いやぁ、新人研修は残酷でしたね...
彼は、あまりに暫く振りな、真っ当な人間が感じるべき温もりを感じていた。
まともな屋根のある場所で。
身体の暖かさを促してくれる、ふかふかの毛布で。
こんな感触が存在したのか...そんな疑問を抱きそうなほどに寝心地の良いソファーで。
夢現にありてなお、そこまで人間らしい『当たり前の幸福』など、それこそが泡沫の夢だったというのに。
「...私は」
毛布を、あまり雑にしないように横への退けながら、彼は自身の今の状態を確認する。
黒いコートは付近に綺麗に畳まれていて、今の『男』の服装は灰のように薄暗い色合いの、そこそこな厚さがある上着と、足首辺りまで隠れるズボン。
髪の毛、眼が総じて黒に染まっているからだろう、彼の雰囲気は、明らかに怪しい...いや、訂正しよう、どこか、二十歳以上程度の少し老けかけた見た目には不相応なほどに陰りのある雰囲気を漂わせていた。
(ここは、どこだろうか)
周囲を見渡すが、ここは、少しカラフルな色の家具たちが目を引くくらいで、基本的にはどうやらかなり贅沢に作られた客室のようだ。
(私はなぜこんなところにいるんだ?)
記憶が無い。
いや、この言い方では語弊が生じるか。
彼は、記憶喪失などの類ではなく、今自身に起きている状況を組み立てる為の、『過去』の記憶が無いだけだ。
思考することがありきな生物の人間が、そうそう記憶がホイホイと抜け落ちてもらっては困る。
──最も、そんなに彼に残っている『モノ』など、もうありはしないのだが。
(これだけ丁重なんだ、恐らく敵意ある行動じゃない...しかし、わざわざ知らない人物を引き上げるようなお人好しがいるものだろうか)
状況的に、本当ならば謝礼を述べるべきところなのはわかっている...しかし、異常な程に、彼の警戒心は強く、最悪の場合を常に頭に入れておかねば安心できないのかもしれない。
自身の、丁寧に畳まれたコートを纏いながらも、何か得られるものがないかともう一度周囲を一瞥していると、たまたま目を移した場所で、その答えの一部を連想させることとなる。
(...吹雪)
轟々と唸りを上げて窓を殴る、白く冷たい『獣』。
その牙の鋭さは、適応したはずの生物の皮膚にも突き刺さる程に鋭利で、人間などが受けてしまえば、身体の肉の一切合財、全て奪い取られてもおかしくない。
一時的な保護として、自身の宅に避難させてくれたのだとすれば、もし相手が人間的な良心の持ち主であると仮定し、恐らくと想像がつく。
ただ、それが本当に正解なのかどうかは彼が知る由もない。
(別に拘束されているわけでもなし、しかし、万が一にも好意で休ませてもらったのならば、隠れて抜け出すのはやはり礼儀知らずというもの)
(その上、仮に抜け出すことが最善策だとしても、ここの外がどうなっているのかは分からず、やはり、見つからずに抜け出せるかも定かではない)
ならば、今この一時、ここまで休息できる状況を提供してもらっているのだから、それに甘んじるのもアリではないか。
贅沢を言うならば、少々彼に喉の『飢え』があるものの、少しばかり飲まず食わずでも、人間は死ぬ事はない。
自身で今取れる最善策を練り上げた彼の行動は早かった。
並みのベッドよりも良質なソファーに座り、毛布で頭以外の全身を覆いながら、出来るだけリラックスできる態勢で目を瞑る。
横になる程安心出来るわけではないものの、『今までの経路』を見れば、今の彼の現状は、とても恵まれたものだ。
休めるときに休んでおいて損は無い。
睡眠は充分に取ったためか、ウトウトとすることは無いようだけれども、身体休めと言うのは睡眠だけで完結するものでは無いのだから。
「...見えないわね」
「ラムちゃん、やめとこうよ...」
「大丈夫よ!ちょこっと見るくらいだけならお姉ちゃんも、ミナちゃんだって怒らないって!」
「で、でも...」
おや、どうやら休息を取り始めた彼にお客さんの様だ。
あまり音を立てずに扉が少しだけ開き、その隙間からは可愛らしい青色の片目が覗いている。
「そんなこと言ってロムちゃんも実は興味あるんでしょ?」
「え、あ...うん」
倒れている男を見つけた少女の声と、彼女とは正反対に静かで臆病な印象のある別の少女。
二人の、小声で平行線な会話が続くも、どうやら話がまとまったらしい。
箍が外れて、元気な少女は満足そうにうんうんと頷きながら、じわりじわり、扉を開いて見える範囲を拡大していく。
もう1人分くらい空いた部分に、またもう一つの青い眼が現れた...きっと、これは静かな少女の方だろう。
さて、彼女達の目に映る男の姿とは、一体どのようなものだろうか。
「大人のおじさん...?」
「ラムちゃん、大人でおじさんってよく分からないよ...」
「でも、ほら...なんだか随分と疲れ切った顔してるから、お兄さんというよりおじさん...」
「ラムちゃん...分かるけど...でも、おじさんって感じじゃないよ」
「でもお兄さんって感じでも...んー」
少女なりの純粋無垢な言葉とは、時に攻撃的だ。
だがそれは時に正しく、なんの色眼鏡もない言葉。
男の見た目や雰囲気、平たく言ってしまえばその通り。
お兄さんというにはあまりにも老けた雰囲気で、しかしおじさんというには若すぎる。
確かに冷たそうな雰囲気ではあるが、冷酷無慈悲というわけでもない。
一見だけでは分からないかも知れないが、男は『どこか中途半端』に見えるのだ。
「...やっぱり入っちゃおう」
「だ、ダメだよ!」
...まぁ、そこまで少女二人は男のことを見ていないようだが。
さて、ロムと呼ばれた少女の抑止も虚しく、抜き足差し足忍び足、で部屋にするりと侵入した、勝気な彼女、ラム。
侵入して光に晒されたことで明かされたこの少女の服装は、もふもふとしたピンク色が基調のメルヘンなドレスと帽子。
彼女自体の幼さが、服装にも現れている...とでも言った方がいいか。
さてはて、それを止めたいロムだが、元々彼女は成り行きで引き摺られたか何からしく、躊躇したまま不安げにドアの隙間から見つめるばかり。
一歩、また一歩と男に迫り行く無垢な悪魔の存在、一体男はどうなってしまうのか。
「ふっふっふ...くらえ!ルウィー流最終奥義の力!」
「待ってラムちゃん!疲れて寝てるお客さんにそんなことしちゃダメ!」
「いいや!限界よ!やるわッ!今よ!」
風を切る音すら聞こえてきそうな素早い悪戯の手が、哀れな男に襲い掛かる!
「やめなさい、ラム」
「あっ、お姉ちゃん...」
「ば、バレちゃった...」
扉の隙間から見える青い瞳は、いつのまにかもう一つ。
ジトっと眉を顰めた視線の鋭さ、今降る吹雪の冷たさの如く。
それでも、窘める声色は怒りこそあるものの、相手への愛情が見受けられた。
「今なら見なかったことにしてあげるわ、二人とも...フィナンシェが朝食を作って待ってるわよ」
「ごめんなさーい!」
「ま、待ってよラムちゃーん!」
駆ける、駆ける、可愛いふかふかの兎達が、扉の隙間から一頭、そして過ぎ去っていく仲間を追ってもう一頭。
その愛らしさ、超一流。
バタバタ、けたたましい足音も数秒経てばそこにあるのは神さびた静寂の『戦場』の跡。
小さくため息をつきながら、男が眠るソファーとはまた違う椅子に腰掛け、本を開いて読み始める少女。
男の目覚めまで、少女はずっと、静寂を弄んでいた。
ハーレム?そんなもんねぇよ。と一言。
ヒロインは決まってるんです...あの子をなぜ誰も救済してあげないのだ...やってるのはやってることがあれだとしても、彼女に罪はないだろうに...