志摩リンは天狗に出会ったことがある。
こう言うと大抵の人間は何を馬鹿なと一笑に付すだろう。
だからその体験を祖父以外に話したことは無い。
しかし。
志摩リンは確かに天狗に出会ったことがあるのだ。
少なくともリン自身にとってはそれが事実だ。
落葉の季節になり始めた頃。
木々が紅葉をその身から切り離し、冬支度をする山道。
リンは祖父から譲り受けたキャンプ道具一式を自転車に積み込み、その山道を登っていた。
義務教育を受けているであろう年齢の少女が一人、山道をキャンプ道具と共に登る。
傍から見れば中々珍しいと思える光景であった。
はふ、とマフラーからはみ出た口で大きく息を吐き出せば、ほのかに白く霞む。
ペダルを漕ぐたびに、頭の上で結われた大きなシニヨンが揺れる。
この目的地までの骨の折れる道程も、キャンプを楽しむスパイスの一つであるとリンは考える。
しかし。
──とはいえ、やっぱりしんどい。免許取れるようになったらバイトしてスクーター買おうかな。
楽が出来るのであれば楽をするべきだともリンは考える。
そんな事をつらつらと考えつつも、リンはキコキコとチェーンの回転音を奏でる。
──ん?
ふと、前を見れば道の端に黄色い標識を発見した。
デフォルメされた横向きのサルが描かれたそれは動物注意標識。
山梨県には素晴らしいキャンプ地が多いが、野生動物もまた多い。
鹿、猪、猿、たまに熊などの目撃情報がテレビやネットで流れている。
一人キャンプを是とするリンにとって野生動物の情報は死活問題だ。
だからこそ、目撃情報にはアンテナを張り、目撃された場所へのキャンプは自制していた。
──確か、今からいくキャンプ場に出没情報は出てなかった筈だから、大丈夫だよね。
頭の中の情報を参照していると、道の横に広がる雑木林がガサリ、と揺れた。
ビクリ、とリンの小さな肩が跳ねる。
野生動物を考えていた直後の出来事に対して、思わず背筋に冷たい汗が流れる。
ガサリガサリ、と雑木林の奥の枯葉が『何か』に踏まれている音。
木々によって薄暗くなっている奥の林。
リンは怯えを含みながらも目を凝らす。
居た。
足音の主と目が合った。
短い足と寸胴な体躯。
黒に近い茶褐色の体毛の合間から覗く無機質な目。
それは──イノシシだった。
サッ、と顔から血の気が引いていくのをリンは自覚した。
──ヤバイ、この状況は非常にまずい。落ち着けっ、パニックになったら駄目だ。
──イノシシは臆病な性格だから、刺激せずにゆっくり距離を取ったら大丈夫、きっと。
祖父から教え込まれた知識を脳裏に思い出し、リンはゆっくりと後ずさる。
しかし。
カチカチ、と硬い物を打ち付ける音が雑木林に響く。
響いた音の発生源。
それはイノシシが牙を打ち合わせている音であった。
そして、その行動が指し示している事柄は、イノシシの威嚇行動である。
ガリガリ、と前足で地面を削り、リンをその目で確かに見据えていた。
──なんでっ!
この時点でリンは半ばパニック状態になりかけていた。
冬が近づき繁殖期故に興奮状態であったイノシシの威嚇行動は、それだけで少女の冷静さを奪うだけの威圧感があった。
──逃げなきゃ、自転車で坂を駆け下りれば追いつかれないはずっ!
咄嗟の行動であった。
踵を返し、来た道に反転する動作。
それが、イノシシの引き金を引いた。
猪突猛進。
猛然と突進してくるイノシシの速度は、リンが自転車で逃げるものより遥かに速い。
背後に迫り来るイノシシの脅威。
イノシシの牙で太股の大動脈が破かれ、失血死した男性のニュースが走馬灯のように過ぎる。
数瞬先の未来にリンは身を硬くして身構える。
しかし。
覚悟していた衝撃は、横合いからの闖入者によって回避された。
イノシシが居た雑木林から道を挟んで反対側の林。
其処から影が飛び出してきたのをリンは確かに見た。
瞬間。
イノシシの断末魔が寒空に響き渡った。
恐る恐るイノシシの様子を窺えば、其処には人影とイノシシが重なり合っていた。
それは異様な光景であった。
体勢を低くした人影の伸ばした手がイノシシの耳の後ろへと深々と刺さり貫いている。
驚くことに人影の手には何も持っていない。
否、素手が手首までイノシシにめり込んでいるため確認できないのだ。
ずるり、と引き抜かれる人影の手。
それと同時にイノシシは糸が切れた人形のように枯葉のベッドへ倒れ伏した。
リンはイノシシを絶命させた人影を呆然と観察する。
中肉中背のこれといって特徴の無い体型。
身体のシルエットからおそらく男であると予想するが、後ろ姿と目深に被られた帽子によって確認は出来ない。
リンがなんと声を掛けようかと躊躇していると人影は、仕留めたイノシシをひょいっ、と片腕で担ぎ上げた。
成人男性以上の重さはあるであろうイノシシを軽々と持ち上げる人影の膂力に軽くない衝撃を受ける。
しかし。
次の瞬間、リンは今度こそ言葉を失った。
人影が跳んだのである。
イノシシを担ぎ上げたまま、近くの木の太枝に助走もつけずに飛び乗ったのだ。
そして。
人影は猿のように木と木の枝を飛び移っていき、山へと消えていった。
「……」
数十秒前までの恐怖も忘れ、リンはその現実離れした光景にぽかん、と呆けてしまう。
リンの常識と先ほどの現実が上手く摺り合わせられない。
故に。
リンは説明の付かない現実に理由をつけた。
「……天狗だ、天狗の仕業だ」
志摩リンが高校に上がる前の出来事であった────
ゆるキャン△
Fan fiction
チート転生者 in キャンプ物
──焦った。とても焦った。
11月を迎え、狩猟解禁がなされた山梨の山を僕は忍者の如く駆け回っていた。
目的は静岡に居た頃、なでしこと綾乃に好評だった鹿肉を獲るためである。
日本では野生動物を狩猟するために狩猟許可が必要だ。
正規の狩猟免許を持たずに狩りを行うことは密猟であるため、それも当然だと思う。
しかし。
この決まりには抜け道が存在する。
狩猟免許とは『法定猟具を使用して狩猟をするため』の免許であり、法定猟具とは主に銃、網、わなのことである。
つまり、それらの法定猟具を無免許で使用して狩猟を行うことは違法であるが、素手や石・パチンコなどの自由猟具を用いての狩猟は問題無いらしいのだ。
ここで『らしい』と言ったのは、詳しい法律については調べてなく、経験則からの物言いであるからだ。
実際、静岡に居る時に鹿を仕留めた際には必ず猟友会に一報を入れるようにしていた。
その時に猟友会の人と行政関係者から何かしらの罰則を受けたことは無い。
無いのだが、当然の如く大人には大目玉を食らってしまった。
しかし、何度か同じことを繰り返していると、やがて異様なものを見る目に変わり、最終的には僕はそういうナマモノなのだから仕方ないという認識に収まった。
加えて獲った獲物を毎回猟友会の皆さんにお裾分けしていたことも大きいのだろう。
そんな事を繰り返しているうちに野生動物の処理の仕方の造詣も深まっていった。
閑話休題。
そんな経緯故に、山梨でも狩猟解禁を機に山へと繰り出していた。
しかし、まさか山の中で小学生くらいの女の子がイノシシに襲われている場面に出くわそうとは夢にも思わなんだ。
横目の視界に納めたキャンプ道具を見るに、此処のキャンプ場へ一人で来たのだろう。
イノシシの突進が少女の身体を突き飛ばす未来を回避すべく、急所に貫き手を差し込み、内部からサンダーで絶命させてしまった。
さてこの後はどうしよう。
緊急事態への焦りは既に冷えた。
暫し、迷った末に僕はその場から逃亡を選んだ。
幸いなことに少女の周囲にはもう危険な野生生物の存在は無い。
明らかに不審人物というか、イノシシを素手で殺害するような変人が血塗れの手をそのままに声を掛けてくるというのは恐怖だろう。
夢か幻と考えてくれるよう祈りながらイノシシを担いで木々の間を飛び移っていき、少女の視界から姿を消した。
山の麓まで下山した僕は、早速山梨の猟友会へ連絡を入れつつ、イノシシの解体作業へと取り掛かった。
先ずは近くの小川の水流を利用して、血抜きである。
鹿の解体の応用で捌くことは出来るだろうが、やはりイノシシ特有の分厚い皮下脂肪が厄介である。
四苦八苦していると、オレンジ色のベストを羽織った二人組みが軽トラに乗ってやってきた。
「おーい、お前さんがイノシシの連絡入れてきた人かーい!」
「はいっ、そうです」
軽トラの窓越しの大声に、此方も声を張り上げて答える。
降車した二人組みのおじさんに多少の脚色を織り交ぜて事情を説明する。
イノシシを仕留めた際に使用したものは、転がっていた太い木の棒を使用したなどそういった脚色である。
その道のプロであるおじさん二人組みは僕の話に半信半疑であった。
しかし、僕が名乗ると驚いた様子を見せた。
「おめぇさん、ひょっとして静岡の天狗小僧けっ!?」
「そう呼ばれたことは何度か」
「おお!」
「竹さん、それは何のことだ?」
「おお、重さんは聞いたことが無かったか。静岡には自由猟具だけで鹿狩りする中学生が居るって噂を。
アッチの猟友会の連中と飲む機会があったからそれとなく聞いたんだが、どうにもその話は本当らしくて、んで当の本人がこの子なんだよ」
久しぶりに聞いた渾名に目が瞬く。
それは、静岡の猟友会の皆さんか冗談交じりに付けた僕の呼び名であった。
まさか県を跨いで効力のある知名度とは、猟友会ネットワーク恐るべしである。
「しっかし噂の天狗小僧がなんでまた山梨に?」
「えっと、親の都合で最近此方に越してきたので」
「本当か! だったらおめぇさん、ウチの猟友会に入らないか? 有望な若手は大歓迎だ」
「あはは、狩猟免許を取れる年になったら考えます」
所在地が山梨になったことを知ると、重さんと呼ばれたおじさんから熱烈なオファーが舞い込んできた。
静岡に居た頃にも似たようなやり取りがあった。
やはり何処の地域でも猟友会の若手不足は深刻らしい。
「あ、そうだ。よろしければイノシシの解体の仕方を教えてくれませんか。鹿なら解体したことはあるのですが、イノシシは中々勝手が分からないので」
「おお、ええぞ! 教えたる教えたる! ただ、手伝った分の取り分はきっちり貰うで」
「それは勿論。どの道、僕の家族だけでは消費しきれないので渡りに船です」
「ははーん、さてはおめぇさん、そのことを勘定に入れてワシらを呼んだな?」
「少しだけ」
「ぬはは! 天狗小僧は中々したたかな奴だ!」
重さんは上機嫌にイノシシの解体について教えてくれ始めた。
まず、使用する器具が違っていた。
ナイフだけで三本、毛落とし用、内蔵用、部位解体用。
そして骨はずしに、吊り下げ用のS字フック。
更には、その場での作業がしやすいように長い足場の脚立台形をてきぱきと取り出し始めた。
流石にナイフ一本での解体は骨が折れる作業だと実感していた僕は、次々と用意される器具をしげしげと観察する。
眺めていると重さんが懇切丁寧に一つ一つの器具の用途を、実技を交えて伝授してくれた。
僕、重さん、竹さんの男三人での解体作業。
それは夕刻までにはある程度の区切りを終え、イノシシは完全に皮と骨と内臓、そして肉へと仕分けることが出来た。
僕は家族で食べる分と、各務原家、土岐家の分の肉を頂いて、残りの肉は猟友会の皆さんの物となった。
多少のハプニングはあったものの。
結果を見れば、猪の解体技術を学び、猟友会への伝手も結ばれた非常に有意義な一日となった。
新天地での幸先の良い滑り出しに、僕は意気揚々と帰路へと就くのであった────
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あとがき
天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!
作者が狩猟免許のことを調べた限りでは、自由猟具で個人が狩猟する分にはOKらしいです。
まぁ、普通はナイフ一本や徒手で猪なんぞは獲れないよね、てことなのでしょうが。
ただし、裏づけはとれてませんので、あくまで作中では大丈夫な世界観だよ、という認識でいてくだされば幸いです。