猥雑で、酷い浮遊感に見舞われる。場の空気に呑まれるというのは、こういうことなんだろう、と暖かくなる頭で考える。
ダブステップの、腹の底に響くようなワブルベースが大音量でおれの脳みそを乱暴に掻き回す。おれより少し上ぐらいの若者たちが思い思いに身体を動かしたり、互いのコンドームよりも薄い愛を唇を重ねることで錯覚し合う様は、ここが渋谷だとか、マイアミだとか言われてもさほど違和を覚えない。
「よぉ、楽しんでいるか……」
カウンターでシードルをちびちびやっていると、金色のチェーンネックレスを首にかけた男が声をかけてきた。
「まぁね。普段、こういう場所には来ないんだけれど、たまにはいいね。嫌なことを忘れられる」
「そりゃあ良かったぜ。一人で辛気臭く飲んでるから、気になってな。隣、座るぜ……」
後ろのフロアで曲が変わって、歓声が挙がる。熱気とボルテージが一つシフトアップした。オルタナティブで、花火が打ち上がると、建物が揺れるほどオーディエンスが一斉にジャンプし始めたから、おれは少しだけ肩を跳ねさせた。
男はレッドブルウォッカをオーダーした。
「お前、日本人か」
「あぁ。何で分かったんだ。ヨーロッパ圏の連中はアジア人はみんな一緒に見えるって聴いてたんだけど」
「何となくだよ。昨日行った、スシバーの店員と貌立ちが似ていたからかも……」
「それって、結局同じように見えてるってことだろ。出来上がるにはまだ早いぜ」
「まだ酔っちゃいないさ。ジェロームだ」
「
グラスをかち合わせて、おれは新しくオーダーしたイェーガーボムを飲み干した。身体の底が熱くなる感覚と喉を焼く熱が早くなる拍動に乗せて駆け巡るけれど、すぐに血中のナノマシンがアルコールを毒素と認識して分解を始める。三十五度のアルコールと、一緒に摂取したカフェインは跡形もなく、酢酸と尿酸に変えられる。
ISのコアに、精神抑制プログラムがインストールされるのはもはや、イギリス人の多くが紅茶を愛しているのと同じぐらい当たり前のことで、現行のISでそれを搭載していない機体は無い。こういった手法やアプローチは今に始まった物ではなくて、構想や原型自体は随分と前からあった。心理学的な処置──一見、催眠術と何が違うのか分からないような呪い染みた施術と薬物投与による、
これを初めに提唱したのは
それでも、この案に有用性を見たのは反発した彼らも同じだったようで、ブラッシュアップされたプロジェクトが新しく立案されたなんて噂もある。優性学に基づいて、最高の人的資源を製造するプランを推し進めていたドイツ。当時、トランスヒューマニズムを中核としたツールとしての人間の機能拡張──義体の開発に着手した日本。ISが誕生する少し前の世界で、先進国は兎に角、ハイクオリティの
これもその一つ。インスリン剤によく似た、ディスポーザブルの注入器に入っているナノマシンを腕に射せば、三日間は身体の中で毒素を瞬時に、徹底的に分解してくれる。大事なハードウェアを守るアプリケーション。ヒューミントを行う情報機関はこぞって似たような物を使う。安全性と安心感を与えるために、ケースオフィサーはエージェントにこれを渡す。どちらかと言えば、これは精神安定剤に近い物だ。自分は守られているんだ、という根拠の無い安心感を得るための藁か蜘蛛の糸。
「それで、お前、日本人がどうしてこんな所にいるんだよ」
「観光だよ。そのついでで、夜の街をぶらついてて気付いたらここに……。余所者がいて、悪かったな」
「そういうわけじゃねぇよ。ただ、ここいらはお上品なお坊ちゃんが来るような場所じゃないぜってことだ。大人しくエッフェル塔でも見てる方が身のためだぜ。すぐそこは20区で、ここにはそこを根城にしてるギャングも来る。先月は店の前で難民ギャングと銃撃戦おっ始める始末。気を付けろよ」
ご忠告どうも、と言っておれは椅子を回してフロアを見る。さっき、キスしていたカップルが二人してトイレに入っていく姿が見えた。
ここは凡そパリとは思えない場所で、おしゃれだとか、エレガントさは何処にも無い。どの国にもありそうなクラブで、頭から知性を叩き出して本能に任せて振る舞うセックスアピール過多の社交場。こんな場所に男一人で佇むのは些か気が引けるけど仕方のないことで、女の子に声をかけてもらえる淡い期待は脆くも崩れ去った。
このクラブが位置する11区の端は、20区との境に近い。20区はパリで最大のスラムで、治安は最悪と言っても良い。そこに連なる18区と19区を遥かに越える犯罪発生率は社会問題になっている。その三区で形成されるスラム街に拠点を置くギャングたちの抗争は民間人の死者を毎度十人以上出すほどに激化していて、時にはそこに警察が混じって幾つもの勢力が入り乱れる市街戦の様相を呈する。
東欧から流れてきたギャング。元からパリにいたギャング。リアリティの遥か彼方から逃げてきた難民ギャング。彼らはその狭い戦場で、安物の、ロシア製の
ドラッグを売り捌く難民ギャングは特に問題視されていて、フランス国内に於ける難民排斥運動の主因は彼らにあった。それはテロの温床にも繋がる。ギャングどうしの戦争に、何時からか立派なヨーロッパ製のライフルが混ざり始めたのは何故だろう。それは何処から入ってくるのだろう。スラムはまだ見せていない貌がある。それを暴こうとしたパリ警視庁の公安警察官はみんな影も形も見えなくなって、犬の餌になってしまったともっぱらの噂だ。
だからこそ、そこには価値のある物がある。虎穴に入らずんば、なんとやらと言うようにリスクが大きい試みに大きなリターンが付くのなら、おれはやるべきだと思っている。同居人たちもそこに目を着けていて、癪だけどおれと彼女らの意見は大いに一致していた。
空港から車──新車ではない、ほどよく使われたベンツだった──で、おれらは13区の小さなアパルトマンに向かった。
20区などとは段違いに良い治安の住宅街の裏。路地を二本ほど入った所にひっそりと佇む入居者はおれたちだけの、秘密基地。白とグレー内装の二人暮らしにはちょうどいいぐらいの、少し古びた雰囲気を漂わせる素敵なアパルトマンだったけれど、内装の白の部分だけは気に食わなかった。
ただ、その部屋には先客がいて、
「いい部屋だねぇ。わたしもこういう部屋に住みたいよ……」
そう嫌味たらしく聴こえる言葉を吐く男はソファにふんぞり返って、おれらを出迎えた。無礼すぎて、一周回って慇懃に見えるその様と、如何にも神経質そうな目付きとチタンフレームの眼鏡は男にはまりすぎていて、おれは危うく出会い頭に人の貌を見て吹き出すという最悪なファーストコンタクトを取るところだった。
しかし、そうは言うけれど、不思議な男だった。その一目で分かる神経質さは官僚らしくも見えるが、一方で人間らしさが貌を覗かせる仕草の細部。フラットであり、凸凹でもあるような、不定形ともまた違う。余計な物を抱えたなり損ない。少なくとも第一印象はおれの隣にいる女よりはマシではあった。
陸上幕僚監部運用支援・情報部情報課別室というとにかく長い名称の部署から来たと言った男は飯田と名乗った。それが本当の所属でも、嘘でもおれには然程関係はないが、同居人はほんの僅かに目尻を吊り上げて、飯田はそれを見て薄ら笑いを浮かべながら両手を上げた。嫌だなあ、捕って喰いはしないよ、と。同居人は確かに、飯田を警戒していた。
飯田が他人の家で、家主にコーヒーを淹れさせて、その常識の無さを開けっ広げにしていると、いつぞやの車内のように話は突発した。曰く、現状何処の情報機関も白根宮藤奈を捕捉出来ていない。DGSIの通信を傍受したところによれば、彼はパリ市内のカメラに映ったきり煙のように消えてしまったという。おかげで、パリ市内にはわんさかと工作員がいる。草の根を分けてでも探しだそうと躍起になっていて、出会したやつらどうしで小競り合いが起きることもしばしば。
そこで飯田が目を着けたのが、20区のスラムだった。と言うものの、余所様も同じようなことを考えるようで、ヤンキーがスラムに潜り込んで、地元の警官みたいに帰って来なかったらしい。
消えた虐殺の王。ますます小説染みてきた、と思った。プラハがパリに変わって、消えた人間の
宗教と民族の衝突点、カオスとグラウンドゼロとジハードの三重苦。東南アジアが底無しの闇鍋であるように、パリスラム三区は謀略版リーマン予想だ。飯田は言って、おれに煙草の煙を吹き掛けた。
そういうわけで、誰よりも早く20区に入り込んで、情報を掻き集めたい飯田はおれにパイプ作りを指示した。同居人も頷いて、おれの掌にナノマシンが入った注射器とビニール袋いっぱいのコンドームを置いた。おれが意図を測りかねていると、飯田は出ていった。病気を貰ってくるな、と捨て台詞を吐いて。
さしずめ、誘蛾灯を使用するための電力確保とでも言うのだろうか。おれという機器を用いるために、おれはその地盤に接続されなければならない。素人のおれだから怪しまれずに行けると踏んだのだ。軍人でもなければ、工作員でもない。無臭の、何者でもないおれだから、織斑千冬の弟ではない名無しの権兵衛だから。今のおれはそういう場所に立っている。
ジェロームはこの辺りの事情に詳しいピザ屋の店員だった。ただの店員。個人経営のぼろいピザ屋らしく、お勧めは照り焼きチキンだという、おかしな店だ。年中赤字経営で、生計を立てるために時たまクラブでセキュリティのバイトをしている。
「ホテルは何処に取ってるんだ」
「いや、ホテルじゃなくてアパルトマンを貸りてるんだ。少し長く滞在するから、伝を頼ってね……」
「へぇ。なら、腹が減った時はおれの店に連絡してくれよ。うまいピザを出来立ての状態でお手元にってな……。照り焼きチキンは頼むなよ」
そう言って、ジェロームはカードを渡した。ファンシーとグロテスクが手を繋ぐようなデザインだった。キャラクターの頭から溶け落ちるチーズは控え目に言っても、脳漿が垂れ流れているようにしか見えなかった。センスはなかった。その癖、店名は装飾しまくったレタリングだから読めたもんじゃない。
ジェロームはひでぇだろ、と笑って、「頼むぜ、坊っちゃん」とグラスを煽った。
「そうだね。ハラペーニョはある」
「勿論だ。おれが作ってる。自分で言うのもあれだけどよ、美味いぞ」
「パリまで来て、ピザを食うことになるとは思わなかったよ。お隣に行った方が良かったかもな……」
「やめとけよ。ローマじゃあ、今は街の四方に
大昔、イギリスは大きな共同体を離脱した。その原因は幾つかあったけれど、その時点で未だ序章の一ページにも満たなかった対テロ戦争の影響──ヨーロッパに押し寄せた難民が一端を担ったことは間違いない。ベルギーはテロリストの温床になって、難民の受け入れに積極的だったドイツでは首相が退陣に追い込まれたり、難民の施設が暴徒に襲撃されたり。このフランスでもテロリストが難民に紛れて横行したせいで、ヨーロッパのリベラリズムは着々と削られていき、古い戦争の発端みたいにヨーロッパは弾薬庫に姿を変えて、三度目の引き金になった。大きな政府はその時に一度、完全に消えてなくなった。今あるEUは辛うじて体だけ残っていたNATOがベースになっただけの別物だ。
冷戦以後も核抑止が働き続けたように、煤けた世界の名残は新たな石畳にも染み付いていた。繰り返しだ。笑えてしまう。かつてのリベラリズムを取り戻すと宣ったEUは再び
どうして、何故、排斥ではない道を選んだのか。アメリカは既に壁を完成させた。イギリスは国境局にかつてない強権を与えた。日本は無人
寛容さは美徳で、リベラリズムの再興、大いに結構。でも、二の舞を演じるほど滑稽なことはない。美しき街はウマイヤ朝に滅ぼされた西ゴート王国のよう。過ちを繰り返さないために、対話を選ぶのも実に良い手段だ。だけども、おれにはこの自由主義の聖域がまったく逆のものに見える。
まるで、ヨーロッパぐるみで再び戦争をぶり返そうとしているようではないか。
スラム三区での抗争は良い火種で、ローマのテロもイタリア国民の感情を昂らせている。
世界中から薪を広い集めてきて、誰かが暖炉にくべている。白根宮藤奈でもなく、篠ノ之束でもない誰かはせっせと、この大きな実験場で何かの準備をしている。
「なんだ、酔いが回ったか……」
ジェロームの声に反射的に返す。何を言ったかは直後には頭になくて、それらしいことを言って、意味もなくアルコールを身体の中に入れる。
そういう与太話が浮かぶぐらいには、おれは十分と酔っていた。アルコールでも、場の空気でもない某かに。
「まだまだ、飲めるよ……、次はワインでも飲むかな」
ジェロームは安いワインを二本オーダーした。
今さらながら、未成年に平気で酒を出すなんて、やくざなクラブだな、と思った。
感想評価ありがとうございます!!
すごい励みになります。まだまだ書くぜ、メルツェェェェェェル!!
これ、国際謀略モノだっけ……?
感想評価よろしくお願いします。
ちなみに、フランスでは16歳になれば酒の購入と、公共の場で3%以下のアルコール飲料を飲むことができるようになるらしいです。