「ずいぶん、楽しんでいたみたいね。あなたって案外遊び慣れてる……」
朝方、アパルトマンに帰ってきたおれに同居人がかけてきた言葉の隅には隠しきれないからかいが込められていた。紅茶を飲みながら、にやにやと笑う同居人におれは、
「そりゃあ楽しいですよ。酒を飲んで、親切なピザ屋のボーイと親交を深める。あんな場所に四六時中縛られている身としちゃあ、気ままに振る舞えるのは良い気分だ」
白シャツを脱いで、部屋着に着替える。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、飲み干す。
「でも、女の子には声をかけられなかった。色男も形無しね」
「別に。それに、おれから声をかけに行くこともなかった」
「負け惜しみかしら」
「若干ね。何が悲しくて厳つい男と四時間もサシで飲まなくちゃならないんだ。女が来ても、怖いだけなんだけどね」
「あなた、同性からももてるのね。引く手あまたで羨ましいわ」
同居人はそう言って、防弾ガラス越しに白んできた空を見上げた。
「もしかして、行きたかったんですか。あなたも……」
「そういうわけじゃないけれど、少し疲れたのよ。あの男が纏めた資料を読み込んでたんだけど、どうしてこう、分かりやすく出来ないのかしら。いや、これ、あいつが纏めたやつじゃないわね……」
「デスクワークの出来ない役人って、どうなんです」
「致命的ね。まぁ、情報機関共同体が形成されて、昔よりはましになっても余所と同じで、お仲間どうしの足の掬い合いは健在なの」
「CIAとNSAみたいな」
同居人は頷いて、ガラスのテーブルに紙と、オフラインの端末を放った。
飯田と同居人の間に何があったかは知らないが、仲良しではないことは確かだ。権限が被ったお役所や役人が揉めるように、それは何処の畑も同じらしい。同居人の正確な所属と、件の陸幕情報部別室は例に漏れずこの有り様。手柄を取った取られた。漸くまともに機能し始めた対外的インテリジェンスで覇権を握りたいと、和製CIAになるべく数多の者たちが味噌をつけ合っている。たぶん、書類のくだりも最低限の協力姿勢を見せているつもりなのだろう。おかげで、同居人は資料を纏め直すはめになったというわけだ。
「それで、どうだったの。何か収穫はあった」
「ジェローム。ジェローム・クレチアン。二十二歳、ピザ屋の店員兼ナイトクラブのセキュリティ。あの辺りに詳しい男です。20区やスラム三区にも貌が効くようです。おれはこいつを介して行こうかなと」
「身元を洗ってみるわ。もしかしたら工作員かもしれない」
それはない、とは言えなかった。ジェロームを信用したわけではないが、おれにはジェロームが工作員ではないという確信があった。しかし、それは第六感に近いもので、弱い安心だった。
同居人の隣に距離を取って座る。テーブルの上に出てたドライフルーツを口に入れると嫌味ではない凝縮された甘味が広がって、疲れた身体に浸透していく。
ふと目に入ったファイルを手に取ってみる。同居人を見ると、疲れた貌を、藍を薄めていく産声に照らしながら片手で輪を作った。おれが見ても問題ないクリアランスだということだ。
パリ市内での不穏な動きは、辿ればそのほとんどが20区に収束する。これはCIAがIS登場以前から蓄積してきたデータによって証明されている。さらに言えば、フランス国内と風呂敷を広げてみても、最後はパリに結びつく。工作員が消えるのも、膿の出所も、20区。とあるシンクタンクはパリが新たなテロリズムと犯罪の中継基地になっていると評したことがある。飯田もそれとなく言っていたことだ。
もはや、大西洋を挟んだ新大陸とヨーロッパの関係は二十一世紀のようなものではない。アメリカとイギリスとカナダ。それと、その他。難民を廃した国と、受け入れた国たち。世界は二つの大国に追従する二項対立から、類を見ない混迷に勢力地図を変えた。既に奪い合う土地もなく、化石燃料からの脱却が成されても、グレートゲームは続いていく。
仕切りの外。11区と20区の境界、その他三区との境界に建設された壁はアメリカとメキシコの国境を走る
今回のゲームの舞台はそんな暗黒大陸ならぬ、未開の石造りのジャングルだ。ジェームズ・ボンドよりもインディ・ジョーンズみたいだな、と思った。
世界は何処までもうやむやで、おれには何でもかんでも穿って見えてしまう。対立する二項や、ちぐはぐな物ばかり目立つ。
そんな世界で、白根宮藤奈は何をしていたのだろうか。壁を越えた剥き出しの世界を練り歩いて、彼が宿す病が孵るように、戦争を感染させていく。おれたちと関係が切れてから、彼はどんな景色を見てきたか、彼に問いたい。
終末を好む人ではなかった。ディストピアも、嫌いではない、と言う程度だった。オーウェルの本を読んだ後は息苦しいと笑っていた。でも、ユートピアは哀しい、とも言っていた。
彼が好む風景はどんなものだったかな、と目を瞑ると深い闇が広がるだけで、何も思い出せない。そもそも、おれは白根宮藤奈とそういう話をしたことがなかった。ガキがそんな話を出来るわけがない。小学生が功利主義について話していたら、それは少し怖いものがある。
ただ、彼は気付いているはずだ。ヨーロッパの歪さやISの在り方の歪みと無意識。そこに介在する多くの貌のない意思に。そして、彼がパリにいるのなら、必ず20区に向かう。その思考が、やけに頭にこびりついていて眠れない。
同居人が朝飯を作る音を聴きながら、目をぎゅっ、ともう一度強く瞑って身体をソファに横たえた。疲れているのに寝られない感覚は、相当に嫌なものだった。
結果として、ジェロームは白だった。
ジェローム・クレチアンは正真正銘、しがないピザ屋の店員で、ちょっとばかり貌の広いだけの男だった。パーカーとチェーンネックスが好きなだけの。
幼少期に親に捨てられて施設で育った孤児。父親は軍人で、海外で殉職。治安維持活動の際に、手作りのIEDで車ごと吹っ飛ばされて、全身を錆びた釘に穴ぼこだらけにされて、今は土の下。母親はそれが原因で育児放棄と不安障害に苦しみ、抗うつ剤で頭の中をセロトニンでいっぱいにしながらジェローム少年を施設のスタッフに押し付けて消えた。
テンプレというか、ありがちな、荒んだ少年時代を送るも、現在は更正して真面目に働くぶっきらぼうながらも善良な青年。ぼろっちいアパルトマンと、これまた小汚ないピザ屋の往復の毎日。週に何度かのセキュリティの仕事が終わった後の一杯を愛するという、小市民的な嗜好。おれに声を掛けたのも、シフトから上がったタイミングだった。
これらが数日間でパリに潜む見ず知らずのお仲間が調べ上げた事項で、彼の潔白の証明であった。
ゴーサインが出たということだ。おれはジェロームを騙して壁の向こうを見る。飯田から紙袋が届いて、たくさんの札束がごろごろと足元に落ちてきた。輪ゴムでミニマルにされたそれらは、なんだかサンドイッチみたいだった。
ジェロームは金に困っている。
公安や、情報機関が獲得工作をする際に協力者として獲得しやすいと言われている人物像で、家庭環境に問題がある者や金銭の誘惑に弱い者が、そういう傾向にあると言われている。学もない、ピザ屋の店員じゃあ、そう贅沢は出来ない。だから兼業しているわけであって。飯田はそこに付け込めと言っている。昔ながらのやり方だ。どれだけテクノロジーが進歩しようが、情勢や思想風潮が移ろっても、人間の底は変わらない。金が欲しい、女を抱きたい、美味いものを食いたい。不満と欲望が根絶されたら、それは家畜も同然だ。
ジェロームは以前、麻薬をやっていたことがある。荒んでいた時期に手を出して、少しばかり面倒ごとに巻き込まれたことがあるという。路肩で引っ掻けた女とセックスして、その時にはじめて麻薬──安い、混ぜ物ばかりのクラックを女から貰った。それで、気持ちよくなって、微睡んでいたら、身ぐるみ剥がされてぼこぼこだ。女は美人局で、飼い主の黒人に貌が分からなくなるぐらい酷く痛め付けられた。散々な体験だと思うが、それでもジェロームはしばらくは薬を嗜んでいた。
だから、その辺にも詳しいはずだ。なんたって、ジェロームは自分を痛め付けたやつのことをずいぶんと恨めしく思っている。気色悪いほどに。余程の屈辱的な体験をさせられたのか、おれに難民ギャングの話をする時の彼の貌は物騒極まりない、剣呑なものだった。自業自得と言ってしまえばそれまでだけれど、彼にとっては癒えない化膿した傷痕なのだ。
金がないから仕返しが出来ない。クラブのバーのツケは溜まるばかり。そこにおれが優しい貌と声を携えて囁く。なぁ、手伝って欲しいことがあるんだ、と。たぶん、人として最低を突き破ったやつの行いだ。
「壁の向こうはどうなっているんだい……」
おれは不味い寿司を口に放り込みながら、ジェロームに訊いた。
「スラムだよ。言っただろう。あぶねぇもんばかりの、掃き溜めさ」
「いやね、この間さ、おのぼりさんみたいにエッフェル塔に行ってきたんだ。それで、あの壁のことを訊いてもみんな反応が薄くてさ。気になるんだよ、あんな秘密めかしたベールを張られてちゃ……。覗きたくなるだろう」
ジェロームはおれの好奇心が丸見えの、品性の欠片も見えない表情を見ながら、ウェイターのインドネシア人にカリフォルニアロールをオーダーした。おれはその間抜けヅラのインドネシア人を縛り上げて、どうして、どんな神経でこんなものを寿司と言って商売出来るか、きっちり問い質す想像を浮かべて、口の中の脂が多すぎるマヨネーズを意識の外に追いやろうとしていた。
おれはこうして何度かジェロームと遊ぶようになっていた。食事をしたり、酒を飲んだり、11区の端のクラブで朝まで騒いだり。端からは、十分に友人と言える関係には見えることだろう。事実、ジェロームもそれなりに気を許すようになってきた。
ジェロームは少し間を置いて、
「客の世間話を聴いただけだがよ、欧州統合防衛局って知ってるか」
「たしか、
「与太話だぜ。あの壁の建設にはそこが一枚噛んでたって噂。なんで、防衛局がフランス国内の話に口出しするんだって話だけどよ、なんでも大昔、おれらの婆ちゃんがおれらぐらいの頃、この国の地下に避難シェルターならぬ避難都市を作ろうとしてたらしいぜ。アーなんとかって、」
おれがアーコロジー、と言うとそれだ、と言って、「三度目の戦争の後、そういうことを考えた偉いさんがいたんだとさ。で、その地下都市に見つかったらやばいもんがあって、当時それを知った出向中のフランス出身の官僚が本国に知らせて壁を作ったんだって話」
「じゃあ、どうしてみんなあの壁を気にしないんだい。すごい目立っていて、見栄えも悪いじゃないか」
都市伝説の類いだとしても、あの壁を建設するには理由があったことは確かで、その異様さを取り除くだけの何かがある。寛容さの再興と反目するような隔離。
「さぁな。おれも、物心がついた時にはあの壁があることが常識になっていたからな。周りの大人もスラムがあるから、としか言わないし。どうしてスラムがあるかなんて考えたこともない」
「そこにあったから」
ジェロームはあぁ、と言って毒々しい桜田麩が巻かれたカリフォルニアロールを一口で食べた。
これはおかしいことだ、と言う教師がいて、生徒はなんでおかしいのか訊く。教師はそれに懇切丁寧に何が普遍から離れていて、その思想を、行動をした場合に自分が被るあらゆる損失を教えていく。教育、躾、あるいは初歩的な啓蒙。誰しもが通ってきた道で、こうして人間は社会に調和するための知性と価値観を身に付けていく。
でも、その知識や価値観がすっぽりと抜けていたら、他者に教えを授けることは出来ない。
この街がそうだ。まるで、それが当たり前だからと接着剤でべたべたに貼り付けられた常識。疑いもなにもない、おかしな街。海の向こうから見た壁と、ここで見た壁は別物だ。
「ここは、おれが奢るよ。いつも、きみには楽しいところに連れていってもらっているからね。ほんのお礼さ……」
会計を済ませて、おれは自宅へと帰るジェロームに手を振りながら思った。
昔、束さんの部屋で見た玩具の街で、よく出来たアンドロイドを人間のロールプレイをさせたらこうなるんじゃないかな、と。不具合を勝手に修正して、都合の良いように捉えて命令されたごっこを続ける。
そんな、ゴミも落書きの一つもない、綺麗な街。
すごい伸びててうれしいです。
ありがとうございます!!
こういうのが読みたかった、って感じの感想も頂いて、やっぱり需要は少なくてもあるんだなと。
感想評価よろしくお願いします。