話を進めるためとはいえ、あんまり原作キャラ出せなかった。
流血は、とうの昔に受け入れた。
あの日。黄昏が彼らを照らす、皮肉なほどに美しかった
彼の歪み。思えば、
だがしかし。彼にとって、
己が五体に傷を刻むことを躊躇わない。己が血流を流出させることを恐れない。元より彼の中に存在していた歪み────否、その言い方は適切ではない。本来あるはずのもの、
そう、だからこそ。
一人の女がその傷を見た。そしてかけられた言葉に、彼はあっけらかんとこう返す。
「……ああ、本当だ。気づかなかったよ」
◇◆◇
中天の太陽。季節は七月に入り七夕を目前に控えた初夏。加減を忘れた日輪は容赦なく地上を
彼、瀬田逢瀬は神妙な面持ちでその中を事務所に向かって進んでいた。何故彼がそのような表情をしているのかは、ちょうど今事務所の扉の先に見える妙齢の女性が知っている。
逢瀬がマネージャーと呼ぶ人物。彼女からの連絡が、彼をここまで呼ぶ理由となっていた。
「緊急の要件。さっきメッセージで送った通りのこと。実物を見てもらった方が早いかもね」
そう告げて、マネージャーは逢瀬を事務所の一室まで招き入れた。そこにいたのは複数の人物。それも一介の俳優や女優といったような役者達ではなく、事務所内でも相当高位の地位を握る権力者達であった。そしてその中には、
「ほら、これ」
人の波を引かせて、マネージャーは長机の上に置かれた、口の締められる袋に包まれた紙片を逢瀬に見せた。それを見た逢瀬は、「ああ、やっぱり」と、少し苦々しそうな表情をして。
その紙片は、そこに書かれた宛先は────そこに綴られた悪意の文字列は、人の心を死に至らしめる刃に他ならない。
「
それは紛れもなく、白鷺千聖に宛てられた脅迫状だった。
「『多くの人間を騙した演技派女優白鷺千聖。今すぐに芸能界から消えろ。そうしなければお前を殺す』。……なんとなくこんな気はしていたけどね。拗らせたファンというのは厄介だ」
脅迫状をマネージャーに渡し、逢瀬は語る。彼に言わせれば、何もこういったことはそう珍しいことでもない。
例えば世間に切り込むような物言いをするご意見番だったり。
例えば人に嫌われるようなネタでウケを狙うお笑い芸人だったり。
例えばアイドル性を求められるようになった声優だったり。
例えば不祥事を起こした芸能人だったり。
そういった人の目につくような職業の人間に、このような脅迫じみた言葉は日常茶飯事だ。偶像の聖性への盲信を抱いた者共の落胆、可愛さ余って憎さ百倍、とは少し違うだろうが、反転した人の感情というものは制御のままならない暴君と成り果てる。
昨今はSNSの普及もあって、かつては天上人にも等しかった〝画面の向こうのあの人〟という存在は、諸人に手が届くと勘違いさせてしまえるほどに近くなりすぎてしまった。その果てが、履き違えた感情の発露であるこの脅迫状である。
「白鷺さんには、まだ?」
「パスパレのスタッフを迎えに行かせたわ。車でここまで連れてきてもらって、それから伝えるつもり」
「そう。それで、」
逢瀬は言葉を切り、視線をマネージャーから外す。それを向けた先は部屋の中、付近にいる関係者たち。
一瞬、一瞬だけ。誰にも気づかれないほどの刹那だけ。
逢瀬は瞳に暗い色を滲ませて。その表情に、〝貴公子〟以外の
過去の罅から溢れる泥が、彼の仮面を蝕んでいく。
「場所を変えようか。僕らが話すのに、ここではギャラリーが多すぎる」
微笑。或いは、苦笑。
その一言で、マネージャーは彼の言わんとすることの凡そ全てを理解した。ここから先をするにあたって聴衆は排斥される。否、排斥されねばならない。逢瀬は軽くスタッフ達に断りを入れ、マネージャーと共に別室へ向かった。
「なんで僕にアレを見せたのかな、君は」
先に口を開いたのは逢瀬。その声音は無機質な、ともすれば機械的とも言えるようなものだった。
ただの確認。既に答えはわかりきっているのに、一応だけでも相手の口から答えを吐かせたいという意図が、
アレ、とは勿論脅迫状のことである。いつかはマスコミにも公表され、世間の目に触れることになる事案であろうと、今はまだ水面下で真実の追求に奔走すべき段階であることは誰の目にも明白であるはずだ。それにも関わらず、マネージャーは
「四年前……いえ、時期的には三年前かしら」
それに対するマネージャーの反応は、過去の記憶の反芻から始まった。
数年の時を遡った先にあった出来事。それを、彼女は思い返す。
「ねえ逢瀬君。あなたは三年前、何通の〝
「……ファンレター、ね」
その言葉に逢瀬は少しばかり眉間に皺を寄せた。〝ファンレター〟。本来は善意と羨望を表す単語であるが、この場に於いてのみ、それはもう一つ、全く別の意味を持つ。
一つは本来の意味のファンレター。応援や激励、あらゆるプラスの感情が込められたメッセージ。そして、もう一つは────
「『
「それもそうね。たしかに私、あの時そんなこと言ったような気がするわ」
ちなみに、とマネージャーは付け足す。
「
「そうかい。ゾッとしないね」
淡々と告げられた悪意の数に、逢瀬は同じく淡々と返した。そこに恐怖など存在していない。
それを、その反応こそを求めていたのだと、マネージャーは笑った。
「だからこそあなたを呼んだのよ、逢瀬君。過去に
それを聞いた途端、逢瀬は露骨に表情を変えた。
白鷺千聖。ここ最近よく聞く名前だと、彼は頭を押さえて溜息を吐く。
「わかっていたよ、そういう要件だとね。たしかに、それに関しては
「でもどうせ、あなたは断れないでしょう?」
「……悪い
「何年マネージャーやってると思ってるの」
彼女が続いて浮かべたのは、企みが成功した子供のような悪い笑み。「勝てないな、君には」と、逢瀬もつられて同じ
マネージャーとは長い付き合いになる。それこそ、遡れば彼が子役としてデビューを果たしたあの日────つまり、十五年前、彼がまだ五歳の誕生日を迎える以前からの縁だ。
それだけ長く共にいれば、お互いの性格など知り尽くしているも同然で。故にこそ、彼は勝てないと宣うのだ。
マネージャーは「もう一つ」と、見せつけるように右の人差し指を立てた。
「パスパレ関連で伝えておきたいことはまだあるのよ。これ、なんだと思う?」
一度下げた右手を懐へ潜り込ませ、取り出したのは一枚の紙片。カラフルなパステルカラーで彩られたそれは、何かのチケットのようにも見えた。そこに書かれていたものは────
「Pastel*Palettesのライブチケット?」
「そういうこと。彼女たち、やり直す機会を貰えたみたいね」
へえ、と逢瀬は驚いたような声を漏らした。
かつて、彼女たちの名声は失墜した。アイドルの世界に羽ばたこうとした淡い彩色の少女たちは、その翼に泥を塗られて墜落した。それを間近で見たからこそ、逢瀬の反応は当然のものといえる。
折れかけていた丸山彩にかけた言葉を覚えている。肯定と否定。求めることの危うさを。絶望に堕ちようとした彼女に救いの手を差し伸べたことを。
「……そうか。彼女たちは、もう一度」
俳優とアイドル。形はどうであれ、同じ事務所に所属する先輩として、後輩の躍進を願う心に偽りはない。湧いたのは心からの安堵と歓喜だった。
マネージャーが差し出したチケットを受け取る。その右上には小さく〝関係者席〟の文字が。
「行くか行かないかはあなたに任せるわ。でも、まあ、行ってあげたら喜ぶんじゃない?」
────それじゃ、あとはお願いね。
マネージャーはそう言い残し、逢瀬を一人置いて部屋から退出した。
お願い。それが千聖に関することだというのは自明だった。果たしてどうやって言葉をかけるべきかと逢瀬は思案する。
脅迫状は唾棄すべきモノ。再ライブの決定は祝福すべきモノ。人からの悪意との付き合い方ならオマエが手慣れているだろうと託された大任だが、それでも相手くらいは選びたいのだと、彼は既に背中の見えなくなった
────何を考えているのだろうね、君は。
逢瀬としては、その思考の深奥にあるものを察することこそが難題だった。
彼女は知っているはずなのに。
────ああ、わかってる。わかっているのだ、そのようなこと。
難題であろうと、解けないモノではない。その疑問が難題たりえたのは、単に彼がその答えから目を背けていたいと願ったから。その答えに向き合うことは、彼の矜持と、これまでの四年間の否定を意味するから。
ふと、部屋に硬質な音が響いた。発信源は廊下と室内を隔てるドア。その後ろにいる人物の正体を、逢瀬はすぐに理解した。
「入りなよ、白鷺さん」
微かに軋む蝶番。どうかその音が鳴り止まないでほしいと、逢瀬は願う。その扉に開いてほしくはないから。君にはもう、向き合いたくないんだよ。
そんな願いも虚しく、蝶番は小さな慟哭をやめ押し黙る。その先に立っていたのは、白鷺千聖。
「……本当に、いた。マネージャーさんの言う通りなのね」
「そうだとも、本当に僕はここにいるのさ。お姫様を悪い魔女の声から解き放つためにね」
椅子から立ち上がり、逢瀬は千聖の正面に立つ。
千聖の瞳に怯えは見えない。ただ隠しているだけか、それとも眉唾と断じて気に留めてなどいないのか。その真意は定かではない。
だが、こうして並んで改めて見ると、千聖の体躯の小ささがよくわかる。同年代のPastel*Palettesの面々と比べても一回り小さなその身体に、果たしてどれだけの重圧をかけてきたのか。此度の脅迫状で折れてしまわぬだろうか。要らぬ心配かもしれなくても、彼はそう思わずにはいられなかった。
「まずは、ライブの決定おめでとう。それが、君たちが新たな世界へと踏み出す第一歩となるよう祈っている。立つ舞台は違えど、同じ事務所の先輩として応援させてもらうよ」
最初の言葉は激励と祝福。かつての汚名を濯ぐときは今来たれり。
「
「そう……だと、いいのだけど」
「不安に思うことはないよ。スタッフ達も頑張ってくれてる。君たちだって成功の為にこれまで練習してきたのだろう。だから────」
一瞬、逢瀬は迷った。果たしてその先を言っていいものか。それをおいそれと口に出すことは許されないのではないだろうか。僅かな葛藤。打ち勝ったのは、口先だった。
「……それ以外のことは、誰かに任せてしまえばいい」
「知っているのね、脅迫状のこと」
「僕が知っていることを知っている上でここに来たのだろう? 今回の件について、僕から言えることは一つだけ。あまりこういうことは言いたくないのだけど、時には誰かの声を無視することも必要だということさ」
人前に出るということは、名前も知らない誰かに見られるということ。その〝名前も知らない誰か〟に含まれるのは、当然の如く
悪意を持つ者。悪意を拗らせた者。人の皮を被った性悪説。それらは少なからず世間を跳梁跋扈していて、恥じることも悔いることもなく害を吐く。
その在り方は無慙無愧。己の言葉が誰かを傷つけることを知っていようと知っていなかろうと、それらに誰かを思い遣るという性善説は通用しない。
そんなもの、掃いて捨てるべき悪徳だろう。それに気を遣る必要がどこにあるというのか。
自他共に認めるお人好したる逢瀬にしても、それだけは理解のしようがないほどにどうしようもない者たちだった。
だから、目を逸らせばいい。
「君は目の前のことだけに集中すればいい。僕からはそれだけだよ」
言い終えた。人から向けられた悪意との付き合い方の絶対不変の真髄────即ち、辛いのならば逃げればいいという真理。
こんなことを言わせるだなんて、マネージャーも酷な人だ。逢瀬はそう考えた。
千聖の横を通り過ぎて、部屋から出ようとドアノブに手をかける。
「ねえ、逢瀬君」
────逃してはくれない。
千聖の声に逢瀬は振り向く。彼女はこちらを見ず、部屋の奥をジッと見つめて背中を向けていた。
「今回のライブのために、私だって頑張ったのよ。スタッフさんたちもそうだけど、私だっていろいろやっていたの、あなたは知ってる?」
ポツリポツリと彼女は呟く。それは間違いなく逢瀬に向けられた言葉。しかし、どこか虚空へ吐き出すかのような色のない言葉。
「出演できそうなライブを探して、スタッフさんたちに交渉して、それを何度も繰り返してきたわ。だからね、」
千聖の瞳が逢瀬を捉える。僅かに潤んだ、紫紺の視線が交差する。
「少しくらい、ご褒美をもらってもいいと思うの」
「……それは」
「ええ、わかってるわ。これはきっと、わがままね」
どこか悲しそうに、「忘れて」と千聖は告げた。
そんな空間にいるのが嫌になって、逢瀬は扉をくぐる。後ろで閉まるドアの音を聞いて、緊張の糸が切れたようにそこに
その時、ポケットから軽快な電子音が鳴り響いた。メッセージアプリの着信。送り主は、マネージャー。
『いつまでそうしているつもり?』
突き刺さるような一文。一瞬逢瀬は息を呑み、しかし慌てず返答する。
『永遠に』
思い出されるのは先日の出来事。妹である薫からの言葉。
〝もう千聖には全て教えてしまってもいいんじゃないか? もう貴方は十分苦しんだだろう。正しいことは痛いから……そんなこと、貴方はずっと昔に理解して────〟
変われと、そう言われている。わかっている、こんな生き方が歪んでいるだなんて。その真相を知る者たちの目に、どれだけ痛々しく映っているのかも。
それでも、変わるわけにはいかないから。
『聞くまでもないことだと思うけどさ、なんで?』
送られてきたのはそんな問い。彼女が聞くまでもないことだと言うように、逢瀬にとっても、その答えは言うまでもないことだった。
その
『亡くしてはならない刹那があるから』
かつての刹那よ永遠なれ。瀬田逢瀬は、
だんだん天魔・夜刀みたいなこと言うようになってきたなお前な。
☆10 ちょこテラス様、つみれ@インド産様、万屋よっちゃん様
☆9 夜刀神 愛里紗様、明日野 邇摩様、世繋様、セツナの旅様、yajue様、天草シノ様、うるみー様、Sama L様
☆8 ボルケリーノ様、縦書きまちまち様、いろ様
以上の方々に感謝を。ここ最近リアルが立て込んでいましてあまり書けていなかったのですが、なんとか完結させられるよう頑張ります。Twitter見てる人は毎日元気に生きてること知ってると思いますけどね。
感想、評価などがありましたら是非とも。