今にも壊れてしまいそうなベッドだった。
そこは宿とか、ホテルとか、モーテルとか。そういった人が滞在して休める場所とは言い難かった。壁はボロボロに剥がれ落ちていて、隣の部屋と少しだけ繋がっている。埃と一緒にその破片も舞って息苦しい。床は歩けば軋むし、何よりベッドが人を一人支えるには心許ないことこの上なく、支柱に木材は腐りかけていた。それでも外にはホテルであると大法螺吹きの看板がぶら下がっているし、自分を総支配人と言って憚らない、まるで羅生門に出てくるような汚い老婆もここをホテルだと言い張って相場以上の金をむしり取ろうとしている。出てきた食事は横流しされたレーションだった。しかも、米軍の。これでも、まだマシな宿だというのだからぞっとする話だ。
エルバの部屋を出てから二時間と少し、おれたちは色んな場所を回った。剥がれた石畳を踏み、棄てられた屍を越え、漂う異臭──死臭と腐敗臭と麻薬中毒者の体臭が混ざりあった最悪なもの──にも慣れてしまって、どんどん街の奥へと分け入っていった
要は、ジェロームはヒットマンの真似事をするわけで、重要なのはその機会だ。目標とする人物の行動パターンや予定、ルーティンから確実に目標の息の根を止める機会を掴む。チャンスは一回しかない。それを逃せば護衛している連中と多勢に無勢なんてものじゃない銃撃戦、しかも兵隊相手にやりあわなくちゃならない。よしんば、逃げ切れたとしても警備は針の筵。ホテルのぼろさ以上にぞっとするし、なにより拳銃一つでライフル抱えた大勢に勝てると考えるのは現実がいやになってしまった者くらいだろう。
というふうに話が大仰なものになってしまったけれど、ジェロームが狙っている標的はそういう相手だ。
情報屋とジェロームの会話を聴けば、そいつは随分な大物らしい。難民が主体となって構成されるギャング、最大派閥の幹部の席にいる男、アラブ系の顎髭を豊かに蓄えたいかにもといった風体。このスラムに氾濫する麻薬の供給源でもある。パリに入る前から中東──ゴールデンクレセントでテログループ傘下の売人として活動しており、そのグループがパリで活動する際に時を同じくして拠点を移し、ギャングの中で地位と資産を高め、テログループとの協力体制の構築に一役買った。ゴールデンクレセントでテロリストたちがせこせこ作った麻薬をギャングが仲介、流通させ、互いの暴力、破壊、戦争続行のために蜜月を結んだ。
麻薬王という称号が相応しいかは分からないが、米当局がリストアップした最重要手配犯の一人だというのだから、余程派手にやっているのだろう。だから、そいつは細心の注意を払っている。たかをくくらないで、暗殺のリスクや拘束される危険性を潰している。対立する組織のヒットマンに、米軍やDEA。ここからも大量の麻薬が世界中に流れ出ていて、彼を狙う者は両手で数えきれない。プロでも難しい相手だ。
そんな相手の一時のおふざけで、彼は本気の殺意──と言って良いのかは分からないが、兎も角そういった感情を抱いて、そんな大物を殺そうとしている。そして、たぶん失敗する。情報屋に大金を叩いてルートを教えて貰ったは良いが、その情報の信頼性はいまいち欠けている。素人の憶測だが、そんな易々と世界的な大悪党のことをポンポン教えてくれるだろうか。この街で幅を利かせる者の行動を丸裸にする情報を簡単に売り飛ばしたと知れたら、売った情報屋は悲惨な末路になることは眼に見えている。リテラシーが低すぎる。そして、反してリスクは高すぎた。
おれは銃を弄くるジェロームを部屋に置いて、外に出ることにした。息苦しくて、あの部屋にいることに耐えられなかった。
村上春樹の海辺のカフカで言うところの、世界でいちばんタフな十五歳の少年。おれは十六だし、田村カフカのようにはなれないが、日本ではいちばんタフな十六歳だと思っていた。それでも、いくらタフでもあの部屋だけは御免で、野宿するか屋根がある廃墟で一晩明かす方がマシだと思った。
歩けば歩くほど現実離れした街だった。表層とはまた別の、そこここで手負いの獣が屍をくわえているような場所。中毒者のゾンビは一匹としておらず、通り行く者はみんなポケットに手を突っ込んでいる。そこには必ず拳銃があって、いつでも撃てるように手をかけているのだ。彼らはおれを訝しげに視線を投げたり、中にはすごい形相で睨んでくるやつもいた。余所者は目立つのか、アジア系の貌が珍しいのか。奥に潜れば潜るほどに、否応なしに目立ってしまう。その排他的な土地の意に逆らわずに、うまく溶け込めなければおれはたちまち穴ぼこだらけにされてしまう。
普通でない、普遍。ウォーリーを探せのその他大勢。おれはすかすかの街に溶け込む。きっと、臭いがまだついてない。外の香りが服から立ち上っている。路地に入って、ごみ置き場に身体を投げ出して一回転する。鼻が曲がりそうな、すえた臭いと血の臭いが安物のジャケットに媚り着く。そうして通りに戻ると、誰もおれを見なくなった。一先ずは、街にいて違和を覚えられないようにはなった。
灯りが点る階段を登るとバーがあった。ふらふら行き先もなく歩いていると、こんな街には似つかわしくない雰囲気のいい店に出会えた。そこでハイネケンとチーズとサラミでレーションの口直しをする。
「お客さまのような方は珍しいですね」
マスターの声にグラスを傾けようとした手を止めた。四十ほどの品の良さそうな男だ。
「アジア系は珍しいかい……」
「えぇ、この辺りではあまり見かけませんね。中国人はもう少し先に居を構えてますので、アジア系の貌立ちの方は珍しいのですよ」
「だから、さっきじろじろと見られたのか」
「いえ、それだけではないでしょう。お客さまが所謂、余所者特有の臭いを纏っていたからではないかと」
「今はどうかな……」
「問題ないでしょう」
閉鎖的な環境では暴力の安全装置は酷く緩いものになる。奥地の部族が持つ伝統、溶け合わない者への学級内でのいじめ。閉ざされたコミュニティでは、形や由来はどうであれ暴力が機能しやすくなる。
例えば、未開の少数民族と外部の接触による衝突は未知の存在である我々への恐怖によって暴力が発生することがある。外界と途絶された環境で産まれ育った彼らにとって、外部人類はおれたちにとってのエイリアンと同義だ。内部で発生する文化的暴力とは、また違うもの。嘗て、コロンブスがインディアンを征服、虐殺したように、彼らは自分たちが得体の知れない技術の数々で蹂躙されてしまうことに恐れを抱く。もしかしたら、祖先がそういう目に合って語り継がれているのかもしれない。
いじめにもそういった部分があるかもしれないが、これはこれで事情が変わってくる。村八分のような、シカト。ある意味での
この街では余所者は嫌われる。侮蔑される。それは、恐らくはこの街の人間がみんな『人間』だからだ。外の人間が人形であることを理解しているという認知度の高さが伺え、それに対するコロンブス的な支配欲を持つ者もいるのだろう。慰み者にされた人形の女性は大体、そんな理由で不幸に見舞われる。そこに先住民的な外界への恐怖はなく、どちらかと言えば知っているからこそ振るわれる暴力がある。おれが感じた大きな意思による秘匿のための異分子の排除。
「お客さまは、『人間』ですね……」
マスターがグラスを拭きながら言った。
「外の外から来たからな」
おれは正直に答えた。気付けば、背中に硬い筒のようなものが押し当てられていた。たぶん、サプッレッサーだろう。
「何の御用で、このような薄汚れた場所にお出でなさったのですか」
「野暮用でね。人探しさ。個人的な動機だよ」
そうでございますか、と言ってマスターはグラスをカウンターに置いた。皺の一つもない、いいスーツを着ていた。エルバみたいに、この街にそぐわない人種だ。
「このような街です。噂、情報はあっという間に街中に廻ります。情報屋、トゥルヴィルの元に二人の余所者が情報を買いに来たとか……。一人は人形、ジェローム・クレチアン、一人は余所者だが身元が知れないアジア系の男。買った情報はナミル・シュジャーァの行動予定とここ数ヵ月の動向の詳細。買ったのは人形の方。余所者は目もくれずに、明後日の方向を見ていた」
「驚いた。人の噂はなんとやらって言うけれど、こんなに早く広まるとは思わなかった。それで、あんたらはナミルの手下か。おれをここで殺すつもりか」
「まさか。わたしにはそんなつもりは毛頭ありません。わたしも、あなたに後ろにいる彼も本気であなたを殺そうとする者はここにはいません。もし、殺すつもりならばその血中内のナノマシンを機能停止させてビールの中に毒を混ぜるないし、路地で気付かれないように済ませることが出来ますので、御安心を。御飲みになって構いませんので、どうか少しばかり我々にお付き合い願いませんか……」
おれがグラスに口を着けると、マスターは笑んで、頭を下げた。
「この度は御無礼を御許しください、織斑一夏さま」
「正体も筒抜けってことか」
「少々、わけが。早速ですが、本題に……」
マスターはおれの前に一切れの紙を置いた。グラスの隣に置かれたそれには直筆の地図のような絵と、慣れ親しんだ日本語の文章。
ここに行くといいよ。
「白根宮さまよりの言伝てでございます」
「あの人はやっぱり、この街にいるんだな」
「はい。つい先日いらっしゃいまして、わたしにそれを。数日もすれば、この街にあなたが足を踏み入れると仰いました。そして、その際に渡すように、と預からせて頂きました」
地図はここよりもさらに奥、最奥の、街の縁を示していた。
「それで、あんたらは何者なんだ」
おれは訊く。心なしか、背中に突き付けられた銃口の圧が優しくなったような気がした。
「大それた正体などないのですが、言うなれば、わたしたちはどちら付かずな者たちなのです」
マスターは困ったように眉を下げた。
「人間と人形、外と内。わたしたちはこの街に在るどの意思にも属しない、そんなコミュニティの一つです」
「中立を保っている」
「そうですね」マスターは首肯する。「幸運なことにわたしたちはその立ち位置を守ることが出来ています。この街でどの意思にも加担しないというのは、あまり善い手とは言えません。あなたがすれ違った者も何かしらの意思の元に属しているでしょう。その大半が末端とはいえ、彼らも確かに大きな集合体の一部なのです。自覚しているかは分かりかねますが」
「その大きな集合体というのが、全ての元凶か……」
「この街の異常や、壁の造り手、という意味合いであればそうでしょうね」
「それは、ナミルもそうなのか」
「自覚はないでしょうが」
「なんだ、麻薬王が聴いて呆れる。紐付きじゃないか」おれは大悪党の何とも力の抜けるような実状に思わず笑ってしまって、「とんだ茶番だな」
「そう思われるのも無理はありません。この街は
「地下だって……」
地下。
ジェロームの与太話を思い出す。大昔、第三次大戦終結後の嘘臭い伝説の地下都市隠蔽計画。地下にある某を隠すためのカーテンを引いたという、ナチスのオカルトによる世界征服もびっくりな、いまいちな都市伝説だったけれど、もしかするのかもしれない。
現状としては前身とは大幅な改編が成されて、新生EUの一機関となった欧州統合防衛局ではあるが、そこが関わっているということはEU──ヨーロッパの総体が関わっているということで、ジェロームの話が途端にきな臭くなる。地下の避難施設はアーコロジーとして完結されている。もし、そこが実在するとすれば、説明がつく事項は多い。流入してきて、消える武器。ギャングを兵士に仕立てる場所。
壁はそれを秘匿するという目的を以て建造された、だけではないだろう。それだけではない、反する意思も何処かしらには介入しているはずだ。そうでなければヨーロッパはもっと早いタイミングで、虐殺のアンコールをやっていてもおかしくはない。
「地下に何があるんだ」
「それは御自分の眼で以て、知られる方がよろしいでしょう。白根宮さまも、そう望んでおられます」
唐突な懐かしい、あの人らしさ。大事なことは自分で知れ、とよく言われた。
「あんたたちと、あの人はどんな関係なんだ」
「客とマスター。それと少しだけの、ビジネスパートナーです。彼が入り用なものを少しばかり融通しました」
「雑貨屋もやっているのか」
「真似事に過ぎません」
マスターは懐の懐中時計を見て、ふむ、と呟いて、おれの後ろに佇む誰かへと視線をやった。銃口は離れて、床を踏む高い、小気味のいい音が遠ざかっていった。
「疲れたよ」
「申し訳ありませんでした。本日はこれにて閉店でございます。店の裏口より出ていただいて、あのボロ宿には戻られないように」
「どうして」
「意味がないからです。あなたの荷物は、全て手元にある。そして、ジェローム・クレチアンはついさっき殺されました。今ごろはナミルの部隊が遺体を袋に詰めているところでしょう……」
なるほど、確かに意味はなかった。道は見えてしまった以上、彼に価値はなくて、価値がない彼の元に戻る必要性はそこで消えてしまっている。死んでしまったのなら、尚更だった。
「おれも狙われている……」
「ナミルが始末したかったのは彼だけです。あなたも狙っているのなら、宿を出た時に尾行がついているはずです。友人によればそういった輩は確認出来なかったとのことです。信じられないかもしれませんが、安心して外に出てくださいませ」
何を安心しろと言うのか。マスターは言って、綺麗なお辞儀をした。おれはグラスに残ったハイネケンとつまみを胃の中に放り込んで、促された方へと歩いた。銃を意識しながら。
またの御来店をお待ちしております、と御丁寧に鑑のような応対を背にしながら店を出るとちょうど目の前を真っ黒なSUVが三台走り去っていった。分厚い装甲が後から付けられたような、ごてごてした車だった。はっきりとは見えなかったが、銃座らしきものが付いている車両もあった。たぶん、あれにジェロームという名前と人生を割り振られていた人形の残骸が乗せられているのだろう。それを運ぶのは、ナミルお気に入りの殺人部隊。
元より、こうして夜を明かすつもりだったから、どうというわけではないけれど、いよいよ宛もなくなったおれは受け取った地図を見て街の縁、白根宮藤奈が示した場所を目指すことにした。幸先よく、足元に撃ち殺されたやつの銃が落ちていたからそれをベルトと腰の間に挟んで、死体を足で退かした。
IS12巻の発売で少し軌道修正していたり、息抜き(悪癖)で始めた短編書いたりしていたりしていましたが、予定よりは早く投稿出来ました。
こんな感じでボソボソ頑張っていきます。
感想評価よろしくお願いします。そして、感謝です。