太刀盛り
「ラ、ラブレターですか…?」
私は自分の聞いた言葉が信じられず、問い返した。
「そうです。恋文ともいいます。好きな方に自分の思いを伝える手紙のことです。」
「いや、意味は分かります。でも、どうしてそんなことを…。将棋と関係あるんでしょうか?」
「これは、心を自由にすることと関係があります。自分の心を知るためには、言葉にすることが有効なのです。」
「でも、ラブレターでなくても…。」
「おや、先に言っておいたはずです。理不尽に感じることがあっても、指導に従ってもらうと。」
「それは、そうですが…。」
先生は少し、口調を強めて言った。
「銀子。もし、本当に意味がないと思うなら、やめたらいいでしょう。しかし、もし私のやり方を学びたいと思っているなら、私の言うことに従いなさい。それが、どんなにやりたくないことでも。
どうしますか?」
「…分かりました。やってみます。」
真剣な表情の先生の気迫に押されてそう答えた。その雰囲気から先生が真面目に言っていることが伝わってきた。
「はい。それでは、ラブレターを書いて、また明日来てください。お待ちしています。」
「…はい。」
それでも、私の心は鉛のように重かった。
翌日、私はシューマイ先生を訪ねた。
しかし、眠い。完全に寝不足だ。ラブレターを書こうと机に向かってから、書き始めるまでに何時間もかかった。書き始めてからも、何を書いたらいいのか分からず、それでも書くことがたくさんあって、四苦八苦しているうちに夜が明けてしまった。自分の文章を読み直しては、恥ずかしさに顔を赤らめ、八一がこれを読むことを考えたら、羞恥で死にそうになった。改めて、自分が八一のことがすごく好きなんだ、という事実を突き付けられてくらくらした。近くに八一がいたら、問答無用で殴っていただろう。それでも、先生の真剣な顔を思い出し、なんとか書き終えた。
「ごめんください。」
私は、天辻碁盤店の正面の引き戸を開けて、声をかけた。
「おはようございます。銀子。いい朝ですね。」
お店の奥から先生が出てきた。
「宿題はちゃんとできましたか?」
「…はい。…なんとか。」
「ふふふ。そんなに嫌そうな顔をしないでください。私だって、いじわるでこんな宿題を出しているわけではないのですよ。」
よかった。これで、くだらない理由でした、となったら、先生といえどもはったおしてしまうところだった。
「それでは、奥へどうぞ。」
私は先生に続いて、お店の奥に向かった。
卓袱台ごしに先生と向かいあう。
「銀子。ラブレターを書いてみて、どうでしたか?」
「どう、と言われても…。その、すごく書きづらかったし、恥ずかしくて書くのが嫌でした。」
私は正直に答えた。
「そうでしょう。恋文を書かなければならない、と考えていると重苦しい気持ちになったでしょう。」
「はい。すごく。」
「それが『心が囚われている』状態なのです。勝たなければいけない、と思い詰めすぎる時も同じような状態になり、手が伸びなくなります。」
私は納得した。確かに将棋のことを考えるどころではなかった。あんな状況で将棋を指しても勝てるわけがない。辛香さんの試験官を務めた時を思い出す。
「書くのが嫌だったというのはよくわかりました。その気持ちをよく覚えておいてください。やがては、その反発する心を制御することができるようにならなくてはなりませんから。」
先生はお茶を一口飲んでから、次の質問をした。
「ところで、書いた後はどのような気持ちでしたか。」
「それは…。自分の気持ちを再確認したような、恥ずかしいような…。」
「でも、書く前よりも心が軽くなったでしょう。文字にするということは自分の心を知るための良い方法です。さて、宿題の話はここまでにしましょうか。無理に見せろとは言いませんよ。安心してください。」
そう言って、先生は安心させるように微笑んだ。よかった。実を言うと、先生に手紙を見せろと言われるんじゃないかと、ずっと緊張していた。あの手紙を読まれるくらいなら、関西将棋会館から飛び降りる方がましだ。
「今日は、昨日話した集中力の話をしましょう。そのあとは、私の太刀盛りをご覧になってください。」
先生はひとつ咳払いをしてから、話し始めた。
「銀子。集中するために必要なものは何か分かりますか?」
なんだろうか。集中するために必要なものと言えば…。
「気合い、でしょうか。」
「なるほど。さすがは『戦うセーラー服』の異名をとる将棋指しです。」
私は少し恥ずかしかった。どうにも記者がつけた自分の通り名は好きになれない。
「私が集中するために気を付けていることは3つあります。
体調と呼吸と姿勢です。」
「はあ。」
私は曖昧に返事した。なんだか先生の話はいつも、関係なさそうな身近なものを重視しているような気がする。
「まずもって、体調を万全に整えることが肝心です。特に睡眠と食事が大事です。いつどのくらい眠り、食事をとると最高の状態になるかを心得なければいけません。」
確かに棋士には食事にこだわりがある人が多い。
「そして、呼吸と姿勢です。これは、太刀盛りを見てもらったらわかるでしょう。
…気温も湿度もいい具合です。そろそろ太刀盛りを始めましょう。」
10分後に作業場に来てください、と言い残して、先生は部屋を後にした。
時間通り作業場に向かうと、すでに準備を整え、盤の前に正座している先生の姿があった。私は先生の呼吸と姿勢にしっかりと注意を向けた。
「いきます。」
先生はそういうと、目を閉じ、背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。何度か大きく呼吸し、息を吐いた後、薄く目を開けると、おもむろに日本刀を手に取った。
それからは、まさに神が乗り移ったかのような洗練された動きだった。まったく淀みのない動きで、刀で盤に漆をのせていく。まるで舞を見ているようだった。姿勢に一切のブレはなく、動作はなめらか。流れる水のように自然に体が動いている。
「終わりました。」
先生は刀を置き、はじめと同じように盤の前に正座していた。何度見ても、瞬きを忘れるほど目を引き付けられる。だが、どうしても気になることがあった。
「…先生、どうしてスクール水着なのでしょうか?」
冬は水着を売っていないのです、と先生は顔を赤らめ蚊の鳴くよう声で答えた。
私は先に居間に戻り、お茶を淹れた。先生は疲れた様子で、戻ってきた。やはり太刀盛りという仕事は、ひどく精神を消耗させるもののようだ。もちろんきちんと服に着替えている。
「銀子。ありがとうございます。」
そう言って、私が入れたお茶を飲んだ。少し時間をかけて湯呑を空にしてから、先生は口を開いた。やはりかなり疲れているようだ。
「…見ていただいたように、私はあのようにして集中力を高めて、太刀盛りを行います。
目を閉じ、背筋を伸ばす。顎を引き、深く深く息をする。心が落ち着いたところで息を吐き切り、呼吸を止める。半目を開き作業を始めます。
囲碁の時も同じです。ここだ、という局面で同じように集中力を高め、盤に向かい合うのです。」
太刀盛りをする先生はとても綺麗だった。姿勢も呼吸も、あの舞を構成する一つの要素のようだった。私もあんな洗練された動きをしたい、と自然と思った。
ガタッ。
物音に驚いて、目を向けると先生の湯呑が倒れていた。先生を見ると、手が震え、冬にもかかわらず汗をかいている。
「先生!大丈夫ですか!?」
「ぎ、銀子。そこの瓶を、瓶を取ってくれ…。」
先生が震える声で訴える。私は慌てて先生の指示した瓶を渡した。先生は瓶を手にするとラッパ飲みで、ごくごくと中身を飲んでいく。
「先生、大丈夫ですか?お医者さん呼びますか?」
私は先生の様子にあせり、おろおろするばかりだった。
「かー!もう大丈夫だ!銀子!」
先生は、そう威勢よく言って、瓶を卓袱台に叩きつけるように置いた。
「あっ!」
私はその瓶のラベルに清酒の文字を見つけた。やばい、あれはお酒だ。シューマイ先生が酒を飲んでしまった。
「すまんな!銀子!大仕事を終えた後は、酒を飲まないとダメなんだ!」
あれっ?お酒を飲んだのに、「おち…ぽ」以外の言葉を話してる…?
そうか。まだ泥酔してないから、言葉が通じるんだ。今のうちに、今のうちにお酒を止めさせないと…!
「せ、先生。お酒はそれぐらいにしましょう。お酒ばっかり飲んでたら、体に悪いですよ。」
「大丈夫だ、銀子!今日は最高の肴を用意してある!」
先生はニヤリと笑うと、こともなげに言った。
「銀子、ラブレターを出せ。」
……えっ。
シューマイ先生がお酒を飲んだので、次回は下ネタです。