暑さは人からやる気を奪う、皆も知ってるね。
7月某日、部室で暑さによってドロドロに溶けてる俺は、机の表面で顔を冷やしていた。
「あづいーーーーー。」
「そう言ってると、余計に暑くなるわよ」
「暑い暑いあつーーーい。」
「張り倒すぞこの野郎。」
俺と歌野以外が出払った部室でそんな事を言い合いながら、歌野は軽く俺の頭を叩いてからクーラーの電源を入れる。
「節電で我慢してたらボケジジイの脳ミソが茹で玉子になるし、電源つけるわよー。」
「誰がボケジジイだこら、昔の老後の俺がボケてた記憶はねぇ。」
言い返した俺の声に覇気はなく、クーラーが稼働したことで、ようやく思考回路が安定しだす。
ちらりと歌野を見ると、手首にリストバンドのように、犬に使う用の首輪が巻かれていた。
「なんだよ、あのとき部屋から追い出したのまだ根に持ってるのか? 沸点低いなぁもう。」
「いやキレるわ。 恋人が相手とはいえペット扱いされそうになったら誰だってキレるわ。」
藤森水都の誕生日祝いで『さくやはおたのしみでしたね』した後の歌野が、ベッドに縛られ首輪を着けられる所だったのが昔の話のように感じるのは暑さのせいか。
結局首に着けるのは勘弁する代わりに、腕に巻くことで渋々水都も了承したのだとか。
手『首』も首だよねとかすげえトンチだな、一休さんかお前は。
まあ渋々な辺り第二第三の作戦を考えてるだろから気をつけた方がいいけど、指摘しない方が面白いから黙っておく。
「…………しかし、暑すぎるな。 地球温暖化、ガイア理論、我々は消毒されるべきウイルスの可能性が……?」
「紅葉、貴方疲れてるのよ。」
歌野に肩に手を置かれ、静かにクーラーの温度を下げられる。 疲れてねえよ暑いんだよ。
「……プールでも借りるか。」
「あー、確か棗が先に借りてる筈。 多分OK出るだろうし、行ってきたら?」
「おーう……お前はどうすんの」
「畑。」
「あ、はい。」
ジャージに麦わら帽子を一瞬で装備した歌野は、一言だけ呟いて部室から出ていった。
ああん、歌野ってばストイック。
水都に汗拭いたタオル取られないようにした方が良いよ、と言おうとした頃には、歌野はもう廊下から居なくなっていた。
………………南無三。 面白いからメッセージ飛ばすとかはしない。
◆
要らねえっつってんのに歌野に勝手に買われて押し付けられた半ズボン型の海パンに履き替え、プールに繋がる扉を開く。
清涼感ある空気に身体が冷やされ、夏にも関わらず、ここだけが涼しい一種の異空間のようになっていた。
「あーーー、涼しい。」
軽くストレッチしてから、プールに入る。 夏の日差しで冷たすぎない程度の水温になっていて大変よろしい。
仰向けになって水面に浮かぶと、風で揺れる水に身体が緩やかに運ばれる。
…………水、ねぇ。
こうしていると、西暦の時に海に喚ばれた事を思い出す。 四国に向かうよりも昔、小さいときに俺は家族旅行で向かった先の海で引きずり込まれた事があった。
その時に見たのは、巨大なタコのような触手をヒゲ状に生やした翼のある怪物。 そして、そんな怪物を崇拝する唄。
あれが
ガキの頃のトラウマとして防衛本能が記憶を消していたんだろう、思い出したの西暦の戦いが終わった後に無形の落とし子から襲われた時だし。
―――神世紀72年の大規模テロ。
そりゃ、テロリストの集団自殺として片付けられるわな。 あながち間違いじゃねえんだもん。
そこまで考えて、俺は息を吐き出しプールの底に潜水。 水を間に挟んで屈折した朧気な太陽を見やる。
僅かな息苦しさを感じている俺の脳裏に、ガキの頃出会った旧支配者を崇拝し、讃えた例の唄が流れ出す。
思考回路が、泥を被せられたように鈍る。 息苦しさが増し、視界が黒ずむ。
肉体はプールの底に、だが精神が、海の底まで引っ張られる。 チカチカと視界が明滅して、星が散らばると―――――
気が付けば、ギョロリとした巨大な瞳が俺の姿を鏡のように写し出していた。
「―――――。」
口を開こうとして、隙間から水が流れ込んで来そうになり慌てて閉じる。
苔むしたような、不愉快な緑色。 悪魔じみた翼に、タコの触手めいた髭。 紅い瞳をまじまじと見れば見るほど、吐き気と不快感が増して行く。
『召喚の呪文を唱えるものは真っ先に殺せ』とまで言わせた恐ろしき邪神そのもの。 俺の眼前には、かつて旧支配者と呼ばれていた邪神、クトゥルフが鎮座していた。
いや、まあ、だからなんだって話なんだけど。 なにお前暇なの? わざわざ俺呼び出すくらいなら部下でもこっちに寄越せよ、退散の呪文使って封じるから。
俺達の子孫がテロ当時の魔導書を何冊回収して大赦に保管させてると思ってんだ。
それと旧友を呼ぶような気軽さで人の精神を海底に連れてくるんじゃねえ。
「―――――クソタコ野郎、お前が天の神の味方でなく地の神の敵でないなら、黙って大人しく事の顛末を見てろ。」
ごぼごぼと口から泡を吐きながら、不快感を抑えて俺は言う。 旧支配者だの外なる神だのは、恐らくは観測者なのだろう。 喚ばれたら応えるが、そうでないなら観察に勤める。
このタコ野郎もきっと、俺が正規の手順と方法で呼び出せば、地の神の味方として戦ってくれるのかもしれない。
対価に四国全土の住民の血液とか要求されるからしないけど。 やっぱ神ってどいつもこいつもクソだわ。
俺の言葉に納得でも…………する思考があるのかはともかく、旧支配者は、少しして静かに海底の闇の奥へ消えていった。
……これで『自分を見ても精神の正常さを保てる奴にまた会いたかっただけ』とかだったら、巫女の力を借りてでも向こう数百年は出てこられないように封印してやる。
旧支配者が姿を消したのに合わせて俺の意識もまた海面に浮上するように浮き上がる―――のは良いんだけど、俺さっきまでプールの底に居たよね。
俺の体今頃溺れてると思うんですけど。
◆
「―――――ごっぶ!?」
胸に叩きつけられた拳の衝撃で、俺は飲み込んでいたプールの水を吐き出しながら起こされた。
う、ごごごごご…………!
「……良かった、起きたか。」
「今ので死ぬところだったけどな」
いつぞやの赤嶺友奈に心臓を潰された時よりは遥かにマシな痛みを我慢して、俺を蘇生した正体の確認をする。
スポーティーな白い水着を着た棗が、心配そうに俺を見ていた。 褐色な肌に白が映える。 良いんじゃないかな、うん。
「お前……何処行ってたんだ。」
「休憩がてら水分補給をしていたんだ、戻ったら紅葉が沈んでいて息もしていなかったから慌てたものだ。」
「ああ、そうか。 迷惑かけたな。」
「心臓マッサージと人工呼吸を二セット繰り返して、三セット目に入った所でようやく目覚めたんだぞ。」
「……あー、はい。 そっすか。」
いや、人工呼吸はノーカンでしょ。
心底ホッとした様子の棗を見て、こう、罪悪感がね。
最悪の場合湯船に浸かったまま喚ばれてこっちが茹で蛸になっちまうからな
「一応聞いておくが、クトゥルフ、ダゴン、インスマス。 他にもあるがどれか一つにでも聞き覚えはあったりするか?」
「…………海に関わるモノか? すまない、響きに覚えはあるが、そう言う事に詳しくはないんだ。」
「ああ別に良い、知っていても損しかないからな。」
見るだけで、知るだけで、聞くだけで精神を抉り削られる『モノ』だ。 棗の言う『海の神』が旧支配者関連でなくて良かった、どちらかと言えばルギア的な方っぽいし。
その後も冷えた体を太陽の光で暖めながら無駄に綺麗なフォームで泳ぐ棗を見ていると、少し離れた所に置きっぱなしのスマホが音を鳴らした。
「電話か、誰だ……」
「紅葉、しんどいのは分かるが横になったまま転がらないでくれ、セイウチかオットセイにしか見えない。」
あんな脂肪まみれじゃないわい。 俺はなんとかスマホを手に取って、電話の主を確かめる。
そこには勇者部因縁の相手の名前である『赤嶺 友奈』と書かれていた。
「はい着拒。」
あいつどうやって俺のスマホと連絡先交換したんだよ、いやちょくちょく俺の部屋に勝手に入るからチャンスは幾らでもあるけどさ。
「誰からだ?」
「うんにゃ、セールス。 着拒したから大丈夫。」
「そうか。」
仰向けに浮かび、足を動かして泳いできた棗に適当に返しておく。
スマホの電源を落として荷物の底に突っ込んで、俺は改めてプールに入り直した。
……これ絶対後から面倒になるパターンだよね。
……棗要素は何処…………?