「出来る限りの治療は致しました。後は10日も安静にしていれば、大丈夫でしょう」
右手を何度か軽く握っては開く。特に痛みは無い。
そして、そのまま左足を軽く叩き、また足を何度か前後に振る。やはり痛みは感じない。
「……おぉ……! ありがとうございます」
さすがは大国ガリア、その中でも王宮に在中しているであろうメイジである。腕は最高級であることは間違いない。まさか折れた手足がこうも簡単に治るとは。
「とはいえ、完全に元通りという訳でもありませんが」
「……というと?」
仕事上の義務なのか、決して優しさではないだろう、にこりともせずに俺の腕を治した男のメイジは言う。
「足はそれほどでもありませんが、腕に関しては理想的な折られ方をされています」
「はぁ、なるほど……?」
言われたことの意味がわからず、呆けた返事を返す。
「敵兵を無力化するのには、ということです。かなり複雑に折れていましたので、完治とは言えません」
「後遺症、ということですか?」
俺の問いに頷く。
「激しく動かした際に強く痛む可能性がある、という程度ですが。まあ、日常生活にはなんら支障は無いでしょう」
そう言った後、今思い出したのか、『あ、そうでした』などと呟きながら、彼は一つの薬瓶を取り出した。
「治りを早める薬です。どうぞ」
「あ、ありがとうございます。飲み薬ですか?」
「ええ」
綺麗な透明感のある青色の薬だ。受け取り、蓋を開ける。失礼にならないように軽く臭いを一嗅ぎすると、口を湿らせる程度に含んだ。
妙な臭いも刺激も無い。舌に残るのも薄荷のような清涼感だけだ。こんなことに大した意味は無いが、やらないよりもましだろう。
「……変なものなど入っていません。一応用量も考えて用意したので、一壜まるまる飲んでください」
僅かとはいえ、口調に不快感を滲ませながらそう言う。
……確かにこんなことをされれば、気分は良くないだろうな。
彼の言葉を笑ってごまかすと、俺は残りの薬を喉の奥へと流し込んだ。
ガリアの首都リュティス。俺は今そこに居た。さすがに他国の首都などに来たことが無いので、今自分がいるこの城がなんという名前なのかまではわからないが。まあ、おそらく二度と来ないであろう城の名前なんかに欠片も興味は無いからどうでもいいと言えばどうでもいい。それよりも大切なのは、この腕だ。
ガリアの王宮で受ける治療と言うことは、それはつまりこの世界では最高級、いや最高のものだと言ってしまってもいいだろう。少しばかり関節が増えていた俺の腕と足は、再び自由に動くようになっていた。
とはいえ当たり前だが良いことばかり、という訳でもない。
一番解せないのは、着いたら何の話もなく、まっすぐに医務室に連れて行かれたことだ。それもタバサに案内されてではなく、すでに待機していた城内の人間によって、だ。
まあ戦場帰りなのだから、多少の怪我はあって当然だ。医務室に連れていかれたのは、わからないでもない。
……気味が悪いのは、されていたのが骨折の治療の準備であったことだ。タバサにも確認したが、そもそも連絡手段がなかったため、俺の容体などは一切伝えていないということだ。
俺の事が筒抜けになっていることもそうだが、それを一切隠すつもりさえないということが一段と不安を煽る。
ここに来て、今自分が置かれている状況に関しての実感が湧いてきた。
……今更だが、無事に帰れるのだろうか。
タバサの案内の元、城内を歩く。埃ひとつ落ちていない廊下には、絵画などの美術品や花の活けられた花瓶などが配置されている。とはいえ世界一の大国の城内にしてはそれほど多く飾られているという訳ではなく、場の空気を引き締めるような静謐さを感じさせる程度の数だ。
それは金がかかっていることはわかるが、同じ金がかかっているであろう内装でもある種の乱雑さがあったツェルプストー家とは違い、洗練された上品さを感じさせる佇まいだった。
「ここ」
タバサが一つの大きな扉の前で足を止める。
この奥にジョゼフがいる訳か。
軽く周りを見渡す。ボス部屋の前なんだからセーブポイントを置くくらいのことはしたっていいものだと思うのだが、何度廊下を見渡そうが、これといって特に何もない。全く、お約束と言うのがわからない男だ。
「……はぁ」
出来る限り音が出ないようにため息を一つ吐くと、扉に手をかける。
ここまで来た以上もはや引き返せる段階ではないが、この扉を開けてしまえば本当に後戻りは出来ない。
タバサの前じゃあ『良い機会だ』なんて格好いいセリフを吐いたが、本音を言えばそりゃ行きたくない。誰かを助けたことを後悔なんてしたくないから、それによって起きたことに対してだって臆したくない。とはいえこうしてそれを目の前にすると、さすがに心の中まで恰好よく、とはなかなかいかない。
後ろをちらりと振り返り、そこにタバサがいることを確認する。
……せめて人の目がある時くらい、意地を張りたい。
扉に向き直り、かけた腕へと力を込めた。
部屋の扉を開けた瞬間、鼓動が大きく一つ跳ねる。
ぽつりぽつりと家具が置かれながらも、どこか寒々しさを感じさせる広い部屋。部屋の主の趣味なのか、所々には玩具らしきものが置かれている。本来ならば暖かさや微笑ましさを感じさせるであろうそれらも、それが今この部屋に与えているのは空虚さのみだ。
その部屋の中央にその男は居た。
その整った顔立ちからすれば年の頃は30代かそこらにも見える、意志の強そうな鋭い目つきに、威厳を表すかのように蓄えられた青髭。頬はすっきりとしており、顔を見るだけで肥満なんて言葉とは無縁であることがよくわかった。椅子に座っているせいで背丈こそはっきりとはわからないが、少なくとも俺と頭一つ分以上は違う、かなりの長身だろうことは間違いない。
机に乗せられた腕はまるで丸太か鋼のようで、王だというのにまるで一介の将軍のような剛健さだ。
ジオラマか何かだろうか、ここからではよくわからないが何やら巨大な箱庭のような物を背に椅子に座すその男は、俺へと向けて笑顔で手を広げて声を張る。
「待っていたぞ! よくぞ来てくれた! シャルロットの友人よ!」
それらの言動に込められていたのは歓迎の意と、喜びの感情。だが、俺がそこから感じ取った物は、何故かそれとは正反対のものだった。
……気味が悪い。
根拠は無い。あえて言うのならばこの男が持つ雰囲気のせいだろうか、俺の勘がこいつに関わらない方がいいと言っている。
タバサのお袋さんが以前ジョゼフを沼と表現していたことに、今更ながら心の中で同意した。
とはいえそれをおくびにも出してはいけないということがわかる程度の頭と、出さないように出来る程度の経験は積んでいるつもりだ。
タバサのお袋さんの時とは状況が違う。まずはしっかりと挨拶をせねば。
軽く右足を引き、膝を着く。
「この度は……」
「ああ、いい、いい」
ジョゼフはうっとうしそうに手を振った。
「可愛い姪の友人とあらば、余にとっての甥も同然よ。細かい礼儀など気にしなくても良い。まあ、座れ」
そう言って机を挟んで自分の向かい側に置かれた椅子を指す。
「……はい、失礼致します」
よくわからないが向こうが良いと言っているのだから、気にしなくてもいいのだろう。出鼻をくじかれたことと、とんとんと進んでいく展開に奇妙な気味の悪さを感じながらも、おずおずと椅子に腰かける。
チェス盤の置かれた机越しに、ジョセフと相見える。
俺の様子を一瞥した後、まるで何かから守るかのように椅子に座る俺の後ろに静かに立つタバサへと顔を向ける。
「しっかりとした良い男ではないか、シャルロット。シャルル亡き今、叔父である余が親のようなものだからな。お前の交友関係を心配していたのだが、杞憂だったようだな」
その問いかけにタバサは無言で対応した。それはそうだろう。親の仇が親代わりを自称するなんて、悪い冗談だ。
「しかし、呼んでおいて悪いのだが」
元からタバサの返事など期待していなかったのだろう、気にした様子さえ見えずにジョゼフは何やら悲しそうな顔で俺へと話しかける。
そのころころと変わる表情だけ見ていれば、彼が悪い人だとは思えない。
「お前くらいの年頃の者とどう接したものか、余には皆目見当がつかんのだ。すまんな」
「いえ、そんな……。お心遣いはありがたいのですが、お会いできただけで望外の喜びですので」
その言葉にジョゼフはきょとんとした後、さも楽しそうに笑う。
「それはいい! まさにそつがない返答だ。とはいえ、まさかこんな辺境の小国までわざわざ呼んでおいてただ帰すという訳にもいくまい」
そうしてジョゼフは得意げな顔で、机に置かれたチェス盤を指で叩いた。
「余が唯一人並みにできることよ。指せるか?」
……チェスか。自分で言うのもなんだが、そこそこ自信はある。少なくとも知人や友人、家族相手では負けた覚えがない。趣味はチェスだと言っても恥をかかない程度の実力はあるつもりだ。
「手慰み程度の腕前ですが」
「十分だ。とは言ってもただ指すだけ、というのも面白くあるまい。どうだ、一つ賭けでもするか? 余が負けた時は、なんでも一つ願いを聞いてやろう」
「いえ、生憎ですが自分には……」
狂王という呼称さえある人間相手に賭けなんて恐ろしいことはできない。ガリアの王になんでも願いを聞いてもらえるというのは確かに魅力的だが、そもそも俺が王相手に差し出せるものなど何もない。もちろんジョゼフがその約束を守ると言う保証も。
そう思って即座に断ろうとした俺の言葉を遮って、ジョゼフは言葉を続ける。
「賭けるのはこちらだけだ。ハルケギニアの未来を担う若人から、何かを奪い取るほど余も狭量ではおらぬ」
「あ、い、いや、それはさすがに」
そんなうまい話があってたまるか。裏に何があるのか、わかったものじゃない。
焦りながらも断ろうとする俺を尻目に、ジョゼフは白のポーンを動かした。
「余もこの年になってやっとわかったが、若人に足りないのは時間は有限であるという意識よ。仮に負けたとしても何も取らん。何を怯えることがある」
「は……い。自分で良ければ」
わかりやすい世の縮図だ。上に言われたことに対してできることは、返す返事を選ぶことだけだ。
……『はい』と『わかりました』の二つから。
「余としても安心しているのだ」
独り言のようにそう呟きながら、ジョゼフの手が俺のポーンへと伸びる。それを取ると、白のナイトがそこへと降りた。
ふむ……。顎に左手をやり、少し考える。
「シャルルが何者かに殺され、またあれの妻まであんな哀れなことになってしまい……その悲劇が愛する姪の顔から笑顔を奪い取ったのだ。なんと残酷で、許しがたい非道ではないか……。そう思うであろう?」
歌劇の登場人物のようにそう謡う。
歪む口元を隠すために顎に添えた手を口元にやりながら、無意識のうちに空いた右手の指が机を叩く。
……気に入らない。まるで自分は無関係でござい、とでも言うような口ぶりだ。
自分で手を下したのかどうかは知らない。でも、どう考えても、それをやったのはお前だろう。
オルレアン夫人が薬を飲むことになった状況は、夫人やタバサから話で聞いた。ジョゼフがやったことは間違いない。
だが……証拠がない。いや、あっても意味が無いのだ。証言があろうが、状況証拠があろうが、誰の目にも明らかな物証があろうが、大国ガリアの王を裁くことなど出来はしない。
それを自覚した上でのこの言動だ。
ポーンでナイトを軽くどかす。
「……おっしゃる通りです。ですがそのような悪逆非道の輩には、いずれ天より罰が下るでしょう」
俺のその言葉を、ジョゼフは大声で笑い飛ばした。
「天よりの罰とは……お前も、信じてもいないものをよく言ったものだ!」
何がそんなに面白いのか、ジョゼフは笑いながらもキングを一つ動かした。それは読んでいた。間髪入れず、ルークを前線へと進める。
チェスの三割は心理戦だと言ったのは誰だったか。耳障りな笑い声を無視しながらも盤面を眺める。
「上手いな」
即座に指し返した俺の指し手を見てにやりと笑う。
「まるで棋譜をなぞっているかのような、綺麗な手だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「だが、それは相手も綺麗な手を打つという前提があっての話よ」
そう言ってクイーンを掴むと、前線へと押し上げた。
「……んっ……?」
このタイミングで、クイーンを動かす意図がわからない。もう一度盤面を広く確認する。
……やはりこの動きに特に利点は見当たらない。ビショップの動きが利きにくくなっている分、ジョゼフの手損じゃないのか、これは。
不安はある。とはいえここで止まっていても仕方がない。自分もチェスは全くの素人という訳ではない。
……もしかしたらがあるかもしれない。自分でも信じていないそんな考えを胸に、俺は駒へと手を伸ばす。
……どこでミスをした?
気付けば盤面は押されていた。悪手にしか思えなかったクイーンの一手が、今となってはこれ以上ないほど効いている。これ以上どう動かしたところで、俺の陣地の空いた部分にクイーンが突き刺さるとしか思えない。足りない俺の頭でだって、そこから圧倒されていくのが見えるようだ。
……思い返しても自分の指してきた手にミスが思い当たらない。
それはつまり自力に圧倒的な差があるということなのだろう。……多少の自覚はあったとはいえ、正直思ったよりも悔しさが強い。
もはやここからの巻き返しはおそらく不可能だろう。とはいえそう簡単には諦められない。
「それにしても、最近は物騒なことだ」
「……ええ、まさに。まさかこの若輩者の身で、戦火に身を投じる日が来ようとは思いもしませんでした」
無礼にならない程度に会話に気を払いながらも、やはり意識は盤面へと向かってしまう。
「いや、そちらではない」
…………? よくわからないな。他に何かあったか? タバサを取り返しに行った、アーハンブラでの事への皮肉か?
「お前やシャルロットが通っている学院が、賊に襲われた件についてだ」
「……………………は?」
予想すらしていなかった言葉に、ぽかんとした口から無礼に取られかねない言葉と共に息が抜ける。
かろうじて機能している耳に、ジョゼフが言った『そんなところが手練れに襲われるとは、なんとも不思議な話だ』という耳障りな言葉が入る。
……不思議な話だ、ってなんだよ。なんでお前がそんな話を知っているんだ。それはつまり、それにはお前が一枚噛んでいるってことじゃないのか。
このタイミングでそんな話をするなんて、その件の後ろに自分がいることを、隠すつもりすらないってことか?
険しくなりそうになる表情を必死で固定し、冷静なさまを装う。だが僅かとはいえ眉間に皺が寄ったであろうことが、自分でもわかる。
それを誤魔化すために、俺は睨み顔をせめて盤面へと向けた。
「まあ、銃士隊、だったか? アンリエッタ女王肝いりの隊士以外には、ほぼ被害も無かったということだが」
どことなく不満そうにも感じる声色でそう話す。
ジョゼフの言葉だ。鵜呑みに出来るわけではないが、それを聞いて少し安心した。
見ず知らずとはいえ、銃士隊の方々に被害が出たことを可哀そうだと思う程度には優しいつもりだが、それによって俺の知り合いに被害が出なかったことを喜べる程度にはドライなつもりだ。
俺は手で口を隠すと、気付かれないように安堵のため息を一つ吐く。
「ああ、悪い、忘れていた」
だがジョゼフはさも今思い出したかのように、言葉を付け足す。おそらく俺が安心するのを待っていたのだろう。それは隙を衝くという意味では完璧なタイミングだった。
俺がその言葉に驚き、意識に出来た一瞬の空白の間に、ジョゼフは机に身を乗り上げ、他聞をはばかる話をするかのように、俺に顔を寄せる。
「いや、大したことではないが、聞いた話では使用人が一人被害を受けたということだ」
……使用人?
混乱した頭に入り込んだその単語が、一人の影を形作る。
「名前はなんと言ったかな……? そう……」
安全だと思っていた戦場でいきなり一つの隊を率いることになり、そして彼らを死に赴かせながらも自分の手で人を殺し、死を覚悟して一人残って戦い、命を拾えたことに安堵したのもつかの間大国ガリアの王に謁見し、そこで学院が襲われたことを聞く。そして、被害を受けたであろう人物として俺の脳裏に浮かぶのは、一人の知り合い。
乱降下する気持ちと状況、そして、多大なストレスに、もはや俺の頭はブレーカーが落ちたかのように空っぽだった。
「アラベル……といったかな?」