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時が凍った。あらゆる万象が動きを止め、響くはずの心音すら静寂の支配に呑まれる。そのような感覚を、逢瀬は味わっていた。
心を埋めたのは焦燥。次いで、虚飾。溢れ出しそうな焦りの感情を理性と善性のペルソナで覆い隠し、凍った己とその時間を解凍する。
逢瀬が自らを評して『素肌を晒すと色々面倒な事案が発生する』と言うのはこれが原因だ。全身に走った傷跡。恐らく蓮は理解できていなかったのだろうが、その殆どは惨い
「……君、今何歳?」
「六歳……だけど」
「そうか、六歳か。なら
不思議な質問だった。蓮にはその真意を推し量ることができない。しかしその口ぶりは、まるで四年前に起きたことなど、皆知っているものだと示すかのようなものだった。
どう誤魔化すか。逢瀬は思考を巡らせる。このことは、知らないのなら知らない方が幸せな事柄だ。〝貴公子〟の罅。かつて刻まれた唯一の、それでいて特大の汚点。綺麗事と夢物語を語る〝瀬田逢瀬〟という偶像の、決して綺麗とは言えない闇。それこそが、この傷跡なのだ。
言うなれば、それはタブーというものだ。公然の秘密と言い換えてもいい。誰もが知っている。しかし口に出してはいけない。それに触れることは禁忌に等しいのだから。
蓮がそのことについて口にしてしまったのは、ひとえに彼が幼いが故のことだ。四年前の出来事を知らず、また、人の踏み込んではいけない領域を見定めることがまだ出来ない年齢。あと歳が十もあれば少しは違ったのだろうか。蓮にはまだその判別がついていなかった。
ならばどうするか。別に四年前の出来事を知られるくらいなら何も支障はない。ただ、傷跡に関しては少々都合が悪いのだ。
傷とは、ただそこにあるだけで見る者に何かしらの印象を抱かせる。同情、憐憫、嫌悪。そこに負の感情は数あれど、正の感情はないに等しい。
らしくあれ。そうしてきたのはお前自身だ。斯く在れかし。仮面を被るのは得意だろう? この状況で動じるほど、お前は甘くなかったはずだ。
逢瀬は蓮に視線を合わせ、己の唇に人差し指を当てる。
「いいかい。これから僕の言うことをよく聞いて」
虚栄で塗り固めた、己の口という拡声器を言葉が通過する。声帯に
それが言葉、
「これは僕と君だけの秘密だ」
一種の賭けだった。相手は子供。それも善悪の区別がはっきりとしていないような年齢の、である。人の口に戸は立てられないと言うが、それが小さな子供なら尚更だ。彼が何かの拍子に口を滑らせてしまう可能性はなきにしもあらずだろう。
それでも、無理矢理口を塞ぐなどということが出来るはずもない。であればこそ、分が悪いとわかっていても、このようなギャンブルに身を投じるしかなかった。
その勝率を引き上げるのが、言葉なのだ。
「僕は君を信じよう。君はきっと、この秘密を君の中だけに留めていてくれるはずだと」
「うん、わかったけど……
蓮は不思議そうに首を傾げる。事実、彼にとっては不思議でならない。何を隠す必要があるのか。どうして秘密などと言うのか。傷を晒して、何がいけないのか。わからないのはその道理だ。
どうしてと聞かれ、逢瀬はフッと笑う。
「覚えておくと良い。男にはね、少しくらい秘密があったほうがカッコいいのさ」
────そうしてまた一つ、嘘を
笑顔の仮面の下に隠した
「わかったかな、少年。だからもう一度言うよ。────これは、僕と、君だけの、秘密だ」
一つずつ、言葉を区切って詠うように告げる。それは画布に絵の具を垂らすようなもの。
言葉を吐くなど、息をするより簡単なことだ。いつか悩める桃色の少女に告げたものとは異なるが、それも彼の持つ能力の発露。
その魔力に抗えるわけもなく、蓮は了解を示した。逢瀬の真意は言葉の裏に隠され見えなくとも、それを蓮が察することはない。完璧に、逢瀬は蓮の疑問を封じ込んだのだ。
「さあ、行こうか。向き合う時が来たんだよ」
何事もなかったかのように逢瀬は立ち上がり、蓮と合わせていた目線の高さをズラす。扉を開け外に出れば、
向かうはこの水族館の一角。入り口のほど近くにある場所だ。乾燥機置き場の外で待機していた花音を回収し、三人で足並みを揃えそこへ向かう。
近づくにつれ、蓮の足取りは着々と重くなる。覚悟を決めたとはいえ、まだ少々の後ろめたさと怯えは消えない。そんな蓮の肩を軽く叩き、「大丈夫だよ」と逢瀬は告げる。それを三度ほど繰り返せば、いつしか彼らは目的地である迷子センターに辿り着いていた。
逢瀬は花音に指示し、そこから一番近い水槽の前に待機させた。絶対に動かないでね、と再三の念押しを済ませ、蓮に最後の確認を取る。
「行ける?」
一言、それだけを問う。そこに込められた意味は様々だ。恐怖はあるか。友達の為にプライドと向き合えるか。逃げ出したいと思う臆病な自分を抑え込めるか。幼い心に渦巻く複雑な感情は、この土壇場でパニックを起こしたりしないか。先の問いはそれらの確認を内包していた。
迷子センターの扉は目の前。あとはそれを開けるだけでいい。それだけで、蓮の覚悟がどのような形であれ結実する。
ここから先は、蓮にとっての完全な未知だ。未だかつて知らぬ、大切な友人との仲違い。それは果たしてどのように終結するのか────円満な仲直りか、それとも覆しようのない決別か。
彼はじっと扉を見つめ、そしておもむろにノブに手を掛けた。逢瀬はその様を後ろから見守っている。そう、あと一押し。あとほんの少しの勇気があれば、それで良いのだ。
数秒の硬直の後、意を決して蓮は扉を開いた。瞬間、集中する視線。聖人の脇を穿つ血染めの槍の如き不躾なそれは、ただ一点、蓮にのみ注がれていた。
突然の注目にたじろぐ蓮。当然であろう、人前に立つことに慣れているような人種でもなければ、大勢の人間に一斉に見られるなどということをその年齢で体験することなどほぼないのだ。
形成される奇妙な空気。その均衡を破ったのは、とある一つの声だった。
「蓮!」
そう呼びかけたのは妙齢の女性。その容貌の中には心配と憤怒がそれぞれ半分ほどの割合で混在しており、纏う雰囲気や声音から、彼女こそが蓮の母親なのだろうと逢瀬は推測した。
彼女の気持ちは痛いほど理解出来る。愛すべき我が子とこのような場所で分かたれたのだ。親としてどれほどの焦燥に苛まれたかは語るべくもない。
それを蓮も理解しているのだろう。烈火の如く浴びせられる説教に、意地になって何か言い返すようなことはない。しかしその言葉を真っ直ぐに聞いているかと問われればそうでもなく、彼の視線は何処かにいるはずの幼馴染をずっと探していた。
そして見つけた。迷子センターの奥、それぞれの母親の後ろに隠れ、蓮をじっと見つめている二つの影を。
「
叫び、駆け寄る。その後ろで蓮の母親が困惑したような声をあげているが構わない。蓮にとっては二人の幼馴染と向き合うことこそが至上命題だ。
話はまだ終わっていないと、蓮の母親が彼を連れ戻そうと立ち上がる。しかし、それでは意味がない。踏み出した彼の足を止めるわけにはいかないのだ。逢瀬は傍観者の立場をやめ、迷子センターに踏み込んだ。
「まあ待ちたまえマダム。これは彼の戦いだ。覚悟を決めた者の足を我々が引っ張っていいものではない」
その声に、蓮と幼馴染二人を除く誰もが振り向いた。突如として声を上げた第三者たる逢瀬の存在に、蓮の母親は露骨に眉をひそめる。
向けられたのは猜疑の視線。しかしそれでも逢瀬が臆すことはない。注目されることなどとうに慣れている。それがどのような視線であれ、人の目を集めてやまない立場にある彼にとって、それは等しく愛すべき光そのものである。
「僕はあの少年をここまで連れてきた者だ。怪しい者ではないよ」
────いや、怪しい。
逢瀬に視線を向ける全ての人間がそう思った。それもそのはず、彼の格好は服装こそ普通であるものの、変装用の伊達眼鏡と、屋内にも関わらずモナコハンチングの帽子を着用している。マスクでもしていれば完全なる不審者だ。
自分に向けられる疑いの目が強まったのを感じ、逢瀬は漸く「ああ」とその原因に思い至る。
「そうだね、素顔を隠すような男が信頼に値しないのは当然か」
そう言って、逢瀬は伊達眼鏡と帽子を外し、首の後ろで結んでいた髪を
瞬間、変質する空気。
「えっ……もしかして、瀬田────」
「お静かに、マダム」
今にも叫び出しそうな蓮の母親に向け、逢瀬は「しー」と唇に手を当てるジェスチャーをする。
その反応は予想済み────否、その反応をこそ待っていた。過大評価でもなんでもなく、逢瀬の知名度は相当なものだ。余程世間に疎い人間でもない限り、その名前と顔を見たことがないという者はほぼいないことだろう。
それが女性なら尚更だ。逢瀬のルックスやキャラクター性は際立って個性的で、それに魅了された人間は数多い。彼女もその例外ではなかった。〝貴公子〟の一声に撃たれ、彼女から発せられようとしていた物音は静寂に圧殺された。
全ての視線を自分に向けることで、蓮への注意を逸らす。ここから先は彼と幼馴染達の三人舞台だ。誰かに邪魔はさせない。
逢瀬は蓮の方を見遣る。そこでは蓮が二人の幼馴染に向け謝っている姿があった。それに対する幼馴染達の反応は好意的なもので、どうやら彼の勇気は無駄にならなかったようだと逢瀬は安堵の息を漏らした。
これで逢瀬の役割は終了だ。蓮は己の矜持を超越した。逢瀬はその超越の物語を見届けた。背中を押す者として、それ以上すべきことはない。
逢瀬は踵を返そうとし────直前で止まった。このまま立ち去ってはならない。何故なら立つ鳥跡を濁しまくっている。迷子センター内のほぼ全ての視線を集めておいて何事もなかったように立ち去れるわけもない。幾ら蓮のためとはいえ、顔を晒すのはやはりやりすぎだった。
〝瀬田逢瀬がここにいる〟という事実は隠蔽されなくてはならない。主に、放置してしまったら今後の対応に追われることになるであろうマネージャーの胃の為に。
故に、逢瀬は踏みとどまった。なんとかして彼女らの口を塞ぎ、上手くこの場を切り抜ける策を考える。
最終的に辿り着いた結論は、
「いいかい、マダム。これから僕の言うことをよく聞いて」
即ち、〝貴公子〟の名の通りに。数多の者を魅了した輝きを以って、彼はこの場にいる者たちの心を支配する。
「今ここで起きたことは、全て儚いユメだ。
そう、つまりは。
「
────わかったかな、子猫ちゃんたち?」
有無を言わせることなどしない。考える暇など与えない。気づかれぬように相手を自分の舞台に引きずり込み、魅せつけろ。それこそ
そして、その目論見通りに、蓮の母親たちは逢瀬の言葉に魅せられていた。遥かな日に過ぎ去った過去の乙女のように瞳を逢瀬に向け、今にも叫び出しそうな口を彼の言いつけ通りに塞いでいる。それを確認した逢瀬は、一言、
「────いい子だ」
それだけ言い残し、伊達眼鏡と帽子を着けると迷子センターから退去する。その扉を閉める直前、「あの!」と奥から声がした。振り向けば、蓮が逢瀬をじっと見つめていた。
「あのっ……ありがとうございました!」
告げられたのは礼。逢瀬は笑い、言葉を返す。
「
その言葉を最後に、彼はそこから立ち去った。扉を閉め、ある程度離れると、迷子センター内から驚愕とも取れる声が響き渡る。出来れば彼女たちが口の硬い人間でありますようにと、逢瀬は人知れず心の内で祈った。
直ぐに花音を待機させていた水槽の前まで行き、彼女を回収する。
「終わりました?」
「ああ。ごめんね松原嬢、待たせてしまって。だが安心してくれ。迷える少年は仲間の中へ再び戻り、その心にかかっていた雲を晴らした。であればこそ、僕たちのこの
「あっ、それなんですけどね」
逢瀬の言葉を遮り、花音は鞄から水族館のパンフレットを取り出し逢瀬に見せる。指差しているのは閉館時間の欄だ。彼が時計を確認すると、今の時刻はその十五分前。
詰まる所、帰る時間である。
「……わかりました?」
「……ええー」
気の抜けた返事しか出来なかった。何故だろうか、今日ゆっくり見られた展示が三十分のクラゲ鑑賞しかなかったように逢瀬には感じられた。帰ったら夕食には乾燥クラゲのきゅうり和えをメニューに加えようとひっそり決意する。
「どうします?」
「帰ろうか」
閉館時間が迫っている以上、長居しても仕方がない。館内放送でも退出を促すアナウンスがされている。ならばそれに従うのが筋だろう。
そう考え、逢瀬と花音は出口へ向かった。その
素直な気持ちをぶつけ、再び集った仲間たち。それを見て、逢瀬の胸にとある思いが去来する。
「────ああやって……」
「どうかしたんですか?」
逢瀬の歩みが遅くなったことに疑問を持った花音の声で現実に引き戻される。「なんでもないよ」と答え、花音に続いて出口から退館した。
帰りは特に何も起こらなかった。行きのように花音が迷うようなこともなく、花音が満員電車に流されるようなこともなく、花音が自分勝手に動くようなこともなく、彼らは無事に地元へ帰ることが出来た。
また迷われては堪らないと、逢瀬は花音を家まで送り届けた。そうして自らも帰路につく。乾燥クラゲはここまでの道で買ってきていた。
帰宅し、ただいまと告げても返事がないことから、家の中に誰もいないことを知る。薫は演劇部だろうかなどと考えながらリビングに行き、荷物を置いて────。
ガン、と音が響くほど、逢瀬は強く自らの頭を壁に叩きつけた。
「……僕はさっき、何を考えた」
思い出されるのは水族館から出る直前のこと。自分が後押しした蓮とその幼馴染たちの様子を見て、逢瀬は一つのことを考えた。考えてしまった。
何を言う、ふざけるな。そんなことが許されないのは誰よりも自分がわかっているだろう。子供の戯れを見て羨ましくなったとでもいうのか。そんなことはない、そんなはずはない。
これはただの疲労だ。心労だ。休めば治る
壁から頭を離す。一度息を吸い、吐いた。仮面を被れ。そうしてきたのはお前自身だろう。
その時、玄関から声がした。薫の声だ。逢瀬は顔に笑顔を貼り付け、出迎える。
「おかえり、妹よ。今日の夕食はクラゲだ」
那由多に至る永劫の繰り返しの中で、在りし日の
今回原作キャラの出番が少ない。次回からはもっと出番増やしたい。
そして段々と明らかになっていく彼の闇。彼の身体に刻まれた傷は縫合痕とのことですが、果たして四年前に何があったのか────書けるのはいつになるだろう。
ここからは評価者様のご紹介。
☆9 Fiona Glint様
あなたに感謝を。ホント、評価と感想が来るだけで小躍りする単純な作者なので、いつもそういったものをくれる方には足を向けて寝れませんよ。
それではまた次回。感想・高評価など頂けると更新速度がナメクジからプラナリアくらいには上がります。