不愉快が極まった貌だった。
向かいに座るジェロームはおれをねめつけて、指でテーブルを叩いている。しきりに水を飲んで、落ち着きのない様子から彼の苛立ちが見て取れる。握った拳の中には、くしゃくしゃのソフトパック。ゴロワーズだった。
嫌な記憶を掘り返されるのはいい気分ではない。誰だってそうだ。だから、本当ならおれもやりたくはないのだけれど、やらなくてはならないから仕方がないのだ。そうやって良心を騙して、ジェロームにおれは頼み込んだ。
20区に行きたいんだ、案内してくれよ。
女を抱けるような所と、薬が買えるような場所を教えてくれ、と。夕食を腹に入れた後のジェロームに言った。すると、みるみるその貌は険しくなって、おれを殺さんばかりの視線を向けてきた。軽薄な笑みを浮かべたおれは少したじろいてみせて、焦るようにジェロームに無神経に絡み続ける。
「断る」
「どうして」
「気分じゃねぇんだ」
明後日の方向を見ながら、ジェロームは断ってきた。予想通りの返答に、繰り返し、アプローチする。
「頼むよ、どうしても行きたいんだ」
「やめとけ。あそこは、おまえが思うような場所じゃない。怖いもの見たさなら、本当にやめとけ。死ぬぞ」
「なんで、そんなにキレてるんだよ……、何か20区にあるのか」
ジェロームは指の動きを止めて、「何もねぇよ。ただ女を抱きたいだけなら、おれが適当な女を紹介してやるよ」
「ギャングが怖いか」
おれが言うと、ジェロームの動きが全て止まった。へんな音がして、喉が大きく跳び跳ねた。息が詰まっている。
貌が青くなるジェロームを見て、おれは続ける。そのトラウマにずけずけと踏み入って、荒らす。
「怖いんだろう。ギャングが。震えてるよ」
「なに言ってるんだ、おまえ」
「強がるなよ、ジェローム。別におまえを責めてるわけじゃない。正直に言えよ。怖いんだろう」
険悪な雰囲気を察して、こちらを不安そうに見るウェイターにコーヒーを二つオーダーする。店内にはおれたちしかいない。ジェロームの震える手を包むように握った。
「おれはおまえの味方だよ。付き合いは短いけれど、友人だと思っている。だから、こうして頼んでいるんだ。おれを20区に連れていってくれ。その代わりと言っちゃなんだけれど、おまえの望みを出来る範囲で叶える手伝いをしたい」
「女とか薬とか、そういうのが理由じゃないのか……」
「探している人がいるんだ。たぶん、そういう危ないものの近くにいると思う。一昨日、その人が20区にいるらしいって分かったんだ。パリにも人探しで来たんだ。おまえに迷惑はかけたくなかったけど、おまえしか頼れなくて……」
騙すような真似をしてごめん、と頭を下げるとジェロームはおれを見て、暫くすると肩を叩いて、
「別にいい」
かなり、危なげたっぷりのやり方だと思う。プロ、飯田ないし、同居人ならばもっと上手く、そつない運びが出来たのだろうけど、生憎おれはどこまで行ってもど素人でしかない。内心、冷や汗が背中を滝のように流れそうだった。辛そうな表情はまだ貼り付けられていると思う。
とても、ばかばかしい。白々しく、びっくりするほど酷いやつだ。おれは目の前の恐怖と戦う男の持ちうる恐怖の根源を知っていて、彼のプライベートの大事なところを素知らぬ貌で、コーヒー片手にファイル数枚で理解している。彼でさえ知らない父親の死因をも、たった瞬間の一瞥で。
ありがとう、と言うおれの貌は微妙な色をしている。友人を騙した罪悪感と光明の見えた安堵の混ざったようなそれをジェロームは幾分か落ち着いた様子で見ている。可哀想に、彼は引っ掛かった。
「昔、大昔の話だ……」
ジェロームは語り出す。既に知っている自身の物語を、おれの知るストーリーよりも欠けた劣化版として、痛みに耐えるように紡ぐ。おれは厳かに、沈痛な面持ちで耳を傾ける。要領を得ない、下手な喋り口は淡々と続く。
親に捨てられた話。荒んで、ギャング紛いのばかをやっていた話。麻薬の話。難民ギャングに身ぐるみを剥がされて、尻にタトゥーを掘らされた話。それだけでは飽き足らずにリンチされた話。
全部知っていると思っていたけれど、彼が受けた仕打ちの詳細は少々話とは違っていた。
彼の回顧はそう長くはなくて、十分もしないで終わった。でも、それが全てではないのだろう。大筋は一致していたけれど、その仕打ちの部分で隠していることがまだある。時折堪えるように腕を抱く姿は痛々しく映った。何か、彼の根幹を打ち砕くような出来事があったようだった。
それでも、この男の悲嘆は何者かに規定されたものかもしれない。中身のない、そうあるように出力された文脈なのだ。呵責を覚える必要はない。
そう思うと、急に眼前の男が空虚な、本の一文に見えてくるから不思議だ。その、舌を動かすことも出来ないような悲劇も何処かの誰かが描いたストーリーの一部でしかない。そういう悲劇を演じる役割を与えられた
おれはなにをしているんだろう。人形相手に、クオリアのない哲学ゾンビもどきに必死になって。わけもない虚脱感が、飯田と話した夜のようにのし掛かる。まるで、パラノイア相手に一人芝居をしているようだ。そういう感覚に陥るぐらい、飯田の言葉はおれの内に巣食っていた。
「殺したいの。その、おまえを痛めつけた男を……」
「貌は分かる。名前も分かる。金がいる」
「どれくらい」
「たくさんだ」
足と、手段と、情報と、機会と、逃がし屋。彼が目的を達成するためには、様々な買い物をしなくてはならない。
おれは足元のバッグからランチボックスを出した。ジェロームは不思議そうな貌をしていたが、開けろ、と促すと、
足りるかい、と訊くと、いいのか、と訊き返してくる。おれは頷いて、
「頼みを訊いてくれるかな」
ジェロームは後で連絡すると言って、店を出た。ランチボックスを手に、何かを決意した背中を晒して、足早に闇に消えた。
おれはそれを、静かに見送った。育ちの悪すぎる足並みは、やはり出来すぎているように見えた。
そして三日後、おれはジェロームに呼び出されて境目に来ていた。
壁は陰鬱とおれを見下ろしていて、夢と寸分違わぬ構造と外観をしていた。気味が悪いほどに全てが同じ。夜空との境界が曖昧になって、空が垂れ落ちてきているようにも見える。向こう側の光は見えない。
20区と11区を分かつゲートはただ大きな門があるだけで、往来を阻むものは何もない。しかし、驚いたのは、そこにカメラや認証の類いが一つもないことだった。何処の国でも街中にそういった追跡可能性を保証するシステムは何かしら導入されている。フランスもその例に漏れず、パリ市街にはまんべんなくカメラと網膜対応型の街頭スキャナが張り巡らされているのに、あるべきはずのこの場所には何一つ配置されていないのだ。
ジェロームは大きな20のマークを背負って、壁から背を離し、手を上げた。おれたち以外は誰もいなかった。
それで、とおれは訊ねた。答えは分かっている。
「20区に行く。連れていってやるよ、とびきり危ない場所にな。今から行けるか」
「勿論。ありがとう、ジェローム。おまえに全部任せる……」
白々しく、滑稽に、手を握り合い、感謝する。
着いてこい、と言うジェロームに続いてゲートを潜ると蝿が鼻先を掠めた。異様な臭いが何処からか漂ってきて、大脳皮質に不快感を叩き込んだ。胃から駆け上がって来るものを堪えて、おれは暗い街で目を凝らした。
さしずめ、リビングデッドの立食パーティと言ったところか。あちこちに生ける亡者と化した廃人たちが闇に紛れて蠢いている。座り込む。寝転ぶ。へたり込む。立ち尽くす。ゆらゆらと覚束無い足元で路地へ消えていく影。遠くから楽しげな笑い声が響いてきて、三発の乾いた銃声で絶える。壁は遮音の効果もあるらしい。
彼らはみな目を見開いていた。痩けた目元を薄く、幸を逃して、それでも彼らは別の幸をしかと見つめていた。
「昔より増えてやがる……。あいつらは、駄目になっちまったやつらさ……」
ジェロームはそう言うと、近くにいた男をほんの軽く蹴った。すると、紙切れのように男は地面に倒れてしまった。死んでるかのよう。でも、ちゃんと生きている。
「ジャンキーか……」
「昔はこんなに溢れちゃいなかった。ダウナー系のドラッグ、ヘロインとか。あとは、強い幻覚を見るような負担のでかいカクテル辺りか。こいつらはそれで、引き返せなくなっちまった連中さ。肉の塊だよ。そこらで薬を買って投げてみろ。のろのろ這ってくから」
ここが犯罪の中継基地になってから、様々なものが流れてくるようになったという。武器はその代表格で、それと一緒に麻薬も世界中から入り込んでくる。メキシコ、コロンビア、中東のゴールデン・クレセントに、クン・サが造り上げたゴールデン・トライアングル、ソマリア、ナイジェリア。ここに来れば大抵の麻薬を買うことが出来る。ドラッグ・デパートメント。
昔はそうでもなかったらしい、と言うジェロームの言葉からすればここ数年で中毒者が大きく増えたことになる。道端に溢れるほどの急激なジャンキーの増加の原因は分からないが、ふと、前日に見た20区での対麻薬作戦に関するデータを思い出した。ちょうど数年前から、ギャングたちが使う武器の質が一斉に上がったというものだ。以前よりヨーロッパ製の武器を使う連中自体は確認されていたが、それは稀な例でしかなかった。しかし、それが一変して、ごろつきが持てるはずのない高級品ばかり使うようになった。おかげで、摘発は戦争へと変わった。
何となしに見やったジャンキーの服が気になった。ぼろぼろになって、薄汚れていたけれど、その服は群青色だった。すかすかの歯を見せて、息に乗せて音を吐く生き物は警官だった。ホルスターに銃はなかった。
報復だ、とジェロームは言った。
「手入れがあったり、強襲された仕返しだ。適当なサツを拐って袋叩きにする。女だったら輪す。その時に薬漬けにされちまう。使い終わったら、ポイだ。こんな風にな」
「警察は動かないのか。仲間がこんな目に合って」
「動いても意味がないんだよ。拐われたら終わりだ。見つからねぇよ。特殊部隊と人狩りドローンを引っ提げても、取り返せなかった。そりゃあ、当然だ。土地勘がある方が有利だからな。返り討ちにあって、酷い死者が出た。中東かってぐらい、散々な有り様だった」
何処かで聴いたような徹底したゲリラ戦。戦場で育ったギャングはここで潤沢な装備を手にして、何かを守っている。ラシード某のように、ドローンを相手に高度な練度で以て迎撃する。装備が潤沢なだけでは出来ない、訓練された
そんじょそこらのギャングが人を殺すためだけに動くドローンを押し返すというのは無理がある。誰かが手引きして、誰かが彼らを鍛えたのだ。
「まずは、武器を調達しよう。丸腰は心許ない」
「宛はあるのか」
「ちょっとな。会ったことはないが、名が知れたやつだ。品揃えが豊富で、質もいい」
ストリート・ゾンビからひとつ、ふたつ。路地に入る。そこから、崩れかけのアパルトマンを突っ切る。小汚ない老婆がおれを卑しい目付きでじろじろ眺めたり、汚物と精液の臭いが充満していて、とても人が住んでいるとは思えなかったけれど、そんなアパルトマンにも小さな女の子と母親が住んでいた。その団欒を邪魔して、また路地に出て、ビルを二つほど通り、突如現れた階段を降りた。
廃墟の錆びたドアを抉じ開けると、そこはおかしかった。何もかもが、そぐわなかった。上質なペルシャ絨毯に気の安らぐ香。テーブルの上に置かれたシャトー・オーブリオン。怪しげな灯りと、そこに揺らめく妖艶な女。アラブ系の貌立ちだった。娼婦ではない、気品を溢れさせた麗人。何処もかしこも、この空間はおかしさで満たされている。
「おや、珍しいお客さまだね……。日本人がこんな場所に来るなんて。そっちは
「銃を売ってくれ」とジェロームは言って、「サプレッサーもつけてくれ」
「まぁ、待ってよ。あなたは前にもわたしを使ったかもしれないけれど、そっちの坊やは初めてでしょう。挨拶ぐらいさせてちょうだい……」
女はおれの前まで歩を進めて、袖口が余ったコートから手を出して、おれの手を握った。
「わたしはエルバ。聴いているかは分からないけど、武器を売っているわ。あと、洗浄もやってる」
「洗浄……。武器に
「銃のパーツは全てメーカーの方で登録されているの。何処の銃が何処にあって、何処で使われたかすぐに分かるわ。国も同じように国内の銃を登録して、どの銃が使われたか分かるようにしているの。勿論、軍とかは自分達で管理しているからメーカーにも漏れることはない。でも、それだと都合の悪い人たちもいるでしょう……。例えば民兵、テロリスト、殺し屋、ギャング、あなたたちみたいな訳あり。そういう暴力の自由を欲する方たちのために、銃のパーツを
「誰でも武装出来るように、か。あなたは武器商人とはまた違うみたいだ」
「そうね。大きな括りで見れば同じだけど、あぁいう手合いが相手にするのはお堅い人たちだけ。
「暴力の民営化はここまで来たか……。循環なんて。あんたらが戦争を回してるとでも」
「違う。確かにわたしたちは暴力をより身近なものにしてはいるけど、そこまで大層なことはしてないわ」
おれは訊いた。
「なら、誰が戦争を回してるんだ。この街でも戦争が起きてる。この街に武器を流しているのは誰だ。あんたじゃないのか……」
エルバは笑って、「誰かしらね。少なくとも、わたしじゃないわ。わたしたちは一ヶ所に留まって仕事はしないから」
彼女はジェロームを見て、お人形さん、と言った。確実にこの女は街の歪みについて知っている。
「大丈夫よ、別にわたしはあなたをどうこうするつもりはないわ。だから、そんなに緊張しなくていいのよ。
エルバはおれの根幹を見透かしたように笑って、懐から一丁の銃をおれに持たせた。見慣れたフォルムだった。九ミリ口径の拳銃。スイス製の何時も射撃訓練で使っている物だった。
プレゼントよ、と言ってエルバはジェロームの元へ戻る。ジェロームは立ちつくして、魂が抜けたように呆けていた。エルバが肩を叩くと、アンドロイドが再起動を果たしたかのようにエルバに声をかける。
掌の感触を確かめて、拳銃のグリップを見ると、メモが挟まっていた。
奥の部屋で待っていて、と。
十九世紀ぐらいの世界観で屍者の帝国的な雰囲気で魔法使いの嫁っぽいのをやるのって、どうでしょうか。ふと、思いつきました。テーマはたぶん愛。
誰 か 書 い て
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──追記──
書 き ま し た