「あなたはもう結末を知っている──」
──コードウェイナー・スミス著『クラウン・タウンの死婦人』
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おれがあの人に出会ったのは、おれがまだ小学生の頃のことだった。
冬。身体の芯まで凍えそうな日、道場で竹刀を振っていると姉が見ない貌と歩いているのを見た。縁側から見える庭を幼馴染みの箒の姉──束さんも加えて三人で談笑しながら通りすぎていった。おれはそれをぼんやりと見ていた。たぶん、口を半開きにして。
男だった。白磁のように透き通った肌。夜の空よりも暗い、怖くなるほどに艶やかな黒髪。姉と同じ学校の制服を着て、にこやかに笑うあの人はどんな美術、絶景、美女よりも尊くて、綺麗に見えた。例えるのならば、雪月花。吸い込まれそうな瞳がこちらを向いて、その悪魔的なほどの美貌が蠱惑に歪んだ瞬間、おれは頭が熱くなるのを感じた。今思えば、それはきっと母性を感じたのだろう。おれは両親というものを知らなかった。
さらっと重いことを言ったが、おれには、おれたち姉弟には両親がいない。おれがまだ涎掛けを着けているような、物の判別などつけようもないガキの頃に子供二人を残して蒸発してしまった。姉は両親のことについて何かを知っているようだが、おれには何も話してくれない。訊いても、さぁな、だとか、私たちを捨てた者のことなど知る訳が無い、とか言って、凛々しい貌つきを険しくさせるだけ。そう答えた日には大抵、姉はリビングの床にハイネケンの缶を散らかして朝を迎える。おれはそれを粛々と片付ける。
両親はどうしておれたちを捨てたのか、そんなことは分からない。自分から知ろうとしたことは無いし、もしかすると一生分からないのかもしれない。報道番組やドキュメントでやってるような何処かの誰かの涙腺を刺激するようなかわいそうな理由があるのかもしれない。はたまた大した理由なんて無いってことだってあり得る。
それでも、箒の両親と姉が話している所を小耳に挟んだことがある。端的に言えば、それなりに前、父親は自殺したらしい。青梅の山中、車の中で練炭を焚いて、一酸化炭素中毒。内側から隙間という隙間を全部塞いで、もくもくとした煙の中に魂魄を溶かしてしまった。なんというか、古風だな、と思った。そういえば昔見た父親の写真は着流しを着ている物だった。古風なら切腹という選択肢もあったのではないか、なんて思ってみたが、この法治国家で真剣など手に入れることは面倒だ。首吊りでは無く、練炭自殺というのは身体に目立った傷がつかなくて済む。そういう理由もあったのだろう。
では、母は、と言われるとそれは本当に分からない。姉も箒の両親も何も知らないようだ。まぁ、何処かで生きてはいるのだろうとは思う。淡白な反応だが、それくらいしか言うことは無い。
当然の如く、おれには両親の記憶は無い。前述のように、ガキだった。よちよち歩きの、手のかかるわんぱく坊主だった。けれど、そんなおれの頭の最奥に埃を被っている一番古い──セピア色の情景は、おれを抱きしめながら泣きじゃくる姉の姿だった。それだけが、そんな記憶だけがおれの頭からこびりついて、消えてくれない。
おれはよく鈍いだの、阿呆だのと言われるけれど自分ではそうでも無いと思っている。──あの人にも、君は頭が良い、と言われた──だから、何となく分かる。姉は亡霊を見ている。亡い者の影を見ているのだ。おれを壊れるほどに抱き締めて泣いた遠いあの日から呪われて、外れない鎖にがんじがらめにされている。蒸発、とは
そういう訳で、おれには両親がいないのだけれど、おれは姉の友人である年上の男に母性を見出だした。きっと両親のいる幸せな家庭に産まれ育ったやつらは──と言ってもおれは別段、産まれてこの方不幸せだと思ったことは一度も無い──おかしな話だと笑う所だろうが、おれはあの人に、貌も知らない母の面影を確かに見た。
その笑顔は、子供の頃に使っていた毛布のようだった。暖かくて良い匂い、所謂おひさまのにおい。あるいは絵本のお月様。何もかもを包んで、溶かしてしまうような、心が溶けていくような感覚。魔性、とは言えない聖女のような清廉さがあった。
母性というのは善悪に関わらず、全てを包み込む傾向である、と何処かの偉い学者が言っていた。おれは厳しく律する姉に父性を、その対極にいるあの人に母性を感じた、ということもあり得る。おれはすぐに貌を背けて、竹刀を振り続けた。あの人の胸の中で眠りたいだなんてことを頭の片隅に置きながら。
あの人は陽光の溜まり場を好んだ。リビングのソファの窓側はよく日が照らしていた。あの人はおれの家に来ると、きまってそこで読書に耽っていた。その時は話し掛けることを憚れて、おれは静かにあの人の隣に座って、淡い期待を胸にあの人の気を引こうとしていた。そうしているとあの人はおれの頭に手を置いて形状を覚えるように撫でてくれた。それはおれの狙いが当たった瞬間であり、おれの安直な打算があの人に筒抜けだった証拠でもあった。
あの冬の日以降、おれはあの人と頻繁に会うようになった。バイトで遅くなった姉を送り届けてくれたり、休みの日におれの家に遊びに来たり。そのうち、休日になるとおれの家に訪れることが日常になっていた。
あの人は必ず白いシャツを着ていた。それがある意味、あの人のシンボルだった。道場で稽古を見ている時もそれは変わらなくて、同じようなシャツを幾つも持っているようだった。その影響だろうか、おれの私服のウェイトは白シャツが大きい割合を占めている。
同時に、おれは本を読むようにもなった。あの人はよく本は人生を豊かにする、と言っていた。それは学校の教師が言うような文言で、おれ自身あまり本や活字を好まなかったから、初めは敬遠していたのだけれど、
「君が竹刀を振る過程でたんぱく質が筋肉に変換されるように、君が本を読むことによって活字が知識に変換されて、それは決して衰えることの無い血肉になる。本のない部屋は、魂のない肉体のようなものだ、なんて言う人もいる。健全な魂が健全な肉体に宿るのなら、たまには信条を曲げてみてもいいんじゃないかな……」
電子書籍、その頃普及し始めてきた
昔は毎晩のように見ていたけれど、今でも、ときどき夢を見る。内容はあの人のこと。でも、目が覚めれば良い気分とは言えないような。
向かいに座るあの人は変わらず、白いシャツを着ていて、長い前髪を指で退けながら本に目を落としている。おれはそれをぼうっと見ているだけで、会話は無い。そこには越えられない一線があって、おれはあの人に触れることは出来ない。でも暫くすると、おれはあの人を押し倒してその細い首筋を全体重、全霊を持って圧迫するのだ。無抵抗なあの人を、綺麗なあの人をおれはおぞましくも汚していくのだ。その白いシャツに唾をかけて、慈愛に満ちた美貌を赤黒い血で塗り潰す。そうしておれは母を殺す夢を見る。貌も知らない母の屍を抱いて、おれはそれを、それを──。
白騎士事件以降、あの人とは疎遠になってしまった。ぷつりとそこあった糸が何か──切れ味の良い糸切り鋏によって断たれてしまった。
何も、おれ個人だけという訳では無い。おれの周り。姉とも、束さんや篠ノ之一家とも。おれの狭い世界から、子供の宝箱から跡形も無く、消え去ってしまった。今では世間一般に狂人として知れ渡っている束さんとも普通に友人をやれていたあの人は、ともすれば一つの楔だったのかもしれない。
その喪失はおれに知らない感情を抱かせた。心を目の荒いやすりで無造作に撫でられるような、掠れ、枯れていく感覚。あの夢を見るようになったのもその頃からだった。灰暗いどぶはおれの鳩尾の辺りにある不明の器官からせりあがって来て、おれを不安な気持ちにさせた。耳の中でガラスを引っ掻くような音が聴こえて、無意識的におれは姉を絞め殺すほどに強く抱き締めて、狂ったように泣きじゃくった。
その時、理解した。おれも呪われてたんだ、と。
──夢の最後、おれは必ず、母の脳を抉り出して食べるのだ。じわりじわりと、おれはそれを血肉に変換していく。
白々明けに、月の残り香で目を覚ます。
あの人(CV:櫻井○宏)
伊藤計劃トリビュートを読み返してたら、PSYCHO-PASSの新報が来てついやってしまった。
非常に反省している。でも後悔はしてないです。
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