蜃気楼より、小さな物語を。   作:逆立ちバナナテキーラ添え

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第二部
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 黒い壁はまるで、モノリスを何枚も繋げたような構造をしていた。

 一定の間隔、五百メートルおきに線が走っていて、それは壁の終わりまで延々時々続いている。パリを分割するそれは地面から生えるように聳えている。触れてみると、意外なことに弾力があって、表面の鈍い光沢とは裏腹な材質──樹脂なのか、軟性(ゴム)合金なのかよく分からないもので出来ていた。

 おれは壁に沿って歩いた。取り敢えず、宛もなく。境目であるそこには鉄条網も、見張り櫓も、サーチライトや地雷もない。類似した前例(ベルリン)と比べると、平和なものだった。だというのに、ここにはおれ一人で、おれ以外の人は誰もいなかった。しん、とした街は死んでしまったみたいに、息をしていない。潜めているだけなのかもしれないけれど。

 遠くで誰かが拍手をしている。

 小さく、建物の隙間から貌を見せるエッフェル塔は鈍い空にぼんやりと浮かんでいる。その不思議な雰囲気に気を取られていると、へこんだアスファルトに躓いて転びそうになる。前のめりになったおれを支える力を感じた。貌に真白いカーテンを被せられたような、視界の潰れ方。

 

 「内戦状態、いや、戦争か……。戦争は戦争を養う、とはよく言ったものだね。そうは思わないかい……」

 

 貌を上げると、何時見てもおぞけが走るような美貌の男がいた。白いシャツに、踝までのクロップドパンツ。そこにストールを巻いた白根宮藤奈。どんくさい体勢のおれを見て、目を細めた。堕落を誘う微笑み。おれは胸に貌を埋めた。

 すると、白根宮藤奈の身体が少しだけ跳ねて、微かな笑い声の後に頭に手が載せられた。ほんの少しだけでも、彼を驚かせられたということは、おれに決して小さくない優越感を与えた。あのにこやかな表情を崩せたことを考えると、笑みが溢れる。仕方ない子だね、君は、という声には慈しみと、呆れが混同していた。

 

 「迷惑だった……」

 「少し、驚いたね。いい歳をして、君は……」

 

 身体を起こして、白根宮藤奈と向き合う。彼はおれと同じように壁に沿って歩き出して、後を追いかける。

 

 「どうして、この街には誰もいないの」

 

 おれは訊ねた。

 

 「あれを、見てごらん……」

 

 白根宮藤奈が指差す方には一列に並ばされて、後ろから頭を撃ち抜かれるたくさんの人たちがいた。女だったモノが、ブルカを巻いたまま、覗く目だけが壮絶に何かを伝えようとしている。それはまだいい方で、貌の半分以上が吹っ飛ばされて抉れた男の死体や、初潮も迎えていないような少女の腸が散乱する惨状。少女の死体に跨がって、混乱しながら身体にナイフを突き立てるのは父親で、その父親の狂乱した姿を笑いながら後頭部に拳銃を突き付けるのは妻。そんなおおきなかぶの後ろでは、女が虚ろな目で犯されている。そして、夫を撃ち殺した妻も身ぐるみを剥がれて、身体中が傷だらけだった。直後、その頭の半分が吹き飛んで、石畳に頑固な汚れをつけた。

 ここは地獄か。おれは地獄を見たことなどないが、そう思わざるをえなかった。世界が発狂していた。秩序はなくて、そういった止めるべき何かが病気になってしまって、正常に機能していないような、現実離れした光景だった。

 

 「これは、なに……」

 「かつて、この街で……、いや、世界中で起きた出来事だよ。難民を受け入れた国で発生した()()だ」

 「壁が出来る前の、大昔のこと」

 白根宮藤奈は肯定して、「第三次世界大戦以前の、難民排斥運動と難民側の衝突前夜、といったところかな」

 

 そこらじゅうに転がる死体たちを、住民たちは一纏めにして、小高い山を作った。彼らはそこにたっぷりの化石燃料と火種を放って、キャンプファイアを始めた。酷い臭いの中で酒を飲み散らかして、踊り狂って、その周辺はまるで照明や音響の設備がないクラブのようで、狂気的な宴の様子はソーシャルメディアに乗って世界中へと広がっていく。そんなことが、ヨーロッパじゅうで連鎖的に起こっていた時代。止めるべき警官は、ぱりぱりに焦げた人間を見て息を荒立てていた。その死体は蹲るような体勢で、小さい。まるで、子供のようだ。

 ガンパウダーでトリップした男が娘の名前を連呼しながら、見ず知らずの女を相手に腰を振って、女もまんざらではない様子。おかしな宗教の儀式のような乱交はそこらじゅうで行われていた。みんな誰かの血と涙でべとべとになりながら、さらに自分の体液で汚れていく。

 暴力と、快楽と、知性の欠片もない退行。綺麗に浄化されたヨーロッパ人だけの宴。

 

 「猿みたいだ」

 「チンパンジーも虐殺をする。戦争も、虐殺も人間だけの特別なものじゃないんだよ。残虐性や暴力性は遺伝子に記されたことだからね。ずっと遠い昔の、ぼくたちとチンパンジーの共通の祖先の頃から遺伝子には刻み込まれていたはずだよ。それを人間は理性や知性で克服しようとするけれど、どうにもならない場所がある」

 

 それがここなのだろう。理性も知性も、文明性の存在しない蛮族の都。脳内にプリセットされた暴力が目覚めた、文明の退化。

 

 「それは、地獄……」

 「ここのことを言ってるのかい」

 

 おれは頷いた。

 

 「どうだろうね。ぼくたちは本物の地獄を見たことがない。各々の頭が地獄だと認識すれば、そこはもう地獄なんじゃないかな。そもそも、本物の地獄なんてあるのかな……」

 「でも、あなたが訪れた国は地獄になった」

 「分からないな。ぼくはその時には、国外にいたんだろう。ぼくはその光景を見てはいないから、()()()()にはどうも言えないよ。でも、きみが地獄だと言うなら、そこは地獄になったのかもしれない。きみの見た光景がきみを苛み続けているのならね」

 「苛むって……」

 「地獄からは逃げられない。『地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。大脳皮質の襞のパターンに』、地獄の在処を探そうとは思わないけれど、逃れることが出来ないで、苛まれる風景は正しく地獄なんじゃないかな。ぼくはそう思うよ」

 

 おれは改めて周りを見る。未だに恐ろしい行いは続いていて、それは紛れもなく、悪しきものであると断言出来る。でも、一度目を閉じると、耳を塞ぐと、おれはそれから逃れることが出来た。あんまりにも、簡単に。

 ここはどうやら、地獄ではないらしい。

 

 「きみは地獄を持っているかい」

 「分からない。苛まれるような光景は、特には」

 そうか、と白根宮藤奈は言って、「それは素敵なことだね」

 「あなたは、地獄を持っていたの……」

 

 おれの問いに、彼は立ち止まって、蛮行を見やった。さっきまで痴態を晒し合っていた女を脂ぎった男が絞め殺していた。

 

 「苛む、というほどではないけれど、消えないものはあるね」

 「それは、こういう風な」

 「いや、こんなに血生臭いものではないよ」

 

 きみも、何時か、きみだけの地獄を持つよ。

 そう言った白根宮藤奈は、燃える街を軽やかな足取りで進んでいく。片手に文庫本を持って、舞うように血の合間を跳ねていく。まるで妖精のような幻想を振り撒きながら。

 

 「早く、ぼくの元までおいで……。早くしないと──」

 

 アフターバーナーの音。見上げると、爆装したラファールがハードポイントから爆弾を落としていく。

 その聖なる火で、悪徳の街は綺麗さっぱり消え去る。ソドムとゴモラみたいに。みんな焼けて、おれも焼ける。

 混じり合って。

 瞬いて。

 憎しみも殺意も消えずに。 

 

 

 目が合って、身体が優しく拘束されていた。

 

 「お疲れのようね」

 

 同居人はキッチンからおれを見ていた。真夜中なのに、彼女は部屋着にも着替えないでばっちりとした外行きの服を着ていた。

 おれは覚えのないブランケットを退かして、ソファから起きた。

 

 「うなされていたわよ。何か悪い夢でも見た……」

 

 同居人はそう訊ねながら、マグカップを差し出した。ホットミルク。ほんのりと、ジンジャーの薫りがした。

 

 「いや、悪い夢じゃなかったと思う。相対的には良い夢、だったのかな……」

 「なにそれ」

 「懐かしい人の夢ですよ。たまに見るんです」

 

 同居人はおれの隣に腰掛けて、眼鏡を外した貌を覗き込んでくる。

 

 「あいつに何か変なこと言われた……」

 おれが飯田、と訊くと頷いて、「あいつが接触してくるなんて、滅多にないから驚いたわよ。それで、どんなことを言われたの」

 「あなたがおっかない人だって。最後には酷い目に合わせられるみたいなことを言ってましたね。おれからすればどっちもどっちなんですけど」

 

 すると、同居人は笑って、そんなことか、と背を凭れさせてマグカップを傾けた。

 

 「くだらないわね」

 「えぇ、ほんとうに。肩透かしを喰らいましたよ」

 じゃあ、と同居人は、「こちらもくだらない話でもしましょう」

 「例えば、どんな」

 「落ち着くような、毒にも、薬にもならないような話」

 

 おれは少し目を閉じて、良さげなものを記憶の中から漁る。同居人が気に入るかどうかは分からないけれど、最近の出来事を話すことにした。

 

 「去年の三月八日に、姉にミモザの花を贈ったんです」

 「素敵ね。それ、すごくうれしいと思うわ」

 「その日はまぁ、豪勢に飯を作りました。早めに帰ってくるって言ってたから、急いで学校から帰ってね。でも、姉が帰ってきたのは九日になってからで、随分と待たされました。テーブルの上を見たら、普段じゃ考えられないぐらいに慌てて謝ってきて。別に謝ってくれなんて言ってないのにさ……」

 

 その後は、遅めの夕飯を食べて、姉はお気に入りのスコッチを開けたりして。酒が回って、涙腺が脆くなった姉にミモザの花束を渡したら大泣きされて、困ってしまった。

 謝ってほしくなどなかったのだ。別に、謝罪を要求したわけでもない。姉がそういう面で不安定な職に就いているのは理解していた。

 だからこそだった、おれがテーブルに突っ伏して寝てしまって、鍵の開く音で目を覚ますと、テーブルを見ていた姉が慌ただしく謝ってきて、それには酷く驚かされた。罪悪感と寂貘を写した貌、眉を八の字にするほど悲壮なことではない筈なのに。姉はすまない、と言うばかりで、元はおれが一人でサプライズを仕掛けただったのにも関わらず、おれの貌を胸に抱いたまま、離してくれなかった。とおい、昔のように。

 その時、姉が何を感じて、何に謝っていたのかは分からないけれど、姉はおれに何かを視ていたのだろう。セピア色の呪い、亡霊、あるいは苛まれ続けるような、消えてなくならないような、そんな地獄のような何かを。

 ただの弱い女だった。おれにしがみついて、赦しを乞う姉は世間で持て囃されるブリュンヒルデなどではなく、ただ怯えて震えるか弱い女に過ぎなかった。おれが背に手を回すと、身体を跳ねさせて、その虚像と真逆な背を震わせていた。

 

 「あなたには、苛まれ続けるようなものってありますか」

 

 おれはそう同居人に訊いた。ややあって、同居人は両手に包んだマグカップを覗きながら、口を開いた。

 

 「宗教の話」

 「いや、個人的興味」

 

 笑ってみせた。不恰好かもしれないが、内包するものを隠す笑み。飯田の猿真似だ。

 一度、こういう職種の人に訊いてみたかったんですよ、と言ってまっさらな同居人の表情を伺う。

 

 「苛まれる、ね。別にないわよ。そんな大仰なもの」

 

 淡白な返しだった。

 

 「仕事だから」

 「仕事だろうが、なんだろうが、苛まれるやつはいるわよ。単にわたしがそういうものを持ってないだけ。仕事として、人前で言うのも憚られるようなことをすることだってあるわ。でも、それに呵責を持つ人間ではないってこと。殺さなくちゃならない人間には、殺されなくてはならない理由がある。霞ヶ関の連中が、第一級と定めた相手には定められた理由がある。それらは貌も知らないたくさんの人間を守るために必要なことよ」

 

 アドルフ・アイヒマンは優秀な官僚だった。彼は命令として、数多くのユダヤ人を殺戮して、実績を残した。彼の言葉に、百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない、というものがある。しかし、一万人の死が統計上の数字に過ぎなくとも、そこに発生した命の損失は事実で、リアリティの壁を越した場所では、それは紛うことない悲劇だ。それを防ぐために、日夜、アイヒマン的思考で命令に従う責任を果たす。こいつを殺すことは正しいことで、たくさんの人のためのことだから、と。グロテスクなまでに国益を想定して、暴力を発注する、そういう人間たちの端末として、彼女も機能している。その同類として、頭の中に恐ろしい思考が展開されているはずだ。

 では、彼女には地獄が存在しないのだろうか。おれが未だ地獄を持たないように、彼女も地獄を持っていないだけなのか。

 シャワールームから聴こえる弾ける音を聴きながら、広くなったソファに寝そべる。同居人の薫りがうるさく、存在を主張してくる。

 逃げられない光景も、苛まれる光景も、瞼の裏には浮かばなかった。

 おれの地獄はどんなものなんだろう。おれは思う。

 そうしていると身体がむず痒くて、何度も寝返りをうった。まるで別のソファに寝ているような気持ち悪さ。バスタオル一枚の同居人はそんなおれを笑って、おれはクッションで貌を隠した。

 

 

 

 

 

 




 はい、いまいち話が進んでませんが、第二部です。

 そういえば、もう4月ですね。私もこれから女子高生です。頑張っていきます。ロジカルです。(エイプリルフール)

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