十五話。中々話数も増えてきた。
時間が止まればいいと思っていた。
今が永遠に続けばいいと思っていた。
この先を見たくない。その結末を見たくない。いつか終わるとわかっているから、縋りつこうと手を伸ばす。
届かない。伸ばした手は空を切る。その刹那は、皮肉にも引き伸ばされたように鮮やかで、しかし停滞するには至らない。
どうかお願い、その手を伸ばして。そんな穏やかな
あなたの腕に嵌められた、その時計の針を抜いてしまいたい。そうすれば、それはきっと、時を刻むのをやめてくれるのだろうから。これ以上、その先を見なくて済むのだろうから。
眼下に広がる紅蓮の華を見て、悲痛な声で
────その日。黄昏の輝きが皮肉なほど眩しかった、
────
◇◆◇
────痛い。
雨が降っていた。慈愛の雫は天高く、見下すように空を覆う黒雲が、嘲笑うかのように地上の者共へ涙の如きそれを叩きつける。
────痛い。
頭の中を、狂ったように痛覚が駆け巡る。自分ではない誰かが、先刻起きた事象の全てを否定すべきだと叫んでいる。
────痛い。
しかし────
〝ねえ、だから……もう一度、◾️◾️◾️って呼んで?〟
〝あなた、全部無かったことにするつもりなのね〟
その言葉が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。熱い唾液と甘い口づけの味をも焦がして塗り替えるほどの鮮烈な疑惑が、その言葉たちによって与えられた。
果たして、
実の所、その疑問を抱いたのは今日が初めてではなかった。逢瀬の記憶では、初めてそう思ったのが四年前。
あの時に見た千聖の瞳に映る感情は、明らかに────
「グッ……ぁガ……っ!」
瞬間、これまでとは比べ物にならないほどの激痛が逢瀬を襲った。土砂降りの雨の中だというのに、傘を持つことすら忘れるほどの痛み。頭の中を幾多もの拷問器具が暴れ回っているような、そんな感覚。
両手で頭を押さえて、覚束ない足で何とか体勢を整えようと地を踏みしめる。しかしその努力すら嘲笑うかのように平衡感覚は仕事を放棄し、ゆらめく身体はすぐ
左肩に走る鈍い衝撃。叩きつける雨粒は一層激しさを増し、自らの重みを支えることすら不可能になった足が半ばから
────今のは……?
最近になって、逢瀬はこのように痛みに見舞われることが多くなっていた。〝契機〟の条件は相も変わらず不明だったが、それでも記憶している限りではここ一ヶ月程度の間に三回それは起こっている。
一度目。丸山彩の相談を受けた帰り道。いつものように、誰かの味方でいると宣言したあの日。その中で告げた一つの言葉が〝契機〟。
覚えている。苦痛に呻きながらも〝復習〟を為し、しかしながらその最中に寝てしまったことも。奇妙な夢の中で、少年少女が不可解な約束を交わしていたことも。
二度目。白鷺千聖による謝罪の後。彼女の弱々しい抱擁を受けたあの日。その中で告げられた一つの言葉が〝契機〟。
覚えている。逃避を求めながらも逃げられず、彼女の言葉に耳を傾けてしまったことを。〝あの頃〟という言葉に打たれ、
三度目。白鷺千聖の独白と暴走。粘膜と粘膜の接触を味わったその時。その中で告げられた一つの名が〝契機〟。
────その名前を、僕は知らない。
逢瀬はそれを
「◾️◾️◾️……ギッ……ガァ……っ!」
口に出すだけで、再び脳の拷問器具が暴れ出す。凡そ中世の罪人であろうと味わうことのなかったであろう苦痛の連鎖に、詰まるような苦悶の呻きが喉から絞り出される。
逢瀬は不思議でならなかった。何故、たった三文字を口に出すだけでここまで己が苦しめられるのか。果たしてそこに何の意味が込められている?
それは何の変哲も無いただの〝名〟だ。千聖が口にした、恐らくは彼女の言う〝あの頃〟に付随する呼び名。しかし知らない。
震える足と揺れる視界を無理矢理世界の照準に固定し、逢瀬は壁を支えにして立ち上がる。地面に膝をついたときに服や長髪の端が汚れたが、それは洗い流せば済む話だ。気にする価値のあるとは思えない些事でしかなかった。
近くに転がっていた傘を拾う。もう全身濡れ鼠に等しい状態で差す意味があるとはお世辞にも言えないが、それでもそうやって雨の日にすべき行為をなぞることが、逢瀬には不思議と大切なことに思えた。
────帰ろう。
陰鬱な雨に濡れて、過去の痛みはどこまでも遠く鳴り響く。
────ああ神よ。いるならどうか教えてください。
────この痛みは、いったいどこから来たものですか?
◇◆◇
「ああ、おかえり兄よ……って、どうしたんだい。そんなに濡れて、傘を持っていなかったのかな?」
逢瀬が玄関のドアを潜ると、リビングから出てきた薫が開口一番そう言った。「ちょっと子猫ちゃんの戯れに付き合っていてね」と逢瀬は返し、濡れた身体を引きずるようにバスルームへ向かう。
重い衣服を脱ぎ捨てて、濡れた身体に惜しげもなく熱い雫を打ち付ける。雨に打たれて冷えた肉体に熱を与え、沁み渡らせていくような感覚。重力に引かれて広がる髪を見下ろして、逢瀬は曇った鏡を掌でなぞった。
蒸気が取り払われた後に覗く鏡面。そこに映るのは傷だらけの五体。逢瀬は左胸にある縫合痕の一つに指を這わせる。指先に感じるのは、僅かな
この身体になってからもう四年。今日のような雨の日は、全身に走ったこの傷を、無数の
唯一傷のついていないのは陰部くらいだが、それももう
死せる獅子の前に肉を吊り下げても生き返るわけではないように。枯れた大木に水を注いでも生き返るわけではないように。既に朽ちた彼の身体に、燃やすべき情欲は残っていなかった。
「……本当に、おかしな身体だよ」
小さく呟く。そう思わなかった日はない。しかしそれも〝仕方のないこと〟なのだろうと、彼は己を納得させる。そもそも
逢瀬は〝自分に残された時間〟を認識する。現在の年齢は十九。今年で二十になる。とすれば、
「
────何も、問題などありはしない。
────たとえこの身体にどんな無理を強いようとも、何も。
その決意擬きを繰り返すのも、この四年間で飽きるほどやってきた。この傷が疼く度、身体の異常を認識する度、かつて告げられた〝タイムリミット〟を思い出す。
その時、バスルームと外とを隔てる扉の向こうから気配と声が逢瀬に届いた。薫だ。
「兄よ、着替えを持って来た。ここに置いておけばいいだろうか」
「ああ、そうしてくれ。
……それと妹よ。一つ、質問をしていいか」
扉の向こうの人影が動く。「何かな?」と返す薫に、逢瀬は先程降って湧いた疑問をぶつけた。
「四年より以前────
「千聖を?」
千聖から告げられた◾️◾️◾️という名。それは逢瀬にとっては覚えの無い、〝過去の記録〟に残っていない異形の名だ。
彼の予測が正しければ、薫はそれを
「他と同じく〝白鷺嬢〟と呼んでいたはずだが……それがどうかしたのか?」
────ああ、やはり。
逢瀬は嘆息した。薫の知っていた事実と、知らなかった事実。それはまさしく、◾️◾️◾️という名に逢瀬の〝歌劇〟を看破する危険因子が含まれていることに他ならなかった。
「……何か、あったのだろう?」
ふと、憂うような口調で薫がポツリとそう零した。
「千聖の家にでも行ったのだろう? 理由はわからないが、貴方が苦しむ時はいつも彼女絡みだ」
「……わかるかい?」
「伊達に四年間〝瀬田逢瀬〟を見てきていないよ。貴方はその頭痛に襲われている時だけ、少しばかり声音が変わる」
「そう。僕もまだまだだね」
反省するような逢瀬の声は、僅かな自嘲を含んでいた。血を分けた妹とはいえ、己の演技を見破られたという事実は、彼にとって無視出来ない失態であったからだ。
「────なあ、兄よ。そろそろいいんじゃないか?」
「いい、というのは?」
流していたシャワーの栓を止める。ノズルに残っていた水滴が、歌うように床へと落ちる。
僅かな静寂。薫の逡巡が、その沈黙の時間から感じ取れた。何か、と逢瀬は優しげに聞き返そうとする。しかし、その次に薫から投げられた言葉は、逢瀬の余裕を打ち破るのに、十分すぎる力を持っていた。
「
「黙れ」
瞬間、音が響く。人の肉が何か硬いものに衝突した鈍い音。突然のそれに薫の肩が跳ね、すぐにそれがバスルームの中、即ち逢瀬から発せられたものだとわかった。
逢瀬が拳で壁を叩いたのだ。苛立ち。そのようにも取れる確かな怒りを込めて。
「わかっているよ、そんなこと。正しいことが痛いことだなんて、四年前のあの日からずっとわかっている」
────だが。
逢瀬は逆接を謳う。理解しているのだ、そんなことは。周りから見て自分がどんな生き方をしているかなど。
「
白鷺さんに全て教えれば、たしかに楽にはなるだろう。でも、僕の背負うべき痛みを彼女に分け与えるなんて、そんなの僕自身が許すものか」
逢瀬が千聖に〝真実〟を教えない理由は、大別して二つある。
一つは真実を知る人間を絞る為。現状、彼の抱えるモノを知る人間は両手の指で数えられる程しかいない。秘密を守る為にもっとも重要なことは、その認知の規模を狭めることだ。それが少なければ少ないほど、秘密の管理は容易で堅固になる。
逢瀬はその中に千聖を入れるべきではないと判断した。ただそれだけのこと。
そして、もう一つは────。
思い出されるのは四年前のとある病室。そこで見た、瞳の輝き。
「……だから、ダメなんだ」
表出した怒りを心の最奥に封じ込めて、逢瀬は言葉を締めくくる。
薫も彼がこれ以上話を続けることを望んでいないことをわかっているのだろう。余計なことを口走るようなことはせず、「無理はしないでくれ」とだけ告げて戻っていった。
残された逢瀬を襲ったのは、奇妙な沈黙。水滴の音が反響し、バスルームに唯一の物音を齎す。
次いで彼に訪れたのは、耐え難いほどの強烈な吐き気だった。
「うっ……ヴ……ガは……」
食道を胃酸が逆流する。喉元を焼くような熱と痛みが這い回り、口内に酸性の異味が充満していく。
咄嗟に口を押さえても間に合わない。呑み下すことは叶わず、掌と指の隙間から大量の吐瀉物が流れ出る。胃酸による異臭が足下から立ち上り、昼間に飲んだコーヒーの黒が、黄土色の中で混ざり合って激しく自己主張していた。
頭痛による吐き気。いつもは人の目と場所を考え我慢していたが、幸いにも此処はどれだけ汚れても洗い流せるバスルーム。見られる心配も無いというのが唯一の救いだった。
荒い息と垂れる冷や汗。汚物の付着する口元を荒っぽく手の甲で拭い、広がる吐瀉物と汚れた身体を一度は止めたシャワーで流していく。
────本当に、難儀な身体だ。
その独白は、誰にも聞き届けられることはなく。
残酷な運命の足音に気づく賢者は、世界の何処にも有り得なかった。
正しいことは痛いから。シルヴァリオを代表する名言ですよね。自分の正しいと信じたことを突き進むって意味では、あの全肯定キザ太郎にはちょっと光の奴隷っぽさがあるのかもしれない。
今回の話で、読者様の中でも彼の身体に何が起きているのかわかる方が増えてくるのではないかなと思います。
以下、評価者様方。
☆10 ビタミンB様、C18H27NO3様
☆9 徐公明様、リキヤ様、なんちゃって提督様、mocca様、jack@霧雨様、モンテベロ侯爵様、甲子エノキ様、びだるさすーん様
☆8 MinorNovice様
☆7 慶和様
感想、評価など大変励みになっています。正直めっちゃ嬉しい。