々面白いよ。料理は見てなくていいの?」
「お肉の煮込みが終わるまで後10分くらい掛かるから大丈夫。ねぇ小太郎、このブッシュクラフトって何?」
「ここに書いてあるけど『必要最小限の道具のみで野山に分け入り、できるだけ現地にあるものだけを利用して、自然の中で過ごす野遊びの一種』、だって」
「キャンプのちょっと過酷なバージョン?」
「みたいだね」
「ふーん」
会話が途切れる。
しかし、嫌な沈黙ではない。
ダイニングでは、ぐつぐつ、と鹿肉料理の煮える音と、雑誌のページを捲る音のみが聞こえる。
互いに言葉を発しないまま、僕たちはキャンプ雑誌をなんとなしに眺めていた。
「……」
「……」
「ねえ……小太郎」
「ん?」
「その……ありがとね。こうして何回も訪ねてきてくれて」
後ろから抱擁されているため綾乃がどんな表情か窺うことはできない。
しかし。
きゅっ、と首に回された腕に力が入る。
身体の密着面積が大きくなることで綾乃の感謝の気持ちが伝わってきた。
「最初に小太郎。その次になでしこまで引越しちゃってさ……小さいときからずっと一緒だったのに私一人が取り残されたみたいで、
なんか胸がきゅっとなって苦しかったんだ」
幼馴染み二人との離別。
それは思春期の少女にとって衝撃となり世界観を揺るがしたのだろう。
波紋は大きな波となり、綾乃へと打ち寄せた。
綾乃の受けたショックは如何ばかりだったのか、僕には想像することしかできない。
「だからさ、小太郎が顔を見せに来てくれるとさ……やっぱり私たちの関係が切れてないんだって分かって安心する。ラインだけだとやっぱり少し寂しいし」
僕は雑誌から手を離し、ぽんぽん、と空いた手で綾乃の頭を撫でる。
綾乃はその手をくすぐったそうにしながらも逃れようとはしなかった。
「小太郎って不思議なことができるよね」
「……どうだろうね」
「マッサージだけで肌があり得ないくらい綺麗になるし、山梨から静岡までの距離をおかしなくらい短い時間で移動するし」
「記憶にございません」
心当たりがありすぎて有名政治家のような答え方になってしまう。
些か自重するべきであろうか。
「ちゃんと答えてくれなくていいよ。ただ、その不思議な力を使ってまで会いに来てくれてるのが、嬉しいんだ…………ほんと、ありがと」
言った内容が恥ずかしかったのか、綾乃は僕の肩口に顔を埋めて表情を隠してしまった。
そんな事をしなくても此方側からは顔が見えないのだというのに。
その仕草が微笑ましくなって、僕は綾乃のシャンプーの残り香薫る髪を手櫛で梳く。
穏やかな時間が土岐家を過ぎていく。
「……はいっ、サービスはおしまいっ! 残念、綾乃ちゃんとのハグは品切れですっ!」
唐突に告げられた早口気味の宣告と同時に傍にあった温もりが遠ざかる。
振り返ると、綾乃がパタパタ、とスリッパを鳴らしてキッチンへと戻る姿が見受けられた。
その耳たぶは恥ずかしさゆえか、茹でた蛸の如く鮮やかな朱色をしていた。
「何か手伝おうか?」
「いいから小太郎は座ってて! 包丁使ってるんだから間違ってもコッチに来ないでよね!」
そう言って綾乃は鹿肉の調理へと戻る。
鼻歌混じりに仕上がったローストを薄くスライス。
炊き立ての白米に千切ったキャベツを敷き詰め、その上からローストを綺麗に重ねていく。
鹿肉へ手作り甘辛ソースを絡め、刻みネギと刻みノリをトッピング。
最後に温泉たまごを乗せたら完成。
「小太郎、出来たよー」
そして。
この日に振る舞われた土岐綾乃特製『鹿肉のロースト丼』は大変美味だったと此処に記しておく────
ゆるキャン△
Fan fiction
チート転生者 in キャンプ物
時刻は少し巻き戻る。
富士山の麓キャンプ場へ到着したなでしこは、斉藤恵那の情報を頼りにソロキャンパー──志摩リンの姿を探していた。
途中、キャンプ場の入場料のことを失念していたなでしこであったが、姉におねだりをすることで事無きを得ていた。
バスケット籠を両手で抱え、ひょこひょこ、と歩く。
頭の天辺にポンポンの乗った耳当て付きのニット帽。
首元には薄緑色の暖かなマフラー。
赤と黒のチェックシャツの上から白のダウンベストを着込み、下はデニム生地のハーフパンツながらも厚手の黒ストッキングで多少の風も凌げる仕様である。
全体として、寒さ対策もしながらも女の子らしさの主張も忘れない可愛らしいファッション。
それが今日のなでしこのコーディネイトであった。
朱に染まる逆さ富士の池を歩き、野外自炊棟を見て周り、キャンプスペースへと辿り着く。
そして。
視界の遠方に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「リンちゃーん!」
なでしこの快活な声が原野に響く。
しかし、ローチェアに体重を預けているリンは気が付かない。
「リンちゃーん!」
籠を両手にとてとて、と駆け寄るなでしこの声は更に幾分か大きくなってリンへと届く。
もごもご、と口元を動かしているようだったが、近寄るなでしこに気が付いた様子は無い。
そして。
「やっぱりリンちゃんだっ」
「うおっ!?」
至近距離にて、漸く二人はお互いを正しく認識した。
直前までなでしこの事を考えていたリンは、急な現実のなでしこの登場に動揺を隠し切れない。
一方、なでしこは目的の人物に出会えた嬉しさでえへへ、と可愛らしくはにかむ。
「な、ななな、なんでこんなところに!?」
「斉藤さんが教えてくれたんだ」
「……また、あいつか」
前科一犯。
学校内でなでしこを引き合わせた人物の繰り返された犯行に、リンは少々の溜息を零す。
そんなリンに対し、なでしこはキャンプ場へ訪れた目的実行の為に質問を投げ掛ける。
「晩ごはん、もう食べちゃった?」
「あ、えっと……まだ、だけど」
「よかったー」
質問の答えになでしこは安堵の笑みを浮かべる。
持参したバスケット籠を地面へと下ろし、中の土鍋を取り出す。
それを強調するように胸の前に持ってきて、なでしこは提案した。
「リンちゃん、今からお鍋、やろうっ!」
◆
ぐつぐつ、とカセットコンロに乗せられ蒸気穴から沸騰を知らせる水蒸気を吐き出す土鍋。
夕暮れ刻は過ぎ行き、夜の帳が落ちた麓キャンプ場。
レジャーシートの上に腰を下ろしたなでしことリンの二人は、一緒に一つの鍋を囲んでいた。
囲む晩ごはんは、なでしこ特製のお鍋である。
「さてさて、そろそろいいかな」
二人仲良く鍋を覗き込み、ぱかり、と開けられる蓋。
瞬間。
ふわり、と大量の湯気が夜闇を漂い、次いで食欲をそそる香りが女の子二人の鼻腔を刺激する。
まず視界を染め上げるのは豆板醤の赤色。
そして、鍋の大部分を占拠する浜松餃子。
なでしこ特製『坦々餃子鍋』の完成である。
「あ……真っ赤だ」
「坦々餃子鍋! そんなに辛くないから心配しなくていいよ」
こと料理に関しては一家言を持っているなでしこ。
それもその筈、元々食べることが大好きな彼女は、その事が高じて料理も得意である。
更に昔から幼馴染みの小太郎の手によって持ち込まれる高級食材の数々。
その高級食材の味を引き出す為に、なでしこは粉骨砕身、一念発起。
己の料理の腕前を高め、レパートリーを増やすことに余念が無かった。
そんな彼女の作り出すお鍋が美味しくない筈が無いのである。
「辛そうで辛くない。少し辛いお鍋だよ奥さん、おいしいよー」
お椀とお玉をこつん、と突き合わせ、セールストークのようにおどけてみせるなでしこ。
必然、リンも内心でツッコミを入れる。
──スーパーの実演販売か。
お玉にたっぷりと具を掬い取り、お椀へとよそう。
目に鮮やかな坦々スープと共に、ぷりん、と皮をつやめかせる浜松餃子。
白菜、長ネギ、エリンギ、そして豆腐とお椀の中身が小さなお鍋となった。
「はいはい、たーんとおあがり」
──田舎のお婆ちゃんか。
リンとキャンプをしながらお鍋を囲うのがそんなに嬉しいのか、なでしこ節は絶好調である。
そして、比例してリンの心の突っ込みも鋭さ満点になっていた。
「それじゃあ、いただきまーすっ」
「……いただきます」
元気に溢れたいただきますと、控えめないただきます。
そのままなでしこは坦々餃子鍋を口にするかと思いきや、固唾を呑んでリンの最初の一口を見守る。
レンゲに坦々スープと餃子を一掬いして、ふーふー、と息でスープの熱を適温にするリン。
そして、小振りな唇でまずはスープを一口。
瞬間、口の中に広がるスープの旨みにハッ、とする。
次いで、リンは迷うことなくレンゲに乗った餃子をぱくり、と口へと運んだ。
「……美味い」
白い息と共に自然と漏れ出る一言。
それはリンが生きてきた中で上位に入るほどの美味しさを誇る味であった。
「よっしっ! どうじゃぁ、身体の芯から暖まるじゃろう?」
リンの反応をじっと見守っていたなでしこは喜色でガッツポーズ。
ほにゃり、と顔を緩ませて老人言葉を使う。
──田舎のお婆ちゃん、気に入ったのか?
当然、リンの心のツッコミが一閃見舞われるが、美味しいものに心奪われたリンの語調は柔らかい。
心望んだ反応に気を良くしたなでしこもレンゲで坦々餃子鍋を一口。
調理した通りの確りとした味付けが舌を満たし、うん、と満足げに頷いた。
じんわりと効いた唐辛子の辛さが二人の身体をぽかぽか、と暖める。
そして。
なでしことリン。
互いにタイプの違う美少女二人は、上着を脱いでしまうまでハフハフ、とお鍋を堪能した────
◆
50個入り浜松餃子の大半がなでしこの胃袋へと消えてしまった晩ごはんの中頃。
上着とニット帽とマフラーを脱いだ二人は、食の間奏へと入っていた。
そして。
タイミングを見計らっていた料理人は、更なる食材を鍋に追加せんと動きを見せる。
ごそごそ、とバスケット籠の底へと手を入れ、目的の物を探す。
そのタイミングでリンがなでしこへ少し言い淀んだように話しかけてきた。
「……あのさ、この間はごめん」
「この間? なんだっけ?」
「サークル誘ってくれたのになんていうか、すごい嫌そうな顔をしたから」
バスケット籠に手を入れ、固まっていたなでしこもリンの言葉に得心がいく。
確かに再会直後の勧誘時、リンは傍から見て分かるほどのしかめっ面であった。
その雑な対応がリンの心にしこりを残していた。
しかし、それはなでしこも心にしこりが残っていた事柄であった。
「あぁ、私もなんだかテンション上がっていて……無理に誘っちゃってごめんなさい」
「え?」
「あの後、あおいちゃんに言われたんだよ。リンちゃんはグループでわいわいキャンプするより、静かにキャンプするほうが好きなんじゃないかって」
「それはまあ……そうなんだけど」
自身の信条を言い当てられたリン。
ただ、それだけでこの純朴で人の良いなでしこの誘いを断ってしまった事に自分の中での折り合いが付いていなかった。
故に。
「じゃあ、またやろうよ。まったりお鍋キャンプ。そんで気が向いたら皆でキャンプしようよ」
ほにゃり、と柔らかく笑って提案するなでしこ。
その邪気の無さに、リンも思わず釣られて笑みを零す。
だからこそ。
「わかったよ」
そんな言葉が自然に口を突いて出てきた。
リンは自身でも驚くほどなでしこの提案を素直に受け入れることが出来た。
なでしこの人懐っこさと、リンのぶっきらぼうな優しさ。
その二つが水魚の交わりの如く合わさった結果であった。
「て言っても道具とかいっぱい揃えなきゃいけないんだけどね。あ、鍋の具が少なくなってきたからお色直ししよっか」
「え、いやでも」
「ふっふふー、取り出しますは今朝獲れたばかりの新鮮なこちらの鹿肉でございますっ!」
「し、鹿肉?」
お腹の満ち具合から追加の具材を辞退しようとしていたリンであったが、飛び出してきた食材に思わず聞き返してしまう。
なでしこが取り出したタッパの中にあったものは、牛でも豚でも鳥でも無く鹿肉。
なぜそのチョイスなのか。
リンの疑問はなでしこの次の一言で氷解した。
「そだよー、コタくんが今日キャンプ行くって言ったらコッチに来る途中で分けてくれたの」
──ああ、納得した。天狗の獲物か。
時間はベターな薬である。
比較的当初よりも心の耐性が付いたリンは、本人がこの場に居ないこともあって冷静なツッコミを入れることが出来た。
ふんふふーん、と鼻歌を交えながらなでしこは鍋に鹿肉を投入。
弱火にしていたカセットコンロのつまみを捻り、一気に強火へと火力を上げる。
坦々餃子鍋から坦々もみじ鍋へと早変わりである。
鹿肉へ火が通るまでの間、リンは常々疑問に思っていたことの解を得るためになでしこへ質問する。
「ねえ、田中ってどうやって鹿とか獲っているのか知ってる?」
「え? んーと私も詳しくは聞いたことが無いからよく分かっては無いんだけど、自由猟具? って言うのを使っているから免許は要らないってコタくんは言ってたよ」
「ふ、ふーん」
素手は自由猟具と言わないだろ。
思わず口から飛び出しそうになった言葉をリンは必死で繋ぎ止めた。
──いやそもそも、だ。一年前に助けてくれたのは本当に田中なんだろうか?
──でも、田中がコッチに来たのと時期は一致しているし、なにより田中みたいに天狗じみた人間が他にうじゃうじゃ居るとは考えづらいし。
自由猟具とは、法定猟具に当てはまらない石やナイフ、パチンコなどの猟具を指す言葉である。
逆に法定猟具とは、銃や網、罠といった使用して狩りを行うのに免許が必要な猟具のことだ。
しかし。
幾ら免許が必要の無い自由猟具とは言え、それで鹿やイノシシなどの野生動物を仕留めるのは至難である。
況してや、素手での狩りなど何処の野生児だとリンは思わざるを得ない。
「コタくんね、地元の方だと静岡の天狗小僧だって言われてて、猟友会の人たちと仲良かったんだよ」
──やっぱり天狗じゃねぇかっ!!
齎された新たな事実にリンは表情を崩さずに、心で盛大にツッコミを入れる。
今日の一日で一か月分のツッコミを消費したような気さえする。
なでしこに小太郎。
静岡が地元のペア恐るべしである。
ピロリン。
唐突になでしこが脱いだダウンベストから電子音が響いてきた。
ゴソゴソ、とベストを弄り、取り出しますは薄黄色カバーの携帯電話。
噂をすれば影。
画面を見やると其処に『コタくん』からのメッセージが届いていた。
「コタくんからだー」
「マジか」
送られてきた画像は2枚。
『綾乃特製鹿肉ロースト丼』の写真と、それを囲む小太郎と綾乃のツーショット写真だった。
そしてメッセージには『小太郎と晩ごはんなう』と書かれていた。
その文面でなでしこは送り主は小太郎ではなくもう一人の幼馴染みである綾乃からのものであると察した。
「ふわぁ、リンちゃん見て見て、こっちのお肉料理も美味しそうだよ」
「確かに。こっちの女の子は知り合いなの?」
「うん、土岐綾乃ちゃん。静岡に居る私のもう一人の幼馴染み」
「ふーん……ん? という事は山梨に遊びに来ているの?」
「え? んーん、そんな話は聞いてないから静岡に居る筈だよ。写真のテーブルとかも綾乃ちゃんの家で見たことあるのだし」
ちょっと待て。
リンは状況を把握すると同時におかしな点に気が付いた。
なでしこは麓キャンプ場に来る途中で小太郎から鹿肉を受け取ったと供述した。
しかし、なでしこの言が正しければ小太郎の現在地は、静岡に住んでいる土岐宅だということになる。
「ねえ、田中の家に行ってから私の所に来るまで何分くらいかかった?」
「んーと30分くらいかな」
「田中が静岡で住んでた所ってどこら辺?」
「浜松の西側だよ」
リンとなでしこが邂逅してから現在までが約30分。
つまり合計約一時間で小太郎は山梨から静岡まで移動し、更に鹿肉を調理し食べていることとなる。
そして。
南部町から浜松の西側までは高速道路を使っても二時間は掛かる距離である。
つまり。
──物理的にも時間的にもその距離を移動するのは不可能だろ。
──田中はどうやってその距離を移動したんだ!? 瞬間移動なのか!? 天狗は瞬間移動が使えるのか!?
思考の坩堝に嵌まりかけているリン。
そんな彼女の前に、ふわり、と湯気が舞う。
現実世界へ戻ると其処には、お椀に鹿肉をよそったなでしこの姿があった。
「はい、リンちゃんお肉煮えたよ」
「あ、うん。ありがと」
「後ね、リンちゃん」
「うん?」
「大丈夫だよ」
「え?」
「コタくんはいっぱい不思議なところがあるけどすっごく優しいの。
昔から私が困ってるといつも助けてくれて、美味しい物をくれて、一歩引いて危なくないか見ててくれるの」
だから──不思議だけど怖い人じゃないよ。
すとん、とその言葉がリンの腑に落ちた。
それが飾り気の無い素直さを体現するなでしこの言葉だったから、そのなでしこを見守る小太郎の横顔を思い出したから。
視界の霧が晴れ、初めて田中小太郎の人間性を垣間見た気がした。
故に。
「……そうかもね──ん、うまい」
忌憚無く同意の言葉を綴った。
そして、お椀によそった坦々もみじ鍋を一口。
じゅわ、と口の中で肉の旨みが広がる。
牛や豚肉とは明らかに違う味、しかし違和感の無いとても美味しい味が味蕾を包み込む。
アレだけあった土鍋の中身はすっかりと空になっていた。
鍋の大半はなでしこの胃袋に消え、リンは食べ過ぎたと少し苦しげ。
なでしこは静岡時代の小太郎のエピソードを、そしてリンは高校に上がってからの小太郎のエピソードを。
共通の知り合いである小太郎の互いに知らない摩訶不思議な点で盛り上がった。
リンが驚き、なでしこが笑う。
二人の夜は緩やかに、穏やかに更けていく────
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あとがき
綾乃ちゃん、原作ではちょい役立ったけど、正直サバサバ系の幼馴染みで好きです。
スクーターも乗りこなしててクール。
次は野クル冬キャン準備と初キャンプ編です。
つまり温泉回、なでしこのお湯をガラスコーティングの如く弾く赤ちゃん肌がベールを脱ぐことに。