時よ止まれ、お前は美しい   作:クトゥルフ時計

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 この話について言えるのは、今回の作業用BGMはLohengrinで、私は結構神世界へ翔けよ黄金化する白鳥の騎士(Vanaheimr Goldene Schwan Lohengrin)の詠唱が好きだってことです。

 まあ、あれだ。Dies iraeを何も知らない人は正田崇作品@ウィキを開いてから読もう。


第十八話

 転機なんてものは、そう大それたものではない。なにか些細なきっかけ、サイコロを振って六を出す程度の幸運。それさえあれば、簡単に掴める小さな光の束。往々にして、革命家と呼ばれる偉人はほんの僅かな幸運を頼りに生きてきた。

 

 転んだ者が再び立ち上がるのに必要なものは、また転ぶことを恐れない勇気。上を向いて歩き出すのに、それ以外に必要なものはありはしない。

 

 眼下で輝く少女たちを、逢瀬は微笑ましい瞳で見つめていた。

 

 そこは煌びやかなライトが照らすステージの上。パステルカラーの光が駆ける、少女たちの晴れ舞台。大々的な告知の末に行われた、〝Pastel*Palettes〟のライブだった。

 

 先日、劇場前で行われたライブチケットを巡る一件は、結果として〝Pastel*Palettes〟のイメージ向上に繋がった。雨の中で声を張り続けるメンバーの姿がSNSやネットニュースを通じて大々的に拡散され、その本気具合ともいうべき姿勢が嘘ではないと世間から評価されたのだ。

 

 それに加え、逢瀬の乱入がその話題性に拍車をかけている。彼がいてもいなくても、最終的に彼女らの評価は上がっていたことに変わりはないだろうが、女性人気の高い彼が突然街中に現れて〝Pastel*Palettes〟を応援したという事実はたしかに存在している。それがアイドルに興味のない層にまで『瀬田逢瀬が応援しているグループは何なのだろう』と耳を傾けさせることを可能とさせているのだ。

 

 此度のライブは数多の偶然が重なった末のもの────なんて、逢瀬は言いたくなかった。偶然なんて言葉で彼女らの努力を形容したくなかった。かといって、いつものように運命などと言ってしまっては、それこそ冒涜というもの。泥臭い努力を表すのに、着飾った言葉はいらないのだ。

 

「……本当によく頑張ったよ。君たちは」

 

 ふと、関係者席に目を向ける。そこには彼の妹である薫が、何か訳知り顔をしてうんうんと頷いていた。特に珍しくもないいつもの彼女だった。渡したチケットは無駄にならなかったらしい。それに少しだけ安心した。

 

 既に会場の盛り上がりは絶頂に達し、進行全体として佳境に差しかかろうとしている。……一人観客が消えたところで、気にする者はいないだろう。

 

 ────さて、そろそろ時間かな。

 

 逢瀬は腕時計を確認し、その短針が四を指し示すのを確認して、会場を出た。向かうのは関係者専用通路の先。西館と銘打たれた区域だった。

 

 ────すまないね。できることなら、最後まで見ていたかったんだけど。

 

 惜しいな、という一抹の寂寥が脳裏をかすめる。それまで努力を重ねてきた〝Pastel*Palettes〟の集大成を全て見ることができないというのは、ファン第一号を自称する逢瀬にとってわずかな心の揺らぎを与えた。

 

 そして、それでもなお彼が歩みを止めない理由も、また強く。

 

 辿り着いたのは一つの扉。付近には誰もいない。()()()()()()()()()()

 

 逢瀬が此処にいるのは、単に彼の個人的な感情によるものである。降りかかる火の粉を払う役目。他者を危険に晒すことを良しとしない自己満足。お姫様(Pastel*Palettes)を守る騎士(せんぱい)として、恐怖すべき敵に立ち向かうもの。彼がその内側に抱えた歪みこそが、彼に立ち止まることを決して許さない。

 

 遠くから足音が近づいてくる。一歩、また一歩と揺るぎなく。それは強靭な決意を持った人間特有の音。何かを失う覚悟を持ってでも、目的を成し遂げたいと願う、狂人特有の音。奇しくも、それは逢瀬の音とよく似ていた。

 

 蝶番が軋む。四角い影が形を変える。その奥からゆらりと現れた男に、逢瀬は薄れた笑みを向けて、言葉を投げる。

 

「待っていたよ。────ヴァレリア・トリファ」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 歌っている。夢の舞台に自分が立っている。立って、精一杯歌っている。それだけで胸がいっぱいになるほど、丸山彩は満たされていた。

 

 何度も夢見て、挫折して、それでもまた立ち上がって走り出す。そんな七転八倒を繰り返して辿り着いた夢の先。四人の仲間とそこに立っている。涙が出そうな感慨を、今はまだそのときじゃないと胸の奥にそっとしまって、マイクに向かって高らかに叫ぶ。この思いを歌に乗せよう。

 

 ────私は今、生きている。

 

 冷たい視線はない。罵るような視線はない。あの日見たような、凍りつくような紅蓮地獄は消え失せた。ペンライトの光。最前列で瞳を輝かせている女の子がいた。後ろではしゃいでいる男の子がいた。誰も彼もが楽しんでいる。心の底から「来てよかった」と思ってくれたら、それだけで満足だと、彩はピースを作った指先を会場のどこかにいる恩人に向ける。

 

 見てくれていますか。あなたの目に、私はどう映っていますか。可愛く見えてるかな。もしかして、また何かドジをしないかハラハラしてる?

 

 夢を取り戻させてくれた人。前を向かせてくれた人。……彩にとっては少し気恥ずかしい表現だけど、太陽のような人だった。

 

 会場のどこかにいる逢瀬を、パフォーマンスの隙間で探す。渡したチケットの番号までは確認していなかったのが悔やまれた。逢瀬がどこの席を取ったかという情報までは、プライバシーの観点で関係者から教えてもらうことはできなかった。

 

 それでも問題はない。終わりが近づいている。やることは何も変わらない。きっと、この晴れ姿が輝かしいものとして逢瀬の目には映っているはずだと、彩は信じている。

 

 セットリストは終盤。盛り上がりは最高潮。並んで演奏する四人の仲間に────ようやく手にした〝Pastel*Palettes(ゆめのぶたい)〟に視線を向けて、全員と頷きあい、マイクに声を吹き込んだ。

 

「みなさん! 今日は集まってくれてありがとうございました! 名残惜しいけど、次が最後の曲です!」

 

 躓いたっていい。また歩き出せるのなら。そんな当たり前を教えてくれた恩人と、横に並んで一緒に歩いてくれた少女たち。全員の道の集大成を、今。

 

「聴いてください────〝パスパレボリューションず〟!」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「さて、どうやら次が最後の曲らしい」

 

 響いて聞こえたかすかな声だけを、逢瀬は捉えていた。対峙するのは〝Pastel*Palettes〟のライブではなく、息も荒く血走った目で恨めしく見つめてくる一人の男だ。

 

 どうやらもう曲には間に合いそうにないなと、逢瀬は一人、心の内に生まれた名残惜しさを押し殺す。あとで彼女らと話す機会があれば話を合わせなければいけなさそうだ、などと、ひどく場違いなことを考えながら。

 

 心の所在(ありか)を現実に引き戻す。思考を向けるべきは今なのだと、あらかじめ用意していた罠を紐解いていく。

 

「これ、見覚えがあるだろう?」

 

 取り出したのは小さな袋に入れられた紙。白い型紙に無数の新聞紙の切り貼りがされたそれは、以前白鷺千聖宛に届いた脅迫状に他ならない。

 

「ベタな手法を使うね、君も。でも抜かりない。やたら準備が入念なせいで、君という個人の特定が非常にやりにくくなっている」

 

 袋を裏表と回し、光に透かす。

 

「新聞の文字の切り抜き。まさに脅迫状のテンプレートといった感じだけど、この紙はどれも全て指紋が検出されなかった。勿論型紙からもね」

「……」

 

 男────ヴァレリア・トリファと呼ばれた不審者は何も答えない。逢瀬は最初から返答など期待していなかったのか、淡々と言葉を続ける。

 

「新聞というのは当然、表だけでなく裏にも記事がある。その表から見ればたった一文字でも、裏には数十文字と記事が書かれている。その内容から照らし合わせると、これらの切り抜きは、ほとんど全ての文字が別の会社の別の日付のものなんだ。

 新聞は、印刷された時間帯によって記事の差し替えが行われる場合がある。そして、場合によっては地域によって配られる内容に多少の差異が出るんだ。大方犯人は、自身の住んでる地域が特定されることを恐れたんだろう。だから、別々の場所、別々の日に材料として新聞を集めた」

 

 逢瀬は脅迫状を仕舞う。次いでヴァレリア・トリファに視線を向け、

 

「このことから、犯人は非常に用心深い性格をしている、というのが簡単に推察できる。脅迫状を出すほどの強い執念を持ちながらも、冷静に、自分へ辿り着く足跡を断つ……普通に考えれば厄介な相手だ」

 

 このように徹底的に自身への道筋を隠蔽されてしまえば、本来逢瀬たちにできることは何もなかった。実際、彼もこの事実に気づいたときには頭を抱えたものだ。

 

 だが、彼は────()()はそれを良しとしなかった。

 

「ならどうするか。簡単な話だよ。出て来ざるを得ないような極上の餌を垂らせばいい」

 

 逢瀬はスマートフォンを取り出し、SNSアプリを起動する。画面に映し出したのは、あの日、彩と千聖が二人でチケットを配っている動画のツイートだ。それを見たヴァレリアの目の色が僅かに変わる。

 

 逢瀬はその目を見るやいなや、予想通りとでも言いたげに軽く口を歪めた。

 

「瞬く間にネット上に広がったこの動画……おかしいとは思わなかったのかい? ()()()()()()()()()()()()()()()()って。

 早いのも当たり前だよね。このツイートしたの、僕のマネージャーなんだ」

 

 それは罠。顔も名前もわからない犯人について唯一わかっている、白鷺千聖への執念というただ一つだけを頼りに仕組んだ、大きな罠だった。

 

「マネージャーがこれを投稿して、ウチの事務所の職員たちに協力して拡散してもらう。他にも、ウチの現役俳優やアイドルにも協力をお願いした。当然、一個人が拡散するよりずっと早いペースで動画は広まっていく」

 

 そして、最後の仕上げを演じたのは────

 

「そこで僕が出るのさ。雨の中、ひたむきに頑張っている少女たちに手を差し伸べる瀬田逢瀬。ドラマ性としては最高だったんじゃないかな?

 そこで犯人はどう考えるか。あんな不祥事をやらかしたのに、尚も表舞台に立ち続ける身の程知らずの白鷺千聖。せっかくの警告を無駄にしたという怒り。冷静さを失った彼は怒りに身を任せて直接その現場を見に行くだろう。

 どうかな? 多分当たってると思うんだけど。伊達に十五年も俳優なんてものやってなくてね。誰かの気持ちまで演じるのは得意なんだ。それこそ、狂気的な執念を心に抱える危険人物役とか」

 

 説明の最中(さなか)、段階的に移り変わっていくヴァレリアの顔色を見ていた逢瀬は、自らの推理が的中したことを悟っていた。

 

 当事者である〝Pastel*Palettes〟の誰も知らない壮大な計画。ネットの海すら利用した大規模な罠を、逢瀬は、そして事務所の面々は、ただ一人の人間のためだけに用意していた。

 

 最初からヴァレリア・トリファという犯人に勝ち目はなかった。相手が悪かったとしか言いようがない。彼が敵に回したのは、よりにもよって日本有数の演劇の化け物(はいゆう)なのだから。

 

 推理するときは、〝自分が相手の立場だったときどのように考えるか〟を考える────その一点において、瀬田逢瀬の右に出るものはそういない。

 

「とはいえ、ここから先は結構アドリブが多くてね。いくら他人の感情を読むことがある程度かできるとはいっても、もし犯人がそういう感情を表にあまり出さないタイプだった場合、見ただけではわからない可能性もあった。どうやら杞憂に終わったようだけどね」

 

 犯人を感情的にさせるために、逢瀬は一つ、本来の計画にはなかったことを行なっていた。

 

 彩と千聖に接触を図る直前、名も知らぬ一般人の少女に声をかけられたことで閃いたその案は、半ば博打のようなものではあった。しかし、それが有効であることを確信した彼は、それを実行に移すことに躊躇いは微塵も感じていなかった。

 

 しかし、逢瀬には一つだけ不安要素があった。逢瀬はこれまで変装を解いて外出したことがなかった。自身が目立つ存在だと理解してはいたが、果たしてそれがどの程度人の目に留まるのかは彼自身測れていなかったのだ。

 

 しかし、その懸念は早々に打ち砕かれることになる。ただ街ですれ違っただけの少女が一目で自身の正体を見抜いてきたのだ。これにより、逢瀬は自身に向けられる注目が想定以上であったことを十全に理解した。

 

「だから、()()()()()()()()()()ことにした。何も言わずにチケットだけ受け取って、もしかしてアレは瀬田逢瀬だったんじゃないかって匂わせる程度に終わらせようと思ってたんだけどね。せっかく注目を浴びているんだったら、徹底的にやってやろうと思ったんだ。あの演説、全部あそこで考えたんだよ。サマになってただろう?」

 

 それまで自身の足取りを一切掴ませなかった犯人だ。雪崩のように人が集まれば、どれだけ怒りに脳が支配されている人間でも白鷺千聖に害を加えるのは躊躇うだろう。かと言って、白鷺千聖が表舞台に立つことを良しとしない人間が大人しくチケットを受け取って帰るとも思えない。

 

 そのような状況下に置かれた人間がどのような行動をとり、どのような表情を浮かべるか。その答えを瞬時に導き出した逢瀬は、少女二人を囲む群衆を遠巻きに見つめる珍しいもの見たさのギャラリーに目を向けた。その中で逢瀬の推理に当てはまる人物を見つければいいだけの話である。

 

 彼はさも簡単なことのように語るが、それは半ば人外の所業だ。シチュエーションを演じることで人の内心を推理するなんて芸当が出来るのは、彼が()()()()()()()()であるからに他ならない。

 

「……ならば、どうやって私のことを調べたのです」

 

 ヴァレリア・トリファが固く引き結んでいた口を開いた。人の良さそうな声だった。それでいて、狂気を孕んだ声だった。

 

「ああ、簡単なことだよ。君、パスパレのお披露目ライブにいただろう?」

「……?」

「最近のライブはすごいよね。転売対策やセキュリティーのために顔写真の登録までするなんてさ」

 

 まさか、と思った。ヴァレリアには到底逢瀬の言おうとしていることを信じるなどできなかった。

 

 だが、逢瀬が彼のことを知っているということは、つまりその〝まさか〟が現実だということで────

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()。事務所の内側からね。名前、席番号、大雑把な職業や年代くらいまではわかるよ。その中でこの間のチケットを配っていた場にいたのは────ヴァレリア・トリファ。君だけだ」

 

 ────この男は。

 

 ────この瀬田逢瀬という怪物は。

 

 ────〝Pastel*Palettes〟を守るためだけに、他人のプライバシーまで侵したのか。

 

「ああ、安心していい。勿論どこにも口外する気はないし、全てが終わったら記憶から消すさ。どれもこれも、全ては君とここで対峙するための策に過ぎない。君が予定通りこの場に現れた時点で、僕の目的は達成されている。

 あれだけ入念な準備をする犯人なら、警備の穴くらいすぐに見抜けるだろう。だから、十六時から十七時までの間だけ、あえてここの警備を手薄にしてもらった」

 

 何もかもが仕組まれていた。執念も、感情も、その全てはパズルのピースに過ぎなかったのだ。

 

 あの脅迫状が届いた日から、全て、全て、全て────ヴァレリア・トリファという犯人は、瀬田逢瀬の掌で踊り続けていたということだ。

 

 背筋が凍った。冷や汗すら出ない悪寒が全身を駆けた。果たして眼前の紫紺の男は、本当に人間なのかという疑念すら湧き上がるほどだ。

 

「さて、ここで一つ提案がある」

 

 そんな怪物から、ヴァレリアへ向けて差し伸べられた手があった。

 

「できれば、今日はもう帰ってくれないかな」

「……私を見逃すと?」

「そうだよ。僕としてもね、あまり事を荒立てたくはないんだ。君がここで大人しく身を引いて、今後白鷺千聖に関わらないと誓ってくれさえすれば、僕は何も見なかったことにするよ」

 

 それはきっと、魅力的な提案だった。

 

 先の逢瀬の推理は大方正しい。脅迫状から自身の正体が特定されないよう入念に証拠となりそうなものを取り除き、白鷺千聖が街中でチケットを配っていると聞いたときは我慢できず飛び出した。ある時間だけどういうわけか一つの出入り口の警備が薄くなることに気づいた日には、これこそが天恵だと小躍りさえしたものだ。

 

 それさえも、逢瀬から与えられた餌だと気づかずに。

 

「さっき言った推理ってさ、正直なところ物的証拠としては何もないんだ。だから、僕が君を然るべき機関に突き出そうとするなら、それはこの場においての不法侵入だとか────君が右ポケットの中でずっと握り締めてる小さなナイフを摘発するくらいしかない」

 

 逢瀬の目がわずかに細められる。それはさながら蛇のように鋭く、獲物を見つめる捕食者のような色を持っていた。

 

 ヴァレリアは白鷺千聖を襲撃するための凶器を隠し持っていた。折りたたみ式の小型ナイフだ。逢瀬の言う通り、それはずっと右ポケットの中に潜んでいる。

 

 しかし、慎重すぎる性格が災いしたのだろう。彼は〝どこかで落としてしまったらいけない〟という不安から、それを握り締めてこの場に立っていた。逢瀬がつらつらと言葉を並べている間も、変わらず。その様子を見逃すほど、逢瀬は人を見る目を著しく欠いてはいない。

 

 殺す、とまで言った人間が持っているもの。ポケットに入るくらいには小さくて、尚且つ落としでもして他人に見られたらマズイもの。そこまで条件が揃っているなら推測は容易い。実際、本当にそれがナイフかどうかはある種賭けのような不確かなものであったが、もし逢瀬がその立場にいたのなら、きっとナイフを選んでいた。刺すことも斬ることもできる。傷つけるには便利な道具だ。

 

「どうかな。悪くない話だとは思うんだけど」

 

 逢瀬の(たた)えた微笑みは、誰もが見惚れるほどに美しく、芸術のような完成度を誇っていて────そして何より、恐ろしかった。

 

 恐怖を覚えるような顔つきをしていたわけではない。見ているだけで胸が高鳴るような美麗な表情(カオ)なのは疑いようもない事実である。しかし、そこに一切の悪意を感じないのだ。

 

 瀬田逢瀬はお人好しである。自己犠牲と献身と奉仕の心が服を着て歩いているような人間である。故に、彼は脅迫犯であるヴァレリアにさえ慈悲を与えている。その行為に裏表は存在しない。

 

 刃物を持った人間と対峙して、なおもその姿勢を崩さない。ヴァレリアは、そんな瀬田逢瀬(ばけもの)に言いようもない恐怖を感じていた。

 

 故に、ヴァレリアの行動は早かった。罠に嵌められた屈辱と、眼前の芸術のような男に抱いた恐怖から冷静さを失った彼は、ポケットの中に隠していたナイフを乱暴に取り出すと、逢瀬に向けて突進した。

 

 実際、もしヴァレリアが逢瀬の提案を呑んだとして、逢瀬がそれを守るという保証はどこにもない。もしかしたら既に通報は終わっていて、外に出た途端に警察が待ち構えている可能性だって十分に考えられた。

 

 その可能性まで考慮するなら、ここで逢瀬を行動不能にした上で予定通り白鷺千聖を襲撃する方が、罪を重ねるにしても本懐を果たせると考えた。それはただの妄執だったが、元より彼はそのつもりでここに訪れていたのだ。結果は何も変わらない。

 

 しかし────

 

「そうかい。残念だよ」

 

 逢瀬は身体をわずかにずらし、突き出された凶刃を回避した。勢いのままヴァレリアの身体は突き進み、壁に当たる。ナイフとコンクリートが触れ合う不快な音が響いた。

 

 そして、血走った眼を見開いてヴァレリアが振り返ると、何かを視認する暇さえ与えられず、側頭部に鋭い衝撃が駆け抜けた。

 

 よろめく五体を支えることはできない。糸が切れたかのように身体中から力が抜ける。意識が混濁し、視界が揺らめいた。それは俗に脳震盪と呼ばれる症状だった。

 

 横になった世界の端。ヴァレリアが最後に見たのは、今まさに回し蹴りを放ったかのような体勢で片足を振る瀬田逢瀬の姿だった。




 例のごとく、この作品はDies irae要素を多分に含みますので、キザ太郎以外で名前がついてるやつはみんな向こうに元ネタがいるやつで別に私の考えたオリキャラではないことをご理解した上でお楽しみください。

 キザ太郎、きちんと考えてんだか考えてないんだかよくわかんない行動するよね。手口を解説するのは負けフラグだってそれ一。

☆10 D-generation S様
☆9 ゲーム中毒様、あるぱっか様、shinp様、グエン様、雨季同家様、リュー@様、ピスケス23様
☆8 餅大福様、k1ntAma様
☆5 眠り男様

 感想とか評価くれると私が喜んだり投稿が早くなったりします。次の投稿は多分きっとmaybe早いよ。
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