細かいところの訂正や、溜まってしまっている感想への返信などは今週中にはやります。
……あれはいつのことだったか。学院に来てしばらくが経った頃、自室から夜空に浮かぶ双月を眺めていた時だ。
俺の頭の中の片隅に残る、夜空に一つだけ輝いていた満月の記憶と、目の前の光景のあまりの違いに、まるで足元の地面が崩れていくかのような、よくわからない不安と寂寥感と感じたことを強く覚えている。
俺が目の前の光景から感じた物は、あの時のそれによく似ていた。
「……おかえりなさい、でいいんですか?」
「ああ、文句なしだ。……ただいま」
特に連絡をしていた訳でもない。完全な偶然だろう。
学院へと辿り着き、とりあえずは部屋へと戻ろうとした俺の前に、なんでもないことのように彼女は通りがかった。
本来いるはずのない人間を見たからか、少々面食らった様子で彼女……アラベルはそう言って挨拶をすると、軽く頭を下げる。
そのまま彼女は俺の上から下まで観察するようにざっと見ると、再び視線を俺の顔へと戻した。
「お疲れみたいではありますが……、特に怪我などはされていないようで安心しました」
「まあな。色々と危なくはあったが、幸運に恵まれて何とか無事だ。普段の行いのおかげだろうな」
「普段の行いを言うのなら……いえ、まあ、今回はそういうことにしておきましょう。ミス・タバサもお疲れ様です」
彼女は俺の後ろに着いてきていた、タバサにもそう声をかけた。タバサもこくりと、頷くことで返事をする。
軽く会話を交わしながら、怪我は無いか、確認のために俺も彼女へと目を向ける。足元から順に見ていき、そしてやはり、彼女の顔で視線は止まった。
「ああ、これですか?」
俺の目線の動きに気付いたのか、彼女は自分の後ろ髪へと手をやる。
元々彼女は、肩より少し下の辺りまで髪を伸ばし、それを頭の後ろで一つにまとめていた。だが、今は肩口で切りそろえるようにして、整えられている。
「まあ、いろいろありまして。最近少し暑かったので、丁度よかったと言えば丁度よかったのですが」
細かい事情を言わないのは、余計な心配をかけないためだろうか。それほど興味もなさそうに、なんでもないことのようにそう言った。いや、実際にそれほど気にもしていないのだろう。今までの付き合いから、なんとなくそれは察することができた。
「そうか。……確かに、まだ、暑い日が続くからな」
目線を彼女の顔から逸らし、何とかそう返答する。
最低な発言であることを自覚したうえで言わせてもらえば、たかが髪の毛だ。放っておけば伸びて元通りになる。髪は女の命と言うらしいが、それでも本当の命に比べられる程のものではない。少しばかり髪が焼けたからといって、何だと言うのか。そもそも本人ですら、それほど気にしていないのだ。俺がそれに対してどうこう思うのは、的外れもいいところだろう。
……でも、それでも、俺の所為で大切に思う人が危険な目に遭ったという、これ以上ないほどの判りやすい証は、今の俺には直視できなかった。
「……悪い、今日の所は部屋に戻らせてもらう。夕食はいらない」
アラベルは俺のその言葉に2度ほど目を瞬かせると、少々不思議そうな様子のまま軽く頷いた。
「え、ええ、了解しました」
……情けない話だが、少しふらふらする。早く部屋に戻って、横になりたい。
少々不躾だが、会話を打ち切るとそのまま部屋へと足早に向かう。
「あ、あの……」
後ろからかけれらたアラベルの声に、意識して作った軽い笑顔を浮かべて振り向く。
「どした?」
「いえ……後で部屋に伺ってもいいですか?」
……今日はまずいな。流石にメンタルの方に余裕が無い。何かの拍子にみっともないところを見せる可能性すらあるレベルだ。
ただでさえタバサには、この年にもなって状況も考えずにキレるなんて、死ぬほど情けないところを見せているのだ。赤ん坊でもあるまいし、流石に一日の間にタバサ、アラベルと立て続けに醜態をさらすのは、勘弁願いたい。
だがまあ、たかが精神的な問題だ。一晩立てば立て直せるだろう。
「あー……疲れてるから、今日は勘弁してくれ。明日なら別に構わないから」
「わかりました。ベッドメイクなどは定期的に行っていましたので、すぐに休めると思います」
「わかった。ありがとう」
「それと……」
「ん?」
そう言って言葉を区切ったアラベルへと声をかける。
「無事に帰ってきてくれて……本当にありがとうございました」
彼女はそう言って、頬を緩めた。
「……私、何かまずいこと言いましたかね」
「…………あなたは悪くない。ただ状況が悪かった」
彼が自室へと戻り、その背中が見えなくなった頃、彼女が漏らしたその独り言のような言葉に、私はそう返事を返した。
確かに彼女が何か悪いことでも言ったのかと思うのは仕方がない。
彼女が彼に、無事に帰ってきてくれてありがとうと伝えた時の彼の表情は言葉にしがたいものがあったからだ。
唖然としつつも泣きそうな、それでいてどこかほっとしているような表情。私でも、いくつもの複雑な感情が混ざり合っていることがわかるようなものだった。
「状況、ですか?」
「そう」
学院に戻ってからも、何かあった時のためにと彼の後ろに付いていっていたが、流石に今の彼は一人にした方が良いだろう。
そう判断した私は、部屋に戻る彼の後を追うことはせず、そのまま彼の背中を見送った。とはいえ心配ではあるので、明日の早いうちにでも、顔を出しにはいくことにしよう。
そして何をするでもなく、そこに立ったまま、同じく横に立つ彼女と会話を交わす。
「あなたが襲われたという話を聞いて……」
そこまで言って、手を口元にあてて言葉を区切ると、少し考える。
あなたが襲われた話を聞いて彼がこうなった、そして彼はおそらくこれこれこうした感情を抱いたのだと思う。そう言うのは簡単な話だが、果たして私がそれを言ってしまっていいものなのだろうか。
「襲われた……まあ、襲われたと言えばその通りですけど。…………まさかとは思いますが、アシル様は私が具体的に何をされたのか、きちんと知っているんですよね? 襲われたという単語だけで、変な勘違いをされていると困るのですが」
具体的に何をされたのか……彼にどういった説明をしたのか振り返る。
「賊に襲われて火傷をしたことと、それは痕がわからないほど完治していることについては話してある」
「いや、大事なのはそこではないんですけど。なんというか乱暴されたみたいな形で勘違いされていたら嫌だなあと。……いいです、明日早いうちに私のほうで説明しておきます」
わずかながらも疲れたような様子を見せながらも、彼女はそう言った。話だけを聞くのならば、私が彼にした説明が言葉足らずであったようだが、何か付け足すべきことがあっただろうが。
少し考え、はたと気づく。襲われるという言葉に、そう言った意味合いもあることが、頭から綺麗に抜け落ちてしまっていた。確かにこれは、言葉足らずだった。
「……別に説明なら私の方からしておいてもいい」
「ありがたい話ではありますが、遠慮しておきます。私のことですし、私の方からしっかり説明しておきます」
……断られてしまった。
それに関してどうこう思う間も無く、彼女はそれに、と言葉を続ける。
「これに関してもきちんと話をしておきたいですし」
そう言って、後ろ髪に手をやった。
「……やはり、気にしている?」
私自身あまり身だしなみに気を使う方ではないため、髪を短くしなければならなくなったことの辛さはよくわからない。だけれども聞いた話によると、人によっては寝込んでも不思議ではないほどのものなのだそうだ。
私がかけたその言葉に、彼女は口元に手をやり少し考える。
その姿にわずかに彼が重なった。彼も何かを考える時、癖なのかよく顎や口元に手をやっているが、同じ癖だろうか。親しい間柄だと、癖などの言動が似通ってくるものだと聞くが。
…………別段深い意味はないが、私も意識的に口元に手を当てて、考えるふりをしてみた。
……ふむ、案外しっくりくるような気もする。
私がそんなことをやっている間に、考えがまとまったのか彼女が口を開く。
「全く気にしていないと言えば流石に嘘になりますが……やはりそこまでのことでもないです。しいて言うのなら、うなじの辺りがいつもより涼しいことが気になるくらいで。正直、こんなことのために気を遣わせてしまう方が嫌ですね」
「なるほど。……でも先ほどの様子からすると」
「ええ。随分と気に病ませてしまっているようで」
なんとなく二人で彼が歩いて行った方へと、視線を動かす。当たり前の話だが、彼はもうすでにそこにはいなかった。
「……正直、私の事をそこまで気にするとは思いませんでした」
まるで独り言のようにぽつりとこぼれた彼女の言葉に、私もほとんど反射のように言葉を返す。
「そんなことは無いと思う。少なくとも、私は彼が声を荒げた所は初めて見た」
それを聞き、彼女は訝しむかのように眉をひそめた。
「……声を荒げた? どういった状況でなのか、全く見当がつかないのですが」
…………しまった。流石にどう考えても、彼が声を荒げることになった経緯は伝えられない。ガリアの王が学院を襲った賊とおそらく裏で繋がっていた、という話をするのは、あまりにも危険性が大きすぎる。
「…………つまり、あなたが襲われたという話を聞いて、とても心配していたということ」
「……なるほど。それは不謹慎かもしれませんが、うれしいものですね」
当然ではあるが、私が誤魔化していることを感じたのか、深くは聞いてこなかった。
ただ少々納得がいかなかったのだろう、腑に落ちない様子のまま後ろ髪へと手をやる。
先ほども言っていたが、急に髪が短くなったことで首元の感覚に違和感があるのだろうか。それともああ言っていても、やはり気にしているのか。
様子からすると前者のようではあるが、それでも実際のところどうなのかはわからない。
「……個人的にはその髪型も似合っていると思う」
話を逸らすために、それ以上に髪型のことを気にしてほしく無くて、気付けば私はそう声をかけていた。
私のその言葉が意外だったのか、彼女は僅かに目を見開くと、そのまま軽く微笑むように目を細める。
「……ありがとうございます」
再度、私は先ほどの彼の事を思い出す。
さっき彼は、今日は部屋に来るのはやめてくれと言っていた。そして明日ならば構わない、とも。
彼がそう言った以上、おそらく明日以降の彼はいつも通りに戻るのだろう。でも、きっとそれは今回の事を乗り越えたからでなく、飲み込んで平静を装っているだけだ。それではいつか必ず、破綻するときがくる。
加えてまずいのが、ガリアで彼が怒鳴り声を上げたところを私が見てしまっていることだ。おそらく彼は、あれを醜態だと、そしてそれを私に見られたことを恥だと考えているように思う。
ならばこそきっとどんなに辛くとも、今まで以上にそれを隠そうとするのに違いないはずだ。そしてもともと人の心の機微に聡いわけではない私が、気付けるとは思えない。
「…………」
「どうかなさいましたか?」
自分の事を見つめる私の視線に気づいたのか、彼女はそう問いかけてきた。
私が気付けるとは思えない、ならば気付けそうな人に協力してもらうのが一番だろう。あまり細かい話は知らないが、彼と親しいらしい彼女ならば察することができるかもしれない。それに何人かの例外を除いて、人との関わりがあまりない私よりも、彼女の方がそういったことにも詳しいだろうというのもある。
「手を貸してもらいたいことがある」
とはいえ自分の事を知らないところで詳しく話されることなんて、誰だってそうだが、間違いなく彼も嫌がりそうだ。
どこまでをどのように話したものか、そんなことを考えながら私は彼女へと声をかけた。