空にあこがれていた時が、昔はあった。
黒くて深くて、遠くの大空へと落ちてきそうな常闇も。眩しさに目をくらませてしまう暁天も。
広くて大くて、遠く太歳の星を望まんばかりの星空も。寂しさに目をうるませてしまう黄昏も。
星々で天命を伝え、だけども黒く分厚い雲で星宿を隠したり。
かと思えば朧雲の向こうに満月を浮かべたり、遠く西方の神を使わして月を赤く焼いて食べてしまったり。
そんなくるくると移り変わる空模様が、それも含めた天空が大好きだった。
そんな大空を、彼女は危なげなく舞う。
複葉の真っ白いストライカーユニットに太い樽のような発動機を背負い、黒い墨色の軍常服が夜風に揺れる。
月の明かりに純白のユニットが煌めいて、地上からなら流星のように見えることだろう。
「高小……少校」
ぽつ。と、風に流されるくらいか細い声で呼んだ。
「なんだね柳君」
君から話しかけてくれるとは、嬉しいことだ。
志航はくつくつと笑って、腹に抱きかかえられた少女を。哲生を見た。
「今日は、すみません。昼の上官反抗といい…………回収といい、迷惑かけてばかりで」
「結構結構。むしろそれくらいあってしかるべきだ」
志航は、小さく笑った。
「西伐前だって今だって、上官反抗なんかに営倉を割いてたら半日で満腹だ。回収だって、白帝城で一夜を過ごさせてもらうからその苦労も無いような物さ」
それに。一拍おいて、続ける。
「良い経験になっただろう?」
「…………はい」
肯いた哲生を後ろから抱きしめながら、志航は笑う。
銃も地図もない軽装備で夜の空を飛びながら、それは良かったと小さく溢した。
「代わりにユニットを一つ壊してしまいましたけど……」
哲生は巫山の廃屋に放置してきた借り物のユニット一式を思い出して、呟く。
「帰ったら李君に謝っておき給えよ」
罰走どころでは済まないと思うがね。
志航は小さく微笑んで、ふと空を見上げた。
厚い雲の下から逃れた月が真南の最も高い天に上り、煌々と輝く。
「そういえば高少校、夜間飛行できたんですね」
「大漢の空も長いからね。西蔵の荒野や大興城の紅砂にまみれた砂漠に比べれば、これくらい些細なことさ」
「そう、なんですか」
哲生の頭から生えた丸っこい熊のような獣耳が小さく震えた。
「そうだとも。今日も秦嶺を越えて南鄭まで行ってきたところだ」
「高少校も哨戒に……?」
「ああそうだ。忘れたのかね?」
昼に出たばっかりじゃないか。小さく苦笑しながら志航は答える。丁度つまらない意地の張り合いになって頭に血が上ってしまった時のことだ。哲生の頬に朱がさし、恥ずかしさにつられるようにして獣耳がしなりと若干力なさげに折れた。
「そ、その節は本当に」
「
くつくつと愉快げに一噱すると、何かを思い出したかのようにはっと顔を上げて呟く。
「そうだ。少し昔話をさせてくれ給え」
いいかね? 志航はおもむろに口を開いた。
「私は昔、四川軍――張学良の軍に所属していてね……今でいう八路軍さ」
柳君は四川の生まれだったよな。志航の問いに、少女は肩から回された細い腕を強く握って返す。
「まあ、その関係で第二次西川戦争の直後にガリアへ航空ウィッチになるため留学をしてきたんだ」
「西川戦争……お父さんが従軍してたって聞きました」
四川盆地で発生した、二つの大きな軍閥同士の戦争。西伐前の、国母がまだ生きていた時代の出来事。
確か24年だから、13年も前か。ぽつりと志航は呟き、続けた。
「ガリア式の訓練は難儀で難儀で。なんど脱柵しようとしたかわからない……なかでも訓練飛行が大の苦手でね」
丁度こんな風に。
肩から回されている志航の腕を、少女はぎゅっと握った。
新人の航空ウィッチに訓練させるための共同飛行の時のようで、懐かしさとともに気恥ずかしさも感じる。
そんなウィッチならだれでも通る道である訓練飛行が苦手だったと聞き、哲生は思わずくすりと笑った。
「笑わないでくれ給えよ、これでも本当だったんだ」
拗ねたように唇をとがらせる。
「それで結局、向こうの教官にごねて肄業にしてもらったんだ」
「肄業? 仮卒業って……ことですか」
聞き覚えのない単語に、哲生は瞼を閉じてむむと唸った。気を発する丹田が、志航と密着している背中がほのかに温い。
志航はふっと口角を上げた。
「まあそんな感じだね。昆明でいうと“単位が足りないのに卒業できた”……ってことかな」
「それは、すごい…………」
「まあね。教官へごねすぎたきらいはあるけど、結局ガリア政府と四川閥の間で何らかの政治的取引があったんじゃないのかとも疑ったくらいだ」
そうして、くつくつと笑う。昔を懐かしむように、かつての失敗を面白おかしく回想するように。
だから、だ。彼女は幼い子に諭すかのように、口元に笑みを浮かべながら語る。
「…………昼のあれくらいが反抗に当たるなら、私なんて抗命罪だ。上官にごねて肄業扱いにさせてもらうなんて、軍法会議ものだぞ? だから――」
別に、気張らなくてもいいんだ。
ふぅ。すべての文句を言い終わると、大きく息を吐いて、数秒瞼を閉じた。
昔話というほどでもないが、気休めにはなってくれるだろう。
そう結論付けると、志航はむと小さく零して少女を見やる。
「…………柳君?」
返事はない。腹から下腹部にかけて、丹田とは別に熱を持った体温がぴったりと張り付いている。
「寝たかね」
居眠り飛行は危ないぞ。志航は静かに、優しく抱きかかえた身体をゆらす。だらりと脱力した素足が蒼鷹の下でゆさりと揺れ、青灰色の中山服が風に衣擦れる。
哲生の黒い獣耳と白い尻尾が水色の燐光になって、黒いズボンから夜空に向かって溶けるように消え去った。
「爸爸……」
小さく夢心地に呻いた少女に目をやる。
お父さん、か。クスリと微笑んで、気を更に強く練るとユニットの回転を早めた。
「期待に応えてくれ給えよ。柳哲生少尉」
そうしてくつくつと志航は笑った。発動機は再び大きく嘶き、まだ旅の途中だと伝えてくる。
波は大風に逆らってわき起こり、尾を引いて雲が月明りに照らされる。
瞿唐へ。渝城へ。立ちふさがる灎澦堆を越えて、晴れ渡った夜空を飛んでいく。