「ようタバサ、おはよう」
「おはよう」
図書館に向けて廊下を歩いていると、前から見知った顔が近づいてくるのに気付いた。同じようにこちらに気付いたらしい彼が片手を挙げて挨拶してきたのに、私たちも同じように返事を返す。
「……大丈夫? なんだか疲れているように見える」
アルビオンからの帰還、ひいてはあの男との会合からしばらくが経った。私が考えていた通り、学院に戻ってきた次の朝には彼はほぼ普段通りの様子に戻っていた。……私の感覚としては戻ってしまった、といった表現の方が正しいかもしれない。
そのこともあり、彼の様子には気を付けるようにしていた。普段通りに戻ったとはいえ、流石にどこか疲れた様子ではあったが、今朝は一段と顕著だ。
……正直もっと気になる、聞きたいことが一つあるが、何よりもまずは体調についてだ。
「そうか? ……あー、体を鍛えようかと思って、最近朝一で軽く体を動かしてるんだよ」
あと単純に朝は弱いんだ、と彼は欠伸交じりに続けた。そこには特に悲壮感などは一切感じられない。
その返答が本当なのかどうかはわからないが、彼がそう言っている以上、それ以外の答えを引き出すのは無理だろう。
それにしても……
「……え、なに? なんだよ、じっと見て」
どう話を切り出していいのかわからず、ついついじっと顔を見つめてしまったせいか、彼は少しおののきながらそう言った。
「なんでメガネをかけているの?」
「え、頭良さそうに見えるからだけど」
「…………なるほど」
その考えが頭良くないわね。おそらく私の友人がいれば、そう返しただろう。
当たり前のように返されたその返答に少々面食らったが、改めて彼の顔をじっと見る。
私が気になった点とは、裸眼だったはずの彼が何故かメガネをかけていることだった。
目の周りのふちの部分が厚めの、私が言えたことではないかもしれないけれど少々野暮ったい印象のあるもの。
彼の性格からして、見た目よりも機能を優先してそういったものを選んだのだろう。
とはいえ、彼はメガネにどんな機能を求めたのだろう。まさか本当に頭がよさそうに見えるからという理由でメガネを買ったということもないだろうから、単純に視力が落ちたのだろうか。それは一大事だ。
「視力の低下にはハシバミ草が効くと聞いたことがある。準備するから良かったら食べて」
「おお、まじか。ありがとう」
でもな、と言葉を続けつつ、彼はにやりとすると私のメガネの鼻梁部分に指を当てた。
「それが本当なら、お前さんのこれは、とっくの昔に用済みになってなきゃおかしいでしょうよ」
そして指で押さえた部分で、細かく上下にメガネを揺らされる。
「おお…………」
特に抵抗することなく、されるがままの私の視界が細かく揺れる。
「まあ確かにあの草、明らかに体に良さそうな味してるし、何かしら作ってくれればうれしいけれどさ」
指を離された後、揺れた視界に慣らすように、目をしぱしぱとさせながら彼の言葉に返事をする。
「わかった。そうすればあなたが良ければ、朝食でも昼食でも一品付け足させてもらう。私としてはサラダがおすすめ」
「……正直素材を味わう系の調理は、個人的にはあの食材に合わない気がするけど……」
苦笑しながらそう言うが、作ればなんだかんだ言いつつも彼は食べてはくれるのだろう。
それにしてもなんだか上手くはぐらかされた気がするが、結局メガネをかけ始めた理由はなんなのだろう。あまり何度も聞くのはうっとうしいだろうが、もう一度だけ聞いてみよう。
彼の様子に気を付けようと決めたのに、こんなに大きな変化を見過ごしては何が何だかわからない。
「別に目が悪くなった、っていうことはないな。まあ、疲れ目気味なのは確かだけど、別にそれは夜寝りゃ治るし」
私の問いに、彼はどことなく恥ずかしげに頭を掻きながら、言葉を続けた。
「ぶっちゃけりゃ最近鬱々してたから気分転換したかったってだけだよ。飽きたらはずすさ」
「なるほど」
それが本当なのかどうかはわからないが、そういった気持ちはわかるし、納得できる理由ではある。
どちらにせよ、彼がそう言い切ったのならば、これ以上のことを聞き出すのは不可能だろう。
それにしても・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・」
「な、なんだよ。人の顔じっと見て」
初めて見た彼のメガネをかけた顔。気づかないうちにじっと見つめてしまっていたらしい。彼は少し所在なさげな様子で口元を手で隠すと私から目線を逸らした。
「初めて見たから。似合っていると思う。私は好き」
「・・・・・・あー、それはどーも。そう言ってもらえるのは素直に嬉しいよ」
私の率直な感想に、彼は苦笑いのような表情をすると軽く頭を掻いた。手で口元を隠すのも頭を掻くのも彼が気恥ずかしいとき、そして少し嬉しい時の癖だ。
私にじっと見られて、褒められて、そしてそれを喜んで。そんな彼を私はそれを少し可愛らしくも思った。
「頭が良さそうに見える」
「・・・・・・さっき自分で言っといてなんだが、言ってる内容が頭悪いな」
そう言って軽く笑う彼を見ていると、私も穏やかな気持ちになる。
「おそろい」
メガネのツルを軽く持ち上げながらそう言う私に、彼は笑顔を返す。
「それに気づくとはさすがメガネかけてる人は頭が良いな」
それにしてもタバサはメガネが似合うな、俺ももう少しは見た目を気にしたものにするかな、なんて話をする彼と言葉を交わすうち、私の胸はいっぱいになり、彼のメガネについて感じていた疑問はいつしか頭の中から消えてしまっていた。
・・・・・・それでも彼のメガネを見たときに感じた、胸の奥の小さな違和感が消えることはなかった。
コンコン、と一応の礼儀としてドアを二度ノックする。返事が返ってこないことを確認すると、私はドアを開けて中へと入った。
「失礼します」
ベッドに机、本棚にランプ等と、そこに広がるのはこの建物にある他の多くの部屋と同じ風景。いや、他の部屋と比べると多少は雑然としているかもしれない。整理整頓こそちゃんとされているから、汚いという印象はないけれども、単純に物が多いこともあって、散らかっていると言われても否定はできない部屋だった。
「また本が増えてますし」
本棚にも様々な所狭しと多くの本が並んでいる。中を読んでも私には何が何だかわからないことばかり書いてあるのような薬品に関する専門書らしき書籍があれば、私も小さい頃に聞いたことがあるような子供向けのおとぎ話をまとめたような本もあり、その脇には最近流行っている小説が並んでいる。
この部屋の持ち主であるアシル様は、もともと本を読むことが好きなのか多くの本を所有されているが、この本の種類の雑多な感じからするに、読書が好きと言うよりも単に好奇心が旺盛なような気もする。
まあ本棚に関する私の感想は置いておくとして、いい加減に仕事をしないと。
貴族の方の部屋の掃除等をするのは、当たり前ではあるけれども私たち学院に雇われている使用人の仕事となる。そして誰がどこの部屋のルームメイクを行うのかというのは、はっきりとは決まっていない。
もちろん、例外はある。中には自分の部屋を他人に触られるのが嫌だと、自分の手で整理を行っている方もいれば、掃除の仕方から小物の扱い方まで薄い冊子ほどの注意書きを渡してくる方もいる。そういった方は流石に慣れた方が専属でやってはいるが、基本は持ち回りだ。
だけれども、実はこの部屋はその珍しいルームメイクをする人が決まっている部屋であったりする。とはいえそこまで厳密に決まっているわけではなく、できれば私が行う、という程度の話だ。
薬品やその材料などが大量にあるので多少は慣れている人の方がいいだろうということと、『どうせ部屋いじられるんなら、できれば知っている人がいいんだけど』というアシル様の一言でそうなっているだけなので、私の手が空いていない時は普通に他の者が行うことにはなっている。とはいえそうなったことは、今のところないけれども。
まあ、私としても他の人に任せるつもりはない。仕事が増えることにはなるけれども、アシル様からのご厚意で多少のチップはもらえているし。そもそも今まで随分と長い間、私がずっとアシル様の部屋の整理をしてきたのに、今更他の人が割入ってくるというのは、考えるだけで少々複雑な気分になるというのもある。
本棚の掃除と整理を行い、薬品棚の中を片づける。そうして一息ついた時、違和感を感じた。ここのところ毎回のように、アシル様の部屋に感じているものだ。
少しばかり恥ずかしいというか、はしたないがスンスンと、部屋の匂いを嗅ぐ。
元々アシル様は部屋で薬品を作ったり、その材料を保管していることもあって、部屋の匂いには気を使っているらしく、薄荷の匂いを薄めたような臭いがしていた。けれでも最近ではその中に、異質な匂いが混じるようになってきていた。
「……何ででしょう」
そう呟いたが、実は原因はわかっている。アシル様が薬品を作る時などに使っている簡易的な机の上に、最近は新しい器材が増えたからだ。
綺麗に洗われて立てかけられている小さなフライパン。簡易的なナイフやまな板などの調理器具に食器、いくつかの調味料がいつの間にやら部屋の隅に作られていたスペースに置かれていた。
異質・・・・・・は少し言い過ぎかもしれない。その匂いはこの部屋でするのが変だと言うだけで、匂い自体は珍しくもないただの焦げ臭さだ。
最近アシル様が食堂に来る機会が減った、ということは聞いている。厳密に言えば基本的には食事の準備は不用で、必要なときはわざわざ事前にそう言ってくるようになったとのことだ。
理由としては、自分で食事を作り始めたからだと本人は言っていた。マルトーさんには一度やってみたら思ったよりも面白くて、なんて言っていたけれども。
言ってくれれば作りますよ、そう言った私に、『いや、これは花嫁修業だから。将来の旦那様のためなの』なんてわざとらしく頬に手を当てて答えられたのはいつのことだったか。呆れたような私のジト目に、『・・・・・・せめてなんか言ってくれよ』と苦笑いしていたアシル様は、少なくとも傍目には普段と何も変わらないように見えた。
とはいえ何か奇妙な感じがする。元々薬の調合や読書が好きな上、最近では体を鍛えているところも度々見ている。そんなに時間の余裕があるわけでもないのに、そこにさらに料理を始めるだろうか。
そもそも食堂に来なくなったのも少し変な話だ。自分で作るようになったから単純に来ない、というだけならわかるけれども、厳密に言えばメニューを確認して行くか行かないかを決めるようになったように思う。
元々わがままな学生が文句を言うことがあったことから、メニューは掲示している。ただアシル様は食べられないほど嫌いなものがないということと、何が出てくるか知らない方が面白いからということで、メニューの掲示は見ていなかったはず。なのに最近では掲示されているメニューを軽く見た上で、部屋へと戻っていくアシル様を見たという話をメイド仲間から聞いたことが何度かある。それ自体は不思議でもないように思うけれども、ただ急にそうなったというのは、それも戦争から帰ってきてすぐの頃からそうなったというのは、やはり少し変というか心配になる。
「考えすぎでしょうか」
口元に手をやり、少し考える。失礼な言い方になるけれども、そもそもアシル様は少し変わったところのある方だ。急に習慣が変わったり、何かを始めたりしてもそこまで気にすることではないはずだとは思う。そう、本来ならば気にすることでもないはず。
・・・・・・しかし。
フライパンの表面を軽く指でなぞる。部屋にうっすらと焦げ臭さが残っているくらいなのに、フライパン自体はきれいに洗われていて、なぞった指には油がつく様子すらない。そう、アシル様は本来ある程度几帳面というか、やり方やレシピが決まっていることは基本的にその通りに行う方のはず。薬の調合が得意なのもそういった気質と合っているなのだと思う。
・・・・・・そんな方が匂いが残るほど、何かを焦がすだろうか。でも、そんなことがないのならば、わざと何かを焦がしたということ。そんなことをする理由が何かあるだろうか。少なくとも私には思い浮かばない。
「・・・・・・」
正直に言えば、アシル様がうっかり焼いていたお肉を焦がしてしまい、ぶつぶつ文句を言いながら不満げな顔でそれをかじっている様子も想像できないこともない気がする。いえ、おそらくはそうなのだと思う。
でも・・・・・・。
私は軽く頭を振って気を切り替えると、部屋の掃除を再開することとした。
それでも、胸に残る不安という名のしこりは消えずに残った。