ようやく話が動きだします(白目)
薄暗い室内に、少女の柔らかな声が反響していた。
「──ええ、あの異邦人たちは結果的にいい露払いになってくださいましたわ。確か……クライシス帝国とか言いましたか」
応える、男の声。
「だが、こちらも準備万端とはいかないよ。あの子はよく育っているが、まだまだ子供だ。仮面ライダーどころか、オールマイトも始末できるかどうか」
「始末できればそれでよし、できずとも構いませんわ。わたくしたちが健在であるという現実を、彼に見せつけるだけでも無意味ではありません」
「"私たちが来た"か……ふふ、皮肉だね」
男の姿は暗がりにあってよく見えない。ただ随分大柄な、壮年の男性であることはわかる。一方の少女は純白のドレスを纏い、さらにベールで顔を隠している。さながら花嫁のような姿。
「わたくしたちは過去の亡霊などではない……歴史はまた、ここから始まるのです。──ねえ、そうでしょう?」
少女が慈しむような視線を向ける先、そこには大人ひとりを収容できる大きなカプセルがあった。培養液に満たされたその内部に、全身を大小さまざまなチューブにつながれた少年の姿。瞼は固く閉ざされ、身じろぎひとつしようとはしない。──もしも緑谷出久がこれを目の当たりにしていたら、きっと我を忘れてカプセルにすがりついていただろう。
*
その出久はというと、以前──やむをえない事情とはいえ──遅刻ぎりぎりだったのとは打って変わって、随分早い時間から登校していた。
「すまないね緑谷くん、朝早くから呼び出してしまって」
「気にしないでください塚内さん。ヒーローは常在戦場ですから」
こともなげに言う出久に対し、塚内直正はくすりと笑った。根津校長もそれに追随する──担任のイレイザーヘッドこと相澤消太は仏頂面のままだったが。
「そういえば、オールマイトは?」
「……あの人なら遅刻だ」
「ええっ」
肝心の平和の象徴が?ただし当然、それには訳があった。通勤途中に何件も事件に遭遇し、それらをことごとく処理していたがために遅れてしまっているのだという。流石というほかないが、身体のこともある。
「ま、彼にはあとで私から話しておくからご心配なく。──さて、時間も限られていることだし本題に移ろうか」
場の空気がぴりりと引き締まる。神妙な面持ちで、塚内は手元の資料に目を落とした。
「この前のマスコミ侵入事件の際、緑谷くんを襲った犯人についてだが……結論から言うと、なんらかの組織との繋がりは確認できていない」
「え……」
目を丸くする出久だったが、具体的に言葉にまではしなかった。塚内の言葉には続きがあったのだ。
「あの仮面ライダーを殺せば全世界に名を知らしめることができると思ったと、本人は供述している。早い話がチンピラだな……現状わかっている限りなら」
わざわざそう付け加えるあたり、塚内自身はその結論に納得していないことが伝わってくる。もっと言えば、この場にいる全員がそうだった。
「交友関係はもう洗ってあるんだよね?」根津が訊く。
「もちろん。少なくとも高邁 な思想をお持ちの連中との交際は認められませんでした。元ゴルゴム構成員とか、ね」
「………」
出久はしずかに拳を握りしめた。脳裏をよぎる面々の顔は、いずれも一定以上の社会的地位をもつものばかり。クライシス帝国を崩壊させてから今までの約一年半の間で、あらかたその炙り出しは済ませたつもりだったが……あるいは彼らにも手足となる人間はいたのかもしれない。
「金で雇われたという可能性は考えられませんか」相澤の指摘。
「ええ、組織的関与があるとすれば。現在そのセンで捜査しているところです」
マスコミが雄英の警備を破って侵入できたことと、まったくの無関係であるはずがないのだ。大人たちはそう確信していたし、この場では唯一の少年である出久もまた、別の角度から大いなる悪意の存在を疑っていた。
(あのとき感じた異様な気配は、絶対にあの男じゃなかった)
見えない悪意が、静かに爪を研ぎ続けている。そんな予感が、間もなく現実になろうとしていた──
*
ヒーロー科の主戦場は午後であることは、既に言うまでもないことだろう。
今日も今日とて彼らは雄英カリキュラムの真骨頂、ヒーロー基礎学に臨もうとしていた。
彼らに与えられたオーダーは、
(
災害や凶悪犯罪に巻き込まれ、自力では己の命を守れない人々を救助する──当然、ヒーローに求められる責務。むしろ、それを専門にしているプロヒーローすらいるくらいだ。
ただ"仮面ライダー"は基本的にゴルゴム怪人やクライシスの怪魔怪人との戦いが中心だったから、今回はクラスメイトたちとさほど変わらない立場。しっかり勉強させてもらおうと心する。
訓練の性質上、今回はコスチュームの着用は自由だと言われたため、出久は身軽に動ける雄英指定の青い体操服に、信彦の形見であるグローブというスタイルで臨むことにした。彼の場合、そもそも本当の戦闘服は仮面ライダーの姿なのだが。
そして訓練場は少し離れたところにあるので、移動はバスで行うことになった。規格外の連続に感覚が麻痺しつつある生徒たちは、もういちいち驚くことはないのだった──
ピピィと、ホイッスルの音が鳴り響く。
「A組集合!バスの席順でスムーズにいくよう、番号順で二列に並ぼう!!」
ぱりっとした大声で指示を出すのは、かの気だるげな担任ではなく──"緑谷裁定"により学級委員長として選出された、飯田天哉である。
(天哉くん……フルスロットル)
出久は苦笑を浮かべたが、結局は彼も含めクラス全体がその言葉に従った。生真面目な硬骨漢であることは疑いようのない飯田だが、高圧的であったり嫌みな面はまったくなく、皆に親身になって接することが委員長の責務と考えているようだった。その結果として、彼は就任ひと月足らずで既にクラスメイトたちから信任を得ている。
無論、ごく一部の"例外"は存在するのだが……ここ最近、彼はずっと静かだった。個性に反して、心のうちは煮え切らないでいるかのように。
(……かっちゃん)
それぞれの思いを抱えて、バスは走り出す──彼らにとっての、ターニングポイントへ。
*
学生20名を乗せたバスとなれば、いかに姦しいのを嫌う担任がいるとあっても静寂を保っていられるわけがない。
「くっ……!こういうタイプのバスだったか……!」
出久の正面でがっくりと項垂れる飯田。その座り方からわかるように、いわゆる路線バスのような座席配置だったのだ。飯田の指示は結果的に無意味なものとなってしまったわけだが、こればかりは致し方ない。
微笑ましい思いでその姿を見つめていると、隣に座る蛙顔の少女が声をかけてきた。
「私思ったことはなんでも言っちゃうの、緑谷ちゃん」
「ん、何?蛙吹さん」
「"梅雨ちゃん"と呼んで」と、彼女──蛙吹梅雨は言った。杏子に始まり、家族同然の女性が複数いる出久にはさほど抵抗のない要望だった。
「あなたの"個性"、なんだか普通とは少し違う気がするの」
「へぁ!?」流石にこれには焦る。「ふ、普通と違うというのは……?」
その吸い込まれそうな黒い瞳は、ブラックホールのようでいてその実深い思慮を懐いている……出久にはそう感じられた。キングストーンと生体改造によってもたらされた世紀王の力は、確かに個性とは似て非なるもの。無論自分にはオールマイトから預かったワン・フォー・オールもあるけれど、いずれにせよ秘密であることには違いない。
核心に触れないまま上手く説明できる自信がなく、出久はわざと曲解しているふりをすることを選んだ。
「たっ確かに傍から見ればチート個性だもんね!?僕なんかには勿体なかったとは自分でもそう、思うけど……」
「そりゃ謙遜が過ぎるぜ緑谷!」切島鋭児郎が口を挟む。「スゲー個性もってても、ガキのうちなんか振り回されるのがフツーだぜ?それがあれだけ戦えたのは、おめェだからできたことだと思うぜ!」
「その点、俺の個性は地味だからなぁ……」と、腕を硬化させながらぼやく。出久にはそれこそ謙遜だと思った。
「そんなことない、すごくカッコイイ個性だと思うよ。プロにも十分通用するよ!例えば──」
己の所見を早口で述べる出久。これは仮面ライダーになる以前からの彼の性癖──いわゆる"クソナード"の部分であった。
「なんか意外だよなぁ。仮面ライダーが同い年ってだけでもビックリだけど、こういうヤツだったなんてさ」
「あ……引いた、かな?」
抑えているつもりだが、ついつい昔の木偶の坊の部分が漏れ出てしまう。出久は己を戒めた。等身大の自分を知ってもらいたいとは思うが、元がそう褒められた性格でない以上計算して出していかないと幻滅されることにもなりかねない。
幸いにして、"意外"と発言した上鳴電気は「ンなことねえよ」と否定してくれた。
「これでホラ、爆豪とか轟みてーなヤツだったら毎日生きた心地がしねーもん」
「あ、アハハ……」
クールで他人の一挙一動に関心のなさそうな轟焦凍はともかく、勝己のことまでイジるとは!昔の出久だったら、それこそ生きた心地がしなかっただろう。
別に今は恐れる理由もないのだが、長年の癖で恐る恐るふたりのほうを見遣った。ちょうど彼らはバス後方のボックスシートの前後に座っている。轟は案の定聞いているのかもわからないような表情で腕組みをしているが、
「……けっ」
「………」
一瞬、目が合った。にもかかわらず逸らされてしまった。その視線は茫洋と窓の外を泳いでいる。初めての対人訓練の日から、彼とはずっとぎくしゃくとした──以前はそうでなかったのかと聞かれればそれまでだが──関係が続いている。打開するきっかけは、未だに掴めないままだ。
焦っても仕方がないことはわかっている。彼とは十年にも渡る断絶があったのだ、雄英の三年間で関係の在り方を模索していくしかない。
出久が切島たちの話の輪に戻って程なく、担任からもう到着すると声がかかった。
──そこは、ドーム型の施設だった。
『待っていましたよ、皆さん』
出迎えに現れた、少年のような声を発する小柄な宇宙服の男。その姿を目の当たりにして、感嘆の声を発したのは出久ひとりではなかった。
"スペースヒーロー・13号"。名の知れたプロヒーローである彼もまた、雄英で教鞭を振るうひとり。出久の隣で、とりわけお茶子が黄色い悲鳴をあげている。そういえば以前、好きなヒーロー談義になったとき13号の名を挙げていたことを、出久は思い出した。
『では早速、中に入りましょう』
「よろしくお願いします!」
礼儀正しく一礼してから、彼のあとに続く。流石にそのためにかかった数秒についてまで、相澤はとやかく言わなかった。ヒーローにはそうした行儀作用も肝要なのだ。
さて、諸氏は"USJ"と言われて何を思い浮かべるだろうか。関西にある、某大型テーマパークの略称……少なくとも少年たちが連想したのはそれだった。出久などは去年修学旅行で行ったばかりなので、とりわけ鮮明な記憶をもっている。
──雄英高校においては、まったく異なる意味があった。
『水難事故、土砂災害、火災……などなど。あらゆる事故や災害を想定し、僕がつくった演習場です』
つまり、"ウソの災害や事故ルーム"──略して、USJ。
(いやUSJだけれども!)
無理矢理こじつけるならば、ヒーローにとって基本中の基本である人命救助について様々な方向から学べるという意味で、夢の楽園と言えなくもない……のだろうか?
ともあれ相変わらずビッグスケール極まりなさに舌を巻いている生徒諸君を尻目に、怪訝な表情を浮かべた相澤が13号に耳打ちする。
「13号、オールマイトはどうした?ここで待ち合わせるはずだが」
『それが……』
刹那、相澤は深々とため息をついていた。通勤途中にヴィラン退治に勤しみまくったオールマイトは、そのために体力を使い果たしてしまったというのだ。緑谷出久を除く生徒には、活動限界のことは知らされていない。
それにしてもヒーロー馬鹿だ、と思う。身体を動かすより先に思考するタイプの相澤としては、ああいう手合いの気持ちは時に理解しがたいものがある。
「……まあ、仕方がないか」
オールマイトの影響力は計り知れないが、教師としてのスキルでみれば自分と13号のほうが上だ。彼なしでも授業にはなる。生徒に目を向けると出久が気遣わしげな視線を送ってきていたので、「問題ない」とアイコンタクトで返しておくのも忘れない。彼の立場は難しいのだ。
というわけで、早々に13号が口火を切った──お小言という形で。
『皆さんご存知かもしれませんが、僕の個性は"ブラックホール"です。なんでも吸い込みます』
その力を利用して、災害や事故から大勢の人々を救出してきた。多大なる功績は、皆の知るところ。
しかし使い方次第では、容易く人を殺めることができる──重く響く言葉。
皆の視線が一瞬、出久に集中する。そう、彼は一年半前まで仮面ライダーとして、数えきれないほどの怪人を屠ってきた。人間より強力な怪人をだ。
そしてひとりを除くクラスメイトたちには知るよしもないことだが、間接的にとはいえ彼はクライシスの民50億もの命を奪っている。命を奪うということに対して、いま最も真に迫る思いで聞いているのは間違いなく出久だった。
『危うさを知ると同時に、個性をいかに"救ける"ために活かせるか……それをこの訓練で学んでほしいと思います。僕からは以上です、ご清聴ありがとうございました!』
13号が一礼する──と、それまで借りてきた猫のようにおとなしくしていた生徒の大多数が一斉に歓声をあげた。とうに自覚している出久でさえその一員だったのだから、いかに彼の言葉が心に響いたか。
(そうだ。僕はこれから先、命を奪わない戦いをしなくちゃならない)
(やっと、やっとそう言えるところまで来たんだ──)
ほのかな喜び。──しかしそれは、無情にも容易く破られるものでしかなかった。
凶兆を告げるキングストーンの鼓動が、腹の奥で重々しく響いた。
「ッ!?」
ぞくりと背中が粟立つ。感じるは、悪意……それもかつて、幾度となく味わったことのある……。
「……デクくん、どしたん?」
「……るんだ」
「?」
「皆っ、早くここから逃げるんだ!!」
唐突な鬼気迫る叫びを、まともに受け止められる者がいようはずもない。教師ふたりでさえ当惑している。
ゆえに、間に合わなかった。
バチ、と音をたてて照明が切れ、中央の噴水の前に突如としてブラックホールが出現する。──そこから覗く、血に塗れたような赤い瞳。
「全員、ひとかたまりになって動くな!」焦燥に塗れた声をあげる相澤。「13号、生徒を守れ!」
突然様子の変わった出久、珍しく焦りを露にしている相澤を目の当たりにして、「あれ、もう始まってんの?」などと呑気に構えていた生徒たちにようやく緊張が走った。
そう、これは演習などではない。
ヴィランの、襲撃──蠢いていた悪意が、遂に牙を剥いたのだ。