真・恋姫†無双~程遠志伝~   作:はちない
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めちゃ長くなりました<(_ _)>



程遠志の奮闘

 

 

 

「た―――助けて、程遠志!」

 

 部屋で寝転んでいた程遠志は、悲鳴にも似た声に「うお」と驚かされる。声の主は鄧茂。急になんだよ、と彼は腰を抜かしそうになった。

 

「お前よ、急に扉を開けるなよな。入る前に『失礼します』ぐらいは言うようにしろよ」

「僕たちの間柄で何言ってんのさ。て、てか、そんなことよりだよ」

「そんなことより?」

「ついに、ついに曹操さまに閨に呼ばれちゃったの!」

「…………おぉ、そうか」程遠志は目を擦った。「それはよ、大変だな。一大事だ」

「一大事も一大事だよ。夏侯淵様が護衛してるらしいから、逃げるにも逃げ出せないし。ね―――ねえ、どうすればいいのかな?」

「どうしようもなくないか?」

 

 程遠志は「なんだ、そんなことか」というように再び横に寝転がった。ごろり、と一つ寝返りを打つ。

 

「む」鄧茂は少し目を細めた。「なんで無関心なのさ、一大事だよ、大問題だよ!?」

「いやいや。大問題なのは俺じゃなくてお前だっつーの。前にも言ったじゃねえかよ、『明るく前向きに考えてこう』ってよ。前向きに考えろな」

「むむ」鄧茂はまた顔を歪める。「じゃあ何さ、程遠志は僕がどうなってもいいってわけ」

「よくねえよ。当たり前だろ。お前のことは誰よりも信頼してるさ」

「だよね程遠志! 流石!!」

「でもよ、俺は曹操様のことも信頼してるんだよな、安心していってこい」

「む、むむむ―――!」

 

 鄧茂は獣みたいな唸り声を上げた。涙目になりながらも程遠志を睨みつける様子はとても可愛らしく、本当は女なんじゃねえの、と疑ってしまうほどである。程遠志はそう思いながらも軽く首を振った。こいつが男だってことは間違いないことである。悲しいことに。

 すると、急に鄧茂はにやり、と荀彧の笑みにも似た悪戯っぽい笑みを浮かべた。なんだ、と程遠志は目を瞬かせる。

 

「……本当に行ってもいいんだね?」

「おう。好きにしろな」

「本当の本当に、行って色んなことを言ってもいいんだね?」

「おう―――て待て? 行って言う? 何をだ、おい」

「閨に行って、曹操様に『程遠志に止められたんで無理です。僕とそういう行為がしたいのなら程遠志を倒してからにしてください』って言ってもいいんだね?」

「まずはどうやって曹操さまを止めるか考えるべきだな」

 

 

 

 

「思いついた」

「はや」鄧茂は瞳をぱちくりとさせた。「大丈夫、適当じゃないよね」

「かなり自信があるぜ。どうやら今日の俺は冴えてるらしい。この策を聞いたら普段眠そうにしてる程昱は目を大きく見開いて、俺の悪口しか言わない荀彧は口を大きく広げて何も言えなくなること間違いなしよ」

「程遠志、流石!」

「でもよ、この策はお前にも動いてもらうことになるが、大丈夫か?」

「勿論。曹操様の閨に行く以外なら、なんだってするさ」

 

 鄧茂は二、三度首を頷かせた。早く説明して! と見えない尻尾をぶんぶんと振って、程遠志に続きを催促してくる。

 

「この策の最終目標は、俺が曹操さまの閨に辿りつくことだ」

「え?」鄧茂は首を傾げた。「どういうこと?」

「お前が行かないんだから、俺が行くしかねえだろ?」

「そう……なのかな?」

「流石によ、無視はできねえだろ。つまりは誰かが曹操さまに会わないといけないわけだ」

「でも、程遠志、指名された僕ならともかく程遠志が曹操様の閨を訪れるのは普通に不可能だと思うけど―――」

「まあまあ」程遠志は余裕そうに軽く笑った。「落ち着いてよ、俺の話を聞いてみろよ」

 

 程遠志はそこで一度言葉を切り、さらにまた続ける。

 

「まずはだ、俺が厳政のところに行って、今日の夜の見回り任務を任せるだろ」

「任せる、って。決定権は程遠志にないでしょ?」

「いや。今日は確か俺が担当のはずだ。任せるってかよ、代わってもらうっていうべきかな」

「ふんふん、それで?」

「その間に、鄧茂は道具屋に行って縄を買ってきてくれ」

「縄?」

「そう、縄」

 

 鄧茂は口を軽く開く。程遠志が何を言っているのかよく理解できていないらしい。

 程遠志は僅かに唇を歪めていた。彼が頭を使って何かに取り組むというのは非常に珍しいことで、彼自身それに対して密かな高揚感を抱いているのか、「簡単なことなんだよ」と、いつも以上に得意げに話し始めた。

 

「縄を結ぶんだ。曹操様の部屋の窓とかに、外から。それで、登るんだ」

「あ!」鄧茂は手をポンと打った。「そうか、それで外からなら忍び込める―――!」

「そうだ。厳政が警備って名目で誤魔化している間に、俺が忍び込む」

「でも、曹操様そんなことして怒らないかな……?」

「大丈夫だよ、大丈夫。俺の『流れ』がよ、そう言ってる」

「……まあ、程遠志が、そう言うなら信じるけど」

 

 密かな心配で顔を染めながら、鄧茂は程遠志を見た。本当に大丈夫なのか、と聞くように。

 

「だってよ」程遠志は軽く肩をすくめた。「お前が閨に行くわけにもいかねえだろ?」

「そ―――それは、そうだけど」

「で、俺がなんとかしねえと曹操様にチクるんだろ?」

「ま、まあ、それは言葉の綾っていうか。ホントに程遠志が嫌なら求めないっていうか」

「とにかく、だ。ここまで俺が考えたんだから、折角だしやってみようぜ」

「う、うーん……あ! そもそも、曹操様の部屋にどうやって縄を引っ掛けて、結ぶの?」

「むむ」今度は程遠志が唸った。「ま、まあ、それはよ、後で考えようぜ。張曼成とかに聞いたらもっといい案を出してくれるかもしれねえしな、うん」

 

 大丈夫かなぁ……と、また鄧茂は不安そうに言葉を漏らす。

 程遠志だけが、謎の自信を胸に堂々と立っていた。

 

 

 

 

 全部の仕込みが終わった。程遠志は厳政の元に向かい、鄧茂は少し離れた店に行き、縄を買ってきた。その縄は程遠志の手に渡り、仕込みを厳政に任せるという名目の元、最終的に厳政に渡された。

 その道中、程遠志は自分が今から休暇を取り、暫く城下から離れるという噂を流していた。鄧茂が閨に招かれたことから、程遠志がその邪魔をすると思う人間がいてもおかしくない。変に警戒されないためにも、その効果は高いのではないか、と思い、彼自身が考えたことである。

 すべては終了した。もうすべきことはなにもない。夜を待つだけである。

 

「と、いうわけで」程遠志は欠伸をかみ殺した。「後半刻ほど暇になっちまったな」

「でも、ここまで」鄧茂は苦笑を浮かべる。「手の込んだことする必要あったかな」

 

 ―――程遠志と鄧茂は町外れの空き家で、息を潜めていた。

 

「俺はもうこの街にいないってことになってるからな」

「それにしてもここまでするかな……。これじゃビビってるみたいじゃない?」

「失敗したくねえし、慎重にいったほうがいいだろ?」

「まあ、確かに」

「問題があるってんなら、暇すぎるってことかな。まだまだ時間が有り余っちまってるよな」

「なら大丈夫」鄧茂はにっこりと笑った。「程遠志と一緒なら、暇すぎるなんてあり得ない」

「……そういうことを自然に言えるのはよ、女だけの特権だろうよ」

「なら僕も問題ないかな?」

「問題アリアリだっつーの」

 

 程遠志が少し呆れたように言うと、鄧茂は快活に笑った。

 

 

 

 

 夜になった。

 程遠志は少しうとうとしたり、鄧茂と話したり―――要するに、いつも通りに時間を浪費していた。最近は鄧茂と二人で話すこともなく、たまには何か気の利いたことでもしてやろうかとも思ったが、鄧茂自身「いつも通りにだらけようよ」と甘えたような声で言うものだから、程遠志もそれに従ったのである。

 そして、夜になったのだから、行かなければならない。

 名残惜しそうにする鄧茂に「後でな」と一言だけ残し、程遠志はゆっくりと歩きだした。

 

 曹操の部屋に忍び込む算段は既についていた。

 外の警護隊長をしている厳政に、ある時間には曹操の部屋の真下に兵士を配置しないでもらう。その隙を突いて縄をどうにかして結び付け、それによじ登る。

 最大の難関は、そこに辿り着くまでに誰に対しても顔を見られてはいけないことである。

 今、程遠志はこの街にいないことになっている。ここで存在が知られれば逆に怪しまれるだろう。程遠志は自分が休暇をとった、なんて情報を広める必要はなかったかもしれない、と少しだけ後悔した。見返りと代償が釣り合っていない気がした。

 まあ、やってしまったことは仕方がない。程遠志は目深に帽子を被り、自身の傷跡を隠すように振る舞った。ただでさえ印象の強い顔立ちだ。それだけ隠せば、体格などでは気づかれないはずだ、と謎の自信を持っていた。

 

 そして―――本当に、誰にも気づかれることなく。

 程遠志は曹操の部屋の真下に辿りついていた。ここからあそこに縄を結びつけ、登っていくだけだ。図ったように兵士は誰もいない。思い通りだ、と考え、程遠志はすぐに思い直した。変だ、おかしい。

 文字通り、誰もいなかった。即ち厳政も、である。どうやって縄を結ぶか。登るか。それを考えるために彼に縄を預け、任せていた。厳政がいなければ登ることも儘ならない。どうなってんだ、と辺りをきょろきょろと見まわし、「あ!」と程遠志は叫んでしまった。慌てて自分の手を塞ぎ、慌てて辺りを再び見る。なんとも滑稽な姿だったが、彼の視界に他の人間が映ることはなかった。

 縄が、かかっていたのである。

 程遠志の少し先に、縄が垂らされていた。厳政に渡したものである。それは一直線に曹操の部屋まで伸びており、結びついていた。厳政が既に準備してくれたのか、と程遠志は狂喜し、それでも彼がこの場にいないのはやはり変だよな、と疑問に思った。縄が結びついているならば用はない、と考えたのかもしれないが、そもそも彼は今晩の警護任務を司っているのである。他にやることもないはずだ。

 わけがわからない、と彼も首を捻った時である。

 音がした。こつ、こつ、と静かな音で、すぐに足音だと程遠志も気がついた。慌てて辺りを見、隠れる場所がないことを理解し、完全に混乱した。そして、咄嗟に思いついたのか、整備されている地面に這いつくばった。意識が関与しない反射的な行動だった。そんな行動が意味をなすはずもなく、足音はどんどんと近づいてくる。「人払いはしてあったんじゃないのか」「策が失敗してしまうのか」様々なことを程遠志は考え、恐る恐る顔を上げた。

 すると、そこには。

 

「あんたって、本当に間抜けなのね」

「…………荀彧?」

「その無様な姿を見られたことだけが、この一連の騒動で一番の収穫で、満足だわ」

 

 そう言う荀彧の表情はちっぽけも満足そうではなく、疲労の色が濃く見えた。

 

 

 

 

「こんなくだらない策に付き合わされる、こちらの身にもなってくれない?」

 

 曹操の部屋に縄を垂らし、辺りから人を消し、厳政に口利きをしてくれたのは荀彧だったらしい。程遠志はそれを知り、彼女に対して素直に感謝する気持ちが湧きながらも、少しだけむっとした。俺の策のどこがくだらないのだ、と鋭く死線を飛ばすと、それよりもさらに剣呑な視線が返ってきたので、慌てて目を逸らす。

 

「まず、私がいなかったらどうやって縄を華琳さまの部屋に結びつけたのよ」

「それは、厳政とか張曼成とかと話し合って」

「話し合って?」

「……なんとかできたんじゃねえかな?」

「できるわけがないでしょ。あんたたちの馬鹿さ加減でものを申さないでくれるかしら」

 

 荀彧の瞳がさらに鋭くなった。ひょっとしたら本気で怒ってるのかもしれない。

 

 程遠志が二、三度頭を下げると、荀彧は溜息を吐いた。「それに」と言葉をぶっきらぼうに吐く。「仮に、あんたたちが何とかできたとして」

「できちゃうのか」

「ええ、できちゃったとして。それに何の意味があるの?」

「意味?」程遠志は下げた頭を横にこくりと倒す。「そりゃ、曹操様に会えるだろ。会って、鄧茂の件について俺が代わりに謝るんじゃねえか」

「……なんでそのためだけに、ここまで苦労をする必要があったのよ」

「はあ? 曹操様を無視して謝らないなんてわけにはいかねえだろ」

「そういう意味じゃなくて、なんで夜前のご飯時とかに、華琳さまに会おうって考えなかったの? 私が仮に―――あくまで仮にだけど、あんたと同じ立場なら、そうするわ」

 

 程遠志は呆然となった。

 そういえばそうである。そもそも、なんで閨に忍び込もうなんて考えたのだ? 夜になる前に、普通に曹操に会って話せばよかったではないか。そうすれば縄を使う必要も、厳政に代わってもらうこともなく完遂できた。ここまでやったことはすべて無駄だったのではないか、と思うと程遠志はがっくりときた。腑に落ちねえ!

 

「じゃあ、なんだよ」程遠志は自棄っぱちで言う。「もう曹操様に全て言ってくれたのか」

「え」荀彧は、そこで初めて目を白黒とさせた。「ど、どういう意味よ」

「俺の計画に色々付き合ってくれたんだろ? 曹操様に言ってくれたら、そもそも縄を登る必要も何もなくなるだろ」

「…………ええ、そうね。華琳さまに、言ったわよ」

「マジかよ。じゃあ俺もう何もしなくても―――」

「『夜に、程遠志が縄を登って窓から入ってきます』って、言ったわよ」

「はあ?」

 

 どういうことだよ、と程遠志は混乱する。

 そういえばそうである。曹操の部屋に縄をかけてくれたのも、この場における人払いを済ませたのも荀彧なのだ。それで疲れを蓄積し、程遠志に嫌味を言っているのだ。そもそも、曹操に「鄧茂は来ません」と言葉を続けるだけで良かったというのに、どうしてそこまで無駄なことをしたのだろうか。

 

「言えるわけないでしょ」それに答えるよう、荀彧は言う。「言えば、華琳さまは必ず疑問に思うわ。それで、『どうして来ないの?』と聞かれたら、私はすべてを話さざるを得なくなる。そんなことを話したらアレよ。大変なことになるわ」

「なるかもしれないけどよ、言わなきゃいいじゃねえか」

「自慢じゃないけど、華琳さまに熱っぽい目で見られたら、何も考えがまとまらなくなるのよ」

「本当に自慢じゃねえな!」

 

 

 

 

 結局、登らないといけないらしい。寧ろ、荀彧が曹操に予告をしたのだ。

 これで「はいやめます」なんて言えるはずもない。

 

 ―――程遠志は荀彧を背中に負ぶって縄を登っていた。

 

「華琳さまの部屋に男をのこのこと行かせるのは、やはり気に食わない!」とのことである。男の背中と接触することも許せないらしく、荀彧は専用の籠のようなものをわざわざ持参していた。そのため、程遠志が荀彧を負ぶった、という表現は正しくないかもしれない。正確には、荀彧の入った籠を背負う、と言うべきだろうか。

 中々重労働だったが、夏侯惇に普段から鍛えられていることもあって、程遠志の握力や体力は格段に向上していた。縄の各所に結び目があって、掴みやすいことも幸運だった。程遠志は落下する恐怖に身を包まれることはあれど、それが現実になることなく、曹操の部屋の窓まで辿り着いた。勢いよく窓を開け、身体を中に捻じ込ませる。

 倒れるようにして中に入ると籠の中からも悲鳴が上がった。籠と一緒に投げ出されて曹操の部屋に入った荀彧は、程遠志の方を射殺さんばかりの視線を向けている。

 それを見て、愉快気に笑う声がした。程遠志と荀彧は這い蹲りながらその声を聞き、慌てて起き上がった。声の主など、二人には言うまでもなくわかっている。

 

「随分と」曹操は、笑いながら言った。「仲良くなったものじゃない」

「こ、こんな蛮人と仲良くなった覚えはありません!」

「ひっど。流石に言いすぎじゃねえか?」

 

 程遠志は肩をすくめるも、荀彧はそれに対して猫のように唸って威嚇した。

 

「それで」曹操は口元に笑みを絶やさず言う。「程遠志、何か用があったんでしょう?」

「あ―――そうですね。一応、言わないといけないことが」

「まあ、大体はわかるわ。鄧茂じゃなくて、貴方がここに来たことから、大体わね。……ここまで無駄なことをする意味があるのかは、謎だけど」

「それは何も言い返せないっすけど、そうですね。鄧茂から言伝を貰ってます。『行けない』だそうです」

「理由を聞いてもいいかしら?」

 

 断られたというのに、不思議なほどまでに曹操の表情は柔らかかった。その中に一握り程、悪戯っぽい感情が紛れているのが程遠志にも見て取れた。表情を隠していない。

 ……しかし、一体全体なんと返せばいいのだろうか。「鄧茂は男だ」などと言うわけにもいかない。荀彧がわざわざここまで面倒をしてくれた意味がなくなる。適当な言い訳を考えてこればよかったな、と今更になって思った。頭の中の鄧茂が言っている。「追い詰められてからが、程遠志の真骨頂だよ」そういえばよく、あいつはそんなことを言っていたな、なんて呑気に思い返した。

 その数瞬後、こういえばいいんじゃねえか、と程遠志に閃くことがあった。勢いのまま、口を開く。

 

「多分ですけど、ね」

「ええ」曹操は笑っている。「多分?」

「あいつは、俺のことが好きなんじゃないですかね」

「―――だから、ここに来なかったと?」

「そういうことなのかもしれませんね」

 

 程遠志は妙に胸を張って言った。一度言葉を吐き出せば、もう取り返すことはできない。ならば最後まで堂々としていた方が人から評価されるはずだ、と予測ができていた。

 曹操はにやにやと笑っている。程遠志はそこであれ、と思った。自分の言葉に何か驚きだとか、困惑だとかが生まれると思ったのである。それがまるで予想通りの言葉が来たように曹操は笑っており―――よく見ればいまだ籠の中でちょこんと座っている荀彧も曹操の数十倍は意地悪く笑っている。何か変だ。二人してにやにやと俺のことを見てやがる。

 

 程遠志は何気なく視線を辺りに向けた。曹操や荀彧から目を離すのが目的だったが、偶然目に入ってくるものがあった。かたかた、と曹操の部屋の扉が揺れていた。風かな、と思うほど緩やかな揺れだったが、すぐに違うと思い直す。今日は殆ど無風だし、軽い隙間風などこの城ならば通さない。

 護衛が、扉にもたれかかっているのだろうか。そこまで考えて、程遠志の頭に閃くことがあった。鄧茂の言葉を思い出したのである。「閨の護衛は、夏侯淵様がやるみたいだよ」と、最初に一部始終を話した時、鄧茂がぼそりと言っていたではないか。つまり、あの揺れは夏侯淵が巻き起こしたものであるはずだ。

 夏侯淵が程遠志の話を聞いて、嫉妬で身体を揺らしている―――いや、そうじゃない。そんなタマじゃない。

 扉にもたれながら、肩を揺らして笑っているのではないか。

 そこから、曹操と荀彧が笑っている理由も、自ずと程遠志は理解できた。これから曹操たちは彼に質問をするのだろう。「鄧茂をどう思っているのか」「鄧茂に対してどんな感情を抱いているのか」それを十分に聞いた後、夏侯淵が登場するという段取りなのではないか。「私に告白しておきながら」と詰る―――というか、弄るつもりなのだろう。

 程遠志はそこまで一息に考えて、驚いた。どうやら本当に今日の自分は冴えているらしい。

 ここまで瞬時に考えられるなんて今まではあり得ないことである。

 

 曹操は程遠志の視線を見て、そこで初めて表情を変えた。扉の後ろにいる夏侯淵に気がついたのか、と言わんばかりの驚きの表情を見て、程遠志は更に確信する。その手は食わねえぞと程遠志は妙に意気込んだが、曹操は荀彧を見、やがて扉にも視線を向け、そこでさらに深く笑みを零したので、え、と動揺した。

 

「程遠志」曹操はその表情のまま言う。「貴方は、どう思っているの?」

「……鄧茂のことすか」

「それも、だけど。貴方自身は他に誰か好きじゃないの?」

 

 程遠志はその言葉にさらに動揺した。聞いてくるだろうと予想した質問と僅かに違っている。

 扉の揺れが止んでいた。荀彧の浮かべていた笑みも、そこで消失していた。夏侯淵も荀彧も想像していなかった質問。段取りにはないものである、と程遠志は思った。

 

 程遠志は曹操の顔を見た。先ほどと変わらない、悪戯っぽい笑みが口の端に浮かんでいて、その視線は先ほど程遠志が見ていた扉に合わさっていた。つまり、夏侯淵の方を見ていた。程遠志はそこで、遅蒔きながらも気づく。曹操はこう言っているのではないか。夏侯淵をからかおう、と。それに合わせてくれ、と。

 程遠志も悪辣な笑みを浮かべる。ならば、答えは一つである。

 

「ああ―――俺はそうですね。他にも好きな人がいますね」

「へえ、誰?」

「言うまでもないっすね。夏侯淵です」

「―――――っ」

 

 程遠志は横目で扉を見ている。かたかた揺れていたそれは、いつの間にかぴくりとも動かなくなっていた。向こうで彼女がどんな表情を浮かべているのか、気になる。

 曹操は程遠志の言葉が随分とお気に召したらしく、口元を歪めてくつくつと笑っていた。荀彧も、曹操の狙いに程遠志よりも早く気がついたらしく、同じように笑っている。

 

「へ、へえ。ちなみにどこが好きなの?」

「美人なことすね」

「ふ、ふうん」

「それでいて強いし、お淑やかな一面もあるし」

「……それで?」

「心配していないように見せてめっちゃ心配してくれる優しさも好きです。後他には―――」

「ふ、ふふ。ま、まだあるの?」

「まだまだいっぱいありますよ」

 

 息も絶え絶えと言った様子で笑う曹操と、荀彧。

 ぴくりとも動かなかった扉は、そこでようやく震えるように動いた。

 

「華琳さま」夏侯淵が中に入ってきた。「もうそこまでにしましょう」

 

 顔を困らせながら、頬の端をうっすらと赤く染めながら、である。

 

「どうして」曹操は意地悪く笑う。「ここからが面白いところでしょう?」

「そうだよ」程遠志も真面目な顔で言った。「ここからが本番なんだけど」

「お前は黙ってろ!」夏侯淵は小さく吠えた。「射てもいいですか、この男」

 

 

 

 

 恥ずかしがる夏侯淵とは、珍しいものが見られた。

 程遠志は確かな満足感を胸に、曹操の部屋から出て行こうとしていた。行きと同じように縄を用いて、である。扉から帰れば夏侯淵以外の護衛に出会うかもしれない。重労働だとは彼も思ったが、仕方のないことでもある。

 その背中に、籠は背負われていない。荀彧は曹操の寝具の上で寝転がっており、その側には曹操と夏侯淵がいた。今から伝令を飛ばして夏侯惇も呼ぶらしい。女四人で、閨で何が行われるのか。程遠志には―――というか、誰にでも予想がつくことだろうが、敢えて彼はそれについて深く考えることはしなかった。非生産的だ、なんてここで大手を振って主張することが、もっと非生産的で無駄な行為に思われた。そんなことをしても曹操たちが考えを変容させることはないし、彼自身にそんなことをする気もないのである。

 程遠志は「それでは」と一言残し、縄に手をかけた。曹操は微笑を浮かべ、荀彧は曹操に夢中で、夏侯淵は顔をまだ赤くして睨みつけていた。ひょっとしたら明日、何か復讐をされるかもしれねえ、と本当にありそうな危惧を抱いたが、明日のことは明日考えようと彼はすぐに思い直した。

 

 縄を下っていく。荀彧がいない分、するすると身軽に下りていくことができた。曹操の部屋が段々と遠ざかっていく。

 そこから、脳を動かす余裕が生まれた。そういえば、と程遠志は思う―――今日の曹操さまはどこか違ったな。

 何が違うのだろうか。ゆらゆらと揺れる、曹操の部屋の灯りを見つめ、そこで程遠志は閃いた。感情の揺らめきが、いつも以上に多彩だったのではないか。程遠志を弄ろうとし、荀彧と夏侯淵を見つめ、標的を変えて夏侯淵を弄った。彼女のからかい癖をよく知らないだけかもしれないが、平時よりも多く思える。それで、今からは夏侯惇も呼んで姦しく楽しむのだろう。

 もしかすると、曹操は寂しかったのではないか。王とは孤高なものである、と夏侯淵から聞いたことがあり、それを彼女も良しとしているらしい。そこから解放されたい、という邪気のない思いが、彼女の本質を守りながらもそのような行動を起こさせたのではないか。あくまで王ではなく、一人の少女として。程遠志はそう考えた。

 無論、推測である。根拠もなければ証拠もない。唯一の可能性と言えば、今日の程遠志が冴えている、と言うことだけである。このようなことは誰に伝えても信じられないだろう。例え張曼成でも、厳政でも―――鄧茂でも。妄想だと馬鹿にされるに違いない。

 信じるのはただ一人だけ。俺自身である、と程遠志は思った。

 

「俺の推測は、どうですかね?」程遠志は曹操に向けて言葉を飛ばしたが、勿論返事はない。

 

 

 

 

 

 考えるうちに、地上が随分と近づいていた。ふう、と息を吐き、程遠志は下を見る。荀彧を抱えて登っていた時に感じた恐怖感を、もう感じはしない。

 下には厳政と張曼成がいた。鄧茂がいないことに違和感を覚えながらも、すぐにああ、と程遠志は気がついた。あの空き家で、彼は程遠志の帰りを待っているのだろう。早く帰って、今日のことを肴に酒でも飲むか。

 

 程遠志がそう思った瞬間である。唐突に、強い風が吹いた。今日は殆ど無風だったというのにである。彼の身体は風に絡み取られ、面白いように揺れた。下から息を呑む声が聞こえてくる。程遠志も少し動揺しそうになり―――すぐに落ち着きを取り戻した。

 前述したように、程遠志の握力は夏侯惇との修行によって鍛えられている。昔ならば尻から落ち、悶絶するような失態を演じたかもしれないが、今の彼にそんなことはあり得ない。強く縄を握り軽々と耐えた。ひょっとしたらこれが厳政の不幸なのかもしれねえな、と少し笑いながら考えた。

 程遠志の上から視線が降ってくる。流石に今の強風は城の中にいる曹操たちも感じ取ったのか、夏侯淵が真っ先に、それに次いで曹操と荀彧がひょっこりと窓から顔を出し、すぐに安心した表情になる。程遠志が今いる位置を見て、大事に至ることはないとすぐに気づいたのだろう。程遠志は縄に揺られながらも、片手を放して手を振る余裕すらあった。

 

 しかし、そこで途端に荀彧の顔がむ、と曇った。荀彧の視線は、縄の真ん中辺りに合わさっていた。それに釣られて程遠志も見て、今度こそ完全に動揺した。縄が千切れそうになっている! 絶対に千切れない縄じゃないのか!?

 

 上から程遠志を見ている荀彧は思い出していた。楽進と、道具屋であった時である。彼女はあの時に何と言っていたか。「たまに安物とか、外れの製品が混ざっているのが難点ですけど」それを思い返し、程遠志のさらに下にいる厳政を視界に捉えた時、完全に理解した。彼女は既に厳政の不運というものを知っている。それが風邪のようにうつることも知っている。あの縄が楽進のいう不良品で、これから程遠志にどのような結末が待ち構えているのかを、寸分違わず確信した。確信して、意地悪く笑った。

 

 ―――ぶちん、という音が響くと同時に程遠志は落ちた。

 悲鳴を上げて、尻から落ち、悶絶した。

 

 

 

 

 

 このような結末で、鄧茂の依頼は幕を閉じた。この後、程遠志は張曼成と厳政に肩を貸してもらい、鄧茂に散々からかわれることになるのだが、厄日であった、という他ない。

 

 

 

 

 

 








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