例によって長くなったのでこれも前後編仕様にしました。
──四年前 夏
人間社会の裏側から、長きに渡って世界を操ってきた暗黒結社ゴルゴム。
その大幹部たる三神官の苛立ちは、いよいよ深まりつつあった。
ゴルゴムの中核をなす改造人間──怪人たちが、たったひとりの異形の英雄によって次々に敗れ去っている事実。しかもその英雄の正体は、本来であればゴルゴムの支配者たる"創世王"の後継者候補とすべく改造を施した、わずか12歳の少年なのだ。
"世紀王ブラックサン"──緑谷出久。彼を倒すためには、その急所を突く必要がある。三神官の意志のもと、ゴルゴムのメンバーのひとり・黒松教授が動いた。
ひとりの少年としての、緑谷出久の弱点を探る──そのための実験。
既に、被験体は定まっていた。
*
当時の爆豪勝己もまた、やり場のない苛立ちを抱えていた。
巷でまことしやかに囁かれるようになった、蠢動する怪物たちと漆黒の英雄の噂。一方で数多いるヒーローたちは、そんなこと知りもしないとばかりに日常どおりのヴィラン掃討に明け暮れている。何かがおかしい──聡い勝己は、早くも情勢に違和感を覚えつつあった。のちにあれほどまで事態が深刻化するとは、流石に予見できてはいなかったが……。
(俺が、)
(俺がヒーローだったら、ンな奴ら全員ぶっ殺してやるのに)
そんな気概のもと、肉体や個性のトレーニングを繰り返す。
だがいくら鍛えようと、あふれる苛立ちが解消されることはなかった。当然だ、何をどうしようが自分はまだ小学生、実際に何かを為すにはあまりに幼い。──情けない。
『すごいなぁ、かっちゃんは!』
ふと脳裏に甦る、幼なじみの声。そういえばあんな憧憬に満ちた声、久しく聞いていないことを勝己は思い出した。幼少期に決定的な仲違いをしてから疎遠となり、最近では学校でもほとんど口をきいていない。ただ無個性のくせに、ヒーローを夢見ているのは相変わらずのようだった。
「……クソッ」
腹の底に黒い滞留を溜め込みながら、過ぎる小学校最後の夏。
そんなある日だった、あの男が現れたのは。
「きみ、ちょっといいかな?」
「……あ?」
高級外車の後部座席から降りてきた男は間違いなく他人だったけれど、既視感があった。それもそのはず──かの男はノーベル医学賞候補として、頻繁にマスコミに取り上げられている著名な大学教授だったのだ。
そんな人間が自分になんの用なのか。腑に落ちない勝己に対し、彼が告げたのは協力の依頼だった。──恐怖心を取り去り、身体能力をさらに向上させる。そんな実験への。
ふつうなら、こんな話を真に受ける勝己ではない。しかし相手は身分のはっきりしている高名な科学者であり……何より、彼には焦りがあった。
だから勝己は、独断でその話に乗ってしまったのだ。高名な科学者が裏でゴルゴムと繋がっているなどとは思いもよらない。漆黒の英雄の正体がかの幼なじみであると知っていたらば、無論彼の選択も異なっていただろうが。
*
緑谷出久、12歳。
数週間前の誕生日、親友である秋月信彦ともどもゴルゴムの手で"世紀王"へと改造されて間もない彼は、かの暗黒結社に迫るために日々を費やしていた。
そのための第一歩として試みていたのは、ゴルゴムとつながりがあると思しき人々への接触。──あの誕生日パーティーに出席していた者たち。うち最初に訪ねた人気女優・月影小夜子は、既に口を封じられてしまっている。
(……今度こそ、)
握り拳を固めながら彼が見上げるは、古めかしくも立派なキャンパス。
ここ聖和大学の医学部に、かの黒松教授が所属しているのだ。
マウンテンバイクに擬態したバトルホッパーと別れ、正門から足を踏み入れようとした瞬間、
「おいクソデクっ!!」
「!?」
声変わり前であることを考慮しても口汚い怒声に、出久は思わず肩を引きつらせた。
この声、まさか──猛暑を原因としない汗を流しながら、やおら振り向く。
そこには、予想どおりの人物の姿があって。
「か、かっちゃん……」
「テメェ……なんでこんなとこにいんだよ?」
挨拶もなしに、眦を吊り上げて問い詰めてくる少年──爆豪勝己。思わぬ邂逅に、出久は頬を引きつらせていた。よりにもよって、自分が"ブラックサン"として行動しようとしているときに。しかもいきなり喧嘩腰とは、今日はとりわけ機嫌が悪いようである。
そんな彼に対し、以前のような本能的な恐怖はもう感じない。しかし"以前の自分"を演じるかのように、出久はやや腰を引きながら応じることにした。
「えっと……た、たまたま!たまたま通りかかったんだ!」
「あ゛ぁ?」
「それより……かっちゃんこそ、どうしてここに?」
勝己とて小学生、大学の前にいる理由は何かあるはずだった。
彼は相変わらず眉をひそめたままだったが……一応は口を開いてくれた。
「……知り合いの教授に会いに来た」
「えっ……かっちゃん、大学の先生に知り合いがいるの?」
「おー」
ぞんざいにうなずく勝己に対し、出久は心から「すごいね!」と称賛のことばを投げかけた。何年ぶりだろう、最近はまともに会話すらしていなかった。
勝己はどう感じたのか、笑うでも怒るでもなくフンと鼻を鳴らすのみだった。表情は変わらず、その胸中は計り知れない。
「……ンなことより、」
「え、な、何……かな?」
トーンを落とした声に、出久はどきりとした。目の前の少年はおそらく、何かを問おうとしている。秘密を抱えている以上、それは難儀なことだった。
しかし、
「……なんでもねえわ。つーかへらへらしてんじゃねえよ、キメェな」
「えぇ……」
それでもまだ何か言いたげにしながら、学生たちに混じってキャンパスへ消えていく勝己。釈然としないものを感じながらも、出久はいったん彼を見送るほかなかった。呼び止めるようなことは、色々な意味でできない。
気を遣って四半刻ほど時間を潰してから構内に入った出久だったが……黒松教授は出張中だと助手らに追い返されてしまい、すごすごと退散する羽目になってしまった。よもや幼なじみが教授、そしてゴルゴムのノミ怪人による人体実験の真っ只中にいるなどとは思いもよらずに。
違和感を抱きはじめたのは、数日後。
──街で暴れていたヴィランを、勝己がたったひとりで捕えたというニュースが飛び込んできたのだ。
(確かにかっちゃんはすごい。個性も、身体能力も)
「……だけど何かが変だ。──どう思う、バトルホッパー?」
傍らに佇む、飛蝗を象ったマシンに話しかける。カウルに輝く真っ赤な複眼がぴかぴかと点滅し、その意志を示す。ゴルゴムから奪った世紀王のマシンだが、彼が裏切ることは決してないと思えた。
出久が一抹の不安を覚えている間にも、勝己はさらに誘惑の泥沼へと引きずり込まれようとしていた。
「センセー、俺、ヴィランの野郎ブッ倒したんだぜ!すげーだろ!!」
手術台のような簡素なベッドに身体を横たえ、瞳ばかりを爛々と輝かせている勝己。子供ゆえ無邪気に興奮していることを差し引いても、それは尋常でない様相だった。
「そうかそうか、それはよかった」
対して、満足げにうなずく黒松教授。普段は遮蔽されている機械の右目が露になっている。その時点で異常であるのだが、勝己はそもそも異様さに気づいてすらいないかのようだった。投薬を受けた結果、彼は正常な判断力を失ってしまっていた──
「きみは確か、オールマイトをも超えるトップヒーローになるのが夢だったね」
「おー」
「ならば私がその手助けをしてあげよう。私が長年研究した人体強化ホルモン、これを体内に取り込めば、きみに敵うものなどこの世にはいなくなる」
「!!」
勝己の目のいろが変わった。最強のヒーロー─―そうなれば、きっと。
興奮冷めやらぬ勝己だったが、密かに点滴されていた麻酔により程なくして目が虚ろになっていく。微笑を嘲笑へと変えた黒松は、ちらりと背後に目配せした。薄暗い実験室の、さらに闇に包まれた暗がりから、異形の怪物が姿を現す。
「ノミ怪人さま。どうぞこの少年に、貴方さまの体液をお与えください」
「~~!」
獣じみた咆哮を響かせるノミ怪人に対し、恭しく頭を垂れる黒松。倒錯した光景だが、己の行動に対する疑問は微塵もない。この異形の怪物となるために、彼らはゴルゴムに従っているのだから。
眠る勝己の腕に、ノミ怪人の触手が突き刺さる。それは弱冠12歳の少年に対し、あまりに残酷な仕打ちであったのだ。
*
息子たちに反して、緑谷引子と勝己の母・爆豪光己の仲は決して悪くはなかった。息子たちの運動会で共同で陣取りをしたり、一方が旅行に行けば土産を持っていくなど一定の交流が続いている。
親同士のこととはいえ、出久にとっては複雑な気持ちもないではなかったが……少なくとも"このとき"に限っては、それは不幸中の幸いというべきだった。
でなければ勝己の身に起きた異変について、引子に相談の連絡がくることはなかっただろうから。
──ヴィランを単独で制圧するほどの飛躍的な身体能力向上、そして精神の高揚を見せていた勝己が……突然、何かに怯えるように部屋に引きこもるようになってしまった。
(思えば大学の前で会った日からだ、かっちゃんが変わったのは)
そもそも自分は、なんのために聖和大学を訪れたか。あの誕生日パーティーで見た、黒松教授の胡散臭い笑顔が脳裏をよぎる。
勝己と黒松教授が会っていたのだとすれば、今後もいずれかから接触があるかもしれない。そう推測した出久は、勝己の自宅前を張り込むことにした。
何分、何時間と時は過ぎ、夜も深まった頃。
「出久くん」
「!」
半ばぼうっとしていた出久は、背後からかかった呼び声で我に返った。振り返れば、幾分か年長の少女の姿。
「杏子ちゃん……どうしてここに?」
「……ちょっと気になっちゃって。勝己くんだっけ、幼なじみなんでしょう?」
「まあ……ね」
曖昧にうなずく。"幼なじみ"──そうと形容できるのは、彼女の弟である信彦とて変わらない。ただ、その内実はあまりに異なっていて。
「僕……かっちゃんには嫌われてるんだ」独白めいたことばがこぼれる。「僕からしても、かっちゃんは嫌な奴だ。信彦くんとは……全然違う」
信彦のもつ優しさや謹み深さは、勝己にはありえない。恵まれた能力に裏打ちされた頑迷な自尊心は、出久のような持たざるものを平気で傷つけるものだ。
けれど──
「それでも、あなたはひとりの人間として、勝己くんのことを心配しているように見えるわ」
「………」
杏子の鋭いひと言に、出久はなんとも応えることができなかった。黒松教授の毒牙にかかっているのが、もしも見もしらぬ他人であったとしても、己のとる行動は何ひとつ変わらなかったろう。
その場合と、情動の部分で何かが異なっているというのだろうか。自覚はない、ないけれど──
会話が途切れた、その瞬間だった。
寝静まった住宅街に、ガラスが砕ける音が響き渡る。はっと顔を上げた出久の目に飛び込んできたのは──爆豪宅の二階の窓から、落下してくる黒い塊の姿。それは人のかたちをしていた。
「かっちゃん……!?」
いや──それは爆豪勝己であって、爆豪勝己でなかった。鋭く伸びた爪、裂けた口唇……その奥からは、尖った犬歯が覗いている。
「勝己くんって……異形型……?」恐る恐る杏子が訊く。
「ッ、違うよ……。かっちゃん、その姿は一体……!?」
「ヴゥ……ッ、デ、クゥ……?」
血のいろをした瞳が、ぼんやりとこちらを見上げる。しかし視線がかち合った瞬間、半獣と化したその表情が恐怖と困惑に染まっていく。
「み、るな……ッ、近寄るな……う、ウウゥゥゥ──ッ!」
「かっちゃ──!」
それでもなお出久が一歩を踏み出そうとしたときだった。野獣の咆哮がごときうめき声をあげた勝己が、にわかに逃走を図った。
その脚はもはや、人間の少年のものではなかった。両手の爆破によりその疾走はさらに加速していく。たちまちのうちに、彼は夜の闇へ消えていった。
「ッ!」
歯を噛み鳴らした出久は、マウンテンバイクに擬態したバトルホッパーに飛び乗った。
「杏子ちゃん、先に帰ってて!」
「出久くん……!」
「信彦くんの、二の舞にはさせない……!」
それは、血反吐を吐くような決意だった。