※ここでスワスチカは開かれません※
何故前回『藤井蓮』という名前が出てきたのかわからない方は、是非『藤井蓮』で検索して、その流出の詠唱を見て下さい。そしてその後もう一度この小説のタイトルを見て下さい。理由がわかると思いますから。
なんなのだろう、この人は。少年・藤井蓮は瀬田逢瀬という人間を前にして、そう考えた。
親と
恐怖した。今にも泣き出しそうなほどだった。何か頼れそうなもの、縋れそうなものを探すも、視界を埋め尽くすのは人、人、人。蓮の低い視点では、周りを取り囲む全ての人間は自らを押し潰すほどの巨人に等しく、凡そ悉くが天魔、或いは波旬の如き恐怖の象徴でしかなかった。
そんなとき、巨人の中でも一際縮こまっているスカイブルーの少女を見つけた。その刹那、彼の足は少女へ向け歩き出し、その手を力無く引っ張った。他意があるわけでも悪意があるわけでもない。ただ
困ったような表情で蓮を見下ろす彼女は、子供の目から見てもひどく狼狽えていたように思えた。頼りないその姿に彼の不安も掻き立てられて、堰き止めていた涙が瞳から溢れそうになる。それを見た彼女は一層慌て、何を思ったかクマのようなお面を額につけて蓮に笑いかけた。頰が赤い。恥ずかしいのだろう。しかしそれでも、その行動は蓮の涙を止めるには十分だった。
そして、その後ろから逢瀬が現れた。蓮の心に再び昏い恐怖がへばりつく。
小さな子供にとって、〝大人の男性〟とはただそれだけで畏怖の対象だ。自らより強いものを恐れる、至極当然な心理現象。霊長と名乗る種においては大抵の場合雌や幼体より雄の方が生物的に力で勝り、それは人間とて例外ではない。
故に、蓮の目から見て、逢瀬は恐ろしかった。
見下ろすその瞳に融けた紫紺が恐ろしかった。
自らを押し潰そうとする水底のような空気が恐ろしかった。
それでも、その恐怖を振り払ってでも反抗しなければならないことがあったのだ。
『迷子センターに連れて行こう』。その発言は看過できなかった。それをされてしまえば、折角張った意地が意味を為さなくなってしまうから。
酷い我儘だというのは承知している。面倒な子供だと思われることだって理解している。それでも、子供だからこそ、決めたことを曲げるという処世術を知らないのだ。
普通の大人なら有無を言わさずセンターまで連れて行くか、事なかれ主義に則って放置するか、そのどちらかを選択するだろう。連れて行かれるわけにはいかない。故に、蓮は喉元から込み上げる衝動のまま、拒絶を叫んだ。
それに対する逢瀬の返答は、同調だった。『わかった』と、蓮の我儘に付き合うと、そう告げたのだ。その
なんなのだろう、この人は。そのまま共に大水槽の餌やりを見た。見えないと主張すれば、肩に乗せて持ち上げてくれた。その頃には既に先の恐怖など消え失せ、代わりに楽しさが心を満たしていた。
そして、それらも過ぎ去った話。
今彼らは大水槽から離れ、屋外にあるイルカの水槽前の椅子に座っていた。
何故ここにいるのかと言えば、簡単な話、この場所でイルカショーが開催されるからである。
時は時計の針が十五時を示す直前。遭遇から凡そ二時間と少しを館内で共に過ごした彼らは、パンフレットに載っていたイルカショーに興味を示した蓮の「見てみたい」という一声により、
興奮を抑えきれないと言いたげに足をパタパタと動かす蓮を挟むように逢瀬と花音が座り、開始の時刻を今か今かと待ちわびている。席は水槽の正面で、イルカショーを見るには絶好と言ってもいいポジションだった。
大水槽の餌やりと並ぶ大きなイベントということもあり、席は後ろの方まで殆ど人で埋められている。中には蓮と同じかそれ以下とみられるような子供もおり、彼らも皆一様にその小さな身体を興奮に浸していた。
逢瀬や花音も、それほど露骨ではないが内心昂ぶっていないといえば嘘になる。それは恐らく誰もが同じで、きっと皆純粋な興味と子供心を持ってこの場所にいるのだろう。
しばらくすると時計の長針が真っ直ぐ上を指し示し、水槽の奥にある足場の袖から係員と見られる女性が現れる。
『皆さん、こんにちはー!』
その返事に満足したように女性が礼を返し、次いでショーの説明を入った。曰くここにいるイルカはオスかメスのどっちなのか、曰く名前はなんと言うのか、得意な技は何かなど、ショーの理解を円滑に進める為のものだ。
その説明が全て終わり、ショーが始まった。口の先でボールを操ったり、トレーナーを背に乗せ泳いだり、イルカの高い知能と身体能力を見せつけるように繰り広げられる数々の演目に、数多の観客は勿論、花音も、そして逢瀬も魅せられていた。
「わあ……」
花音が感嘆の声を漏らす。その視線の先では、吊るされたリングをジャンプで潜り抜ける一匹のイルカ。着水し、その後を追うようにまた別のイルカが跳び上がる。
その流線型の身体から散る水の軌跡も、煌めいて目を灼く太陽も、全ては彼らの為の舞台装置だ。観客を魅せる為の技の粋は、今ここに。
さて、しかし魅せるだけでは終わらないのが常というもの。彼らの座っている席は水槽の正面最前列。それはつまり、
イルカショーには演出の為に観客を巻き込む場合がある。それは例えば登壇してもらいイルカに触れるだとか、そういう平和的なものだけでなく、
破裂音。それがイルカが尾で水面を叩いた音だと気づくのに時間は必要なかった。大量の水が花音たちに降りかかる。咄嗟に蓮の肩を抱いて、
「……あれ?」
何もない。冷たさも、衝撃も、花音を襲うはずだった全ては何も彼女まで到達していなかった。恐る恐る目を開くと、花音と蓮の眼前には、遮るように逢瀬の上着が広げられていた。
すぐに理解した。イルカが水を此方に向けて飛ばしたその刹那、逢瀬は咄嗟に彼女たちを庇ったのだ。花音は視線を横にずらして逢瀬を見る。濡れずに済んだ花音と蓮に対し、彼は全身を濡れ鼠にしていた。髪や服の端から滴る水が、彼が被った水の量を物語っている。
「寒くはないかな、二人とも」
広げていた上着を下ろし、逢瀬は花音と蓮に問うた。二人が頷くと、逢瀬は「それならよかった」と薄く笑った。
周りからは濡れた観客の阿鼻叫喚が絶えず響いている。花音は鞄からハンカチを取り出し逢瀬に差し出す。彼はそれを受け取ると、誰も自分を見てないことを確認してから変装用の伊達眼鏡を外しレンズを拭いた。
「あの……大丈夫ですか?」
「案ずることはないさ。
心配する花音に気障ったらしく答え、逢瀬は伊達眼鏡を着け直す。
「と言っても、もう終わりだけどね」
そう言って視線で前を指し示す。見れば演目も終盤、最初の挨拶をした女性がイヤホンマイクを通して終わりの口上を並べている。
イルカ以外に興味は無いと言いたげな観客は
「そろそろ行こうか」
「わかりましたけど、服、どうするんですか?」
花音が言う。その答えとして、逢瀬は近くの壁に貼られた貼り紙に指を向けた。そこに書かれていたのは、『乾燥機あります』の文字。
花音は納得したように「あぁ」と漏らした。
「そういうことさ。松原嬢、彼のことは頼んだよ」
そうして逢瀬は蓮を花音に預け、濡れた足跡を残して乾燥機へと向かった。
◇◆◇
ゴゥンゴゥンと一定の音を立てて回る乾燥機を、逢瀬は椅子の上で見つめていた。
この水族館に備えられた乾燥機のスペースは相当に大きく、一つのそれに対し仕切りで区切られたほぼ個室と言ってもいいほどの区画が設けられている。
コインランドリーと同じようなシステムで稼働するこの乾燥機は、使用するコインの枚数により乾燥にかかる時間が変動する。逢瀬が選んだのは最短のコースで、時間は約十分ほど。
既に乾燥機を回し始めてから十分近くが経過していた。その停止を確認し、服の熱が飛ぶのを待っていると、外から声がかけられた。
「お兄さん、今入っていい?」
声の主は、花音と一緒にいるはずの蓮だった。
「えっ、ああ、ちょっと待ってくれ」
逢瀬は慌てて乾燥機の蓋を開け服を着る。
何か言いたいことがあるのだろう。
「……ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど……」
蓮の口から出てきた言葉は相談だった。それは蓮がここに来るまでの経緯、即ち迷子となるに至った理由である。
纏めてしまえば、それは蓮の小さな意地が原因であった。
二人の幼馴染とその母親、そして自分の母親を含めた六人で水族館に来ていたこと。その幼馴染と些細なことで仲違いして、親の仲裁も聞かず飛び出してきてしまったこと。そして気づいたら迷っていたこと。
ぽつぽつと拙い言葉で語られるそれを、逢瀬は何も言わず聞いていた。蓮が全て話し終えた後、漸く口を開く。
「それで、どうして君はその幼馴染とケンカなんてしたのかな?」
「……ナマコ」
一瞬の沈黙。「は?」と、逢瀬の脳が状況の理解を拒む声が喉から飛び出た。
「だから、ナマコ。ナマコの口。お母さんには止められたけど見ちゃって、
香純、司狼。恐らく、その名こそ、彼の幼馴染の名前なのだと逢瀬は推察する。その幼馴染たちに見せようとして親に止められ、そこで癇癪でも起こしてしまったのだろう。
「しかし何故そんなもの見せようと? アレは好き好んで見るものでもあるまいに」
「だって、誰も見なかったもの見たらカッコいいじゃん。でも、二人とも『大したことないんじゃないの』って言うし、だったら見せてやろうと思ったんだもん」
────ああ、納得した。
逢瀬は蓮の言いたいことを理解した。
「なるほど、要するに君は格好つけたかったわけだ」
なんだ、
蓮は表情を曇らせる。
「やっぱり、そういうのはダメなのかな」
「ダメなんてことはないさ。むしろもっとやりたまえ。格好つけることは悪いことじゃないんだ」
それは誰よりも格好つけることに全力を賭してきた逢瀬だからこそ言える言葉だった。蓮は不思議そうな顔で逢瀬を見上げる。
そうだとも、たとえそれが見栄だとしても、男の子はそれを貫き通す権利がある。
「そうやってカッコよく生きたいって思うことは、男の子の特権だ」
でもね、と逢瀬は付け足す。
「
逢瀬は語る。
格好つけるのにもやり方があるのだ。誰かの意思を無視するやり方と、誰かの意思を尊重するやり方。格好つけるのは自分でも、それを見て評価するのはいつだって他人だ。他人から良く思われなければ、それは失敗でしかない。
彼から言わせて貰えば、蓮のそれは間違いなく失敗だ。相手が望まないことを望まない形で為してはならない。誰かの意思を無視するやり方を取ったとしても、それが誰かの益にならなければ無意味なのだ。
「じゃあ、どうすればいいのかな」
「謝ればいいさ。格好つけるのは、もう少し後でいい。友達なんだろう? なら、まずは素直にならなくちゃね」
蓮は露骨に難しい顔をした。当然だ、格好つけようとした手前、おいそれと『自分が悪かった』などと言えるはずがない。
だが、今ここで決心せねば、次はいつ彼に考える機会が訪れるというのだろう。子供心に後悔して、己のプライドに向き合って、答えを出せるのはここしかないのだ。
逢瀬は蓮にそう伝えたい。今この一瞬を有意義に。その刹那に見いだせるものも何かあるはずだ。
「覚えておくといいよ、少年。
そう、故に。君は向き合えるはずだ、少年。
その言葉は蓮の心に深く染み入った。結ばれた氷を溶かすように、その内に秘められた本心を露出させていく。
もう一度、二人の幼馴染と話したい。もう一度なんて言わず、これからも、ずっと。つまらない
「そうだよ。君なら出来るさ。僕が保証しよう」
「……うん。ありがと、お兄さん」
蓮の瞳に決意が宿る。それを見て、逢瀬は安心したような笑みを浮かべた。
もう心配はいらない。覚悟は蓮の中で決められた。あとは、彼を幼馴染と引き合わせるだけだ。蓮から見えないように、後ろ手でスマートフォンを取り出し花音にメッセージを送る。
『迷子センターに彼を連れて行く』
もう躊躇う必要はないだろう。逢瀬はスマートフォンを仕舞って蓮に目を向ける。
「さて、行こうか」
個室の扉に手をかける。そして開こうとした時、足元にいた蓮が「あっ」と声を上げた。
「そういえばお兄さん。もう一つ聞いていい?」
「ん? ああ、いいとも。何かな」
「えっとね……」
そして、次に発せられた言葉は、逢瀬を凍りつかせるのに十分だった。
「
傷だらけの身体。一人の少年が暴いた事実は、果たして何を意味しているのだろうか。
ここからは評価者様のご紹介。
☆10 ゆゆにゃ〜様
☆9 森の人様、しまたく様、天魔・雪風様、レジスタ_001様、ホモ・サピエンス様
☆7 chatnoir
また、柊蒼月様、マイペース系様、再評価ありがとうございます。
皆様のおかげで評価数が100を突破致しました。実は夢の一つだったりしてました。まさか本当にこの目で拝めるとは……皆様本当にありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い致します。
それではまた。感想、高評価頂けると更新速度がナメクジからクリオネくらいには上がります。