真・恋姫†無双~程遠志伝~   作:はちない
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息抜き編
荀彧の奔走


 

 

 

「こ―――これは、どうすれば」

 

 荀彧は、壁に隠れながら身体を震わせていた。これまでにない危機が迫ってきている。

 彼女は曹操軍を支える筆頭軍師である。これまでにも多くの迫りくる危機を解決し、主に対する危険を排除してきた。その数ならば誰にも負けていない自信がある。その自信は圧倒的な実力からもたらされるものであり、決して過信などではない。

 そんな彼女が混乱していた。絶望と言い換えてもいい。どうしようか、どうすればいいのか、と考えるも、答えが頭の中に浮かんでこない。

 再び、荀彧は前方を見つめた。

 

「ねえ鄧茂」そこでは、曹操が微笑を浮かべている。「今夜、私と閨で少しお話しない?」

「い、いや、そのぉ……」

 

 

 ―――鄧茂が、曹操に口説かれていた。

 

 閨でのお話がお話で終わるはずがない!

 いよいよ恐れていたことが起きてしまった、と荀彧は頭を抱えた。曹操の近くに侍っている夏侯惇と夏侯淵は困った顔をしながらも、主である曹操のことを想ってか強く止めようとはしていない。

 張邈が何者かに殺された、と一報が入ったのが昨日のことである。それに対して曹操は顔色一つ変えず「そう」と漏らしただけだったが、その心中がどう荒れ狂っているのかは誰にもわからない。その整理がつくまで、主の機嫌を損ねないようにすべきだ、というのが夏侯姉妹の考えなのだろう。

 気持ちはわかるけど! 私も同じ立場ならそうするけど! 荀彧は歯噛みしながら地団駄を踏んだ。鄧茂が男だと理解できているのはこの場で荀彧だけなのである。余計なことを教えられた、と程遠志に対する彼女の苛立ちは一瞬高まり、すぐに鎮まった。それは違う、と思い直したのである。

 

 ―――私が知らなければ、この状況を止めることができなかったのだ。

 

 荀彧は寧ろ胸を撫で下ろしたくなる心境になった。曹操と男が同衾するなんて、もってのほかである。いくら顔が女にしか見えない鄧茂であっても、駄目なことは駄目なのだ。程遠志に教えられていなかったら、これを防ぐことなどできず、あの馬鹿姉妹と一緒に不干渉を貫いていたかもしれない。危なかった、と荀彧は思う。

 そうこうしている間に、曹操は夏侯姉妹を連れ従って歩き去ってしまった。「待っているわよ」「秋蘭、閨の護衛は任せたわ」という曹操の言葉が荀彧の耳にも届き、絶望しそうになった。

 すぐに荀彧は気を取り直す。鄧茂を呼び止めて、絶対行くんじゃない、と止めなければならない。

 しかし、鄧茂は顔色を青くして彼方に走り去っていった。「ちょ、ちょっと、鄧茂―――!」と荀彧が叫んでも、聞く耳持たずそのまま走り抜けていく。追いかけようとしたが、荀彧の足が一端の武官である鄧茂に敵うはずもない。

 場には曹操も夏侯惇も夏侯淵も鄧茂もいなくなり、荀彧だけになった。

 

「どうすればいいの……?」

 

 辺りに荀彧の掠れた声が響き渡った。

 

 

 

 

「それで、俺のところにきたのか」

 

 荀彧が訪れたのは程遠志―――ではなく、張曼成だった。

 

「鄧茂の居場所が知りたいの。あんたは仲がいいんでしょ」

「まあそりゃ、仲はいいが。俺のところには来ていない。……というか、一番仲がいいのは程遠志なんだから、先にそちらへ行くべきだろう」

「……顔を合わせづらいのよ」荀彧は唇を歪める。

「あいつはもう気にしていないと思うけどな」

 

 張曼成は苦笑を浮かべながらそう言った。

 荀彧は珍しくも、男と話しているというのに嫌悪感を顔に浮かべていなかった。それだけ現状に困惑してしまっていた。今度、この珍しい姿を酒の肴として程遠志に話してやろう、と密かに張曼成は胸の中で決める。

 荀彧は彼のそんな心中など考える余裕もなく、苛立たしげに地面を蹴っていた。

 

「曹操様に言わないのか? 鄧茂は女じゃありません、って」

「言えるわけないでしょ。言ったらとんでもないことになる」

「そりゃそうだ」

「それに、張邈のことがあったのだから、今曹操さまに大きな衝撃を与えたくはないわ」

「でもな」張曼成はまた、苦笑を漏らす。「言わずに止める、って結構難しくないか?」

「だから鄧茂を探しているのよ。血迷って本当に閨に行ったらもっと大変なことになる」

 

 荀彧はそう言い、「鄧茂を見つけたら私に連絡頂戴」と言い残して駆けて行こうとする。

 その背中に、張曼成は言葉を投げかけた。「いい言葉を教える」

 

「はあ?」荀彧は振り向くこともなく、聞き返す。「何よ、急に」

『起こるかもしれないことを恐れ、何もしないなら、たとえ良くない結果に終わったとしても、大胆になって危険を冒す方がいい』張曼成は歌を歌うように言葉を続ける。「希臘のヘロドトスの、言葉だ」

「藪から棒に何を言い出すのよ」

「世の中は面倒くさいことと面倒くさくないことで溢れているのだから、何も考えずに進んだ方がいい。程遠志に会いたくないだとか、そういう感情を捨てて、他人のことを考えず自分の思った通りに突き進んだ方が成功する。俺の経験則だ」

「……珍しく、長々と語るじゃない」

「そういう気分だったんだよ」

「まあ―――わかったわ、とりあえず前に進んでみる」

「おう」

「で、あんたの言うように、あんたのことなんて何も考えずに突き進むわ」

 

 え、と真顔になる張曼成を尻目に、荀彧は駆けだしていった。次に会うべき人間は決まっている。

 程遠志以外で、鄧茂と仲のいい人間は、もう一人しかいない。

 

 

 

 

「それで、ぼくのとこに来たんですか……」

「ちぃたちの歌練習の邪魔をしないでほしいんだけど」

 

 汗をかく厳政と、半目になる張宝が荀彧を迎え入れた。

 

「それで、鄧茂は来なかったかしら?」

「鄧茂さんは来ませんでしたよ。ぼくらはここでずっと休憩してました。今日の夜、ぼくは急遽、城の警護任務を任されたので、それまでゆっくりしてるんです」

「……歌の練習をしてたんじゃないの?」

「こ、言葉の綾よ。とにかく、用は済んだでしょ!」

 

 やけに慌てる張宝を見て、荀彧は肩をすくめた。ひょっとしたら自分は彼らの邪魔をしたかもしれない。

 このまま邪魔をするのも悪いな、と荀彧は珍しく殊勝な気持ちになった。そもそも鄧茂を探すのだから、ここに長居するわけにもいかない。「それじゃ、鄧茂を見つけたら声をかけて頂戴」と言い残し、急いで走り出そうとする。

 その背中に声がかけられた。「荀彧さん!」言うまでもなく、声の主は厳政である。またか、と少しうんざりしながらも足を止めて、振り向くことなく荀彧は言葉を返した。「何よ」

 

「言い忘れてました、鄧茂さんはこっちにきてないですけど、姿なら見ましたよ」

「本当!?」荀彧は慌てて振り向く。「どこで!」

「ええと」厳政は頭に手を当てた。「確か、向こうの方の家に入っていきました」

「向こうって、どこよ」

 

 思わぬ形で長居することになりそうだ。張宝がむ、と少し頬を膨らませているが、荀彧はもうそのことなど考えていない。すべてにおいて曹操を優先するのが彼女である。そして、厳政もまた張宝の機嫌が悪くなっていることにも気づかず、「ええと」と言葉を漏らしながら首を何度も捻っていた。「確か、あそこだったか、その隣だったか」

 荀彧は焦れながら「どっちよ」と尋ねると、「多分右です」と厳政は自信なさげに答えた。まあどっちも見ればいいかと荀彧は思い直し、走り出そうとして、足を止めた。

 

「色々助かったわね。それと、邪魔して悪かったわ」

「い―――いえ!」厳政は恥ずかしそうに頭を掻く。「どうせ、別に大したことをしていませんでしたので、全然迷惑じゃないし、邪魔じゃなかったですよ。寧ろ歓迎です」

「え」荀彧は厳政の隣を見る。張宝が目を鋭くしていた「ま、まあ。それならいいわ」

 

 厳政は女心というのがわかっていないらしい。この後で厳政が張宝に怒られる姿が容易に想像できたが、荀彧はすぐに考えるのを止めた。そこまで自分が関与する必要なんてないだろう、なんて思い直し、すぐに駆けだす。

 背中から「何度も―――何度も!」と張宝の怒声が聞こえたが、荀彧は足を止めることなく走り続けた。

 

 

 

 

 右の家に行くと、完全に空き家だった。厳政の言葉は間違っていて、どうやら左の家が正しかったらしい。程遠志たちが彼のことを不幸だ不幸だ言う理由が荀彧にも僅かに理解できた。不幸は人に移るのだろうか、と馬鹿馬鹿しいことを少しだけ考えてしまう。

 左の家に入ると、そこは道具屋だった。何でも屋、というべきだろうか。様々な珍品が置いてある、と噂されている店である。荀彧も人伝いで町外れにそのような店があると聞いたことがあった。

 

「あ」そこで、荀彧に声が駆けられた。「桂花さま」

 

 楽進が、きょとんとした顔で屹立していた。その手には何やら赤々しい物体が握られている。

 どうしてここに、と思いながらも、荀彧はちょうどいいとばかりに話しかける。

 

「貴女、鄧茂を見なかったかしら」

「はい、見ました。先ほどまでこの店にいました」

「……今は、どこに?」

「さあ」楽進は申し訳なさそうに眉を曲げる。「桂花さまが現れるほんの少し前までは、この店の中にいたのですが、買い物を済ませたら慌てて駆けだして行ってしまいました」

 

 入れ違いになったのか。荀彧は思わず歯噛みしてしまう。今から追いかけても、前の二の舞になるだけだろう。武官と軍師では足の速さが違う。

 はあ、と荀彧は一つため息を吐く。「不幸」という漢字二文字が頭にちらつきながらも、落ち着け、と自分に言い聞かせた。まだ夜までは時間がある。止められないわけではない。

 

「鄧茂はこの店に、何しに来たのかしら」

「ここは珍しい店ですので、他にはないものを多く売ってるんです。たまに安物とか、外れの製品が混ざっているのが難点ですけどね。例えばこの激辛熟成唐辛子とかは絶品で―――」

「鄧茂が何を買ったか、見た?」

「あ、ええ」楽進は二、三度頷く。「確か、縄を買っていましたよ」

「な、縄?」

「縄です。どんなことがあっても絶対に千切れない縄、らしいです。強度に自信の一品、って店主が勧めていましたけど、何か縛りたいものでもあったのでしょうか」

 

 荀彧は楽進の言葉を満足に聞けてはいなかった。「閨」「曹操」「縄」「鄧茂」と様々な単語がごちゃ混ぜになり、脳内が混乱する。鄧茂が何をする気なのか、どんな思惑なのかはわからないが、これはまずいのではないかと思えてくる。荀彧は涙目になった。どうしてこうなった!

 本当に厳政の不幸が移ったのではないか。荀彧は嘘偽りなくそう思い、とにかく急がねば、と謎の勢いに駆られて道具屋を飛び出し、駆け出して行った。

 

 

 

 

 それから、さまざまな場所を巡ったが、鄧茂を見つけることは叶わなかった。道具屋から完全に行方を眩ませてしまい、苦肉の策として程遠志のところへ荀彧も向かおうとしたが、彼は今休暇をとっているらしく、この街にいないとのことだった。

 当てもなく彷徨ううちに、日は暮れて夜になりつつあった。どうするか、と思い、こうなれば曹操さまにすべてを打ち明けるしかないか、とも考えた。縄を持った何を考えているかわからぬ男と同衾するよりかは、数倍マシなはずだ。そうしようと決心して、曹操のいる城へ歩を進めようとして、荀彧は固まった。何かが頭に引っ掛かった。

 

 そういえば、とふと思う。厳政が「急遽城の警護任務が入った」と言っていた。急遽、で決まることなのだろうか。誰かが不意に彼に頼みに来たのではないか。厳政のところから離れる際、張宝が「何度も」と叫んでいたことを思い出す。断片的な部分しか聞き取れなかったが、あれは「何度も私たちのところに邪魔が入って」とのような内容ではないだろうか。だとすればやはり、厳政のところへ荀彧より前に誰かが来たことに他ならない。

 

 張曼成の言葉が頭に蘇ってきた。『大胆になって危険を冒す方がいい』荀彧は彼の意見に賛成でも反対でもなかったが、それと同じ意見を他の誰か―――張曼成の仲間たちが持つ可能性は十分にあるよう思えた。本質を言えば、張曼成や厳政や鄧茂や―――程遠志は、同じ穴の狢なのだから。

 

 次に、鄧茂が買ったという縄のことを思い出した。鄧茂が縄を持って曹操を襲う。そのようなことは果たしてあり得るのだろうか。妄想ではないか。もっと、「決して千切れることはない」縄の正しい使い方があるのではないか。

 

 そして―――最後に。先ほど唐突に聞いた「程遠志が休暇を取っている」という知らせを思い返した。最初に張曼成を荀彧が訪れた時、彼は「程遠志にところへ向かうべき」と言った。つまり、張曼成はあの時点で程遠志がいないことを理解していなかったのである。それは程遠志の休暇を偶然知らなかっただけなのか―――それとも、程遠志の不在は、厳政の言葉と同様に「急遽」で決められたことで、嘘偽りの類ではないか。

 では、何故そのような嘘を吐いたのか。

 

 それらを頭の中で整理し、荀彧はすべてを察した。結びついたというべきだろうか。

 荀彧は、大きく目を広げて驚いた。

 

「お、愚かすぎる」荀彧は思わずそう言ってしまう。「あいつは何を考えてるの……」

 

 厳政の急な任務や、鄧茂の謎な行動がすべて説明できた。そんなことを本当にするのだろうか、とも一瞬疑問に思ったが、張曼成の言葉が、彼らの性格を裏付けている。黙って何もしないよりも、危険でも大胆に動く類の人間たちなのだ。

 

「こんな無茶な策、本当に成功すると思っているのかしら……」

 

 荀彧は頭を抱えた。仮に彼らが荀彧の思ったように動くのならば、どう考えても失敗するとしか思えなかった。

 それに、そもそもこんな大それたことをする意味が分からない。

 一人で勝手に失敗するならいいが、下手をすればこの無茶な策は様々な問題を招きかねない。そして、恐らくその事実に彼らは気がついてもいないだろう。

 止めるべきだ、と荀彧は思いつつも、今からでは程遠志に会うことはできないだろうとも思った。その気になれば張曼成や厳政に会うことはでき、計画の邪魔はできるが、それでは何の意味もない。寧ろ、それは逆効果だろう。程遠志は止まらず、計画は実行されるのだ。彼らの策の失敗率を上げ、その癖策自体を阻止できないのなんて、それこそ愚策だ。

 

 ならば、と思う。荀彧は唇を軽く噛んだ。

 ―――私が彼らの手助けをすれば、どうだ?

 

 この愚かな策をしっかりと完成させる。

 彼らの手助けをする。男の助けをする。その部分に荀彧の身体は大きな拒否感と忌避感で包まれ、膝から崩れ落ちそうになったが、なんとか堪えた。

 現状の解決策は、曹操にすべてを打ち明けるか、彼らの手伝いをすることの二つに一つだった。前者の方が遥かに楽で、荀彧からしても歓迎すべき選択肢なのだが、曹操が鄧茂の性別を知ってしまった時にどれだけの衝撃が来るかが計り知れなかった。後者であれば、鄧茂の性別が曹操に知られることもなく、比較的衝撃を薄めることができるかもしれない。

 

 しかし、だからといって。

 素直に後者を選べるか、という話でもない。

 後者を選ぶことは―――最悪曹操の寝室に程遠志が忍び込むことに繋がるかもしれないのだ。

 

 ……要するに、これは程遠志を信頼できるか、できないかの選択である。

 荀彧が手助けをすれば、彼らの策を完遂させることは可能である。前者で挙げられた問題点もすべて解消できる。ただ―――程遠志が曹操の寝室で変なことをしないか、どうか。仮に程遠志が何もしないとして、荀彧がその行為を黙認することができるか、どうか。そして、程遠志が些細な失策を犯さないか、どうかである。

 即断を是とする荀彧が、完全に硬直した。凡人のように狼狽えた。狼狽えながらも、曹操様のためになる選択肢とは、後者であることを彼女自身理解できてしまっていた。

 

 

「私がここまでするのだから」荀彧は苦し紛れに、信頼とは思えない暗い感情を両瞳に宿らせて言った。「成功させないと呪い殺すわよ―――程遠志!」

 

 

 そして無論―――程遠志はそんなことを露ほども知らない。

 

 

 

 








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