冷たさと無機の集まり。さっきまでの絢爛さは何処にもない、ぼろぼろの、コンクリートが剥き出しになった殺風景な部屋だった。そぐった、相応しさがそこにはあった。
部屋の中央に置かれた木の椅子の一つに腰を掛けて暫く待つと、扉が大げさな音を立てて開いた。エルバがつん、としながら入ってくる。
「それで、あなたは何処のスパイなの……」
綺麗な脚を組んで、彼女は訊ねる。
スパイ。彼女はおれが何処かの国の情報機関の手先であると思っているらしい。あながち、間違ってはいないけれど、少しばかり事情が複雑で説明のしようにも困る。本職でもなければ、ただの駒にしては僅かに知りすぎている気もする。そんなグレーゾーンにいる半端者。
「突然だな。あんたの客にはスパイもいるのか」
「それはね。訳ありの客にはそういう方々もいるわ。あなた、貌を弄ってるから正確な人種が分からないの」
「なんで、おれがスパイだと思ったんだ」
「歩き方と、勘ね。でも、妙なのよ。あなたはプロフェッショナルではないけれど、アマチュアでもない。そこらの民兵や軍人よりは格段に鍛えられているけど、特殊部隊員に届くほどではない。情報機関の人間にしては無鉄砲すぎるし、ちぐはぐで、よく分からないわ」
エルバは有り体に言えばやはり武器商人のカテゴリに入る。彼女は独自のルートを使い、世界中の戦場、非正規戦の現場をも渡り歩いてきた筈だ。そういう場所では様々な職業の者たちがわんさかといる。何処にでもいる米兵、
「そうだな。少し事情があってね。ややこしいんだ。おれは軍人でもなければスパイでもない。確かに情報機関にツテはあるが、おれがここに来たのは個人的な用事だよ。人を探している。そいつはこの20区にいる筈だ。だから、ここに来た」
遠くから発砲音が聴こえてくる。
おれの説明に嘘はなかった。おれが同居人や飯田に協力しているのは、別に世界中で発生し続ける戦争を止めるとか、そういう高尚なものじゃない。ただ、白根宮藤奈に会いたいだけ。そのために、互いを使い合う。おれはそう認識している。
それをエルバが信じるかどうかは分からないが、おれは話を進めた。
「あんたはさっき、ジェロームを見てお人形さん、と言った。どうして、あいつを人形だなんて言ったんだ……。あんたはこの街について、何か大事なことを知っているんだろう……。パリの人間の異常性についても……」
「えぇ。詳しくはないけれど、ある程度のことはね」
「ならば、教えて欲しい。この街の歪みについて。それが探し人に繋がる」
エルバは掌を出した。おれは彼女にサンドイッチを三つ差し出す。
「国は、日本ね」
おれは頷いて、「イスラエルでタクティカルトレーニングを受けた。元SEALsの白人がトレーナーだったよ」
「最近の日本人は物騒ね」
「この御時世なんだから仕方がない」
でまかせにエルバは確かにね、と微笑んだ。
「仕事柄、わたしは世界中至るところを回ってきたわ。この稼業を始めてそれなりになるけれど、色んなところでよく聴く格言があってね。全ての悪逆はパリに通ずる、ってやつなの」
「武器、麻薬、犯罪者、危険な難民。ローマじゃなくて、みんなここに集まるから」
「そう。特に目立つのは武器。わたしたちでも分からないルートで世界中から武器が流れ込んでくるの。それこそ、新品同然の高級品が洗浄済みの状態でね。でもそれは売買されているわけじゃないのよ」
「プールされている……。流れ込む、じゃない。運び込まれている……」
「そちらの方が見方としてはしっくり来るんじゃないかしら。もし、その武器たちがここで売られているとしたらわたしはここにはいないわ」
「ここのギャングたちは異常だ。明らかに何者かに訓練されている。連中にあんたは武器を売り捌いているのか」
エルバはかぶりをふって、
「いえ、一度もないわね。確かに彼らは誰かに訓練されているようだけれど、誰が彼らを鍛えているのか、何処でたかが元難民のギャング風情をあのレベルまで押し上げているかは分からないわ」
「傭兵か……」
「どうかしらね。この辺りで民間軍事企業の社員は見たことがないわ。あるいは、正規の軍人かもしれないわよ」
「いまやここは中米の麻薬戦争なんて比じゃない危険地帯だ。ギャングは軍隊になっている。軍人だろうが傭兵だろうが、ここには高度な訓練を行えるだけの人材と設備があることは確かだ」
蓄えられている武器は何処にあるのだろう。
ギャングを一端の兵隊にするための施設は何処にあるのだろうか。
あらかじめ
やはり、ここには作為がある。とても大きな意思が、それこそ禁忌を犯そうとしているとさえ思えてくる。
人々は何よりも、四度目を恐れている。かつて、第三次大戦が起こった時は世界の終わりだ、なんて噂されたこともあったようだが、おれたちはその後の世界でよろしくやっている。飽和状態の核弾頭があっちこっちに飛び交うことはなく、ただの一発も放射性物質の降り注ぐことのない奇跡的な戦争だった。
だから、次はある、と思っているのだ。都合のいいことは、そう何回も起きない。ヨーロッパを皮切りに拡散された憎悪が、再び何かのきっかけで再び弾けて、それがフットボールのボタンを押させるという最悪のシナリオ。その条件がいま揃いつつある。以前感じた戦争を引き起こそうとする誰かの思惑が少しずつ実像を帯びて、おれの前に姿を見せ始めた。
「その武器や麻薬が流れ込み始めたのはいつ頃からか分かるか……」
「随分と前ね。大昔、それこそ第三次大戦が終結した直後からヨーロッパに武器は流入していたらしいわ。はじめは何処に集まっているかは分からなかった。でも、ここ最近の派手な動きでようやく世界中の情報機関が尻尾を掴んだ」
「それは、この街に壁が出来たのと──」
「ほぼ同じタイミングで武器がプールされ始めたってことね」
またしても、壁だった。およそ百年前から、世界中で起きた愚行に嘆き、立ち上がろうとしている最中で貌の知れない連中はせっせと次なる戦争への準備を整えていたらしい。それは恐らくはじめからパリに運ばれて、この20区の何処かに今も隠されている。
なにもかもが仕組まれていたのだろう。難民の受け入れも、その一端。かつて発生した内戦をなぞるための布石のようだ。
「あの壁はなんだ……」
おれは訊いた。目下最大の疑問であるパリを二つに割く得体の知れない黒壁について、ただ漠然と。
エルバはその稚拙な、駄目元の問いに、
「分からない」
なんとなく、そう言われるだろうと構えていただけ、おれは然程落胆を感じなかった。
「あの壁が建造された理由は至ってシンプルで、治安の悪いスラム街と市街地を分けるため。ただ、それだけよ」
「でも、あの壁の向こう側の人間たちはおかしい。ジェロームがいい例だ。あんたが言ったように人形のようだ。それは、壁と関係あるのか……」
エルバは立ち上がって、部屋の端まで歩いて壁を軽く叩いた。
「この建物の壁は少し特殊な素材を使っているの。『
「意識を飛ばしたり、一時停止したみたいに固めたり」
そうね、と言って、「だから、あの子がわたしたちの会話を聴くことはない。今は外でぼうっとしているわ」
「なんでそんな物がこんな場所にあるんだ……」
人形、向こう側のパリ市民に対してピンポイントで対応する要素が存在する。社会的な存在、ロールを砕くハンマーが都合よくある。二項がここにもあった。
「なんでかしらね。でも、この辺じゃあこういう仕掛けはそこらじゅうにあるわよ」
「まさか、ここら一帯、20区の建物の壁が全部それっていうわけじゃないだろうな……」
「流石にそこまではいかないけれど、こういう風に彼らに隠し事をする部屋はわんさかとね」
思層人口が均一になり始めたのは壁が造られてからだった。つまり、パリの人間が人形になったのは壁が出来た直後ということで、全ての異常の起点がそこにあるということを声高に主張している。
「壁のことはわたしも分からない。あれを探ろうとした人間はみんな消えた。だから、外に壁の詳細が漏れないのよ」
「ここに壁についての情報があると」
「少なくとも、『
他には、と訊くとエルバはまたかぶりをふった。
暫しの無言。おれはここに白根宮藤奈が訪れる意味はなんだろう、と考える。
彼が現れた地は確実に戦場となる。ヨーロッパ、特にこの街に在る意思の内、一つは戦争を、たくさんの大きな死を招こうとしている。おれには偶然合致したこの接合が、どうも偶然には思えなかった。招いたのか、それとも招かれたのか。
しかし、どうも白根宮藤奈という人物が誰かの指示に従ったり、下に着くというのはイメージ出来ない。
とはいえ、それはおれの薄ぼんやりとした感覚的なものでしかない。
「わたしが彼らのことを人形と呼ぶのは、彼らがそういう存在であるということを聴かされていたからなの」
エルバは脚を組み直しながら言った。
「
「あんたらの元締めは何処でそれを知ったんだろうな」
おれがそれを知ることが出来たのは飯田の話──国防総省が集積したデータがあったからこそだ。飯田を全面的に信用することは出来ないが、もし、そのソースが本当だとすれば当然オープンソースではないはずだ。飯田はその辺りのパイプやルートがあってもおかしくはない。
しかし、それならば、エルバたちのボスはどうやってその情報を知り得たのか。あるいは、飯田とは別の方法で知ったのかもしれない。けれども、どう繕おうがあれは問答無用で機密に分類される類いの情報だ。
『
「わたしが話せるのはこれくらいかしら」
「一つ、最後に聴かせてほしい。今更だが、どうして、ここまで喋ってくれたんだ……。勿論、あんたの話が全て本当のことかは分からない。でも、こう言うのもおかしいが、初対面のやつにここまで話すことはなかったんじゃないか……」
「まぁ、そうね。理由は三つ。一つは
「期待だって……」
「そう。大したことを教えてあげられない代わりの、お詫び。その期待に免じて、あなたが生きてこの街を出ることが出来たのなら、たくさんサービスするわ。そういう将来のビジネスパートナーとしての期待」
「短い付き合いになりそうだな」
「いいえ。きっと、末永い関係になるわ」
それも勘か、と言うとエルバは微笑んだだけだった。
「誰を探しているのかは知らないけど、もっと奥まで進みなさい。ここはまだ、表層に過ぎない。拳銃一つでは心許ないかもしれないけれど、幸いここには銃を持った人間は大勢いる。わたしから買うより拾った方が色々と安いわ」
「そんなこと言っていいのか……」
「わざわざ、ここまで戻って、買いに来るつもり。それは効率的じゃないわよ」
「分かってる。冗談だ。礼を言うよ」
エルバはまたね、と手を小さく振って部屋を出ていった。おれは持っていた拳銃を一通り点検して、腿のホルスターにしまった。
遠くから聴き飽きた破裂音が鳴ってくる。パパパンパパパン、とリズムを取るようなそれを聴いて処刑だ、と驚くほどするりと、ほとんど確信に近い推測が浮かんだ。何処かの壁の前にたくさんの人形たちが並ばされて、背後から鉛の雨霰を目一杯に浴びせられて、染みになる。穴を掘っているわけじゃないだろうから、そのまま野晒しになっているかもしれない。小銃弾でズタズタになった破片が飛び散って、その酷い有り様がまるでニューヨークのグラフィティみたいに周知に晒されているとしたら、最悪の割れ窓理論だ。
まるで、夢みたいだ。
自分の頭に浮かんだ情景を見たおれの感想はそういうものだった。らしくない、と思ったが何処となくディテールが夢で見た内戦の風景と似ていた。夢に意味はないけれど、それはすとん、と納まって、しっくりと来た。
ここはじき、破裂する。おれはそう確信した。その前におれは白根宮藤奈に追い付かなければならない。
夢で言われたように、早く彼に追い付かないとどうなるのだろう。もし、間に合わなかったらあの黒いラファールが爆装してこの街を燃やしに来るのだろうか。自分を産んだ
すぐ近くで四十五口径の弾ける音。いやな臭いが漂ってくる。すきま風に乗ったはらわたの臭い。
まるで、夢みたいだ。
スランプ&難産でした。
これから更新スピードを戻していきたいです。
感想評価よろしくお願いします。そして、感謝です。