────ずいぶん、楽しそうに笑うものだ。
湧き上がる聴衆と、色めき立つ歓声。視界の端では棒状の光がチラつき、華やかな音に合わせて揺れている。
ライブハウス、CiECLE。その地下。ステージの上で光と音楽を振り撒く知人たちの姿を見て、逢瀬の心にはそのような思いが飛来した。
〝ハロー、ハッピーワールド!〟のライブ。普段は幼稚園や病院などでの活動を行なっている彼女らも、やはりバンドの名を冠しているからなのか、こういったライブハウスでのステージも珍しくはないらしい。
────まさか、僕がこういう場所に来るとはね。
辺りを見渡し、住む世界がまったくもって一致しないと思しき聴衆たちの姿を確認する。何故逢瀬がこんなところにいるのかと問われれば、それは先日、妹である薫から渡されたライブのチケットが原因であると答えざるを得ない。
『一度だけでも、私たちのライブを見に来てはくれないか』。言葉にしたらそれだけだったが、その中に込められた妹の思いは、果たして如何程のものか。
それを断るなどという選択肢は、逢瀬の中に存在していなかった。だって、そうだろう? 当たり前のことじゃないか、と。逢瀬は誰に告げるでもなく弁明する。
自分の新しい居場所を見つけたのだと、かつて嬉しそうに告げた彼女の
爆音が響こうとも、それは不快ではなく。むしろ華々しい凱歌のように心地よく。世界を笑顔にすると謳った歌は、逢瀬の中に染み込んでいく。
曲は終わってもステージは終わらず。続く第二第三の音の波が、エンドロールを許さない。
今ここに、逢瀬と聴衆の間に存在する壁は取り払われた。身分制度が消滅して尚消えることのない人民間のヒエラルキー。その一切は芸術の前に無力になり、音によって押し流されていく。
ああ、認めよう。君たちは紛れもなく世界を笑顔にするのだと。
永遠に思えるような時間はしかし、一曲一曲の着実な終焉とともに過ぎていく。ライブをするのは彼女たちだけでなく、次もその次も控えている。自分たちだけの世界を繰り返すわけにはいかないのだ。
気がついたら、逢瀬の手は何度も拍手をしていた。
ああ、すごいなと。これが彼女たちの世界か、と。熱狂するのも納得だ。これは熱に狂わざるを得ない。
ステージで飛び跳ねる太陽のような少女が、もう終わったから帰るよと、宥める熊のキグルミに袖へと連れ去られていく。冷めやらぬ観客たちを置き去りにして、五人の舞台は終幕を迎えた。
叩き続けて少し赤くなった手を下ろして、逢瀬は踵を返す。向かった先は出口────ではなく、関係者以外立ち入り禁止の札が貼られた連絡通路。
そこに、彼女らはいた。待っていた。
「素晴らしいライブだった。賞賛させてくれ」
〝ハロー、ハッピーワールド!〟の面々に向かい、逢瀬はニコリと微笑んで言葉を贈った。
それに対し、弦巻こころは誇らしげに胸を張る。それも当然のこと。『世界を笑顔に』を掲げる彼女にとっての最大の賛辞は、また笑顔そのものである。
笑って。ただそれだけでいいのだから。そうすれば、私たちの目的は完遂される。そんな婉曲的な物言いがこころの中にあるかは別として、彼女が目指す世界はそんな幸せな世界だ。
〝ハロー、ハッピーワールド!〟のメンバーの親族が生まれて初めてライブを見たという。そして、その結果楽しんでくれた。ならそれでいいのだ。喜ぶべきことだろう。弦巻こころはそれだけを願う。
「来てくれてありがとう、兄よ。私の見せたかったもの、わかってもらえただろうか?」
「ああ。実に有意義な時間だった。……君は、本当にいい友を見つけたようだね」
わかった、なんてものではない。わからされた、なんて強いられたものではない。それは紛れもなく彼の中に
即ち、新たな居場所と己の在り方。
「本当に素晴らしかったよ。あの感動は僕の人生の中でも未だ二度目、初めてニーチェを読んだとき以来だとも。
「ありがとうオーセ! きっとそのニーチェも喜んでるわ!」
「こころさんこころさん、ニーチェはもう亡くなってるからね」
「なら天国で喜んでるわね!」
「ふふ、ロマンチストだね、弦巻嬢は」
さて、と逢瀬は話を区切る。
「僕はここでお
「帰るのかい? 兄よ」
「あまり長居して水を差すのもね」
ああ、仲睦まじきことは良きことかな、と逢瀬が大仰に天井を仰いでみせる。その一挙手一投足ですら
言いたいことは言い尽くしたとばかりに少女たちの輪から引き下がり、いざ帰ろうと彼女らに背を向けドアに向かう。そのとき、逢瀬のポケットから軽い電子音が響いた。
「失礼」
ひとこと断って彼がスマートフォンを見ると、メッセージアプリのポップアップがロック画面に輝いていた。送信者はマネージャーだった。なにやら内容は、文章ではなく何かのリンクだ。
リンクから飛んだその先にあったものを見て、彼の動きが一瞬止まる。暫し固まり、スマートフォンを仕舞う。どうかしたのか、と薫が近寄れば、彼は神妙な面持ちから一転。
「ねえ、我が親愛なる妹よ。君、〝Pastel*Palettes〟に興味はないかい?」
◇◆◇
雨が降っている。もう七月も終わりだというのに、梅雨かと
矛盾した空の下を、逢瀬は早足で駆けていた。その髪は何も纏められておらず、普段から持ち歩いている伊達眼鏡も着けていない。イメージを変えるアクセサリーや帽子の
向かう先は、彼の所属する事務所が運営する劇場。差した傘に雨粒が弾ける。ズブ濡れとまではいかずとも、走っているために半分意味を成していないそれを律儀に頭上に掲げて、彼は先のメッセージを思い返していた。
添付されていたリンクはとあるSNSのもの。青い鳥が目印の、140文字の呟きを共有するアレだ。その中の一つの呟きが、マネージャーから送られてきた。
そこにあったのは『マジかwwww』という軽薄な文章と、二分ほどの動画。見覚えのある少女たち────〝Pastel*Palettes〟の丸山彩と白鷺千聖が、雨の中ライブのチケットを自らの手で配っている光景だった。
それを見た瞬間、逢瀬は
マネージャーが何を思ってそれを送ってきたのかは、逢瀬には推し量ることはできない。単なる気まぐれかもしれないし、彼に対する
────『幸いなことに、ここに〝Pastel*Palettes〟の関係者席のチケットがある。僕が貰ったものだが、今急に通常観覧席のチケットが欲しくなってね』
故に、彼はマネージャーから渡されたチケットを薫に譲渡した。既にその旨はマネージャーに話を通してある。逢瀬とて、芸能界に入って長い身だ。今に至るまでの付き合いの中で、薫とマネージャーに面識がないわけではない。何かと
そうして薫にチケットを押し付けるようにして渡し、彼は雨の中飛び出してきたのだ。変装を解いたのもあえて。
「あ、あの……もしかして瀬田逢瀬さんですかっ!?」
「ん?」
投げかけられた一つの声に反応して足を止める。そこにいたのは五人の少女だった。その内の一人が、まるで真理を発見した哲学者のように煌めく瞳で逢瀬を見つめていた。或いは風呂に入ったアルキメデス。今にも「エウレーカ!」とでも叫び出しそうなほど口元をあわあわと震わせている。
その後ろでは他の少女が四者四様の様相を浮かべていた。黒髪に赤メッシュを一本差し込んだ少女は呆れた様に息を吐く。気怠げな少女は「ミーハーだねぇ」とニヤニヤ笑っている。そこらの男より男前な少女は「知ってる人?」と疑問に隣の少女に問いかけ、茶髪が明るい真面目そうな少女が「有名な俳優さんだよ」と答えている。
そして
逢瀬はその姿に迷子の子猫を連想した。なんだか途端に可愛らしくなって──実際容姿のレベルはかなり高かったのだが──一歩踏み出し少女たちに歩み寄る。
「そうだよ。僕が瀬田逢瀬だとも、子猫ちゃんたち」
名乗ると、少女の内の一人が「なんかこの人薫さんと同じ気配がするな」と細々と口にした。突然妹の名前が聞こえたことに彼は少し驚くが、たしかに彼女らの見た目は高校生前後のように見える。となれば、
「もしかして君たち羽丘かい?」
「ひえっ、なんであの瀬田逢瀬さんが私たちの学校の名前を……!?」
「ああいや、妹の名前が聞こえたものでね。彼女も羽丘なんだ。もし知っているなら、これからも仲良くしてあげてほしい」
にこりと、年代問わず数々の女性の心を
「ふふ、いい子だ」
「ふわっ……あっあ……」
「やばいひまりが壊れた」
よろけて傘を取り落としそうになるひまりと呼ばれた少女を、赤髪の少女が支える。ミーハーここに極まれり。突然奇行に走った少女により、彼は一層の視線を集めて再び駆け出す。
「すまない。僕は今、少し急いでいるんだ。子猫ちゃんとの時間が少ないのが心苦しいし名残惜しいけれど、これでお別れだ。また会おう!」
くるくると雨で濡れたアルファルトの上を器用にステップしながら、逢瀬は少女らに別れを告げた。まるで異世界の住人みたいな人だな、と赤メッシュの少女は逢瀬を表すのに月並みな感想を抱く。
「はぅ……作画が……作画が違う……顔がいい……」
「……とりあえずどっか入ろうよ。恥ずかしいから」
未だにトリップから抜け出せていない幼馴染の一人を無理矢理立たせ、五人組は視線の中をそそくさと抜け出した。
◇◆◇
劇場前は異様な雰囲気だった。舞台の上演が終わったのか、劇場からは続々と高揚した人々が雪崩出てくる。しかしその目がとある一点に向いたとき、彼らの心は一瞬にして別の感情に支配される。
それは憐憫である。それは嘲笑である。それは嫌悪である。しかしそればかりでなく、それらは好意的な認定でもある。
丸山彩と白鷺千聖。ほんの少し前、お披露目ライブで盛大なヤラセを晒したとして一躍注目を浴びた、偽装アイドルバンド〝Pastel*Palettes〟の二人だ。
その彼女らが、雨の中傘も差さずにチケットを配っている。その
しかし、人の悪意はとどまらない。
貼りついたレッテルと、固定化されたイメージ────即ち、一度大衆を騙したという前科が、彼女らのひたむきさに先入観を植え付ける。
〝どうせまた騙される〟
〝あれも嘘なんだろ〟
〝必死になっちゃってまあ〟
〝少しは期待したんだけどなあ〟
〝誰もお前らのことなんて信じてない〟
〝嫌なモン見ちゃったよ〟
〝話題性だけはあったんだけどね〟
〝いやでも頑張ってるし〟
〝少しは認めてあげても〟
〝本気なのかな〟
〝嘘っぽくは見えない〟
〝反省してるなら〟
時折聞こえるその声が、彩と千聖を揺らがせる。声が枯れそうなほど叫んで、嘘ではないと主張して。それでも届かない人は沢山いる。身体が冷たい。頰に流れるのは、打ち付ける雨か別の雫か。
届かないのかな。そんなことない。本当に? 本当だよ。でも、みんなお前を笑ってる。でも、誰かは私を認めてる。
────一番
彩の中の悪魔がその問いを発したとき、彼女の思考が停止する。味方でいると誓ってくれた彼。壊れる直前まで追い詰められた自分を、頑張ったと認めてくれたあの人。今の姿を見たら、果たしてどう思われるのか。
否定はされない。そのはずだ。でも、身の程知らずとは思われるのではないか。喉からひゅうと声が消える。途端に怖くなった。悪意に晒され続けた身体が震え上がる。奇異の目で向けられたカメラのフラッシュが、ギロチンの煌めきのように見えた。
「……大丈夫。大丈夫よ」
そっと、千聖が肩を寄せる。こういうとき、彼女はとても頼もしい。人前に立つのに慣れている。人から視線を向けられるのに慣れている。長い芸歴が成せる業だ。気持ちが落ち着いていく。ブレた視界が色を取り戻す。
しかし、それで現状が変わるわけではない。彼女らに向けられる視線の多くは未だ不躾なもの。怖いことに変わりはない。
雨はまだ止まない。止んでくれない。
誰も助けてくれない。そう、誰も────
「傘をどうぞ、子猫ちゃんたち」
────否、僕だけは助けるとも。
声が聞こえた。その瞬間だけ、雨音の全てが消え失せた。
雨が止んだ。そう錯覚した。顔を上げれば、そこには傘を差し出す一人の青年。自分が濡れるのも厭わず、彩と千聖の頭上に影を広げている。
見間違いや人違いなんかじゃない。
「瀬田、さん……どうして」
「きっと運命さ。女神が僕たちを引き合わせたのだよ。なんという幸運だ、この雨の日に感謝しよう」
いつものようにキザったらしい台詞を恥ずかしげもなく口にして、彼は傘を彩に手渡した。そして彼女の手に握られたチケットと彩の間で視線を往復させて、
「それ、ライブチケットだよね」
「は、はいっ。今度やるパスパレの……まだ誰にも渡せてないですけど」
「そう。ということは、僕はやはり女神に愛されているらしい」
優しく微笑んで、彼は右手を彩へと差し出す。
「それ、一枚貰おうか」
「えっ? で、でも」
「言っただろう。僕は君の────〝
再起をかけた一世一代の大勝負。今度はヤラセじゃなくて本物を。がっかりさせないような、本当の〝
「ほら、ボーッとしてないで。
彼は知っているから。彩に毎日送っている、ストレッチのメニューの連絡、それに時折返ってくる彼女の近況報告を。
今日はダンスをコーチに褒められた。歌はこういうところを改善した方がいいと言われた。いつかお渡し会というものをやってみたいから、ファンの方と一対一で話す練習をしてみたい。パスパレのみんなは、今度のライブに向けて前向きです。
君には笑顔が似合うから。いつだったかそう言った。なら今は俯くときじゃないだろう。
その思いは彩だって同じだった。故に彼女は精一杯を込めて、誰もを魅了するような
「今度のライブ、精一杯頑張るので、よろしくお願いしますっ!」
────ああ、よく言った。
チケットを受け取った逢瀬はその言葉を聞き届け、その場でくるりと向きを変える。彼の眼に映るのは、いつのまにか集まっていた無数の大衆。
逢瀬は変装の一つもせずにここに現れた。ある少女がその姿を街中で見かけた程度でわかるのだから、雑踏の中にいても目立つことこの上ない。
そんな彼が一箇所に留まって、尚且つそれが人目を引くような状況であったのなら────どうなるかは想像に難くない。
「聞いたな、君たち!」
雨音さえも掻き消して、逢瀬の声が響く。
さながらそこはステージの上。数多の人々を魅了してきた彼のスキルが、惜しげも無く振るわれる。
「たしかに〝Pastel*Palettes〟は、一度は君たちに不信感を抱かせただろう。だが、それで終わりにしてほしくはない! どうか考えてはみてくれないか! 彼女たちの姿を見て、もう一度! この懸命な少女の声が、果たして本当に嘘なのかどうか!」
響く。響く。それは単純な空気振動の話ではない。彼の声は、
それまで〝Pastel*Palettes〟を非難していた者にも。見た目だけだと断じて聞く耳を持たなかった者にも。どれだけ凝り固まった思考だったとしても、耳から侵入した逢瀬の言葉が解きほぐして囁くのだ。もう一度期待してみないか、と。
誰かが一歩前に踏み出した。誰かがその後を追うように手を伸ばした。その瞳にあるのは悪意ではない。選定。再び見定める、新たなスタート。
よかった、と逢瀬は二人の方へ向き直る。
「さあ、ここからは君たちの出番だ。頑張りなよ、可愛い後輩たち」
役目は終えた。そう言いたげに、彼は二人の前から去った。途端に、雪崩れ込むように人が彼女らのもとへ集まった。チケットはもれなく満員御礼となることだろう。
大衆が群がる少女たち二人を一瞥し、流動する人の群れを見渡す。その中で一人だけ、
街中でこれだけの騒動になったのだから、きっと
ふと、それと目が合った。やはり濁っている。逢瀬はふっと笑うと視線を外す。やがて男の姿は街の雑踏に紛れ、消えていった。
◇◆◇
「……ああ、僕だ。これでいいんだろう?」
誰もいなくなった路地の奥で、逢瀬は誰かと話していた。耳に押し当てられているのはスマートフォン。
「これが君の目的かい? だったらしてやられたと言うしかないね。どうやら僕は、後輩のことを放っておけなかったらしい。
────それと、もう一つ。
彼の声音が変わる。今度は如何なる仮面を被ったのか、それは普段の優しさなどとはかけ離れた
「ああ、そうだ。当日の十六時から十七時、西館の従業員通用路。警備員は近くで待機させておいてほしい。
〝Pastel*Palettes〟が再起をかけた大勝負に出る裏で、彼もまた、一つの勝負に臨もうとしていた。
「心配ないよ。可愛い後輩は、僕が必ず守るから」
キザ太郎の書き方これであってたっけ。多分あってる(自問自答)
☆10 うしゃんか様、Takami提督様
☆9 annsoni925様、ちびベビル様、ネコカフェ様、翠の人様、暁夜猫様、M.Y snow様
☆8 軍政ヒッタイト様
流石に次は一年空けないようにしたい。感想とか評価くれると私が喜びます。あと3人で評価150人なんですよ。ヒエッ(戦慄)